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安田

game(3)

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 神成怜奈とは同じ専攻クラスということで、毎日のように顔を突き合わせていた。ーーといっても、あいつの視界に入っているというだけで神成が俺のことを認識しているとは思えなかったが。

 別にあいつの目が虚ろだとか、そういうことを言ってる訳ではない。むしろ、神成の目は印象的なぱっちり二重で、瞳にははっきりと強い意志が宿っていた。目力が強すぎて、授業を受ける時など見られている講師が委縮するほどだった。

 つまり、答えは単純明快。
 興味のあることにはこれでもかとばかりに集中する癖に、それ以外の事は全くどうでもいい。神成伶奈はそんな研究者に多く見られる性格だということだ。
 そして、俺は神成にとって後者だと言うだけ。
 そのことに傷つくとか、悔しいとか、ムカつくとか、そんなことは思わなかった。
 ただ無性にーー面白くない。どこかこう、居心地の悪さを感じていた。

 だからと言って神成をどうにかしたいなど、思ったことはなかった。俺に興味のない女をどうこうする趣味も時間も労力も、俺にはない。俺は今まで通り変わらず、適当に近づいてくる女に適当に合わせて、適当に相手にするだけだ。
 幸いにもそのことで煩わしい問題は全く起こらなかった。ありがたいことに俺が来るもの拒まず去る者追わずの、後腐れしないチャラ男だといつの間にか女子の間には浸透していて、俺にはそういう(本気ではない)意図の女しか寄ってこなかった。そして、その数は途切れることなく、相手に困らないだけ十分にいた。

 女の面倒臭い中身は好きではないが、女の身体は好きだ。そして、欲望を発散させるセックスも。
 こうしてフラフラとその場限りの関係を続けていくのが楽だし、俺の性に合っていた。
 適当に笑って、適当に合わせて、適当に遊んで、適当に学んで、適当に日々を過ごす。
 それが俺の、適当に満たされた毎日だった。


 そんな俺の中の、人間らしい部分が乱暴に掘り起こされるのは一瞬だった。

 一目見て分かった。
 神成の目が、表情が、纏う空気が一変した。昨日までとは、全く違う神成がそこにいた。

 神成を変えた原因は、一人の男。

 その事実に、身体が震えた。
 寒気が全身を覆い、硬直し、粉々に砕け散るような錯覚に陥った。手足の感覚どころか呼吸すらできているのか分からなくなって、意識はあるのに何も考えることができなくなった。大地が割れる程の衝撃を受けた気もするし、宇宙空間をぼんやりと漂うような穏やかさに包まれた気もする。

 よく観察しないと分からない位の微々たる変化。だけど決定的に今までとは違う、今まで一度だって見せたことのなかった変化。

 神成がなぜ変わったのかなんて、明白だった。
 俺が最も敬遠し嫌悪してやまない、あの嘘臭くて気持ち悪い感情だ。神成がその男を見つめる瞳に、それが滲んでいた。昨日まではなかったのに、はっきりと。

 不思議とそのきっかけとなった男に対しては何も思わなかった。
 ただ単に、ひたすら、神成に対してムカついた。
 いや、ムカつくなんて、可愛いもんじゃない。
 この女をぐちゃぐちゃにしてやりたい。捻じって、潰して、細かく切り刻んで、踏みつぶして。その我関せずとばかりにすました顔を歪ませたい。泣かせたい、傷付けたい、汚したい。俺に跪かせて、赦しを請わせて、縋らして、そしてーー

 その瞳に、映りたい。

 鼻先がジンと痺れ、溢れそうになるものを堪えるかのように口をきつく噤んだ。

 そうか。
 俺はずっと神成の視界に入りたかった、神成に興味を持たれたかったんだと、その時初めて自覚した。
 理由なんて知らない。ただ、そう思った。

 神成の好きになった男は、そこら辺に掃いて捨てるほどいる、どこまでも平凡な男だった。そして、どこまでも俺とは違う男だった。
 真面目だけが取り柄だと言いたげな地味な黒縁眼鏡をかけた男ーオサムもまた、神成に好意を抱いているように見えた。
 そのことに特に驚きはない。そんなもの当たり前だ。
 自分以外には興味の欠片もありませんとばかりに熱の籠った視線を一身に向けられたら、どんな男でも好きになる。しかもその相手が神成だ。
 つまり相思相愛。今すぐにどうこうなるようには思えなかったが、この先二人は自然と一緒になるのだろう。

「……くそっ」

 湧き上がる苛立ちを胸の中で消化しきれず、つい口から漏れた。いつも意識しなくても張り付けてられる笑みが、上手くつくれない。

 神成に騙されたような、酷く裏切られたような気がした。

 あの女、自分が興味のあること以外は全く眼中にありませんみたいな顔してたくせに。人にーー男には一切の興味はありませんと、勉強のことしか考えられないみたいに振る舞ってたくせに。
 こんなあからさまに、一瞬で態度を変えやがって。馬鹿じゃねえのか、この嘘つき女が。

 思いつく限りの悪態をつらつらと述べ、神成に対して激しい怒りを感じる一方、途方もない虚しさにも襲われる。

 いや、神成は何も悪くない。嘘をついてもないし、矛盾もしていない。そんなの分かってる。
 俺が勝手に、神成怜奈はそういう女だと、そうであるに違いないと決めつけていただけで。俺の見込み違いだっただけで。神成に怒りをぶつけるのは間違っている。そんなことは分かっているのに、やるせなさが止まらない。

 ーーもしかして俺は、神成に対してそうあってほしいと願っていた?

 神成が俺に対して一ミリも興味を持たず、俺を排除するもんだから。だから他の男にもそうだろうと、そうであれと、願望がいつのまにか実態にすり替わっていたのだろうか。

 まあ、今となってはそんなことどうでもいいのだけど。
 俺にとっても、神成とオサムにとっては尚更に。

 どんな相手にも振り回されることなく要領よく適当にやってきた俺も、意外とそうでもないらしい。
 こんなくだらないことで心をかき乱されるとか、格好悪いし馬鹿みてえ。
 そんな自分にがっかりする反面、神成に対する嫌悪感は消えることなく胸の奥深くでくすぶり続けていた。

 あいつを見るとイライラが止まらない。普段はなりを潜めているどす黒い感情が、一気に姿を見せ俺を満たす。
 適当に笑うことができなくなる。
 だから見ない。関わらない。神成とオサムのことなんてどうでもいい。どうぞ勝手にお幸せに。二人だけの世界にどっぷりはまって、宜しくやってりゃいい。

 ……くっそ面白くない気持ちになりすぎて、胸が痛むような気がするのは、気のせいだ。



 二年、三年と適当に大学生活を堪能し、四年になるとゼミに所属する。
 俺は意匠系に進むつもりだったのだが、何故だか血迷って構造系のゼミを選択し、そしてそこには神成とオサムともいた。

 神成とオサムは未だに付き合ってはいない。
 いち早く二人の気持ちに気付いたのは俺だけかもしれないが、何年も見てればさすがに周りも気づく。友達以上恋人未満のお手本のような二人を周囲は生温かい目で見守っていた。ある意味ネタにもされていた。
 さっさとくっつくと思ってたのに、ヘタレすぎて反吐が出る。
 神成も馬鹿だが、オサムも相当な馬鹿だ。俺をイラつかせる為に、ワザとやってんのかと疑ったこともある。

 ……くそ面白くねえ。
 月日が経っても相変わらず、神成は俺をイラつかせていた。

 ゼミが一緒になっても、俺たちの距離は何も変わらない。神成の興味の矛先が俺にないのだから、その目に映ることも当然ない。そして俺だって神成のことを、どうとも思っちゃいない。

 だというのに物理的な距離が縮まった分、フラストレーションは募る一方だった。あいつが同じ教室内にいるというだけで、心がざわついて仕方ない。もちろん、嫌なざわつきだ。
 違うゼミになれば偶然でもない限り大学内で会うことなどないのに、どうして過去の俺は神成と一緒のゼミを選択してしまったのか。
 自分の愚行、いや、凶行を悔やむばかりだ。

 四月に行われたゼミの新歓で、俺は初めて神成が酒を飲むところを見た。
 乾杯のビールの後は、生レモンサワー。トングを器用に使ってサラダを分けテーブルの隅にちょこんと正座をして、お行儀よく食べていた。
 隣に座るオサムに相槌を打ちながら、合間に神成の手には大きすぎるジョッキを呷る。仄かに頬が赤く見えるのは、暖色の照明のせいだけではない。常に伸びた背中も若干カーブしている。
 いつもは絶対に見せない隙のようなものが垣間見え、またしても心がざわついた。とても、楽しく酒を飲める心境ではない。この近いようで果てしなく遠い距離が、もどかしい。

 俺は隣に座った女子の話に適当に相槌を打ちながらも、意識は常に神成に向いていた。神成はオサムと前に座っている先輩を交えて話をしている。たまに綻んだような笑顔を見せながら。

 何だよその顔。先輩だからって媚売ってんのか?
 知らず舌打ちが漏れた。
 神成の初めて見せる顔にそわそわと落ち着かない気持ちになり、「ちょっとごめん」と隣の女子に一声かけて瓶ビール片手に席を立つ。
「やけに盛り上がってますねー。俺も混ぜてくださいよ」とへらりと笑い、自然な形で先輩の隣の席につくと、先輩とオサムが同時に顔を上げ、少し遅れて神成が俺の方に目だけを向けた。そして、俺を視界に捉えた瞬間、僅かに、でも確実に、その瞳を揺らした。

 神成がーーーーーー俺を見た。

「ちょうど今お前の話をしてたんだよ」

 酒のせいでかなり饒舌になった先輩に至近距離なのに大きな声でそう言われ、「そうなんすか?」と笑みを張り付けてビールを注いだ。瓶を持つ手は、少し震えていたかもしれない。

