君が透明になっても。

宇部 松清

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紙とペンと、透明になった君

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「次はね、お姫様」
「いいよ。ドレスは何色?」
「じゃ、ピンク!」
「ねえはピンクが好きだなぁ」
「うん、大好き」
「じゃ、紙とペン、とって」 

 そう言うと、彼女は、カラーボックスの最上段に置いてあるB5サイズのコピー用紙を1枚とって、クリップボードに挟み、俺に手渡してきた。それを受け取って、さらさらと描き上げたのは、髪の長いお姫様だ。

 ペンを置き、コピー用紙の隣にあるペン立てからピンクの色鉛筆を抜き取る。紙とペンを取るのは彼女の仕事だが、色のチョイスは俺の役目となっている。

じんは本当に上手だね」
「毎日描かされてれば上手くもなるよ」
「私、毎日描いてもたぶん無理かも」
「ねえは絵心が壊滅的なんだよなぁ」
「それ言っちゃう? おかしいよねぇ、双子なのにさ」

 そう俺達は双子だ。
 目の前にいるのは姉の寧々ねね。同じ年なのに上とか下があるのは何か変な感じだけど。俺が『ねえ』と呼ぶのは、『姉』の『ねえ』でもあるし、『寧々』の『ねえ』でもある。

「ま、良いんじゃない? 俺だって取り柄のひとつくらいほしいしさ。はい、お姫様。でもさ、毎日毎日何でこんなに描かせるわけ? いままで描いたやつってどこにしまってんの?」
「内緒よ、内緒」

 ねえは、ふふっと笑って、俺が描いたお姫様の絵をクリアファイルの中に入れた。そのファイルには何も挟まっていない。昨日描いた絵はどこに行ったのだろう。それだけじゃない。一昨日のも、3日前のも、だ。

「じゃあ次はね、王子様。やっぱりお姫様と来たら王子様よね」
「王子様かぁ……。やっぱ白タイツ?」
「あははー、白タイツって! でも、お姫様があんないかにもな童話風だからなぁ。うん、じゃ白タイツの王子様で」
「はいよ、了解」

 こんな風にして、俺とねえの1日は過ぎていく。
 俺はねえが満足するまで絵を描き続け、夜になれば、母さんが作ってくれた夕食を彼女の部屋に運ぶ。そこで一緒に食べると、薬を飲ませて、寝かせるのだ。

 ねえは生まれつき身体が弱く、ほとんど寝たきりの生活をしている。
 一体何の病気なのか、治る見込みがあるのか、そういうことは教えてもらえていない。もう少し大人になったらね、と言われている。親がそう言うということは、何かしらの覚悟が必要なレベルの病なのだと思う。

 幼稚園も、最初は一緒に通った。だけど、ねえは1日通っては1日休み、1日通っては2日休み、としているうちに、とうとう月の半分も通えなくなったのである。小学校は籍だけ置き、家でプリント学習をすることになっている。難しいところは俺が教えた。そのお陰か、俺はそこそこ成績が良い。

「私のお陰ね。感謝しなさい」

 と、ねえはふんぞり返って笑った。
 ねえはいつもにこにこ笑っているけど、決して無理はしない。痛みを堪えたりだとか、苦しいのを我慢しない。痛い苦しい気持ち悪いとはっきり言うのだ。

「だって我慢したってどうにもならないもの。お医者さんだって困るだろうしね」

 そんなことを言って。
 でも、お医者さんも確かにそうだと言っていた。痛みを我慢されると適切な処置が出来ないからね、と。そう言われれば、またもねえは得意気に、

「ま、私って、この道のプロだからさ」

 とふんぞり返るのである。

 いつの間にか、ねえは家にいるのが当たり前で、ベッドの上にいるのが当たり前になった。ちょっと散歩に行くなんてことも、なくなってた。最近じゃ起き上がることも難しくなっていて、何かを食べる時以外はずっと寝ている。声も日に日に弱くなってて、だけど、俺といる時はちょっと笑うんだ。

「……私が透明になったらね」

 ねえは『死ぬ』という言葉を絶対に使わなかった。死ぬのではなく、この世からいなくなるわけでもなく、ただ、皆の目に見えなくなるだけだもん、と。
 ねえがそう言う度、が近付いているのではと、ひやりとしたが、泣くわけにはいかない。ねえが泣いてないなら、俺は泣いちゃ駄目なんだ。

「この部屋の壁に……迅が描いた絵を全部貼って」
「絵を?」
「そう」
「どうして?」
「だって透明なんだよ、私。持ったり出来ないもん。貼ってあったらいつでも見られるでしょ?」
「……そうだな」
「そうだなぁ。あっちの壁は海にする。迅が描いてくれたクジラと人魚と……」
「あとタコとか、ヒトデも描いた」
「そうだったね」
「海なら、あそこの壁は全部青く塗っちゃおうか」
「怒られないかな」
「怒られるのは俺だ。ねえじゃない」
「迅が怒られるのも嫌だよ」
「良いんだ、俺は。それより、あっちの壁はどうする?」

