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さつまいも

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ゲェムの哲人

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 カタカタカタ、ピピピッ…。
 カーテンが閉まっていて真っ暗な闇の中で、携帯のベルと振動する音が耳に入ってくる。
 AM03:50。
 井上寿一は、睡眠不足でぼんやりしている頭で、目をしばたかせながらデジタルが表す時刻を見た。
 まだぼやけている頭。
 寝る前、自分の携帯電話にセットしていたアラームの音を止めて、頭を少しベッドから離す。
 横から聞こえてくる規則的な寝息。
 すると少しずつ自分がいる場所や寝る前に起きていた内容が、ぼんやりよみがえり、井上は満ち足りた思いを表すように笑みを浮かべた。
 幸せな時間。それでももう起きないと明日…、もう今日、会社に出勤する準備が出来なくなる。
 井上が今いるのは、通勤途中の駅近くのシティホテルだった。
 会社は服装にうるさくはないけれど、それでも昨日と同じ格好で出勤するのは心に後ろめたさを感じる。
 眠たい目をこすりながら、始発が動き出す前にホテルを出るしかない…と、自分に言い聞かせるように身体を動かす。
 まずは頭をはっきりさせようと両手の指で顔を何度か押してから、ゆっくりと上半身をベッドから浮かせる。
 隣で静かに寝息を立てている人物に気付かれないように、ベッドに体重をなるべくかけないように井上は起き上がった。
 芦辺さん…。
 昨日の朝から現在まで二四時間以上も、〝芦辺恵助〟という名に振り回された時間が、終わりを告げようとしている。
 使い古された演歌の歌詞のように、芦辺ともこのホテルの部屋を出ると、他人同士になるのだろうか…。
 かなり酒を飲んでいた芦辺は、井上とあったことなど、忘れてしまうのだろうか。
 小さくため息を付いた後、ベッドの近くに乱暴に脱ぎ捨てていた自分ワイシャツを素肌に羽織った。真っ暗な部屋の中。
 物にぶつからないように窓に近づき、井上は部屋のカーテンを開けて、まだ闇に包まれている窓の外を眺めた。
 数時間前、芦辺と一緒に歩いた狭い街。
 あの時はキラキラと満天の星のように輝いていたクリスマスの豆球たちも、今は眠りに就いている。
 数時間もすれば、またあわただしいいつもと同じ朝が来る。
 今が夜といわれる時間の中で、一番闇が深まっているそんな時刻だった。
 クリスマスまでは、まだ一ヵ月近くある。
 都心に近いこの街も首都圏のイルミネーションスポットには劣るけれど、クリスマスへの準備が万端に整っていた。
 思い出される数時間前の偶然に、井上は小さくため息を付く。
 ベッドで優しい寝息を立てている芦辺に、視線を移した。
 何をしていたのかがはっきりとうかがえるほどに乱れたベッドの上で、安らかに芦辺は眠っている。
 そう言えば眠りについてからまだ、二時間しか経っていないそんな時刻だった。
 仮眠程度の睡眠時間によく起きれたなぁと自分に感心しながら、ベッドで泥のように眠っている芦辺の姿に苦い笑いが込み上げる。
 うつ伏せなって、疲れ切って休んでいる芦辺。
 何も身に付けない姿の上に、真っ白いカバーのかかった毛布がかかっているだけ。毛布は高まった興奮を極めてぐったりとし、休んでしまった芦辺に井上が掛けたものだった。
 芦部さん…。
 今でも芦辺を抱きしめた時の体温が思い出されてくる。
 〝これから…〟何て言葉を考えなくてもいいならば、大切に出来たのに…。
 もし許されるならば、二人だけで時間が止まってしまえばいい、と思えてくる。
 情けない話だけれどもそれほどに井上にとっては、芦辺との一晩は満たされた時間だった。
 先ほどワイシャツを羽織ったままの姿で、芦辺を起こさないように静かにベッドに近づいた。それから芦辺の休んでいる横に、腰を掛ける。
 うっすらと汗をかいている芦辺の頭皮に、井上は唇を寄せる。
「…、芦辺さん…」
 いつまでもつきない思いに、井上は小さくため息を付いた。
 何でこんなことになってしまったのだろうか…。
 〝後悔〟という言葉が、井上の全身を苛んでいく。
 それでも愛しいと思えるのは、もろく崩れた芦辺の姿を見せられたからだろうか…。
 自分の下で身悶える扇情的な芦辺の姿に、井上は突き上げる衝動を感じていた。
 数十分経った今でも、芦辺の少し掠れた甘い声が、耳から離れない。
「ぁ、ああっ、いい…。気持ちいい…」
 押し進める腰に熱い喘ぎ声を上げながら、しがみついてくる芦辺。
 井上は芦辺を愛おしむように全身の余すところ無く、口付けを落とす。
 汗ばんだ躯が重なり合い、お互いに快感をむさぼりあう。
 部屋に響き渡る淫らなあえぎ声と、そして湿気たねちっこさをはらんだ躯がぶつかる音。
 思わず〝愛している〟と叫びたくなるように、愛しさが感じられた行きずりの相手。
 互いに熱に浮かされながら、絶頂を迎えた時には、もしかしたら叫んでいたかもしれない。
 〝芦辺さん、愛してます〟と…。
 行き先の見えない思いに、井上は深いため息を付いた。
 井上は芦辺の噂を山程知っていた。しかし、芦辺は井上の名前も仕事も、そしてこれからどんな風に関わって行くのか、すら知らないだろう。
 すべてがばれた時、芦辺との関係はどんなことになるのだろうか
 脳裏に浮かび上がる不安をうち消すように、井上は今までつきあってきた相手以上に芦辺を強く抱きしめながら、欲望の縁を求めていく。
「芦部さん、芦部さん…」
 酒の力を借りているけれど、共に欲望を覚えた躯を重ねていた。
 直接繋がっている部分だけではなく、全身が満たされている、そんな気持ちになっていく。時を置かずして迎える絶頂。
 躯が離れて、少しずつ熱が冷めて行った。同時に井上の頭の中に、現実が襲ってくる。
 夜が明けなければいいのに…。
 井上はため息を深く付くと、散らばっている服を集めてバスルームへ向かった。
 シティホテルといってもビジネスクラスと変わらない、カーテンでトイレと区切られている程度のユニットバス。
 周りを濡らさないようにカーテンを引いてから、蛇口をひねるとぬるま湯で躯の汚れを洗い流していく。
 芦辺との昨夜の思い出や感触までシャワーが洗い流してくれれば、きっともっと楽に新しい日を迎えられるのに…。
 湯を止めると、井上は自分のうじうじした気持ちを振り切るように、顔を思いっきり叩いた。
 元の自分に戻る…。
 大きく息を吐いた後、手早く身支度を整えると、芦辺を起こさないように静かに部屋を出て行った。



  * * *



 その会社は、羽田空港行きの赤い電車の途中にある。

 株式会社SAGE。
 正式名称、Super Ably Game Entertainmentを略したゲームの会社だった。
 扱っているものは、小さいものは家庭用からアミューズメントセンターなどに置かれている大型の業務用のゲーム。
 アミューズメントセンターの運営はさることながらに、カラオケや着メロからネットのサポート業務まで様々な開発、販売、運営から、自社ゲームのキャラクターを使って、版権ビジネスまで。エンタティメント企業として、名前を挙げている。
 一部上場企業でそれなりに業績は安定している。
 ゲームを詳しく知らないものでも、何となく会社名は知っている、社員数千人超の大企業だった。
 もちろんゲームを知っている人間ならば、少しは関わってみたいなどとあこがれを抱ける企業でもあった。
 それは井上寿一にも言える話だった。
 子供の頃からゲーム好きだった井上は、就職するならそれに近い仕事をしたい…、とずっと夢見ていた。
 しかし小さな夢を描きながらただ楽しんでいるだけのゲーム少年は、ある程度の年齢になると、現実とは異なるものなのだと自覚してくる。
 いくらゲームが好きでも、じゃあ現実には何をしたいかなど、まったく浮かばなくなっていた。
 夢と現実を考えさせられた一番のトリガーは、両親の離婚だったけれど。
 憎しみ合う形で両親が家から出て行き、妹と二人で生活、するようになると、自分の中で遊んでいてもいけないのだという自覚が生まれてくる。
 気が付くと遊びと生活を分けるようになって、大学も就職を考えて家から通える都内で多少は名前の通った所の経済学部を選んだ。
 井上が大学に入る頃には、自分はただゲームが好きなだけで、ゲームの製作会社に勤めたいと言う考えもなっていた。
 遊ぶ時間もすることもなく時間を持て余すとアミューズメントセンターに行って、点数を競い合う仲間とつるんでいるだけで満足していた。
 けれど人生とは面白いもので、何かの引き合わせ合ったのかも知れないと感じたのは、大学に来ていた求人票を見た時だった。
 将来を考えて選んだ経済学部で、就職も人生を食いっぱぐれない程度に経理や人事関係で職を探していた。
 真剣に普通のサラリーマンを目指そうと考えていた時の偶然とは恐ろしい物だった。
 景気が回復といっても思っているほど多くない求人票から、井上はあこがれていた企業〝株式会社SAGE〟の求人を見つけてしまった。
 不思議なものでそれからは、あっという間に時間が進んで行く。
 井上が求職した年、SAGEでは長年ワンマンだった社長の退任、同業他社からはビックタイトルが発表された。
 業績の不安定を見越して希望者が少なかったのか、あれよ、あれよという間に就職が決まった。
 大学卒業、SAGEへの就職、経理部に配属…と一気に時間が経っていき、気が付いた時には社員になって、すでに五年が過ぎていた。
 五年と一口に言ってもSAGEでは、大変な流れがあった。
 井上が入社一年目に、ネットワーク機能を搭載した新しい家庭用ゲーム機の販売を開始した。
 希望が描きながら、会社では新規事業がいくつも立ち上がり、落ち込んでいた業績も立て直すように感じれた。
 しかしこれから! と言う時に新規事業への期待とグループ全体を背負っていた会長で、経営を安定のため社長を兼任していた人物が、癌で突然の死去をした。
 追い打ちをかけるように、同業他社や新規参入企業が新型家庭用ゲーム機の発売を開始する。
 企業としての不信感が募り、業績の悪化を理由に一部裁判沙汰を含めた、大リストラ大会を実施。ネットワークの先駆者となっていた、家庭用ゲームのハードウェア機が断念された。
 落ち込んでしまった業績を立て直すために、社内の開発部隊を会社として独立させたのが、ちょうど今年の春の話だった。
 簡単に会社名だけで飛びついた自分をあざけ笑うような、怒濤と言う言葉がふさわしい五年間。
 中でも一番の話題は、決していい事ではなかった。
 百十億円を投資し期待の呼び声が高かったゲームソフトが、予想以上に振るわなかったことだ。
 製作側から考えれば、失敗ではないと思えたソフトだけれど、遊ぶ側から見ると楽しく感じられなかったのだろう。
 初回特典出荷分ですら、大量に余り発売から数ヵ月後には中古販売店で、千円で販売されるようになっていた。
 莫大な開発費と反比例に驚くべき数の在庫数。
 負債額はバブル時ならいざ知らず、不況真っ直中のゲーム業界の話題をさらっていた。
 右往左往と変化する会社の中で、動向がはっきりと判る数字を扱っている井上は、だんだんと子供の頃に描いていた夢を忘れていく。
 ただだらだらとお金を稼ぎながら、時間を重ねていっていた。