「うちのゼミの雰囲気にそぐわないパーリーピーポーがいるから、神成ちゃんに気を付けなって助言してたとこ。な、オサム」

 そう言われ、すぐピンときた。が、何もわかってないフリを装って続きを促す。

「それが俺っすか?ひでえ言い草ですね。で、助言って何言われたの、神成さん」

 いつもと同じような笑みを浮かべて、何でもない風に話しかける。それがちゃんとできていたかはわからないが、神成は俺の方を見向きもせずに、「別に」とだけ呟いた。

「お前が女なら見境なく手を出す男だから気を付けてねって。あと、オサムにはそんな男の魔の手から神成さんを守ってやれよって。学年の違う俺でさえ知ってるんだから、相当だぞお前。冗談じゃなく正直な話、ゼミ内で修羅場とか勘弁だからな、自粛しろよ安田」

「俺は別に見境なく手を出してるわけじゃないっすよ。ちゃんと、手を出しても後腐れなく切れそうな子に手を出してるんで大丈夫です。ご心配おかけしました」

「おいおい、噂通りのクソっぷりだな!むしろ清々しくって好感持てるわ!!」

 大きな笑い声と共に、先輩に肩を思いきり叩かれた。オサムはそんな俺に苦笑し、神成は横目で「……最低ね」とだけ吐き捨てた。
 その瞳には、俺に対する嫌悪がにじみ出ている。
 その瞬間。つま先から脳天まで一気に鳥肌が立ち、ブルリと震えた。

「そんなに心配しなくても神成さんには手を出さないから安心して。俺にだって好みってもんがあるし」

 わざとらしくニコリと笑って見せると、神成は嫌悪感から更に顔をしかめた。ゾクゾクと背中を何かが這い上がってくる。勃起する時の感覚に近い。

「確かに神成さんは綺麗な顔してるけど、俺はどっちかって言うとふんわりした可愛い系の子が好きなんだよね。それにさ、神成さんとエッチしてもつまんなそうだし。ベッドの中でもそんな硬い顔してんの?」

「!なっ!!」

 俺の言葉に神成が目を見開く。
 鉄壁の仮面が剥げる瞬間を目の当たりにし、脳内麻薬が一気に放出されたかのような高揚感に包まれた。

「あ、図星?言われたことあった?なあ、オサムもそう思うだろ?やっぱ女の子は可愛い声出しておねだりしてくるほうが興奮するよな。美人なだけのマグロ女なんて男の方からお断りだっつーの。って、お前はまだ童貞だから分かんねえか」

 はははっと笑うとオサムは顔を真っ赤にして俯き、神成は殺意とも取れる程きつく俺を睨みつけてきた。

 ……やべえ、止まんねえ。
 神成の視線に強い感情が含まれれば含まれるほど、俺はより興奮した。触られてもいないのにペニスを愛撫されてるような、そんな錯覚に陥る。そしてフェラされてる時より、突っ込んで腰振ってる時よりも、格段に気持ちいい。
 ドーパミンがドバドバ出まくって、頭の中で射精しそうだ。

「おい、止めろよ安田」

 もっともっと虐めてやりたかったが、先輩にたしなめられてそれ以上言うのは止めた。
 へらりと笑って「さーせんした」と謝ると、神成は怒りを滲ませたままフイっと顔を背けた。

 やばい、ニヤニヤが止まらない。超楽しい、くっそ面白え。
 あいつをもっと虐めたい。もっと嫌がられたい。蔑んだ目で俺を見ろ。殺したいくらいに睨んで見せろ。
 嫌悪感をたっぷり含んだあの視線が、もっと欲しい。もっと、もっと俺を見ろ。

 新しい玩具を見つけた、というよりは新しい遊びを覚えた俺の好奇心は止められず、この日から俺の行動基準は『適当』から『神成』に変わった。

 どうすればあいつは俺を見る。
 どうすればあいつの中に俺を刻みこめる。
 どうすればもっと強い視線を向けられる。

 神成の性格を考えれば、それは簡単にすぐ分かった。
 俺が不特定多数の女とセックスをしたと聞けば、神成は嫌悪感から眉を顰めた。普段適当にやってる俺の作品や論文の評価が高い程、悔しそうに口元を引き結んだ。
 そんな神成の顔を見る度に、俺は満足し、そしてそれだけでは物足りなくなり、さらに次を求めた。

 もっと、もっとだ。あいつのプライドをへし折って、お高く止まったすました顔を歪ませたい。ボロボロに傷つけてやりたい。

 いつか抱いたドス黒い感情が再燃する。
 この感情は消えたわけじゃなかった。ただひっそりと、俺自身にも気づかれないように胸の奥底に隠れていて、そして時機を見て顔を出し、一気に全身に燃え広がった。

 神成に対するイライラは、いつの間にか消えていた。
 毎日が楽しくて仕方ない。
 神成のことをどう虐めてやろうかと考えながらする他の女とのセックスは最高だった。




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