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脱走
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「お武家様あ! 明日にして下せえ!」
間延びした店主の声で、夏は決心した。
利かない夜目で、月明かりに向かって駆け出した。
足裏が痛むが、躊躇っていられない。
「もう遅い。儂は逃げるぞ!」
宿を飛び出して、叫びながら逃げる。屋内がざわめいて、追手の意識が夏に向く。
逃げ切る自信はない。
だが、万に一つでも、姉妹に責が及んではならない。
今宵は、まだ月が高い。昼間は雲一つない晴天で、想像通り、明りは朧ながらも景色は確かだ。
しかしこちらから辺りが見える情態は、他者からもこちらが見える事実でもある。
「七日で戻るというに、わからず屋が……いたっ」
口元でぼやくと、すぐに痛みに足を取られる。
足裏の訴えを打ち捨てておけたのは、わずか三歩だった。すぐに歩速が落ちた。
「待たれよ! 無駄な抵抗は、おやめなさい!」
目論見通り、男も夏を追って宿を出た。
後は逃げるのみなのだが、こちらも目論見通り、目途が立っていない。
足を上げると痛みが増すので、すり足気味になる。
だから、たいして速くならない。
追手は砂利を踏み散らしながら、あっという間に背後に迫った。
音から察するに、敵はしっかり履物まで履いている。
「お待ちください、夏姫様!」
名を呼ばれて、夏は後ろを振り向いた。
姿かたちはほとんど影で、誰のものか判別はつかぬ。
しかし、追手との隔たりは一間余もない。
行く先は十字路。夏の記憶が正しければ、左に曲がれば、昼間の芸の舞台となった四辻がある。
夏の歩幅はさらに狭くなった。
が、まだ諦めきれない。たった一日目だ。
罪悪に身を苛まれる嫌いはあれど、約束では、まだ自由は六日も残っている。
ここで諦めて帰れる程度の気持ちなら、脱走などしていない。
「夏姫!」
夏が再度、抵抗の気持ちを、後ろ姿で示したため、追手は名前を再度、強く呼ばわった。
高圧的な物言いが、気に障る。
(出奔は儂の咎でも、家人にそのような物言いをされる謂れはないわ。無礼者め)
強がったところで、追手との間は益々狭まる。
四辻を右に逸れると、民家が途切れ、畑が広がっていた。
振り向かずとも、呼気で追手との隔たりが伝わる。夏はもはや逃げ切れぬと覚悟した。
どうせ逃げ切れぬならば、よし。振り向きざまに、張り手を見舞ってやる。
悔しまぎれの策謀を思いついて、夏は息を吐いた。
立ち止まり、少しだけ腰を屈めた。
粋(がる従者の頬を張ってやろうと、右手に力を籠め、勢いをつけて振り返る。
「あっ、何をする⁉」
振り上げた腕を瞬時に絡め取られて、夏は為す術を失った。
「てこずらせないで下され、夏姫〝様〟。やっと捕まえた」
がっしり捕まれた手首の痛さに、夏は眉をひそめた。
「手を放すのじゃ無礼者。痛いではないか」
腕を引きながらきっぱりと言い放つ。が、男の腕はびくともしない。
どころか、より強く手首を握り込まれて、夏は悟った。
「お主、父上の麾下ではないな⁉」
目を男の顔へ走らせる。髷を結っているものの、骨ばった顎の周りには月明かりでもわかるほどの無精髭が放置されていた。
身に着けている物も、単衣の形は取っていても着古して、手触りが荒い。
こんな男を、氏康が夏の捜索に直々に充てるはずがない。
男はにやりと満足そうに口元を歪めた。
「身を尽くして北条に仕える家臣の顔をお忘れか、姫君」
「お主、何者だ。名を名乗れ。どんな目的でかような振る舞いをするのじゃ」
腕は痛むが、男の為すがままに任せた。抗衡しても効果はなさそうだ。
間延びした店主の声で、夏は決心した。
利かない夜目で、月明かりに向かって駆け出した。
足裏が痛むが、躊躇っていられない。
「もう遅い。儂は逃げるぞ!」
宿を飛び出して、叫びながら逃げる。屋内がざわめいて、追手の意識が夏に向く。
逃げ切る自信はない。
だが、万に一つでも、姉妹に責が及んではならない。
今宵は、まだ月が高い。昼間は雲一つない晴天で、想像通り、明りは朧ながらも景色は確かだ。
しかしこちらから辺りが見える情態は、他者からもこちらが見える事実でもある。
「七日で戻るというに、わからず屋が……いたっ」
口元でぼやくと、すぐに痛みに足を取られる。
足裏の訴えを打ち捨てておけたのは、わずか三歩だった。すぐに歩速が落ちた。
「待たれよ! 無駄な抵抗は、おやめなさい!」
目論見通り、男も夏を追って宿を出た。
後は逃げるのみなのだが、こちらも目論見通り、目途が立っていない。
足を上げると痛みが増すので、すり足気味になる。
だから、たいして速くならない。
追手は砂利を踏み散らしながら、あっという間に背後に迫った。
音から察するに、敵はしっかり履物まで履いている。
「お待ちください、夏姫様!」
名を呼ばれて、夏は後ろを振り向いた。
姿かたちはほとんど影で、誰のものか判別はつかぬ。
しかし、追手との隔たりは一間余もない。
行く先は十字路。夏の記憶が正しければ、左に曲がれば、昼間の芸の舞台となった四辻がある。
夏の歩幅はさらに狭くなった。
が、まだ諦めきれない。たった一日目だ。
罪悪に身を苛まれる嫌いはあれど、約束では、まだ自由は六日も残っている。
ここで諦めて帰れる程度の気持ちなら、脱走などしていない。
「夏姫!」
夏が再度、抵抗の気持ちを、後ろ姿で示したため、追手は名前を再度、強く呼ばわった。
高圧的な物言いが、気に障る。
(出奔は儂の咎でも、家人にそのような物言いをされる謂れはないわ。無礼者め)
強がったところで、追手との間は益々狭まる。
四辻を右に逸れると、民家が途切れ、畑が広がっていた。
振り向かずとも、呼気で追手との隔たりが伝わる。夏はもはや逃げ切れぬと覚悟した。
どうせ逃げ切れぬならば、よし。振り向きざまに、張り手を見舞ってやる。
悔しまぎれの策謀を思いついて、夏は息を吐いた。
立ち止まり、少しだけ腰を屈めた。
粋(がる従者の頬を張ってやろうと、右手に力を籠め、勢いをつけて振り返る。
「あっ、何をする⁉」
振り上げた腕を瞬時に絡め取られて、夏は為す術を失った。
「てこずらせないで下され、夏姫〝様〟。やっと捕まえた」
がっしり捕まれた手首の痛さに、夏は眉をひそめた。
「手を放すのじゃ無礼者。痛いではないか」
腕を引きながらきっぱりと言い放つ。が、男の腕はびくともしない。
どころか、より強く手首を握り込まれて、夏は悟った。
「お主、父上の麾下ではないな⁉」
目を男の顔へ走らせる。髷を結っているものの、骨ばった顎の周りには月明かりでもわかるほどの無精髭が放置されていた。
身に着けている物も、単衣の形は取っていても着古して、手触りが荒い。
こんな男を、氏康が夏の捜索に直々に充てるはずがない。
男はにやりと満足そうに口元を歪めた。
「身を尽くして北条に仕える家臣の顔をお忘れか、姫君」
「お主、何者だ。名を名乗れ。どんな目的でかような振る舞いをするのじゃ」
腕は痛むが、男の為すがままに任せた。抗衡しても効果はなさそうだ。
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