  * * *



 朝の京急川崎駅。
 構内には電車到着や発車を知らせる放送が、軽快なリズムで流れている。
 息を上げながらもうダッシュで井上は、通勤や通学でにぎわう人混みを無理矢理進んでいく。
 人にぶつかるのも気づけないまま、慌てて自動改札を通りぬける。
 とにかくホームに向かうとこしか考えられず、スーツのジャケットと鞄を振り回しながら、二段抜かしでがむしゃらに階段を上がった。
 落ちるのではないかと思えるほどに、人で溢れ返っているホーム。
 幸い電車は、まだ到着していなかった。
 一旦足を止めると、心臓が胸を破って出てきそうなほどの息苦しさを整えるように、何度か深呼吸する。
 時刻は、まもなく八時四五分を告げようとしている。
 会社の始業時間まで後、十五分。
 開発ならこんな朝から走ることないのに…。井上は深呼吸と一緒に、深いため息を付いた。
 ゲームのプロジェクトの進行具合にあわせて、二四時間フルに働いている開発がある会社。
 プロジェクトが暇な時は定時。スケジュールが詰まってくると二四時間勤務という体制が労働基準局で問題になった。
 監査が入り労働時間が十時から十五時まであったコアタイムのフレックスが排除され、いつ出勤してもいい、オールフリーの労働時間になっていた。
 同じ会社とは思えない…、そんなぼやきが思わず出る井上は、〝フレックス〟なんて言葉とまったく縁遠い経理部に所属していた。
 経理部を含む管理部門は、どこの会社にもある古い流れを重んじてか、コアタイム以前にフレックス事態ない。
 開発の恩恵を受けているのか、一応会社の規則的には、何時に来ても人事的な遅刻のペナルティが取られはしなかった。おかげでいつも朝ぎりぎりで行動している井上にはありがたかった。
 だからと言って、いつ会社に行ってもいいということでもない。会社では設定されていない代わりに、部内規則で原則九時から五時五十分が定時になる、と定められてしまっていた。
 入社当時から変わることのない出勤時間に、余裕を持って来いと言うものも多いことが、その規則を生かす一番の理由らしかった。
 昔から布団を出る瞬間〝後、五分!〟と考えてしまう井上にとっては拷問。どんな規則で決められようとも朝はどうしてもぎりぎりになっていた。
 今日も、いつもと同じパターン。
 流れ落ちる汗と心臓が苦しいほどの鼓動。
 息を上げながらホームにたどり着くと、運良く乗る予定の快速特急はまだ到着していない。
 十一月半ばだと言うのに、エルニーニョの影響なのか、凍えるくらいに寒い日と、今日みたいにジャケットを脱いでも暑く感じる時と気温差が激しかった。
 温度差の所為なのかは判らなかった。けれどインフルエンザが流行るには少し早い時期から、風邪を引いるものも少なくはなかった。
 ホームを移動している今も、せき込んでいるものやマスク姿のものも何人かいた。
 季節を表す姿を含めても、いつもの平日の駅の風景だった。
 いつもと変わらずに電車の到着を苛立たしく待つ者。無頓着に読書を楽しむ者、ヘッドホンから音を漏らしながら音楽を聴く者。
 ホームには様々ないつもの人間が、何の変化も無くひしめき合っている。
 皆これから何処へ行って、何をするのか冷静に考えるととても不思議な世界に感じられる。
 もっともいつも余裕のない朝では、何かを考える余裕すらないけれど…。
 あこがれのゲーム業界への就職。
 甘い言葉に釣られる様にして、入った会社だった。大規模なゲーム会社と言えば、ゲームが好きな人が聞けば、多少なりとも心がときめきそうな場所に思える。
 しかし井上が勤務するのは、製品名称が出てくることはあっても、直接触れることのない経理部。
 仕事はマンスリー、ウィークリー、ディリーと数字を扱っている決まった仕事に追われている。
 月末、月初や決算期は時間に追われるあわただしい。五年も勤めていれば、変化などまったくなくなっていた。
 毎朝似たように走って会社に行き、似たような仕事をする。
 まったく変化の無い毎日。
 呼吸を整えようと小さく息を吐きながら、井上は流れ落ちる額の汗を腕で拭った。
 それから次の駅、京急蒲田駅で〝羽田線〟に乗り換えやすい位置まで移動していく。
 目線をとなり駅の上り階段に一番近い場所へ移動した瞬間、井上は驚きに足を止めた。
 あ、あれは…。
 通勤客の溢れるホームで、信じられない人物が視線に飛び込んできた。
 気が付いた瞬間、井上の心臓がどきりと高鳴る。
 普段駅で見かけない人物に、井上はびっくりして目を疑った。
 カーキ色のチノパンに、ラフな焦げ茶のストライプが入ったベージュのシャツ。焦げ茶色の皮のジャンバーを着ている男が、トレードマークに近い細い眼鏡をかけて、日経新聞に目を通している。
 雑誌か、社内報で見覚えのある人物。髪型も本で見た通りの、硬質の髪をワックスで整えたショートヘアがラフな服装ととても似合っている。
 身長は井上よりも少し低いくらいのはずだけれど、体育会系のがっしりした骨格が大きく感じられる。
 彼の大きさは体型ではない。器の大きさが彼を誰よりもここにある、存在感を与えていた。
 見間違えじゃない。
 確信出来た瞬間、心臓が口から一気に飛び出してしまうのではないか…、そう思えるほどの高鳴りが感じられた。
 彼の名は、芦辺恵助。
 身長一七八cm、体重七〇kg (?) 、年齢三八歳。ゲーム雑誌〝SAGEマガジン〟の何かの特集の時に、掲載していたパーソナルデータを読んだ覚えがあった。
 ゲームに詳しくない者でも、彼の名を知っている。それほどの伝説的なゲームクリエーターだった。
 入社して十数年間芦辺は、話題になった様々なゲームを家庭用、アミューズメントセンター用と共に発売していた。
 中でもSAGEが代表する3D格闘ゲーム、〝バーチャルバトル〟のプロデューサーとして有名だった。
 去年、百十億の赤字を出したゲームのプロデューサーとしても、世の中の話題をさらっていた。
 SAGEがゲームを扱うようになった頃から、芦辺の才能はずば抜けていたという伝説があった。
 もちろん、すべてが世の中に受け入れられる訳ではないけれど、失敗したもの成功したものすべてにおいて、制作物の評価は信じられないくらいに高かった。
 誰もが芦辺を、〝天才〟と例えるくらいに…。
 いつもは芦辺がアミューズメントセンター用のゲームの題材でも使った、イタリア製のスーパーカーに乗って、会社に通っているはずだった。
 井上も何度か真っ赤な外車で出勤する芦辺を拝めて、興奮したことがあった。
 制作とまったく関係の無い、経理部にいる井上にとっては、まさに雲の上の自分物に出逢えた気分。
 ミーハーな思いも加えて芸能人にでも逢った様な、得した気分になっていた。
 方や経理部のしがない平社員。方や天才クリエーターで、取締役と親会社の株式会社CSI、Computer System Industryのゲーム開発部長。
 どう考えても地上から、天に瞬く星でも見ているようだった。
 学生時代に通ったアミューズメントセンターで、飽きることなくずっとはまっていたゲームの制作者だからこそ、よけい強く思えたのかもしれなかったけれど…。
 井上は高揚する気持ちを抑えようと、大きく息を吸った。
 電車を待つ人の壁ななど目に入らないほどに、芦辺を見つめていた自分を必死に現実に引き戻そうと、ゆっくりと何度も呼吸をする。
 気付くと汗が引き、冷え始めた躯。
 初冬の肺を凍らせる空気に、少しだけむせそうになる。
 芦辺がいるだけで、いつもと同じはずの駅がまったく違う風景を見せてくる。
 溢れそうな通勤、通学客。
 狭いホームから見える風景は、地域を中心に何軒もあるチェーン店のアミューズメントセンター。
 パソコンや電化製品を扱っている、元はカメラを扱っていたディスカウントショップ。
 特急と接続待ちをしているだけでのんびりと見える、各駅停車。
 もう一度落ち着こうと呼吸をすった瞬間、電車のまもなく到着を告げるアナウンスが聞こえてくる。
 アナウンスを引き継ぐように、ホームの駅乗務員が電車の到着を伝わる耳鳴りのように空気を振動させるだけの意味を持たないざわめき。
 周りのすべてが、緩慢な動作で乗車準備に動き出す。
 時間を置かずに、時間を惜しんで急いているように、快速の赤い色が滑り込んでくる。
 ホームの定位置を必死に守るように電車が止まり、ドアが開く。
 一斉に人混みが移動を始める。気を抜くと一人取り残されさそうになる、乗降客でごった返すホーム。
 井上は周りに押されるようにして、電車の中に吸い込まれていく。
 すし詰めの人間を押しつぶすようにドアが閉まり、電車が走り出した。
 せっかちに動く電車の中で、井上は視線を窓の先に向ける。
 社内の熱気で薄曇りの窓の果てに、多摩川の土手…。住宅がひしめき合っている景色が微かに見えてくる。
 時間にして四、五分。
 本を読んだりする時間もなく、京急蒲田駅に到着し電車は停止する。
 ドアが開かれ、植物が胞子を吐き出すように一気に人々溢れ帰る。
 井上は押されるように降り、流されるように階段を乗降すると、自分の意志を感じる前に隣のホームに進んでいく。
 一斉に狭い車内から出てくる人々。
 狭い車内にこれだけ人が乗り込めるのか、といつ見ても驚かされる光景だった。
 井上は慌てて、芦辺の姿を探した。残念ながら芦辺は、どこにも見つからなかった。
 小さくため息を付いてから、京急本線から羽田線の乗り口へ向かう。
 通勤客と羽田空港へ向かう大きな荷物を持った客とで、ホームはいつものようにごった返していた。



  * * *



 芦辺を駅で見かけた朝、井上はいつもの様に遅刻ぎりぎりで、会社のタイムカード機能が入った社員IDカードをスキャンする。
 九時まで後五分。
 保安員以外はいない社員入り口。
 時間という感覚にとらわれず仕事をしている開発の人間は、ほとんど夜型になっている所為か、朝の九時とはまだ早朝とも言える時間だった。
 社員入り口から、細い通路を通ってエレベータホールへ向かう。
 井上の部署である経理部があるのは、本社一号館。
 会社はドラマの撮影などでも使われた、バブルの頃に設計された奇麗な本社一号館と、以前は本社ビルで使われていた二号館。
 離れた所には開発分社用に最近借りた、三号館と昔から建っている別館があった。
 バブルの頃に設計された、見た目は派手で豪華だけれど、雨漏りや壁にヒビが入ったりする瞬間には消える華やかな時代を反映する建物だった。
 井上が今いるエレベータホールにも泡だった頃を表すように、ブロンズの〝考える人〟の像がある。
 想像力のたくましい社内では、像を動かすと何処かにある秘密基地への鍵になると、噂されるほどぱっと見は滑稽なものだった。
 怪しい像の置かれているホールで待っていると、四機あるエレベータの一つが到着する。
 エレベータに乗っても、経理部がある七階までは数分かかる。
 タイムカードを押しているから勤怠管理表は問題がないだろうけれど、年輩の多い管理部門では時間ぎりぎりの出勤する人間には冷たい上司が一杯いる。
 少し焦る気持ちで腕時計を見ると時計の針は残り時間二分を刺している。
 エレベータが到着して、慌てた気持ちで早足に七階を歩く。
 経理がある七階は、管理部門がすべて入っていてもう業務を開始している様子が通路の先から伝わってくる。
 井上は先に先に出勤している社員に小さく挨拶してから、席に着く。
 ここで慌てれば、目立つ。
 手慣れた態度で何分も前から仕事をしていたように、いつも仕事で使っているピンク色の紙のファイルと厚い五cmのバインダーファイルを机の上に出してほっと一息心の中で付いた。
 井上の仕事は中間決算の数字と、過去に各部門が提出している予算が書かれたビジネスプランを、勘定科目別に分けて誤差を対比して報告。などと本当にゲームなんて言葉とは、まったく関係の無い仕事していた。
 もちろんゲーム会社ならではの費用も多く計上される。数字や書類に書かれた文字だけの世界では、やはり実感が沸かなかった。
 今している作業も九月の末に社内の経費を締めた数字と、帳尻を合わせた中期決算書類との対比業務は、十一月に入ってから始められた仕事だった。
 中間決算と言っても、何千からの社員が働く職場は簡単に帳尻など合うものでは無かった。対外的な処理のために、無理矢理帳尻を合わせた部分も多い。
 そう言っても当然、不自然な数字は問題がある。だから出来るだけ真実に近い形に経費を分別するために、決算から一ヵ月は数字の根拠を調べる時間が必要だった。
 そうして分けた数字が三月の本当の決算を迎える時に、不明確にならないようにする、井上の仕事は中でも、面倒で、とても地味な作業だった。
 もっとも最近は数字を見ていると何千ピースで出来たパズルをやっているようで、楽しんで出来るようになっていたけれど…。
 長く感じる仕事時間の開始を躯に告げるように、一度息を吐いてから業務を開始しよう、とした時、入り口辺りから男たちのざわめきが聞こえてくる。
 どうやら早朝会議を終了した部、課長が部署へ戻って来たらしかった。
 何処の会社でもそうなのか、SAGEの特性かは判らなかった。
 やたらと朝八時からや、それでなければ定時が終了した十八時以降に行う会議が多かった。
「朝から大変なことで…」
 眉間に微かに皺を寄せながら井上は小さく呟くと、お歴々と目を合わせないように、書類に集中しようと下を向いた。
 とたん、井上の行動を遮るように、人の影で手元が暗くなる。
 何となく嫌な予感を想像しながら影の先を見上げると、井上の横で課長の上原がにっこりと優しそうな笑顔を浮かべて立っている。
 物腰が柔らかだけれども、部長の雷よりも恐ろしいと恐れられている上原の笑顔。
 勘弁してくれてよ…、先に立つのはそんな思いだった。
 いきなりの上原の登場に、何か失敗でもしたか、やっかいな仕事でも振ってくるんじゃないか…? の二つが頭をよぎる。
 きっと誰もが同じ様な場面に出くわした時に、想像することは一緒だろう。
 緊張から露骨に嫌な表情を浮かべている井上とは反対に、上原は終始にこやかな表情をしている。
 いつものにこにこと笑みを浮かべたまま、会議室に来いとジャスチャーした。
 気づかない振りを決め込み、席を動かずにいる井上に、上原は少しわざとらしい溜息を漏らしてから口を開く。
「井上君、ちょっと」
 小さくそれだけを告げると上原は、部内会議室まで歩き出した。
 井上は無視してしまいたい思いを浮かべながら、ファイルを閉じて後を追い掛けた。


