6 / 45
脱走
6
しおりを挟む
「そうよ。そんな格好でのこのこついて行って、犯して下さいと誘っているようなものよ!」
「しかし、あの男はご内儀の、衣を譲っても良いと言っておった。ご内儀の前では、いくら何でも……」
「馬鹿! そもそもが嘘だと言っているの。あいつが商人で、家に女房がいるなんて、どんな証拠があるの。第一、家に女房がいたって、草叢であんたを手籠めにするくらい、わけないでしょう」
「……ほほう。その通りである。そなたは賢いの。儂が迂闊であった」
今まで夏に向かって、このように声を荒げる者はいなかった。
夏は側室の子とはいえ、氏康の次女だ。不断は猫を被って大人しくしている分を差し引いても、怒鳴られるような不手際は、して来ていない。
だから大きな声で一喝されて、驚いた。だが、不快な気分にはならない。
女の忠告はもっともである。
あの男の家に女房がいる証は、目にしていない。
女があまりに気を置かない口調だったので、夏の言葉遣いも自然にくだけていた。
夏が素直に忠告を受け入れたので、女は逆に拍子抜けした。
「あんた、変な子ね。見たところ、随分とお嬢様のようだけど。そんな格好で何をしているの?」
「儂は……、出奔をして参った。と、言うても七日したら自ら戻るつもりでおる。僅かな間、身内の目を欺くための衣を探しておったのじゃ。乗りかかった船なのであろう、姉君の衣をお借りできぬか」
明け透けに話すと、女はぷっと吹き出した。
女を一目、見た時から、夏は完全に、女に心を許していた。
美貌のみが成せる技ではない。夏の心の奥にある結び目を、緩ませる何かが、女にはあった。
疑う気になれない。もし、この女が働く悪事を見抜けなければ自分で責を負う。
「つくづく正直ね。その話が本当なら、私の正体を疑わないの? 私が悪党の一味である線も、まだ残っているよ」
「先ほどは、早くと焦って、見誤ってしもうた。たが、そなたは善い人間じゃ。先ほどより儂は其方を、まじまじと観察しておった。悪党はそのように澄んだ目を持たぬ」
夏はにこやかに応じた。じっと見つめると、女は一度、困ったように目を伏せた。
「これでも、信じられる?」
顔を上げたと同時に、風呂敷包みを放り投げた。
夏は慌てて受け止める。中を見よと指示をされたと受け取り、結び目を解く。
「これは、袴じゃな」
「ね。他人を簡単に信用してはいけないの。わかった?」
「わかった。まことに、儂は、うつけじゃな。めくらであった」
藍色の布を手に取ると、小袖でないと簡単に知れる。広げるまでもなく、折り目と紐で、袴だとわかった。
先ほど女は袴の一面だけを見せて小袖だと説明した。夏は小袖だと信じて疑わなかった。
商人の見せた塩袋も同様だ。中身が本当に塩なのか、念を入れて調べなかった。
夏がしょんぼりと頷くと、女は満足そうに笑んだ。
「しかし、あの男はご内儀の、衣を譲っても良いと言っておった。ご内儀の前では、いくら何でも……」
「馬鹿! そもそもが嘘だと言っているの。あいつが商人で、家に女房がいるなんて、どんな証拠があるの。第一、家に女房がいたって、草叢であんたを手籠めにするくらい、わけないでしょう」
「……ほほう。その通りである。そなたは賢いの。儂が迂闊であった」
今まで夏に向かって、このように声を荒げる者はいなかった。
夏は側室の子とはいえ、氏康の次女だ。不断は猫を被って大人しくしている分を差し引いても、怒鳴られるような不手際は、して来ていない。
だから大きな声で一喝されて、驚いた。だが、不快な気分にはならない。
女の忠告はもっともである。
あの男の家に女房がいる証は、目にしていない。
女があまりに気を置かない口調だったので、夏の言葉遣いも自然にくだけていた。
夏が素直に忠告を受け入れたので、女は逆に拍子抜けした。
「あんた、変な子ね。見たところ、随分とお嬢様のようだけど。そんな格好で何をしているの?」
「儂は……、出奔をして参った。と、言うても七日したら自ら戻るつもりでおる。僅かな間、身内の目を欺くための衣を探しておったのじゃ。乗りかかった船なのであろう、姉君の衣をお借りできぬか」
明け透けに話すと、女はぷっと吹き出した。
女を一目、見た時から、夏は完全に、女に心を許していた。
美貌のみが成せる技ではない。夏の心の奥にある結び目を、緩ませる何かが、女にはあった。
疑う気になれない。もし、この女が働く悪事を見抜けなければ自分で責を負う。
「つくづく正直ね。その話が本当なら、私の正体を疑わないの? 私が悪党の一味である線も、まだ残っているよ」
「先ほどは、早くと焦って、見誤ってしもうた。たが、そなたは善い人間じゃ。先ほどより儂は其方を、まじまじと観察しておった。悪党はそのように澄んだ目を持たぬ」
夏はにこやかに応じた。じっと見つめると、女は一度、困ったように目を伏せた。
「これでも、信じられる?」
顔を上げたと同時に、風呂敷包みを放り投げた。
夏は慌てて受け止める。中を見よと指示をされたと受け取り、結び目を解く。
「これは、袴じゃな」
「ね。他人を簡単に信用してはいけないの。わかった?」
「わかった。まことに、儂は、うつけじゃな。めくらであった」
藍色の布を手に取ると、小袖でないと簡単に知れる。広げるまでもなく、折り目と紐で、袴だとわかった。
先ほど女は袴の一面だけを見せて小袖だと説明した。夏は小袖だと信じて疑わなかった。
商人の見せた塩袋も同様だ。中身が本当に塩なのか、念を入れて調べなかった。
夏がしょんぼりと頷くと、女は満足そうに笑んだ。
0
あなたにおすすめの小説
剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末
松風勇水(松 勇)
歴史・時代
旧題:剣客居酒屋 草間の陰
第9回歴史・時代小説大賞「読めばお腹がすく江戸グルメ賞」受賞作。
本作は『剣客居酒屋 草間の陰』から『剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末』と改題いたしました。
2025年11月28書籍刊行。
なお、レンタル部分は修正した書籍と同様のものとなっておりますが、一部の描写が割愛されたため、後続の話とは繋がりが悪くなっております。ご了承ください。
酒と肴と剣と闇
江戸情緒を添えて
江戸は本所にある居酒屋『草間』。
美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。
自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。
多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。
その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。
店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。
【時代小説】 黄昏夫婦
蔵屋
歴史・時代
江戸時代、東北地方の秋田藩は貧かった。
そんな中、真面目なひとりの武士がいた。同僚からは馬鹿にされていたが真面目な男であった。俸禄は低く貧しい。娘二人と実母との4人暮らし。
秋田藩での仕事は勘定方である。
仕事が終わると真っ直ぐ帰宅する。
ただひたすら日中は城中では勘定方の仕事をまじめにして、帰宅すれば論語を読んで知識を習得する。
そんな毎日であった。彼の名前は立花清左衛門。年齢は35歳。
娘は二人いて、一人はとめ15歳。もう一人は梅、8歳。
さて|黄昏《たそがれ》は、一日のうち日没直後、雲のない西の空に夕焼けの名残りの「赤さ」が残る時間帯のことを言う。「|黄昏時《たそがれどき)」。 「黄昏れる《たそがれる》」という動詞形もある。
「たそがれ」は、江戸時代になるまでは「たそかれ」といい、「たそかれどき」の略でよく知られていた。夕暮れの人の顔の識別がつかない暗さになると誰かれとなく、「そこにいるのは誰ですか」「誰そ彼(誰ですかあなたは)」とたずねる頃合いという意味で日常会話でよく使われた。
今回の私の小説のテーマはこの黄昏である。
この風習は広く日本で行われている。
「おはようさんです」「これからですか」「お晩でございます。いまお帰りですか」と尋ねられれば相手も答えざるを得ず、互いに誰であるかチェックすることでヨソ者を排除する意図があったとされている。
「たそかれ」という言葉は『万葉集』に
誰そ彼と われをな問ひそ 九月の 露に濡れつつ 君待つわれそ」
— 『万葉集』第10巻2240番
と登場するが、これは文字通り「誰ですかあなたは」という意味である。
「平安時代には『うつほ物語』に「たそかれどき」の用例が現れ、さらに『源氏物語』に
「寄りてこそ それかとも見め たそかれに ほのぼの見つる 夕顔の花」
— 『源氏物語』「夕顔」光源氏
と、現在のように「たそかれ」で時間帯を表す用例が現れる。
なおこの歌は、帖と登場人物の名「夕顔」の由来になった夕顔の歌への返歌である。
またこの言葉の比喩として、「最盛期は過ぎたが、多少は余力があり、滅亡するにはまだ早い状態」をという語句の用い方をする。
漢語「|黄昏《コウコン》」は日没後のまだ完全に暗くなっていない時刻を指す。「初昏」とも呼んでいた。十二時辰では「戌時」(午後7時から9時)に相当する。
「たそがれ」の動詞化の用法。日暮れの薄暗くなり始めるころを指して「空が黄昏れる」や、人生の盛りを過ぎ衰えるさまを表現して「黄昏た人」などのように使用されることがある。
この物語はフィクションです。登場人物、団体等実際に同じであっても一切関係ありません。
それでは、小説「黄昏夫婦」をお楽しみ下さい。
読者の皆様の何かにお役に立てれば幸いです。
作家 蔵屋日唱
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
偽夫婦お家騒動始末記
紫紺
歴史・時代
【第10回歴史時代大賞、奨励賞受賞しました!】
故郷を捨て、江戸で寺子屋の先生を生業として暮らす篠宮隼(しのみやはやて)は、ある夜、茶屋から足抜けしてきた陰間と出会う。
紫音(しおん)という若い男との奇妙な共同生活が始まるのだが。
隼には胸に秘めた決意があり、紫音との生活はそれを遂げるための策の一つだ。だが、紫音の方にも実は裏があって……。
江戸を舞台に様々な陰謀が駆け巡る。敢えて裏街道を走る隼に、念願を叶える日はくるのだろうか。
そして、拾った陰間、紫音の正体は。
活劇と謎解き、そして恋心の長編エンタメ時代小説です。
対米戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。
そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。
3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。
小説家になろうで、先行配信中!
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる