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羊の牙
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そこは実に殺風景な土地だった。草原とも呼べぬ乾いた大地だがそこを砂漠と呼ぶには気が引けるようにわずかばかりの草木が生えていた。人の背丈よりも高い気はなく、実も葉もつけていない、生死すら判然としない黒い木々がいくつか立っているのが見える。空は厚い雲海が隙間なく覆いつくしており、生命の気配は微塵も感じとることができなかった。私はそのような荒野を歩いていた。方位の感覚は周囲の何の変化も目印もない光景によって奪われて、ただ私の脚が動く方向に私は歩を進めていた。
そこに、一匹の羊がいた。純白とはとても言えぬ汚れた白を身に纏い、太ってもなくかといって痩せているわけでもない骨格のその羊は、黒い瞳を私の方へ向けてただじっとしていた。私は無味乾燥の中に突如として現れた、それもあるいは一つの無味乾燥であり得るのかもしれぬが、その羊に他意なく触れようと試みた。私は大地の端から旅を続けてきた放浪人の足取りで、彼が異国の地の空気に感動して何か慰みをつかもうとする際の手つきで、羊の頭へと腕を伸ばした。
すると羊は私の腕に対して一つの反応を見せた。身を軽く引き頭をもたげ、それまで情や意などの隠されていた内部が二つの瞳に入射した。それは悲しみなのか。それは怒りなのか。私が推察するに、そこには多分に怒りが含有していた。おそらく私が無許可にも羊の頭に手を乗せようと動いたことへの動揺、そして嫌悪であろう。
私が羊に触れることを一度断念し腕を引こうとしたその刹那、羊が大きく口を開き私の腕にかみついた。羊は目の前の肉としか思っていないのであろうが、その肉を意地でも離すまいと強く食らいついた。羊の牙は私の体への侵入と脳の破壊とを遂行するべく備え付けられてある兵器であった。だがしかし、私を殺そうというその計画はあっけなく終わった。
羊はせき込みながら私の腕をくわえるのを止めた。羊の口は赤く染まっていたが私の腕には傷一つすら付いていなかった。羊の持つ唯一の、私に対抗しうるはずの、そうであるべきはずの武器は、しかしその実は羊の希望の霞のごとく儚い領域の少しもかなえさせてくれぬほどにまで貧相な代物だったのだ。牙は無残にも私にかみついたことで折れてしまい、すべてただの石灰質のかけらと化して冷たい土に落ちていた。血は抜けた牙があった場所から流れでていたものだった。羊は無傷の私の腕を見て自らの力不足を嘆いたのであろうか?自らの鉾の強さの欠落を悔いたのであろうか?自らの資本に何ら代替となりうるものがないことを知ったのであろうか?
やがて羊は大地を踏みしめる力すらも失い、その場へと倒れこんだ。その死体から生命の香りが消えゆくのとともに、色、そして形が順に虚空に居を移していく様を私はただ感じていた。触覚はそろそろ死んだのだろうか。視覚が伝えるものは無くなったのだろうか。
虚空は現実へと溶けた。元からあった無感覚な土地が転がっていた。今ここで起こった出来事に何某かの意味はあったのだろうか。私は知らない。ただ、何かが違うという気がしてならない。ことが起こる前と後で、目の前の世界から何かが減って何かが増えた気がする。だが、それが何なのかについてはさっぱり見当もつかない。それはどんよりとした雲の上に漂っているのだろうか。いや、答えは案外足元にうずくまっているものかもしれない。
そこに、一匹の羊がいた。純白とはとても言えぬ汚れた白を身に纏い、太ってもなくかといって痩せているわけでもない骨格のその羊は、黒い瞳を私の方へ向けてただじっとしていた。私は無味乾燥の中に突如として現れた、それもあるいは一つの無味乾燥であり得るのかもしれぬが、その羊に他意なく触れようと試みた。私は大地の端から旅を続けてきた放浪人の足取りで、彼が異国の地の空気に感動して何か慰みをつかもうとする際の手つきで、羊の頭へと腕を伸ばした。
すると羊は私の腕に対して一つの反応を見せた。身を軽く引き頭をもたげ、それまで情や意などの隠されていた内部が二つの瞳に入射した。それは悲しみなのか。それは怒りなのか。私が推察するに、そこには多分に怒りが含有していた。おそらく私が無許可にも羊の頭に手を乗せようと動いたことへの動揺、そして嫌悪であろう。
私が羊に触れることを一度断念し腕を引こうとしたその刹那、羊が大きく口を開き私の腕にかみついた。羊は目の前の肉としか思っていないのであろうが、その肉を意地でも離すまいと強く食らいついた。羊の牙は私の体への侵入と脳の破壊とを遂行するべく備え付けられてある兵器であった。だがしかし、私を殺そうというその計画はあっけなく終わった。
羊はせき込みながら私の腕をくわえるのを止めた。羊の口は赤く染まっていたが私の腕には傷一つすら付いていなかった。羊の持つ唯一の、私に対抗しうるはずの、そうであるべきはずの武器は、しかしその実は羊の希望の霞のごとく儚い領域の少しもかなえさせてくれぬほどにまで貧相な代物だったのだ。牙は無残にも私にかみついたことで折れてしまい、すべてただの石灰質のかけらと化して冷たい土に落ちていた。血は抜けた牙があった場所から流れでていたものだった。羊は無傷の私の腕を見て自らの力不足を嘆いたのであろうか?自らの鉾の強さの欠落を悔いたのであろうか?自らの資本に何ら代替となりうるものがないことを知ったのであろうか?
やがて羊は大地を踏みしめる力すらも失い、その場へと倒れこんだ。その死体から生命の香りが消えゆくのとともに、色、そして形が順に虚空に居を移していく様を私はただ感じていた。触覚はそろそろ死んだのだろうか。視覚が伝えるものは無くなったのだろうか。
虚空は現実へと溶けた。元からあった無感覚な土地が転がっていた。今ここで起こった出来事に何某かの意味はあったのだろうか。私は知らない。ただ、何かが違うという気がしてならない。ことが起こる前と後で、目の前の世界から何かが減って何かが増えた気がする。だが、それが何なのかについてはさっぱり見当もつかない。それはどんよりとした雲の上に漂っているのだろうか。いや、答えは案外足元にうずくまっているものかもしれない。
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