「井上君~、いや~、急に決まったんだけどね」
 上原は、井上が会議スペースの席に着くとゆっくりとそう口を開いた。
 部内の一角をパーテーションで区切っただけの、マックス六人が限界の部屋と呼ぶには、いささか柔な作りのスペース。
 普段は女子が弁当を食べたりする狭い場所にいきなり呼びつけられ、どう考えても良いことではなさそうな予感に井上は眉を寄せた。
「まあ、そんな顔しないでくれよ、悪い話じゃないからさ」
 にこやかで人当たりが良い人間が、必ずしも心優しいとは限らない。
 経理部に配属されて、井上が始めに思い知らされたことだった。
 専門的な知識と社会的な人脈を必要とする経理部には、何人もメインバンクからの出向で来ている上司がいた。
 取締役や顧問もさることながら、経理部長もその中の一人だった。
 小さな数字から生活態度までとても細かい部長よりも、素性はよく知らなかったけれど、いつも笑顔で業務指示をしている上原の方が数倍恐れられていた。
 笑顔の裏に何を考えているのか、判らないくらいに…。
「はぁ…、で、何が決まったんですか?」
 少しだけ機械的な発音で、井上は上原に尋ねた。
「ああ、そうそう。あのさ、さっきの会議で君の移動が決まったから」
「は?」
 あまり唐突な話に、井上は言葉の意味が理解出来ず首を傾げる。
 上原はウンウンと笑みを浮かべながら頷く。
「だからさ、君の」
「私の?」
 井上は首を傾げながら、自分を指差す。
「そ、君の移動が決まったから」
「あの…、私の移動ですか?」
「そうそう。だからさ、悪いけど準備、これからしてね」
「はぁ…」
 本当に唐突過ぎる上原の言葉に、益々井上は表情を渋くし首を傾げた。
 けれど上原は井上とは対照的なとてもいい人としか印象を受けない〝上原スマイル〟を浮かべている。
 唐突な人事異動に対する配慮かも知れなかった。それでも井上には不安以外の感情は、まったく浮かんでこなかった。
「何だかね、今までの井上君の経理での実績を考えてね。今度さ、また、開発で新しい会社を作ることが決まってさ、そこの経理を担当して欲しいだってさ」
 まるで噂話でも伝えるように、他人事の口調で上原は重要な内容をあっさりと告げた。
 色々と言いたい事は浮かんだけれど、頭の中で浮かんだ重要な事項だけを井上は選んで訊ねる。
「新しい開発の会社ですか?」
「ああ、そう。開発が分社するには、ちょっと時期、はずれちゃったけどね。まあ、ほら、うちの会社って…、イレギュラーがレギュラーだから」
 入社して五年間。
 ずっと経理部の世話になってきた井上にとっては、とても重要に思える内容だった。
 鉄面皮の上原はそれとあっさり言った、それも井上が眉を寄せたくなるほどの楽しそうな顔で…。
 上原は見た目は、優しそうで親しみ安い笑顔の裏で、数千人が働く会社の経理をまとめている人物だった。
 一緒に仕事をして初めて上原が、陰で〝鬼課長〟と賞されているのが誰も皆自覚出来る存在だった。実際井上も、恐ろしさを痛いほど経験していた。
「あの…、何処の部署が…、分社をするか…、今訊いてもいいんですか?」
「お、乗る気だね?」
 〝乗る気だね〟って、じゃあ断っても良い話なのか? ペースのまったくつかめない上原に、返事をしなかった。
 変わりに、どちらの意志と取れないように唇を尖らせた。
 〝開発分社…〟その言葉は、井上のとって新たな業務への不安と、そして自分も開発の中に近づけるそんな小さな期待が含まれた言葉だった。
 井上が入社するよりも少し前、それこそ現在のように大きなゲーム会社が、軒をつられていない頃。
 SAGEは株価が高い時で、二千円近くまで上がるほどの華やかな会社だった。
 一番華やかだった時を知る者は口々に、通常二回のボーナス以外に期末手当が出て、給料も残業代も今では想像が出来ないほど出ていたらしい。
 華やかな世界からの落下は、大きな赤字をこの会社にもたらした。
 今年の四月、元は七つの百人以上からの人数を抱えていたゲームの開発部門を、利益部門の分散化を目的として独立させ、赤字の一斉に整理を行った。
 無言で見つめている井上の肩を上原は叩くと、いつも持ち歩いている何処かの企業が年末年始の挨拶の時にくれたB5の手帳を開いた。
「でさぁ、具体的なプロジェクトの中身は、まだ決まってないだけどね。一応さ、映画に限りなく近いゲームを作る会社らしんだよね。正式名称はまだ出来ていない」
「…」
「まあ、最初は、他の分社と違って、十人くらいでやっていく予定かな…。何か質問ある?」
 聞きたいことは山ほどある、そんな気分ではあったが、〝移動〟だけで脳味噌の処理が一杯になってしまい、何も浮かんでこない。
 唯一浮かんできた疑問を井上は、やっとのことで口にする。
「あの…、それって、決定なんですが?」
 返答の代わりの、にっこりとした笑顔。質問のつもりの言葉が、実は穴を自分で掘っているのだとどきどきしながら、上原を見つめる。
 上原はわざとしらばくれる様に、首を傾げる。
「何が?」
「あ、その…、移動って…」
 一回井上の言葉の意味を考えた後、上原は質問の意図を理解したように、わざとらしく手を一回ぽんとたたく。
「あ、そう言うことだね~」
「はぁ…」
「いやかな? もしかして経理部、離れたくないとか?」
「いや…、そう言うことじゃないんですが…。ただ考える余地があるのかな~って思ったものですから…」
 移動は確かにしてみたいと思った。
 けれど少しくらい心の準備する時間が欲しい、と思えたのも事実だった。
 上原は不安そうな表情をしている井上の気持ちを考えていないように、微笑んでいる。
「まあね、井上君の気持ちは判らないでもないけどさ、会社だしねぇ~」
「はあ…」
「一応、君の意志も確認するけどさ…、どう?」
「どうですか?」
「まあ、別に問題はないでしょう? 君なら出来ない仕事じゃないだろうしさ。経理にいるよりも色々な意味で面白そうじゃない?」
「まあ…、そうかもしれませんが…」
「月並みな言い方するけどさ、会社も君の力を買ってるって事だよ。それでも嫌?」
「そう言う事じゃないと思うんですけど…」
「そう? でもまぁ、行ってみてから考えてよ。席の移動は、十二月には移ってもらうから、準備宜しくね~」
「げ、二週間無いじゃないですか? 引継とか、どうするんですか?」
 もう決まっている話。
 なんとなく上原の言葉から、はっきりと伝わってくる言葉だった。
 開発への移動は、嫌ではないのは確かに本音だった。しかし上原も含めて、今まで頼っていた上司がいなくなると言う不安もある。
 言葉も無く井上は、眉を寄せて上原を見つめてた。
 すると上原は今日一番のすっきりした笑顔で井上に向ける。
「大丈夫だよ、場所はこのビルの五階の角、ほら、今、ライセンス部とかあるとこ?」
「はぁ…」
「いつでもこっちの仕事と一緒に出来るからさ。まぁ、こっちの席も、当分は今のままにしとくしさ…」
 それは経理の仕事と一緒にその会社の数字も見ろと…。
 決めたのは上原だけでは無いのだろうけれど、笑顔で人間の不可能に挑戦しろと思える仕事をさらりと言っている、上原の鬼畜さを痛感した。
 井上の無言を承諾と認識した上原は、どこか軽く見える足取りで席を立つ。
 それから手にしていた手帳を閉じると、思い出したように顔を上げる。
「あっ、それと、これは重要だ。言い忘れたけど、社長は〝芦辺さん〟だから、かなり大変だと思うけど…頑張ってね…」
「!!」
 芦辺…。
 驚きに井上は言葉を発することも、出来なかった。
 偶然が呼ぶものに対しての、期待を含んだ驚きだった。


『正式な発表は十二月一日だけど、いいよね』
 上原の言葉に、朝、駅で芦辺を見かけたときに興奮を思い出しながら、気が付いたら『はい』と返答をしていた。
 席に戻って井上は何も聞かなかったかのように、素知らぬ振りをしながらいつも行う仕事を開く。
 井上の頭の中では、これから何が起こるか判らない不安と、そしてあこがれの開発に足を踏み入れるという思いが交互に浮かんでくる。
 同じ社内でもどんな風に仕事がなされているか、詳しくは知らない芦辺の下での仕事。
 開発への移動という言葉も魅力。
 あこがれていた部署への移動以上に、芦辺と仕事がしてみたい…。
 朝の出逢いが偶然では無かったと言う強い思いが、井上の心を浮き立たせていた。
 上原が言葉に含みを残していても…。
 嫌そうなそぶりをしながら、井上は移動を納得した。
 途端に上原も本心から微笑んでいるような笑顔を向けてくる。
『いや~よかった。まあさ、芦辺さんって色々とクセのある人だからさ、ここよりも大変かも知れないけど、君の今までのここでの経験を生かせると思うってたんだよね~』
 人の事だと思って…、と思わず眉を寄せたくなる口振りの上原。
 上原に今更言われなくても芦辺の悪評は、崇拝している井上も知っていた。
 直接話をしたこともなければ、関わったことはないから本当なのかは判らない。
 誰もが芦辺を語る時の言葉は決まっている。
 わがままで勝手。
 自分の気に入らないことはいっさい許さずに、湯水の様に経費を使う。
 芦辺のやり方について行けず、辞めた社員も少なくないと言う。
 SAGEのゲームを代表する人物だから、自分の地位にあぐらをかいている。
 確かに仕事としてはすごいかもしれないけれど、人間としては欠陥品だ。そんな風に言う人間もいた。
 関わったゲームへの評価とは反対に、芦辺を知っている人間の口からは、悪口以外出ることは無かった。
 悪い噂を山ほど聞いていたけれども、新しい所への期待の方が増してくる。
 井上の移動が決まった経緯を、上原は何も言っていなかった。
 上原らしいやり方だとは判っていても、不安は拭えない。
 何となく感じられるのは、今回のあわただしい会社設立に伴う移動も、発端は芦辺ではないかと思えた。
 十二月一日と言ったら、後十日もなかった。
 会議室から席に戻ってからまもなく、上原は井上の後任予定者へ声をかける。
 すぐに業務の引継が始まっていく。
 不況で行われた人員削減。
 今でもぎりぎりの人数でやっている経理部では、仕事を引き継ぐだけで日は少なかった。
 普段行う作業と引継の時間を考えてスケジュールを立てないと、あっと言う間に時間は過ぎていく。
 次の担当者へ挨拶を終えると、すぐに引継の作業を開始することになった。



  * * *



 決められたデイリーワークと引継に必要な書類のまとめをし、最終的に会社を出たのは十一時を回ってしまった。
 決算期や毎月締められた数字をまとめる業務のある一時期を除くと、ほとんどを定時の十七時五十分に退社する井上にとって、びっくりするほど遅い時間になっていた。
 疲れと空腹を感じながら会社の最寄りの駅にたどり着くと、ラフな服装をしているどう見てもSAGEの社員でごった返している。
 ジーンズ姿の会社員とはあまり思えない服装の人々が溢れている光景は、時間に自由がきく開発社員がいる会社ならではだと気付かせてくれるものだった。
 十日後には開発業務ではないけれど、井上も自由な服装で今くらいの時間に立っているかも知れない。
 あこがれの芦辺の下だと思えば、気分は自ずと盛り上がってくる。
 疲れが出ていた井上の表情も、少しだけ緩んできた。
 今日家に帰ってまだ妹の結希が起きていたら、どうやって説明をしようか…。
 これからは毎晩と言うことはないだろうけれど、帰りが遅くなる。家で待っているたった一人の家族、彼女は今回の移動をどう思ってくれるだろうか。
 井上が大学三年の時に、何年もの間子供の前で罵り合っていた両親が、井上と妹を置き去りにし、今でも慰謝料でもめるほど醜い形で離婚した。
 当時はまだ小学生六年生だった妹は、自分の目の前で喧嘩を繰り返している両親を今でも毛嫌いしている。
 今でも養う義務があると思っているのか、自分のしたことへの償いなのか、それとも言い訳なのかは知らないけれど、両親から毎月決められた額の仕送りが来ていた。
 井上に負担をかけまいと思ってくれているのか、未成年でバイトをしてもたかが知れている妹は、不本意ながら仕送りを受け取っていた。
 憎しみすら感じている両親から送られたお金でする生活は、本意ではないらしい。彼女はいつか金が貯めて、自分の思いと共に、たたき返したいそう考えているらしかった。
 井上自身は、両親が今どんな風に暮らしていようがどうでもいいと思っていた。
 子供の心に傷を思いきり付けて、お金さえ払えばいいと考えているらしい両親を好きには当然なれない。だからかもしてないが、いつか井上自身が結婚する時は、相手の女性も、自分たちがもうけるであろう子供も、妹の結希も幸せになれるようなものにしたかった。
 昼間、結希へ遅くなると告げたメールを見つめながら、今回の移動をきっと喜んでくれる。
 舞い上がっている思いをたしなめるように自分に言い聞かせて、帰宅を急いでいると今朝、芦辺を見かけた駅近くのレストランで、当事者が目に飛び込んでくる。
 あ、芦辺さん…。
 何かの糸に操られているそんな、不思議さを感じる偶然のようだった。
 芦辺を遠目に見つめながら井上は、ここから家までもう一本乗り替えても帰宅は十二時を過ぎてしまう。
 ま、食べて行ってもいっか…。
 少しだけ近づきたい、そんな思いを自分に言い訳をすると芦辺のいるレストランに足を向けた。
 お店はどこにでもある、深夜もやっている喫茶店。
 カウベルのついたドアを押し、店に入ると店員の案内で席に着いた。
 偶然とは重なるらしく、驚いたことに芦辺が座っているボックス席の正面の席に通される。
 目が合うのでは無いかとどきどきするほどの真っ正面の席に…。
 正面をこっそり見ると芦辺は、小声で女性と込み入った話をしているようだった。
 女性は少し痩せて見える体型に、いささか派手な服装。
 見た目の年齢から奥さんだろうとうかがえた。
 少しだけこそこそ隠れるように井上は、店員にナポリタンとアイスウーロン茶を頼んだ。それから、芦辺と向かい合う形で席に着き、鞄からさっきまで作っていた引継書類を取り出した。