 こんな話で貴重なねえとの時間がとられるのはもったいない。そう思って、その隣の壁を指差した。

「あっちは……そうだな。夢の国。ユニコーンと、ペガサスと……」
「天使に、悪魔、鬼とか妖怪も描いたけど、それもあそこ?」
「うーん、ちょっと違う気もするけど、でもここしかないよねぇ。だってあっちは、ダンスパーティーなんだ。お姫様と王子様が踊ってる」
「たくさん描いたもんな、王子様もお姫様も」

 げほげほ、と、ねえが咳き込んだ。なのに、それ、で、ね、と尚も話を続けようとする。

「無理すんなよ、ねえ。また――」
なんかないの」
「え」

 青い顔で、苦しそうに眉をしかめて。
 
「もう、私の身体透けてきてるのよ。わかるの。もうすぐ透明になるの、私」
「そんな……」

 だとしたら、こんなことをしてる場合じゃない。父さんと母さんを呼んで、いや、その前に救急車を――、

「良いの。もう良いの」
「良くないよ、だって――」
「私、早く見たいんだ。壁中の絵。迅の描いてくれた絵。きっとすごいよ。だからね、もっと話させて」
「だけど、ねえ」
「お願いだよ、迅。私が見えなくなっても、私との思い出が消えないように」
「消えるわけないだろ」

 消えるわけない。
 忘れるわけなんかないんだ。

 あぁ、きっと、ねえはそのために、俺に絵を描かせたんだ。俺の記憶から自分が消えてしまわないように。壁中に貼れば、いつでも思い出してもらえると思ったのだろう。

「ねぇ、迅。絵を描いて。私と、迅の絵」
「……いいよ。とっておきの笑顔の絵にする」
「それはね、天井に貼るの」
「わかった。だったら天井はピンクに塗ろう。ねえの好きな色だもんな」

 そうだな。
 天井に貼るのが1番良いかもしれない。涙がこぼれ落ちないようにって有名な歌もあるもんな。

「……怒られないかな」
「大丈夫、怒られるのは俺だから」

 ねえはもう「迅が怒られるのも嫌だよ」なんてことも言わず、ただ、苦しそうに笑っていた。

 紙とペン、取って、と言いそうになり、止めた。もうねえにはそんな力はない。
 そう思ったのだが、彼女は震える手をゆっくりと伸ばし、カラーボックスの2段目に移動させたコピー用紙を取ろうとしている。

 あぁ、もう、無理しないで。

 そう思ったけど、もしかしたらこれは「もう良いの」と言っていた彼女の、まだ消えたくないという本当の気持ちなのかもしれない。だから、ぐっと歯を食いしばって耐えた。
 
 数枚床に散らばったが、そんなことはもうどうだって良い。俺はねえが取ってくれた紙とペンで、2人の顔を描いた。急いで。ねえの身体が透明になる前に。



 ねえが透明になったのは、それから1週間後のことだった。
 会話が出来たのは2日だけ。その2日間、ねえはずっと壁のどこにどの絵を貼るか、ということをしゃべり続けた。絵は、ベッドの下の衣装ケースの中にあった。よく考えたらねえはベッドから降りられないのだから、そこにしまうしかない。
 
 ねえが透明になって、彼女のリクエスト通りに絵を貼ろうと、ベッドの下からそれを取り出した。
 俺が学校に行っている時にずっと見ていたのだろう、絵はどれも少ししわしわになっていた。ところどころ、ペンのインクがにじんでいて、それが何によるものなのかはもちろんわかっていたけど、気付かない振りをして貼り続けた。

 真っ青な海の壁には人魚とクジラ達が泳ぎ。
 虹がかかった7色の夢の国の壁にはユニコーンと鬼が一緒に笑っている。
 まばゆい金色のダンスパーティー会場の壁では、いろんな国の王族が時を忘れて踊っていて。

 最後のひとつは、そのままの壁。ここはそのまま、ねえの部屋だ。父さんと母さんとねえと俺がいる。ねえは可愛い服を着て、楽しそうにはしゃいでいるのだ。

 そして、見上げれば、満開の桜のようなピンク色の中に、俺とねえがいる。

 泣くな。
 泣くんじゃない。
 だって、そうだろ。
 ねえはここにいるんだから。
 透明になって、一緒にいるんだから。

 開けていた窓から、ふわり、と風が吹き込み、カラーボックスの中にあったコピー用紙が1枚ひらりと舞った。そして、その上に置いてあったペンがコロコロと転がっていく。
 
 ほら、やっぱり。
 
 紙とペンを取るのはねえの仕事だもんな。

 大丈夫、これからも絵は描き続けるよ。
 だってねえも俺の新作が見たいだろ?

 そう呟いて天井を見上げると――、
 
 眩しいくらいの笑顔のねえが、じわりとにじんだ。


 
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