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脱走
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その代わり、相手の目を見据える。
(大丈夫。恐れることは何もない)
見知らぬ男に捕えられた。恐ろしいはずなのに、夏の心は不思議と落ち着いていた。
ただ懐剣を宿へ残した失態だけは悔やまれる。昨夜、出奔した時には寝間着の懐へ忍ばせていた。
小袖に帯一本では携えられず、今朝方やむなく手放した。
「生憎、姫君に申し上げるような立派な名は持ち合わせておりませなんだ。今にわかる。大人しくしていてくだされば、酷い目には遭わずに済む」
「なに? 名乗りもせず儂を捕縛しようと抜かすのか。お主の素性も、たかが知れたの。単なる賊か」
夏が無念を紛らわすように吐き捨てると、突如、男の怒気が膨れ上がった。
「俺は、賊ではない……!」
右手に夏の腕。月明かりを背負って、男が左腕を振り上げた。
どの言葉にそんなに腹を立てたのだ。
軌跡は夏に真直に向かっていて、逃げようがない。怯えてはならない。
関東を統べる大総統の娘として、この威嚇をどう受け止めるべきか。夏は僅かな間で自分に問いかけた。
だが、次の一刹那、凛とした響きが、月影を割いて響き渡った。続いて細いものが、空を切り裂く音がする。
「伏せよ!!」
腕を掴まれていて、どう伏せるのか。
わからぬまま、夏は声に従っていた。
夏は身を伏せられた。掴まれていたはずなのに、両手が地面に着く。
同時に「ぎゃあ~っ」と野太い悲鳴が上がり、後頭に生暖かい飛沫が降ってくる。
(何じゃ? それに、生臭い……!?)
路傍に茂る草いきれと、土ぼこり。降り注ぐ血生臭さに、吐き気が込み上げた。
そうだ、これは血だ。
自分が血を流して果てるのに、何の抗衡もなかった夏だが、他人の血を浴びたとわかって、途端に身の毛がよだつ。
何が起きたか確かめねばならぬ、けれど気味が悪い。
息が乱れ、胸の上下がせわしくなる。短い息を繰り返しながらも、夏は腕に力を込めた。
体を起こそうとするが、震えて力が出ない。
「目を閉じていて下され。安全な場所へお連れします」
気配もなく、耳元で声がした。妙に落ち着く声色だ。
しかし、何が起きているのかもわからない場所で、暖気に目を閉じてはいられない。
「いかん、お主は、何者じゃ……」
夏は地に伏しながら、目を配った。
左には家屋、右に叢と灌木の窪み。転がる砂利に広がる星空。
周囲の民家は騒ぎがあっても誰も出て来る気配がない。
出てくれば自分の身が危ないのだから当然だ。
「じっとしておってくだされい。立てぬのでありましょう。ほら、運んで差し上げます故……」
「儂に触れるな! 儂はもう得体の知れぬ者は信用せぬ」
脇と、膝に触れられて夏は足掻いた。手を払いのける。
「そんな様で、よく言うわねえ。立てないくせに」
急に体が持ち上がり、問答無用で抱えられた。さらに身を捩ろうとしてはっとする。
妙に記憶に新しい声だ。
「……見せたくなかったんだけどねえ」
夏を抱えた影は、世間話でもするように呟くと、くるりと向きを変えた。夏が飛び出した宿の方角だ。
黄色く静かに差す月明かりの中に、右腕の先を失った男が、後ろを向いて仁王立ちしていた。
押さえた切り口から雫が滴る。何者かと対峙している。
びくり、と大きく体を震わせると、両肩の真ん中に乗っている頭が落ちた。
今度は一声もない。
どさり、と草に転がった体がくぐもった音を立てた。
降りぬいた刀の切っ先から、黒の飛沫が弧を描く。
ひゅん――。
耳鳴りのようだった。
(なんと――)
夏は目に映った無残な光景に、意識が遠のくのを感じた。
こんなところで気を失ってはならぬ。意識がなくて、命が守れるか。
分かっていても、心のどこかに甘えがあった。
夏を抱いているのも黒ずくめの男。
賊と相対していたのも黒い装束の男――だと、思う。
けれどあれは、小雪だ。
男の姿があまりにも秀麗過ぎて、夏には〝小雪〟にしか見えなかった。
(大丈夫。恐れることは何もない)
見知らぬ男に捕えられた。恐ろしいはずなのに、夏の心は不思議と落ち着いていた。
ただ懐剣を宿へ残した失態だけは悔やまれる。昨夜、出奔した時には寝間着の懐へ忍ばせていた。
小袖に帯一本では携えられず、今朝方やむなく手放した。
「生憎、姫君に申し上げるような立派な名は持ち合わせておりませなんだ。今にわかる。大人しくしていてくだされば、酷い目には遭わずに済む」
「なに? 名乗りもせず儂を捕縛しようと抜かすのか。お主の素性も、たかが知れたの。単なる賊か」
夏が無念を紛らわすように吐き捨てると、突如、男の怒気が膨れ上がった。
「俺は、賊ではない……!」
右手に夏の腕。月明かりを背負って、男が左腕を振り上げた。
どの言葉にそんなに腹を立てたのだ。
軌跡は夏に真直に向かっていて、逃げようがない。怯えてはならない。
関東を統べる大総統の娘として、この威嚇をどう受け止めるべきか。夏は僅かな間で自分に問いかけた。
だが、次の一刹那、凛とした響きが、月影を割いて響き渡った。続いて細いものが、空を切り裂く音がする。
「伏せよ!!」
腕を掴まれていて、どう伏せるのか。
わからぬまま、夏は声に従っていた。
夏は身を伏せられた。掴まれていたはずなのに、両手が地面に着く。
同時に「ぎゃあ~っ」と野太い悲鳴が上がり、後頭に生暖かい飛沫が降ってくる。
(何じゃ? それに、生臭い……!?)
路傍に茂る草いきれと、土ぼこり。降り注ぐ血生臭さに、吐き気が込み上げた。
そうだ、これは血だ。
自分が血を流して果てるのに、何の抗衡もなかった夏だが、他人の血を浴びたとわかって、途端に身の毛がよだつ。
何が起きたか確かめねばならぬ、けれど気味が悪い。
息が乱れ、胸の上下がせわしくなる。短い息を繰り返しながらも、夏は腕に力を込めた。
体を起こそうとするが、震えて力が出ない。
「目を閉じていて下され。安全な場所へお連れします」
気配もなく、耳元で声がした。妙に落ち着く声色だ。
しかし、何が起きているのかもわからない場所で、暖気に目を閉じてはいられない。
「いかん、お主は、何者じゃ……」
夏は地に伏しながら、目を配った。
左には家屋、右に叢と灌木の窪み。転がる砂利に広がる星空。
周囲の民家は騒ぎがあっても誰も出て来る気配がない。
出てくれば自分の身が危ないのだから当然だ。
「じっとしておってくだされい。立てぬのでありましょう。ほら、運んで差し上げます故……」
「儂に触れるな! 儂はもう得体の知れぬ者は信用せぬ」
脇と、膝に触れられて夏は足掻いた。手を払いのける。
「そんな様で、よく言うわねえ。立てないくせに」
急に体が持ち上がり、問答無用で抱えられた。さらに身を捩ろうとしてはっとする。
妙に記憶に新しい声だ。
「……見せたくなかったんだけどねえ」
夏を抱えた影は、世間話でもするように呟くと、くるりと向きを変えた。夏が飛び出した宿の方角だ。
黄色く静かに差す月明かりの中に、右腕の先を失った男が、後ろを向いて仁王立ちしていた。
押さえた切り口から雫が滴る。何者かと対峙している。
びくり、と大きく体を震わせると、両肩の真ん中に乗っている頭が落ちた。
今度は一声もない。
どさり、と草に転がった体がくぐもった音を立てた。
降りぬいた刀の切っ先から、黒の飛沫が弧を描く。
ひゅん――。
耳鳴りのようだった。
(なんと――)
夏は目に映った無残な光景に、意識が遠のくのを感じた。
こんなところで気を失ってはならぬ。意識がなくて、命が守れるか。
分かっていても、心のどこかに甘えがあった。
夏を抱いているのも黒ずくめの男。
賊と相対していたのも黒い装束の男――だと、思う。
けれどあれは、小雪だ。
男の姿があまりにも秀麗過ぎて、夏には〝小雪〟にしか見えなかった。
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