「いい加減にして!!」
 女の叫び声と激しくテーブルを叩く音。
 驚き音がした方向を眺めると、芦辺の正面が腹を立てているとはっきり判る形相で立ち上がっていた。
 小さな店の遅い時間。
 客は芦辺と連れ、井上。カウンターに二人の若者が座っているだけだった。
 芦辺の連れの女性は、後から入って来た井上に気付く気配はなかいらしいが、自分の発した声に驚いたのか、少しだけ動きを止めた後、ゆっくりと席に着く。
 いったい何が起きているのだろう…。
 井上は物見遊山に見つめてしまう自分をとがめながら、それでも気になる思いに負けて二人に気付かれないように、こっそりと正面の芦辺の席を見つめた。
 芦辺の背中越しで表情まではうかがえない。井上が店に入った時には、確か芦辺の正面に座っていた女性と小さな声でぼそぼそと何か話をしているようだった。
 店に入ってからまだ、数分。店のウェーターはまだメニューを置いたまま、井上のオーダーを取りにきていなかいくらいの時間しか経っていない。
 何をもめているのだろうか?
 下世話な態度だけれども、芦辺が関係していると思えば余計、成り行きが気になる。
 芦辺はただ眉間に深く皺を寄せながら、立ち上がった女性を見ていただけだった。
 女性が席に座って二人はしばらく続く無言のまま、お互いと目線を合わせないようにしていた。
 最後には女性の方が我慢出来なくなったらしく、もう一度ゆっくりと落ち着いている様子で立ち上がった。
「あなたの気持ちは判ったわ。あなたがそんなに仕事が大切ならば、もう付いていけない。子供たちの面倒は私が見るから気にしないで。これ、返すわ…」
 大きくため息を付くと女性は、自分の薬指から抜き取る。
 どんな指輪だかは井上からは、見えない。彼女の言葉から置き去りにされた物が、結婚指輪だと想像出来た。
 女性は指輪を置いた後、鞄から紙を机の上に置くと立ち去って行く。
 いいのか! おい! と井上が緊張しながら事の成り行きを見守っていた瞬間、芦辺が立ち上がる。
 芦辺は女性よりも冷静な態度で近づき、小さな声で窘めながら腕を掴んだ。
 一般的に言う修羅場だとはっきり判る雰囲気。
 二人に気付き、いささか野暮だと感じる店員が慌てて飛んで来る。
 非常識な女性ではないらしく、声を下げて店員に小さく詫びた後少し話し立ち去ってもらった。
 店員がいなくなった後、きっぱりと井上にも届く声で芦辺に告げる。
「もう嫌なのよ、あなたの仕事に振り回されるの」
「どういうこと?」
 芦辺は女性の気持ちが理解出来なく、だたの亭主関白を気取っているように眉を寄せた。
「離婚届は後で会社にでも郵便で送るわ。それならきちんと受け取れるでしょう? 役所に持っていってなんて言わないわ。返信用の封筒を入れるから送り戻して頂戴」
 きっぱりと言いきってから芦辺の腕を邪魔なものを退けると、店の伝票を持ち早足に立ち去って行く。
 一人取り残された芦辺は、遠巻きに視線を向けている店員に小さく謝罪してから何かを注文すると、先ほど女性が座っていた側の椅子に深く腰掛けた。
 芦辺は先に頼んでいた気の抜けたビールを一口、口にして渋い顔をする。
 何か、まずいものを見てしまった気がする。
 芦辺の下で仕事をするのだと考えると、上原から所属変更の辞令を聞いて浮かれて店に入ったことを後悔していた。
 戸惑いながら視線は芦辺をはずせない井上。
 当然のように芦辺は、井上の視線に気付いた。
 芦辺は罰が悪そうに苦笑すると、井上も応えるように右手でいえいえと振って合図する。
 さりげなさ必死に装おうとしている井上だった。
 芦辺はこれから同じ会社で働くのだと言う事も知らないどころか、同じ会社の人間だとも気が付いている様子もなく机の上にまだ残っているビールを手にすると井上の席まで来る。
「あ、一人?」
「ええ、まぁ…」
 戸惑いながら応える井上に、芦辺はクスリと笑う。
「いやさ…、騒がせてすまなかったね」
「あ、いえ…、そんな…」
 初めて近くで聞いた芦辺の声は、ゲーム業界のトップに君臨しているクリエーターのイメージとは少しだけ違っていた。
 落ち着いていて、聞き心地のいい柔らかい声だった。
 初めて話した生芦辺への熱い思いとは裏腹に、十数日後にばれてしまう真実。出来るものなら関わってはいけないのだと思えた。
 今の井上の心は、駅で逢った時のように姿を見るだけで心弾むことも出来ない。
 通りすがりのサラリーマンを装う様に芦辺を知らない振りをする。
 同じ会社の社員だとばれないように、これから部下になる人間だと知られないように。
 口から心臓が飛び出しそうになる思いから、会話は出来るだけしたくなかった。
 言葉を一生懸命探しながら途方に暮れている井上を助けるように、店員が頼んでいたナポリタンとウーロン茶を運んでくる。
 助かった。
 感謝をしようと思った瞬間、井上の目に店員のトレーの上に乗った芦辺の飲み物が目に入る。
 恨めしい思いで店員を見つめる、井上。
 店員もまたいきなり席を変えている芦辺のグラスをどこに置こうかと、戸惑っていた。
「あ、ここ、ここに置いて」
 芦辺は少しだけ笑みを浮かべて、さながら酔っぱらいの様な態度で手を降った。
 途方に暮れて視線を向けてくる店員に、井上は小さくため息を付くと自分の座っている席のテーブルに自分のオーダーしたものと一緒に置かせる。
 一番の問題をもたらした当事者の芦辺は、何も知らないように笑みを浮かべて今店員が置いたばかりのウィスキーが入った机の上のグラスを指さす。
「すまないが、同じもの、もう一つ」
 食事を店員がテーブルに並べている途中に、芦辺はいきなり追加の飲み物のオーダーをした。
 まだ飲み終わってないうちから、次を芦辺は頼んだ。
 あまりにスピードオーダーに驚きながら、店員と井上は不思議そうな顔をする。
 二人の驚く顔がおかしかったのか、芦辺はけらけら声を立てて笑う。
 ひとしきり笑い飛ばした後、芦辺はあたかも当然の事をしているかの様ににっこりと微笑む。
「あっこれ、君の分のね…」
「ちょ、ちょっと困ります」
 芦辺の意図がまったくうかがえない井上は、戸惑いながら断った。当事者の芦辺は、今到着したグラスで口を湿らせながら笑みを浮かべる。
「奢りだからさ。まっ、せっかく同じ店に来ているわけだし、一緒に飲んでくれよ」
 夕飯を外で食べると想定していなかった財布は、かなり寂しいものなのは事実だった。だとしても芦辺に奢ってもらうのは、様々な事情が頭に浮かぶ井上にははばかられることだ。
「こ、困ります! まじに困りるんですよ。俺、酒、弱いんですよ…」
 とっさに浮かんだ言い訳だけれど、出来るだけ本当の事で断りの言葉を選んだ。芦辺は首を傾げて、井上を見つめる。
「そうなの?」
 信じていないとはっきり判る芦辺の態度に、井上は何度も理解してもらうように頷いた。
「ええ。あの…、お気持ちは嬉しいんですけど…、俺、ウィスキーみたいに強いのは、ちょっと…。赤くなるよりも先に青くなっちゃうんですよ…」
「マジに?」
 多少は飲めるけれど、本当に近い話だった。
 飲み会だったら乾杯のビールか薄いカクテル、一、二杯が限界。気持ちよく酔うと言うよりも、後で気分が悪くなる。いつも半分くらいで飲むのを止めて、ソフトドリンクに切り替えれば、最悪な気分になるのは免れるようにしていた。
 必死に断る井上。
 芦辺の方は自分の気持ちがすまないらしく、強引に何か頼ませようとドリンクのメニューを井上へ差し出す。
「そうなのかい? じゃあ、なんでもいいからさ、一緒に飲まない?」
「でも…。あ、俺、ウーロン茶ありますから…。気にしないで下さいよ」
 不快に思われないように必死に笑顔を作り、遠慮しようとする井上。
 芦辺はどうしても納得出来ないらしく、一歩も引こうとはしてくれない。
「なあ、そんなことを言わないでさ…。一杯くらい、一杯で良いからつきあってくれよ。ほら袖すり合うも多少の縁って言うだろう?」
「はあ…」
 もうすでに酔っぱらっているのか、芦辺は駄々をこねる子供のように、譲る気がないらしい。
「でも…」
 途方に暮れるが、井上が選ぶのをニコニコしながら待っている店員の視線に気付いた。
 どうやっても諦めてくれない芦辺に、井上も店員に申し訳なく思い小さくため息を付く。
「じゃあ…、カンパリオレンジを、すごく薄く…」
 出来るだけ飲めそうな飲み物を井上は選択し、オーダーした。
 芦辺はにこにこ嬉しそうに、井上がしたオーダーを店員に繰り返す。
「じゃ、彼にカンパリオレンジ、薄目でお願い」
 強引な態度の芦辺に店員は、井上に同情の視線を向けながら、オーダーを受けて去って行った。
 店員がいなくなると芦辺の表情は、先ほどまでのニコニコとした笑顔で饒舌そうに見えた言葉を封じる。
 どこを見つめているのか判らないが、窓の外に目線を動かした。
 うなだれながら、だらしなく腰掛けて呆然としている芦辺。
 窓の外は酔ったサラリーマンや足早に帰途に付くものたちが通り過ぎて行く。
 終電間際の駅の光景が見える。
 先ほどの修羅場とも思えるシーンを目撃した所為もあるのだろうか。
 窓硝子に写る芦辺の姿がかわいそうだった。うなだれて、物悲しそうに見える姿。
 もしかしたら強引に井上を酒につきあわせたのは、一人でいたくないからなのだろうか…。
 勝手な想像かもしれないけれど、確かに先ほど奥さんから離婚届を送ると言っていた。
 あんな風な別れは、きっと誰だってきついに違いなかった。
 ナポリタンに手を着けずに、無言で外を眺めている芦辺を見つめる。
 窓硝子に移った自分の見つめる井上の視線に気付くと、芦辺はまた表情を笑顔に戻る。口だけ微笑んでいる、どこかもの悲しさが感じられる笑顔に…。
「冷めないうちにそれ、食べたら?」
 芦辺の言葉に来ていたナポリタンに気付く井上。
 にっこりとした後、芦辺は悪戯っ子の様に井上の顔に顔を近づけた。店員に聞こえないように声をひそめると『きっとこういう店だから、冷めたらまずいんじゃないのかな?』とおどけた言い方をする。
 それから自分の言ったことにうけるように、一人でクスクス笑いながら濃い目のウィスキーを一気に煽った。
 どう見ても自棄に見える飲み方だった。
 躯に悪そうな飲み方をしている芦辺に、井上は思わず眉を寄せた。
 そう思いながらも、自分ではどうすることも出来ない井上。
 芦辺の事を気にしながら、ケチャップの味もしないナポリタンをほおばった。
 井上に用があったわけでは無い芦辺はグラスを空にすると、また窓の先に視線を移した。
 間が持たないが、井上もただ黙々と食べるしかなかった。
 逃げ出したいほどの重たい空気だった。井上は芦辺に見えないように、嘆息する。
「すまない…。君に…、あっ…」
 何か話そうと芦辺が口を開いた時に、井上のカンパリオレンジが到着する。
 芦辺は店員にぶっきらぼうに、お代わりと告げた。
 関わりを持たないように、店員は〝はい〟と同意してから空いたグラスを持って、立ち去った。店員が立ち去るのを確認してから、芦辺はポケットからシンプルな銀の指輪を取り出した。
「さっきさ…、これ突っ返されちゃった…」
 芦辺の目線の先には、先ほどの女性から返された、銀色のシンプルなデザインの指輪があった。
 クスクスクス、と笑った後芦辺は指輪をテーブルの上で転がした。
 銀の指輪は、テーブルにはねて奇麗な円筒を描きながらゆっくりと止まる。
 遠い思い出でも見つめるように、芦辺は指輪を指で転がしながらクスリと笑う。
「こう言うのってさ、昔、流行った曲じゃないけど、返さずに捨てるのがマナーじゃないのかな?」
 指輪を自分の指で転がして遊びながら、寂しそうに芦辺は微笑んだ。
 腹を立てていると言うよりは、まるで独り言を呟いているような姿だった。
「あの…、それって、ルビーの指輪じゃないんですか?」
「え?」
 自分で振っておきながら、井上の応えの意味がすぐに理解出来ずに、芦辺は一瞬驚いた顔をした。
 井上はなるべく感情を入れずに、ぶっきらぼうな言い方のまま、自分の言葉に補足する。
「曲…」
「?」
「俺に返すつもりなら捨てるの、ってルビーの指輪ですよ。結婚指輪じゃないですよ、多分…」
 言っている曲の歌詞を少しだけもじって、説明するとやっと意味が通じたらしく、少しだけ緊張していた芦辺の表情が解けてくる。
「え? ああ、そうだったね…。そんな歌詞だ…」
 びっくりした顔の後に、何度か芦辺は頷き微笑む。
「君は若いのに、そんな曲、知ってるの?」
「えっ…、まあ…、それはたしなみってことで…」
 まともに聞いたことがあるか、と尋ねられると少し自信が無かったけれど、子供の頃に何処で曲がかかっていた覚えがあった。
 それくらい人気がある曲だった記憶はある。
 芦辺に感心していると言う顔で見つめられ、照れを隠すように井上は視線を少しだけ背けた。
 店には、優しく包んでくれるようなスローテンポな街でよくかかっているジャズが流れている。
 原曲は海外のポップスで、BGMとして落ち着けるようにアレンジしてあるものだった。
 芦辺と言う存在に緊張していたのか、微かに聞こえてくる心を和ませてくれるBGMに井上は表情を柔らかくした。
 一回緊張がほぐれると、自然に言葉が出てくる。
 政治や車など新聞やニュースで話題になっている、それこそ日常会話をまるで昔から友人だった様に話をしていく。
 他愛もない会話を芦辺としていること自体が、昨日までの井上には信じられないことだった。
 今まで神様的な存在だった人物。
 こうやって向き合って話をしていると、信じられないほどに近い存在に感じられた。
 年齢も四十に近いはずの芦辺が、今は少し年上の三十代…、それどころかもっと若く見えた。
 楽しい談笑をしながら、芦辺は呟くように井上に尋ねる。
「君の…」
「はい?」
「名前…。いや…」
 次の言葉を待って井上が首を傾げると、芦辺は言葉を飲み込んだ。
 芦辺はどうやら、井上の名前を尋ねようとしたらしい。ただ恥ずかしい部分を見られたという思いがあるのか、芦辺は唾と一緒に、言葉を飲み込んで首を横に振った。
 こんな状況に巻き込んで、これ以上深く関わりたくないと思ったのだろうか。
 名前を尋ねられても応えられない井上にとっては、有り難かった。
 見ず知らずの相手同士の会話。自分から言葉をかけると、ボロがでそうで井上は、次の言葉を待っていた。
 芦辺はゆっくりと、鼻から息をフーッと吐く。
「こんな時間まで仕事?」
「あっ…。ええ、ちょっと終わらなくて…」
「そうか…、君は働き者なんだね…」
「そんなことないですよ…」
 開発にいる芦辺には、十一時など、まだ夕方くらいの時間だろう。
 ユーザーがゲームを楽しむようにして、芦辺は開発を楽しんでいるのだと誰からか聞いたことがあった。
 恥ずかしそうに言葉を止めた井上を見つめながら、芦辺はまるで呟くように口を開く。
「でもさ…、働き過ぎはよくないよ…」
 儚げに笑う芦辺には、先ほど奥さんが言っていた、自分よりも仕事を選でいるそんな態度が引っかかっているのだろうか。
 井上は何も知らないように、首を傾げる。
「そうなんですか?」
 同じ会社で、あなたの噂話はよく聞きます。
 種明かししてしまえば、二人の会話がすべてわざとらしくなってしまうかもしれない。
 落ち込んで見える芦辺に、井上がもしすべて真実を話したら、どうなってしまうのだろうか。
 会話の中味がお互いの生活に近くならばなるほど、不安が胸に募ってくる。
 芦辺のことを知っている、罪悪感。後ろめたさを感じ尋ねていた。
 思い出を語るように芦辺は、ゆっくりと頷く。
「ああ、がむしゃらに働いている時は、楽しいけどね…。でも、家族は大変だから、多分…」
「多分なんですか?」
「そう…、多分だね…」
 芦辺は笑みを浮かべながら、呟いた。
 〝多分…〟という言葉が、井上にはとても重く感じられた。
 井上の想像でしかなかったけれど、芦辺はゲームのヒットさせ、作りたいと願う物はすべて実現出来るほどの多額の制作費を手に入れた。
 描いた夢を、確実に現実にしていった。
 きっと楽しくて、楽しくてしょうがなくなるほど、家庭も何もかも忘れて仕事に没頭してしまったに違いない。
 反対に仕事を優先する芦辺を奥さんは着いていけなくなり、先ほどの話になったのだろう。
 普通の会社なら、仕事と趣味を割り切れることはある。
 普通の企業じゃないから、趣味と仕事が同じだからこそ。きっと奥さんが腹立てている理由が、今でも理解するとこが出来ないのではないかと思えた。
「そうだな…、きっと私には判らなかったけどね、そんな苦労…」
「…」
「仕事を優先にして、待っている人間がどう思っているかなんてね」
 芦辺は、呟くように井上の言葉に相槌した時、やっと来たお酒の入っているグラスをまた仰いだ。
「あの…、離婚…、するんですか?」
「え?」
 芦辺は一瞬何を言われたのか判らないように、びっくりした顔をする。
「あ、立ち入ったこと聞いてすみません…。でも、聞こえてしまって…」
 まずいかなと思いながらも、会話のきっかけの見つからない井上は、さっき見た光景を持ち出すしかなかった。
 井上のぶしつけな質問。
 けれど芦辺は嫌な顔をせずに、寂しそうに笑みを浮かべる。
「ああ、そうだね…。あれだけ大きな声で話していれば、判っちゃうよね…。すまない…」
「そんな…、俺こそ失礼なこと言って、すみません…」
 話のきっかけとはいえ、あまりにぶしつけな質問だと素直に反省した井上は頭を下げた。
 芦辺は恐縮している井上を気にしたそぶりも見せずに、笑っていた。
「いや…、君が謝ることじゃないよ」
 自分の気持ちに収集が付かずに、どこか遠くにいるような言い方で呟いた。
 芦辺は空になったグラスを弄びながら、もう一杯ウィスキーを店員に頼むと窓の外へ視線を向ける。
「十年近く一緒にいて、子供も一人いるんだよ。女の子」
「…」
「子どもがね、去年小学校に上がって、妻も私ももう手が掛からなくなったんだよね…」
「…」
「でもさ…、俺、全然覚えてないんだよね。結婚記念日とか、子供誕生日とか授業参観とか。結局だめな父親なんだよな、きっと」
「そんな…」
「きっとそうだよ。だからいなくてもいい存在になっていたんだ…。家族がどんな思いでいたのかも気が付かなかったし、今もあんな風に言われても妻が何を言いたかったか判っていないんだよね…」
 最後の言葉は、小さくて呟くように口調が変わっていった。
 店員が持って来たウィスキーを受け取ると、口を一回付けてから、苦そうに外すと脱力するようにテーブルに置いた。
 別れる男女は別にいい。
 自分が経験した家族の事を考えると、子供の事だけは少しだけ嫌みでも言ってやりたかった。そんな風に二人が話している時に感じていたのは、自分が両親の離婚で酷い目に合っている所為だろうか。
 少しだけ芦辺をののしりたかったのは、事実だった。けれど芦辺のこんな疲れた姿を見てしまった所為か、何も言えなくなっていた。
 反対に芦辺がとても可哀想で見捨てられないほど辛そうな姿に見えた。
 芦辺の辛そうな姿を見ていて、少しだけ家を出て行った両親は、何を考えていたのか井上は知りたくなった。
 今の芦辺にどんな言葉をかけていいのかが浮かばずに、ただ彼の側にいるとこを井上は選択した。
 途中でトイレに立ちがてら結希に、メールを入れる。飲んでいるので終電を過ぎるから先に寝ておくようにと。
 今晩は芦辺にとことんつきあおうと、井上は覚悟を決めた。



  * * *



 終電がまもなく終わると言うのに、クリスマス準備に点けられた照明だけがキラキラと街を照らしている。
 もの悲しさを感じる時刻だった。
 井上は千鳥足でうとうとしながら歩く芦辺の躯を支え、ショッピングデパートに据え付けられたデジタル時計を見上げた。
 00:50。
 とことんつきあうと決めてはいたけれど、今動いている電車では家には帰り付けないのだ。酔っぱらった相手に愚痴を言うわけにもいかず、浮かんでくる後悔に井上は寂しさがあった。
 酔った芦辺を送ろうと住所を訊ねると、以外にもレストランの近くにあるシティホテルに泊まっていると告げられる。
 今晩は悪いけどホテルで休ませて貰おう…。
 明日朝、芦辺が目覚める前に部屋を出れば、何とかなるだろう。
 しょぼしょぼしだした目を瞬かせながら、井上は欠伸をした。
 結希にメールを打った後、芦辺は酒の勢いを借りて楽しそうに誰かに笑いかけるでも無く、けらけら声を立てながら話していた。
 何度も同じ様な話を聞き、聞いていないと文句を言う芦辺に相槌を打つ。
『女房の事? 愛していたんだろうな…。娘も大好きだったよ、きっと』
『じゃあ何でその、離婚なんて…』
『うーん、それは解んないよ、そんなことでも実際さ不仲だと気付くと、家に帰っても辛いんだよね。二人の視線ってゆーの?』
『そんな…』
『判るんだよね、不思議と。被害妄想じゃなくて、普通のおじさんみたいに毛嫌いされているとかじゃなくて…』
『…』
『だからさー、出て来ちゃったんだよね。で、ずっと、ホテルで暮らしてるんだ…。会社に泊まろうとも思ったんだけど…、ちょっと会社にもいたくなくてね…』
『寂しくないんですか?』
『寂しいよー。家も仕事も一気に無くなったーって気分かな。そうだ、君がずっとさ一緒にいてよ。で、俺を慰めてよ』
『それは、キャバクラで女の子誘う時の台詞ですよ…。じゃなきゃセクハラで訴えられますよ…』
『あっ、そうか…。そうだね…』
 眉を寄せながら自分よりも年上の芦辺をたしなめる井上。芦辺は恥ずかしそうに笑っていたが、どこかもの悲しさが見えていた。
 同情かも知れないけれど、居場所を失った男の姿に、井上は思い入れが強くなっていた。
 次から次にお代わりを頼みそうな勢いで飲んでいた酒。
 実際にはアルコールに弱いらしく、芦辺は三杯目のウィスキーが来ると、そこからは舐めるように少しずつ減らしていった。
 飲むテンポが遅くなると、顔を真っ赤にした芦辺は十年近く寄り添っているつもりだった、奥さんとのことや今まで成功した仕事、満を持して発表したソフトと失敗。
 これから作っていきたいリアルをとことん追求したタイトルへの思い。と様々なことを本当や嘘を混在させて話していた。
 聞いていた井上も途中で何の話しをしているのか、見失うくらいに色んなものをごちゃ混ぜにして。
 井上は芦辺の話を邪魔にならないくらいに相槌を打ちながら聞きいていた。
 自分がプロデュースしたゲームがヒットし、気が付くと名声と大金を手に入れていたこと。
 誰もが簡単には手に入れられない、夢だの浪漫だのへの切符を手にした男が、がむしゃらに走って築けなかった家庭。
 すべての現実が襲いかかった時に悲しさを痛感し、逃げ場もなく、愚痴を言う相手もなく、飲めない酒を少しずつ飲みながら落ちていく姿が井上の心を惹きつけてくる。
 芦辺のすべてを、井上は見つめていたいと思えた。
 何杯もウィスキーを頼んでいた芦辺は、思ったよりも酒に弱かった。
 だんだん口が少なくなったと思うと、眠くなっていたのか目をうつろにし始める。
 まだ半分以上残ったグラスの中、氷で薄くなった琥珀色の液体は、もったいないと思い井上はいただいた。
 ほとんどウィスキーの味のしない水割り。
 酔っぱらって歩けなくなっている芦辺を見ると、つくづくつきあって飲まなくて正解だと思えた。
 気分良さそうにふわふわと歩いていのか、引きずられているのか判らない足取りで、芦辺が泊まっているホテルへ向かう。
 芦辺は浮かれ気分で井上にホテルと部屋番号を告げると、居眠りを始める。
 店からホテルまでは、それほど離れていない。
 井上が毎日通勤で使っているJRと京浜急行までの距離に、少しだけ足したような道のりだった。
 初冬の夜空は、雲が覆い尽くしている訳でもないけれど、キラキラと輝いている灯りに負けて空に見える星の数は限られている。
 それでも空を仰ぐと、今年初めて見るオリオン座が姿を現していた。
 千鳥足の芦辺とホテルに向かい、まるで昔からの友人の様に肩を組んで部屋の前までたどり着く。
 催促するように鍵を尋ね、ポケットから定期券でも出すように、カードキーをポケットの中に入ったものすべてと一緒に渡される。
 ハンカチ、ペン、メモ紙、さっき返された指輪。
 井上に重くのし掛かる芦辺を支えながら、後で戻せばいい…。複雑な気持ちで渡されたものをやむを得ず一旦自分のポケットにしまった。
 芦辺をおぶるようにして、ルームキーでドアを開けて中に入る。
 部屋は有名な航空会社の経営するホテルだけあって、ビジネスよりも少し大きめなシングルルームだった。
 開け放されたカーテンの先。
 窓から外は、終電が終わったのかホームの電気が順番に消されていく。
 灯りの点けられていない部屋は、駅と同じように眠っているように感じられた。
 芦辺を背負ったまま井上はカードキーをドア近くの差し込み口に入れる。
 照明のスイッチが入り、部屋のスタンドが灯る。
 明るくなった部屋で、それから芦辺をどこに下ろそうか考えながら、井上は部屋を眺めると、最初に目に飛び込んできたのは、応接セット。
 ゴミと見間違えそうになるほど、散らかされ、何が書かれているかまったく判らない書類たち。
 さすがに下着は無かったけれど、何着もの服が投げ捨てられていた。
 散らかりようから、芦辺がここに連泊していることがうかがえる。
 こうやって改めて見ると、ホテルの部屋は人が生活する空間では無く、やはり短期で宿泊をテーマに滞在する場所なのだ。
 孤独感を思わせほど、人が住むには冷たすぎる空間だった。
 家にいづらいから出てきた、と笑っていた芦辺。
 自分の言った言葉を補足するように、悲しそうに〝妻と子供の生活を守るために必要だからね。あの家は家族が住む物だ…〟と、笑っていた。
 上手く人には伝わらない思いが、芦辺の優しさなのだろう。井上は見ては行けない芦辺のプライベートな部分を見てしまったような気がした。
 自分はここまで来るべきではなかったと、時間が増せば増すほど罪悪感にさいなまれる。
 独りぼっちの冷え切った部屋。
 酔っぱらって眠っている芦辺を両手で支えて、先ほど渡されたポケットの中身を机の上に置くと、少しだけ離れるのが寂しくなってくる。
 芦辺に同情をしたのは、自分だった。
 酒を飲み寝ている芦辺とは反対に、井上は頭がどんどん冴えてくる。
 これからどうしよう…。
 終電には、もう間に合わない時刻。
 もし乗れたとしても、住んでいる駅まではたどり着けず、家まで三十分近くの距離を歩くか、それでなければ割り増し料金でタクシーになる。
 明日の事を考えると、芦辺には申し訳ないが、ソファーでも借りて仮眠を取ろうと思っていた。
 本音は芦辺の生活まで見たかったけれど、これからの仕事のことを考えるとこれ以上立ち入ってはいけない気がしてくる。
 このままだと、眠る時間がどんどん減っていく。
 酔っぱらって歩くのがやっとの状態の芦辺を、引きずるように運んで来た疲労。
 深夜超過料金を支払って家に帰ることを考えると、明日が休みだったら、引継がなければ休んでしまいたい…。
 小さなぼやきと、次々に今まで忘れていた現実が思い出されてくる。
 今ならば酔った勢いで井上の顔も、話した内容も芦辺は忘れてくれるだろうか…。
 タクシーで帰ろう…。
 芦辺をベッドに転がすと、井上は感覚を失い始めた肩を回しながら、深々とため息を付いた。
 芦辺の襟をくつろがせてから、ベッドを離れ寒々とした部屋に暖房を入れた。
 まもなくして、軽いモーター音の後、部屋の空気の温度が上昇してくるのが体感出来た。
 井上は、ベッドで横になる芦辺をのぞきこむ。
「じゃ、俺、帰りますよ…。暖房、付けておきましたけど、そのままじゃ風邪引きますからね。ちゃんとベッドに入って寝て下さいね…」
 寝ているだろうと思いながらそう告げると、井上はベッドから離れようとした。
 瞬間、芦辺の口から出る意外な言葉と、そして井上に絡まる腕。
「何?」
 井上が聞き取れなかった言葉をもう一度聞こうと、近づく。途端いきなりスーツの袖を引き寄せられて、井上は驚きに動くのを止めた。
 最初は子供のように袖を握っていただけだった。
 気付くと芦辺に力一杯引っ張られていて、自分を抱きしめようと縋り付いてくる。
 強引な腕に井上はバランスを崩し、芦辺の上に覆い被さるような形でベッドに倒れ込んでしまった。
「あ…。ちょ…」
「一人に、しないでくれ…」
 聞き取れなかった芦辺の言葉が、今度ははっきりと井上の耳に入ってきた。
 ぞくりとする背筋。今まで芦辺に感じた思いとは別の感覚が芽生える。
 芦辺は井上を自分に引き寄せるように、背に腕を回すと強く抱きしめ、これ以上に離すまいと足まで絡めてくる。
「ちょっと…、あ、芦辺さん…」
 どんどん自分に絡みついてくる芦辺。
 芦辺の行動に驚き、井上は慌てて自分に縋り付いてくる躯を引き剥がそうとする。
「行くな…。私を一人にしないでくれ…」
 酒臭い息を吐きながら、苦しそう芦辺はそう告げる。
「皆…、そうやって俺を置き去りにしていく」
「あ、芦辺さん…」
 井上は戸惑いながらも、躯を擦り寄せ誰かに縋ろうとする。壊れかけている芦辺を振り払うことが出来なかった。
 天才と評価されている人の、もろく崩れる姿。
 奥さんや子供への思い。
 ゲームへの熱意。
 井上は、少しだけ先ほど芦辺に別れを告げた奥さんや、芦辺の仕事への思いに、複雑な感情を抱かずにはいられなかった。
 羨ましいという。
「行かないでくれ…」
 熱い息を吐き、ぼろぼろになっている芦辺は、もう一度井上に縋り付く。
 それから、井上の熱を奪うかのように唇を寄せてくる。
「ちょ…、なに…」
 重なるアルコールで熱くなった唇。
 一瞬何が起こったのか判らず慌てて口を開こうとした井上の言葉はすぐにまた、芦辺の唇でふさがれてしまう。
 驚きに開いていた井上の口元では、芦辺が絡みついてくる。
 先ほどの口付けとは比べものにならないくらいに、大胆に熱を探し求め口蓋へと舌が差し込まれてくる。
「だめだって!」
 無理矢理芦辺から離れた井上は、荒い息のまま叫んだ。
 口の回りが唾液で濡れるほどの口付けだった。
 性的な思いなどまったく無かった人物の奇行に、戸惑いながらも井上は体温が上がっていく。
 酔っている芦辺の躯を引き離すのは、簡単だった。
 抱きしめて上げたいとは思えるけれど、性的な意味では考えられないはずだった。けれどお互い服を着ていても判る体温と、芦辺のはっきりと勃起しているものが井上の躯の血液を熱くしていく。
「離れないで…」
「だめですよ…、そんな顔しても…」
 呼吸を何感じているんだ…。
 突き上げてくる衝動を必死で自制しながら、井上は芦辺の体温から逃れようとした。
 離れようとすればするほど、絡みついてくる芦辺。
 淫らに見える芦辺の表情。初めて井上は、男性でもこんなに淫らに誘いかける表情が出来るのだと知った。
 芦辺の行動が、井上の股間に感じるものをもたらせるのだと気付いてしまう。
「これ以上俺にしがみついてくると、俺、男だろうが、上司だろうが…、抱いちゃいますよ? 芦辺さん…」
 芦辺に対してと言うよりも、自分への最後の忠告をするように井上はため息混じりに口にした。
 いくら昔からあこがれていた芦辺に対してだとしても、自分で口にした言葉はどうかしていると判っていた。
 井上自身も今晩の様に、その場しのぎの性欲処理では考えたくなかった。まして酔って別の誰かと間違えて行う行為でも本当はしたくなかった。
 けれど、芦辺にこれ以上仕掛けられれば、既に兆しが見え始めている井上には耐えられなくなりそうだった。
「いや…」
 芦辺は小さくそう呟くと、益々躯をすり寄せてくる。
「もー、だめですよ…」
 口では否定しているけれど、心の中では酒に酔っている所為にしてしまえば…、と考えるもう一人の自分がいる。
 今まで今晩のように、酔った勢いでベッドになだれ込むなど経験のない井上にとっては自分に少しでも言い訳をしないと理解できなかった。
 男の芦辺相手にズボンの中で力を持ち始めているものに対する説明が…。
 理性と情欲のせめぎ合いだった。
 井上の気持ちをまったく考えてくれずに、体温を求めて芦辺は中心を熱くさせながら足を絡めてくる。
 酔いつぶれていた芦辺が、井上が今言っている言葉を理解しているとは思えなかった。
 これ以上縋られてしまえば、井上も我慢の限界が見えてきてしまう。
 芦辺を抱いてしまうと言うことだった。
 井上は自分が芦辺に忠告したように、女性を抱くように優しく躯を支えながら服を緩めていく。
 はっきりと欲情して赤くなっている素肌を、優しく撫でる井上の腕を芦辺は拒絶しない。それどころか気持ちよさそうに熱い息を吐きながら、もっともっとと躯を擦り寄せてくる。
 温もりを求めるように、縋り付いてくる。
 酒を飲むと屹たないやつもいると聞いていたけれど、芦辺も井上も萎えるどころか重なり合っている躯の部分で、はっきりと興奮の証が形を露わにしていた。
「ぁ…、あぁいい…。もっと、して…」
 目眩がしそうなほどに、芦辺は色っぽかった。
 上衣をはぎ取り、胸を指でつまみ上げると、芦辺は眉間を寄せながら、もっと、もっとして欲しいと求めるように躯を井上に預けてくる。
 火照る躯は、どんどん熱くなっていく。
 本当に、酔っている所為なのだろうか? 微かに疑問を感じるほど、淫らで井上をそそる芦辺の表情だった。
 井上は芦辺の姿に思わず目を見開き、唾を飲み込んだ。
 ただの欲望のはけ口にはしたくない存在。
 もし井上のことを知ったら芦辺は今晩の事をどう思うのだろうか。
「あぁ…、ん…」
 口を淫らに開き、甘い喘ぎ声を上げる芦辺。
 頭に微かに残っている不安。しかし今はこれからと言う言葉よりも、芦辺との事だけ考えようと不安に封印をする。
 痩せてもいなければ、変な脂肪も付いていない肌への愛撫は、不快な気分を感じさせなかった。
 行為に酔う二人。
 部屋の間接照明が照らし出して見えるのは、薄らと汗をかき、尖った胸が見え隠れしている芦辺の姿。これから上司になる人物でも無ければ、好きなゲームを作ったあこがれの存在でもない。
 ただ欲望を訴える存在になっていた。
 押さえつけても、押さえきれない興奮をぶつけ、征服して、鳴かせたい対象。
 井上は芦辺の足から一気にズボンと下着を脱がすと、急くように自分も裸になって覆い被さると、芦辺の股間でフルフルと揺らいでいるものゆっくりと扱いていく。
「ん…、あっ…」
 躯を確かめるように滑らせれば、手にまとわりついてくる熱を持った芦辺の肌。
 同じ男だということに井上は抵抗を感じないどころか、相手が気持ちよくなるほど身悶えている姿を見れる事が嬉しかった。
 それどころか沸き上がる衝動に、井上自身も芦辺を大切に味わう様に、優しく舐め愛撫していた。
 芦辺の躯は、胸の実をそっと摘めば、気持ちよさそうに感じて、先を濡らしている。
 不思議だった。
 今まで男性との行為など、考えたいとも思わなかった。けれど今自分の手で、快感に身悶えながら縋り付いてくる芦辺の肌を触れていると、胸に立体的がなくとも同じものが付いていようがどうでもいいことに思えた。
 反対にもっと気持ちのいいところに連れていってやりたい、とすら感じていた。
 井上は芦辺の乳首をくすぐるように爪を立てた。
「んっ…、ああぁ…」
 くすぐったさと一緒に芦辺の口からは、感じているのだという息が漏れる。
 井上の引き出す快感に、酒で感覚が麻痺しているのか、それともこういうことが平気なのか、素直に身を任す芦辺。
 どんな理由でもいい。
 好きとか嫌いではなく、自分の腕を欲しがる芦辺が欲しかった。
 上司になる相手だなんて、今は考えたくない。
 このシチュエーションと酒に酔っているのかもしれない。
 心から抱きしめたかった。
 井上は止められない自分の情熱に苦笑しながら、初めて互いの唇を求めた。そして優しく額にはりついた芦辺の髪を払った。
「芦辺さん…、気持ちいい?」
 喘ぎ声を漏らしながら芦辺はきつく目を閉じて何度か頷くと、言葉を発しないまま両腕を井上の頭の後ろに回す。
 井上は、温もりを確かめるように、芦辺の額に優しく口付ける。
「よかった…。そろそろ、俺も気持ちよくさせてね…」
 音がはっきり聞こえるように、唇へ口付けをした。
 その後井上は芦辺の足の間に躯を埋めると、屹立しているものと下で重そうに垂れ下がっている袋に、何度かキスをする。
 芦辺の片足を持ち上げると、今まで隠れて小さく窄まった部分に唇を落とす。
 出来るだけ傷つけないように、大切に蕾を唾液で濡らしながら舌でほぐしていく。
 女性との行為の中では、この部分を使うことは今まで無かった。
 こんなにもろく縋り付いてくる芦辺への欲望は、どんな部分を使ってどうするなんて男女の理屈は必要ない気がした。
 獣が傷を舐めているような姿だった。
 すぐに芦辺の口から苦痛ではなく、別の感情が流れてくる。そして次の瞬間、井上は中に指を埋めていく。
 最初は一本だけで、慎重に入り口を広げた。
 徐々に受け入れる気持ちの良さを訴えて、芦辺の中央にきざが現れたところで、添えるように二本、三本と指を沈める。
 最初は苦痛を訴えていた芦辺が、少しずつ指の動きに慣れ、もどかしいと腰が揺れてくると、指を抜くと井上自身を与える。
 こんなに感じながら自分を離すまいと絡みついてくる、芦辺。
 芦辺には今まで、今みたいに淫らな行為をするための男性がいたことがあるのだろうか。
 誰かに抱かれている姿を必死に考えないように、芦辺をほぐす事に集中する。
 井上の手で、芦辺の色はどんどん増してくる。
 芦辺の扇情的な姿に、井上の股間のものは瞬く間に涎を流し始める。
 崩れ去った姿を見たからと言うだけだはなく、別の自分では説明出来ない感情から心も躯も傷つけたくなかった。
 芦辺を大切にしたいと言う思いは、自分でも我慢強いと感心するくらいに丁寧に後ろの花を開かせる。
 井上を受け入れられるくらいに開花した場所へ、自分を埋め込んでいく。
 花びらに雄芯をしっとりと包み、あまりの気持ちよさで井上は熱のこもった息を吐いた。
「芦辺さん…、気持ちいいよ…。いきそう…」
 男刀をしっかりと銜えたまま引きつっている皮を緩めるように、芦辺が感じる部分を撫でてやりながら、井上はゆっくり腰を回し始めた。
 途端に芦辺の躯は反応を示し始める。
 止められないほどの快感に、芦辺本人も訳がわからなくなっているらしい。芦辺はシーツを強く握りしめて、喘ぎ声を上げながら涙を流し、すべてをやり過ごそうとする。
「こんなんじゃ、俺、芦辺さんから離れられなくなっちゃうよ…」
 井上も自身を熱く離さない筒から逃れようが無くなり、赤く充血している壁を傷つけないように注意を払いながら、腰を回し始めた。
「あっ…、ん…」
 時折エラが張った部分で感じる部分を擦るらしく、芦辺は息を荒くしていく。
 腹を上下させて身悶えながら甘い声を上げている姿に、到達点が間近なのを伝える。
 気持ちがいい、今までで一番…。
 自分の限界を感じた井上は、理性では押さえきれない部分に全身が包まれ、頂を目指して腰の速度を速める。
 芦辺もそれに合わせるように腰を回す。
 どちらが先だったかなど判らないくらいのタイミングで二人とも精を放った。
 荒い息、汗ばんだ躯。それでも離れたくないと言う思い。
 井上は芦辺の上に躯を預けながら、自身を抜きたいと思わなかった。
 芦辺も井上と一緒だったのか、それに対して何も言わずにただ腕を背に回してくる。
 その晩、三度も芦辺の躯に井上は精をそそぎ注ぎ込んだ。
 最後には芦辺は自分で押さえることの出来ない快感に、意識を手放していた。


 酒の上の夢だった…。
 井上は芦辺を抱きしめながら、一時間ほど仮眠を取るとシャワーを浴びてから何も無かったように、芦辺の躯をタオルで何度か清める。
 あれだけ激しく求めあったけれど、幸いリネンは汚していないようだった。
 窓から入る、冬の訪れを思わせる冷たい風に、芦辺は微かに躯を振るわせる。
 井上は名残を残すようにぐったりとして休んでいる芦部の横に腰掛けた。
 汗で湿気ている髪に、そっと唇を寄せる。
「芦辺さん…」
 明日なんて来なければいいのに…。
 井上はため息を深く付くと、身支度を整え芦辺を起こさないように静かに部屋を出た。
 寝静まっている時刻。
 廊下もロビーも人の気配をいっさい感じない世界は、芦部の部屋に置いてきた一時の恋愛と一緒に、どこか置き去りにされている気になる。
 狡い考えかもしれない。
 後、九日後に同じ場所で働くことを考えると、芦辺のためにも酒が見せた夢とでも思えるような別れ方をした方がいいに決まっている。
 自分にまるで言い聞かせるように、思うようになくては…。
 心の中では自分を責めるように、酔った勢いで抱きしめてしまった芦辺への罪悪感に冴えなまれる。
 何もなかったことにしようとする自分の利己的な部分が、どうしても頭から離れようとしない。
 愛おしいと感じるほど強い思いで抱きしめた芦辺を、本当に忘れられる保証などまったくなかった。それどころか、部屋を出た今だって何度も引き返したい思いが溢れてくる。
 今晩の二人の関係に愛情など無い以上、ここで終わらせることがお互いのためだ…。自分に必死に言い聞かせるしかなかった。
 ホテルを出ると、近くのショッピングデパートに据え付けているデジタル時計が始発に間もない時刻だと告げている。
 井上は振り向き、ホテルの芦辺の部屋当たりを見つめた。
 ホテルを包む空は、微かに白み始めていた。



  * * *



 芦辺と夜を共にした、〝あの晩〟から数えてちょうど二週間が経った。
 井上は新しい会社というにはいささか寂しい場所で、今も経理部の仕事を引き続きしていた。


 芦辺と熱に浮かされながら一時を共にした後、井上は始発で家に帰ってから少しだけ仮眠を取った。
 いつも布団から離れがたい思いの朝とは反対に、頭だけが冴えてしまい起床は目覚ましよりも早かった。
 眠いたいけれども、寝れない睡眠不足の朝。ぼやけた頭のままシャワーを浴びて、妹に追い立てられるようにして寝ぼけ眼のまま出勤した。
 それから一週間は、怒涛の引継ぎ業務と通常業務の両方をこなし、土日を挟んだ月曜日に、新しい会社の方針を示す経営側のレクチャーを受けることになった。
 会社の経営陣は、芦辺も同席するように依頼していた。
 今回の分社に納得出来ないらしく芦辺は、参加をせずSAGEの経営管理部数名と経理部の上原と一緒に受ける新しい会社のレクチャーを受けることになった。
 芦辺との再会が伸びたのには、ほっとしてしまった。
 安心したのも束の間、レクチャーで説明された内容に、井上は眉を寄せることになった。
 今回の分社は、今までワンマンに近い方針を立てていた芦辺には本意ではない人事だと人間の嫌な部分がすぐに見え隠れしてきた。
 上原以外の経営陣から伝わる嫌な雰囲気。
 芦辺が不在なのをいいことに、欠席裁判状態だった。
 ゲームの負債を責め、自分の会社で起きた出来事をまるで他人事のような言い方をする。
 それでも芦辺に会社を辞められたくないらしく、偉そうな口調で新会社の設立に金を出すらしい。
 もちろん狭い枠で動くことを嫌う芦辺を監視する。
 新会社設立は、はっきり言えば〝猫に鈴をつけるための会社〟だった。要するに芦辺が勝手に動かないように、管理部門で監視しながらゲームを作らせるイメージのものだった。
 鈴の中には、井上も含まれているらしかった。
 来年の四月には、正式に記者発表する芦辺が社長を勤めるまったく新しい感覚のゲーム開発会社。
 仮の会社名が〝株式会社 Online Cinema Games〟。
 略して、OCG。
 まだどんなゲームを作るのかも、判らない。
 具体的なプランは、正式に設立をしていない会社なんて気楽な話だった。
 会社発足後は、OCGで芦辺が今までこだわって制作していた、現実に一番近い架空の社会を楽しみながら体感出来るゲームらしい。
 〝あの〟百十億の赤字を出した、けれど、今までの中で現実に一番近い感覚で遊べるゲームよりも、もっと楽しめてもっと現実感を持たせるそんな企画だった。
 確かに件のゲームも、企業常識を越えた負債額が出された。
 リアルさにおいてはどんなソフトよりも追求していたおかげで、作る側の人間からは賞賛を受けていた。
 会議が終わって上原が井上に補足してくれた。
『彼ら経営陣もけっして芦辺のゲームを評価していないわけではない。けれど現実は〝現実をゲーム〟の中に描くのと同じくらいに大変なのだ』
 上原の言葉が、井上の心に印象を残した。
 井上が判るのは、そこまでだった。
 芦辺が本当にやりたいことも、経営陣がさせたい事もすべて蚊帳の外。それ以上具体的な事を尋ねてても、上原に聞いても返ってくる答えはいつも同じだった。
『まあ、芦部さんがさ、無駄使いせずに経費内で仕事するように管理してよ』
 最終的にはそんな言葉が帰ってくるだけになっていた。
 自分で何をしていいのか判らない所へ移って、いったい何をしているのかと言うと…、総務、人事、経理と管理業務のすべてだった。
 芦辺は、他人に干渉されることを一番嫌うらしい…。
 らしいと言うのは以前の部門長を勤めていた上原が、苦い顔をして口言っていたからだけれども。
 会社の金食い虫とあだ名されている、芦辺のスケジュール管理も井上の仕事になっていた。
 本当はこちらの方が本来の業務なのかもしれなかった。けれど会社が動き出すまでの当面の、経費と業務を定期的に本社の経営企画室へ報告書を作成する。
 資料を持って、今後のビジネスプランを説明そんな仕事もあるらしかった。
 実際開発分社は、元々一つの部署が会社になっただけで、いわゆる管理部門と言われる総務、人事、経理は部署で事務をやっていた女性がそのまま行っていた。彼女たちがまとめた書類は、SAGEの管理部門で行っていた。
 一時的な処置と言うことだった。しかし組織変更と引っ越しが十八番の会社では、別の方針が取られる可能性も考えているようだった。
 なんとも言えない微妙な会社同士の繋がりだからかもしれない。元開発部署の部長で開発分社の社長から本社の社長に選ばれたりすると言う、事実を生んだりする。
 井上にしても、移動した今、在籍は人事部預かりの出向で、いつでもSAGEに戻せるようになっていた。
 業務に関しても芦部と関わるよりも、SAGEの経営企画や経理部の上原課長の指示でほとんどの処理を動かすことになっていた。
 場所にしてもそうだった。
 新会社と言っても、経理部の二階下。
 本社一号館の五階で、二号館が前に見える一番端の部屋に用意されていた。
 まだプレートも付いていない、そんな新会社。
 島流しにでもあったようなそんな気分が、とても悲しさだった。
 とって付けた狭い部屋の中で自分だけの世界だと言わんばかりに、社長の芦辺の場所だけが、ハイパーテーションで区切られていた。
 ぼろぼろに壊れていた芦部を知っている井上は、まるで他の開発者と離されるように机一つとミーティングデスクがある小さな社長室の方が、もっと寂しく思えてならなかった。
 芦部さん…。
 井上はため息をつきながら、社長室と区切られた畳十畳の部屋を見つめた。
 開発用の鍵型の机が、組み立てられたパズルのように、十個組合わさって並べられている。
 最初の話では、在籍予定者は十二名のはずだった。
 まだ移動してきていないものも多いらしく、移動して来て井上が逢った社員は、まだ五名ほどしかいなかった。
 初めて逢った人間でも、開発にいるのかな? と感じるのは、皆スーツなど当然着ておらず、時間も昼頃フラーっと来て、夜中までいるもの。朝早く来て、適当に仕事を終え、三時には上がるものとマイペースに仕事をしていた。
 業務時間中は、プロジェクトがあるわけではないから、基礎研究と称してゲームをしているもの。本を読んでいるもの。他は何をしているのか井上にはまったく判らないものだった。
 最初だけはスーツだった井上も、だんだん面倒になったのと、スーツだと浮く気がして今では比較的ラフはシャツにズボンを合わせて出勤するようになっていた。
 あれだけ自由な時間になることを喜んでいた勤務時間は、今までと同じで九時から五時五十分まで働いていた。
 今回の新会社設立への経緯は、まだ株式会社SAGEが今のように開発会社を別の会社から切り離す前から、会社の看板ゲームをいくつも打ち出している芦辺。
 どんな負債をだそうとも、芦辺ブランドが健在なのを経営陣もよく判っていた。芦辺が発表すれば世の中のゲームファンだけではなく制作に携わっている人間も注目する。
 神様的な存在の芦辺を会社としては、絶対に手放したくないのは井上にもよく判った。
 井上が見たところ、癖がありすぎる芦辺を上手く使いこなせる経営者は、今の会社にはいない。それどころか、人に使われる立場になるには、今の芦辺は大きくなり過ぎていた。
 芦部を押していたグループの会長でSAGEの社長をやっていた人物の死去に伴い、今年の夏、開発の分社で社長をしていた人物が、新しく本社社長になった。
 すべての体制に見直しが入った。
 新体制の中で行き場の失った金食い虫の天才ゲームクリエーター、芦辺を本社の管理下に置きたい。慌てて経理部からここに引継をしてきた井上だった。
 実際に移動してきてあまりのやることのなさに、本社への報告日が迫るのを気にしながら、する事も無く時間を持て余していた。
 最終的にたどり着いた仕事が、経理部の引継書類を作ることだった。
 本当は、来年の予算をつくらなければいけないはずの、この時期に…。
 井上は入力している手を止め、ため息を付いた。
『前回のプロジェクトで販売本数が悪かったって話しもあるが、このご時世で芦辺君の発送はお金がかかり過ぎる。君ならしっかりと芦辺君のことを管理出来ると信じているよ』
 移動する時にねぎらいの意味も込めて、いつもの何か裏がありそうな笑顔で上原が言った言葉。
 新しい会社の仕事にいっさい取りかかっていない井上に重くのし掛かる。
 せっかく同じ場所で働くようになっても一向に顔を見せようとしない芦辺に対しても…。
 一週間、駆け足で引継ぎを追え、ここへ気分も新たに移動したのは、とても晴れた肌寒い月曜日だった。
 それから一週間、空回りする芦辺との関係にストレスは溜まる一方だった。
 座席の引っ越しに合わせて初めてここに足を踏み入れた月曜日の朝。
 社内のどこかで会議が終わって、どこかへ外出しようとする芦辺を捕まえて挨拶した。
 初めて逢った日以来、無視でもされているように、まったく逢っていない。
 今の井上の仕事からして、芦辺が気に入らないのは判る。
 簡単に言うと井上が、経営企画や経理から来た目の上のたんこぶ。
 芦辺の仕事をする上でじゃまになるのは本当の所だろう。
 ただでさえ大掛かりなプロジェクトのリーダーをしていた芦辺が、予算を仕切られスケジュールを管理され。下手したらプロジェクトへの干渉も、すべて経営陣の確認が入る。
 すべてを制約し取り締まる、そんな機関の真下にいるのが井上だった。
 井上からすれば、それが仕事なのだ。
 実際、本社、経営企画室へ、一月の頭には、今後の予定を含めた報告書を提出しなければいけなかった。
 来期の予算の資料も、新会社設立のためのビジネスプランも、すべて芦辺と打ち合わせをする必要があった。それなのに芦辺は、今週の始め移動の挨拶をした後、一向に行き先が井上にはつかめなかった。
 経理から荷物を持ちこの部屋に来た日、心臓が壊れるのではないかと思うくらい緊張して行った井上と、芦辺の態度は対照的だった。
 芦辺は一通り井上の挨拶を聞くと、機嫌が悪そうに『あ、そう…』と呟いて、その後『これから外出で、直帰するから…』と付け加えると出かけてしまった。
 芦辺があの晩のことを覚えているのか、忘れているのか、それとももう関係無いと考えているのか、井上には見当もつかなかった。
 同じ場所で仕事をしていく上で、井上にはその話題に触れないままでいられる方がその時は都合がよかった。
 本音はあまりに素っ気ない芦辺の様子に井上自身、少しだけ肩すかしをくらった気にはなった。
 少しだけ離婚すると指輪を置いていった奥さんや今もあのホテルで一人、生活しているのか気になった。
 おかげで忙しく時間に追われていた経理部ではそうでもなかったが、時間を持て余している今週一週間、芦辺のことが頭から離れずにいた。
 自分であの晩は無かったことにした方がいい、そう決めたはずだったが、それでも一人であんな生活は寂しすぎる。
 井上は妹と二人暮らしだったから尚更かもしれないが、もし妹がいなかったら自分自身今どんな生活をしていたのか、不安を感じていた。
 そんな風に心配するのは勝手な話かもしれなかったが…。
 芦辺が井上とのことを覚えているのか、忘れているのか、それとももう関係無いと考えているのか。
 井上には見当もつかなかった。
 今もホテルで一人、生活しているのだろうか…。
『行かないでくれ…』
 あれは酔いなのか、それとも本音なのだろうか。
 二週間前に芦辺がどんな風に思っていたのか、井上には判らない。けれどあの時奥さんとの言葉を聞き、飲み、ベッドを共にした井上には、芦辺を一人にしてはいけないのだと感じていた。
 仕事が暇であればあるほど、頭から芦辺は出ていくことはない。
 おかげで五階に引っ越してから一週間、芦辺のことばかり考えている。
 自分であの晩は無かったことにした方がいい、と決めたはずだった。
 一人であんな生活は寂しすぎる。
 好きではなかったけれど、ずっと妹と二人暮らしだから、尚更かもしれない。
 もし妹がいなかければ自分自身今どんな生活をしていたのか、不安だった。
 置き去りにする形で部屋を出て行っておいて、今更心配するのは勝手な話かもしれなかったが…。
 部署を移動して来てから一週間が、毎日外出して行き先がまったくつかめない芦辺と、いい加減仕事の話をしなくてはいけない時期だった。
 昼間も上原に心配され、声を掛けられた。
 たまたま経理部へ行った時だった。
 上原は手招きをするように、移動を告げられた会議スペースへ呼びつける。
「大丈夫?」
「え? あの…、何がでしょうか?」
 質問の意味が判らずに、素っ頓狂な声を出すと上原はいつもの笑顔を向けながらも、少しだけ真面目な顔をする。
「いやさ、今日芦辺さんから新会社設立のビジネスプランのデータ、送られてきたから…」
「え! 本当ですか?」
 会社にいて、芦辺がなにやら一人でこそこそやっているのは、気が付いていた。
 まさかここまでしてするとは、井上も予測出来なかった。
 驚いている井上に、上原は笑顔とも真剣とも取れる顔で頷く。
「うん、本当なんだよね~。いや~、相手が芦辺さんだから、仕方ないって言っちゃ、仕方ないんだけど…」
 確かに、色々な人から聞いていた話ではそうだと思えた。
 芦辺自身を直接傷つけてしまったと言う、良心の呵責から井上には反論することも、同意する事も出来なかった。
「ほんと、困っちゃうんだよね~」
「すみません…」
 何も言えない井上は、自分の無力さを感じ頭を下げた。
 本音では何も出来ない自分に、悔しさを感じていたのだったけれど…。
 唇を噛み締めて拳に力が入っている井上とは反対に、上原はリラックスした態度で笑う。
「いや~、井上君が謝らなくてもいんだけどさ、上の偉い人が何て言うかな~って思って」
「…」
「いやいや、まあ、〝あの〟ってつく芦辺さんの面倒だからね~、井上君だけが面倒を見るなんて出来ないし。俺もサポートする事になってるしさ…」
「はあ…」
「そう言えば、最近芦辺さんと逢ってる?」
「えっ…。そ…それは」
 何で知っているのかと言う疑問よりも、本当に嫌われているんではないかと言う思いに、井上は言葉を詰まらせた。
「なんかさ、聞いた話だけどさ。最近芦辺さん色々と外出してて出勤していないんだって?」
「…」
「事情は判らないけどさ、少し話してみなよ、芦辺さんと…」
「でも…」
 言い訳になるけれど、来ない芦辺とどう話せと言うのだろう…。
 どうしていいか井上はまったく判らなくなっていた。
 途方に暮れている井上の意図を察したのか、上原は笑いながら言葉を繋げる。
「まあ、まだ締め切りまで数日あるし、本当に困ったら経理で読んであげるからさ。これは返しておくね…」
 上原はそれだけ言うと、席を立って会議スペースから立ち去った。
 新しい会社に来てやっているのは、それこそ部署で使う小さな金額の精算くらいだった。
 締め切りまで後一週間。
 何とかしないと…。
 経営企画部への報告書と、まだ不明確なOCGでの業務を決めて今後のビジネスプラン。
 少しだけ芦辺のことを…。
 過去どんな仕事の仕方をしていたか、以前から芦辺の下にいた社員に聞いていた。けれど彼はクールに笑って、あんな感じだと言いっていた。
 井上が知っているかぎり、芦辺は常に勝ち続けている男だった。
 まだ8bitだの16bitだのと言われていた、ロースペックなゲームを発売しているときから、名前を挙げていた。
 出せば必ず売れると言う時代に、ゲーム業界と言う甘美な夢を見ていた経営者たちの心をつかんだ。
 いささかマニアックではあったけれど、自分の作りたいものを、やりたいように作ってきた。
 実際には、評判と売り上げが震わず信じられない金額の赤字を出したゲームですら、小さな板の中で現実を描こうとする不思議な空間は、評価しない者はいなかったくらいに…。
 評価はされていたが残念なことに、買ってプレイした井上も、何のゲームか判らず、面白いとは感じずに、半分くらいやっただけでお腹が一杯になってしまったけれども。
 これから芦辺の進む道…。
 逃げ出した自分には何も言う資格はないかもしれないでも逢いたい…。
 一向にここに帰ってこない芦辺に、井上は移動してきた日からずっと毎日、打ち合わせしたいと希望するメールを打ちつづけていた。
 建前は仕事が止まって困るから…、だったけれど、本音は少しでも芦辺が元気なことを知りたかった。
 いっそ、あの晩過ごしたホテルに行って、待ってようか…。
 そんなことをしたら、もし芦辺が酔って井上のことを忘れていたとしたら、返ってやぶ蛇になるかもしれない。
 このままではいけない。
 もしかしたら、芦辺がホテルで生活をしていると聞いたのだと、そううそぶけばいい。
 多少は、疑われるかも知れない。けれど、もしかしたら信じてくれるかもしれない。
 芦辺に逢いたい。
 小さな望を託して井上は芦辺の元を訪ねようと決める。
 仕事と言う建前にかこつけて、芦辺が気になると言う本音を隠したままに。



  * * *



 最近は不況で予算が無くなったのか、明かりの数がおとなしくなってきたような気がする街を飾る照明たち。
 おとなしいとはいえ、まぶしいくらいにイルミネーションで染めていた時との比較。今でも駅前の木に余すところ無く、近頃流行りの青や白。赤、青、緑とクリスマスの明かりがクリスマスと言うテーマを表すように飾られていた。
 芦辺の事で頭が一杯になっていた井上は、各街が競うようにやっているイルミネーションを、ただ目に映るから見ていただけだった。
 落ち着かない思い。何もかもが芦辺に繋がり、一緒に歩いた灯りが消える時刻が懐かしく思えた。
 休んでいる芦辺を置いて出てきた、ホテル。
 井上はまた、そのホテルへ向かおうとしている。
 芦辺の泊まっているホテルは、川崎駅近くの一応シティホテルの区分に属すホテルだった。
 宿泊プランでしのぎを競っている大都会ではない所為か、価格は都内のビジネスクラスの安いホテルと同じくらいだった。
 会社からは京急羽田線で二駅先の京急蒲田駅で京急の本線に乗り換える。
 快速か特急、それでなければ急行で一駅。
 鈍行だったら二駅。
 電車に乗りながら多摩川を越えると〝東京都〟から、〝神奈川県〟に変わったばかりの駅が川崎駅だった。
 ここ数年の羽田線沿線の再開発で、最寄り駅が奇麗になり、数年前には何も無かった会社の周りには、有名チェーンのビジネスホテルが二軒も出来た。
 飲食店も今までの街の定食屋から、有名チェーン店が並ぶようになっていた。
 もっとも元々有名居酒屋チェーンの本社も同じ街にある。自分の店を紹介するように、系列の飲食店や居酒屋が並んでいた。
 井上はふと、二週間前の芦辺とばったり偶然出逢った朝を思い出した。
 一日に起きた三つの偶然が、井上の人生を変えた。
 一つ目は、芦辺を見かけ、二つ目は、移動。三つ目は、再会。
 逸る気持ちを必死に落ち着かせ、少しだけ早いかと思える経理部の定時ぴったりに会社を出た。
 打ち合わせに出掛けた芦辺は、きっとすぐには部屋に戻ってないだろう。
 勝手な予測だった。けれどホテルの部屋を何度も訪れるわけにも、ドアの前で待っている訳にも行かず、井上は駅前にあるアミューズメントセンターで時間をつぶした。
 この界隈では有名な大型チェーン店のアミューズメントセンターに向かった。
 芦辺がプロデュースし、今では別の人間がプロデューサーとして人気を維持している格闘ゲーム。
 そして今置かれている最新バージョンは、芦辺の後を引き継いだチームが作ったものだった。
 芦辺が発表したときは、ゲームセンターで当然のように、メインに置かれていた。
 そんな時期もあった。
 今は残念な事に、別の分社が製作したトレーディングカードを使って遊ぶサッカーゲームや麻雀ゲームだった。
 まだ分社する前に社長賞を取って、今でも根強い人気の保っている競馬ゲームと幅を利かせている。
 ビデオゲームという種類では、格闘ゲームやスポーツをテーマにしたもの以外にも、昔からのゲームファンに親しまれた芦辺プロデュースのゲームが並べられていた。
 自社他社取り混ぜて、井上がかつて自分の心を動かしていたゲームをいくつか見かけると、やらずにはいられなかった。
 しかし、今日だけは芦辺への思いもあって、彼がプランニングしたものを選んでいた。
 芦辺のプランニングしたものの中は、どのお店にも必ずあった一番人気の格闘ゲームを久しぶりに遊ぶ。
 開発部隊にいたわけではないから、詳しい話は知らない。
 それでもキャラクターの筋肉の動き方や行動の細かさは、芦辺の目指している部分なのだと以前雑誌で書いていた。
 現実に一番近いものを作りたいという思い。改めて考えながら遊んでみると、芦辺の気持ちが伝わってくるような、そんな気がした。
 自分の中で、どんどん芦辺と言う人物への思い入れが、独りでに大きくなっていくのを、井上は自覚せざるを得なかった。
 何度か順番待ちをしながらゲームで遊べば遊ぶほど、芦辺と仕事をする機会が嬉しいと思えた。
 社内でも芦辺のワンマンと、わがままさの悪評を差し引いてだけれど。
 時間に余裕がある時は、時間のつぶし方に苦労するものだった。
 魂が別のところにあるからか、ゲームをしていても芦辺への思いだけが空回りしてふるわない。
 かつて流行った法則めいたことの様に、現実になっていく。
 あまり上手くないゲームは、何度か順番待ちをしているといづらくなり、適当なところで井上は店を出ることにした。
 街のショッピングデパートは、閉店の時刻にはかなりの間があった。
 ため息をつきながら、井上は本屋に行き立ち読みをしながら適当に時間をつぶす読む物を物色した。その後先ほど遊んだアミューズメントセンターの近くの電化製品も扱っているカメラ屋に入った。
 目的ないウィンドウショッピング。そんな習慣を持っていない井上は、時間だけを持て余し、最終的に一杯百数十円で有名なコーヒーチェーン店に向かった。
 落ち着かない気分で、先ほど購入した本を読みながら軽食を摂る。
 閉店までねばり、外に出るとショッピングデパートのデジタル時計が十時を迎えたことを告げる。
 街の明かりに照らされて、闇の中で雲たちは自己主張している。
 井上はコートの襟を引き締めてから、かじかみ始めた手をポケットに入れた。
 ホテルまで数分の道のりが、寒さの所為で何十分にも感じる。
 やっとホテルに付いてもまだ寒さが抜けない。
 コートを着たままフロントへ行き、自分の名を告げ、在室を確認してもらうと、芦辺はすでに部屋へ戻っているようだった。
 どういう気持ちで電話を受けているのかは判らなかったが、それでも芦辺から了解を貰い部屋へ行く。
 仕事、これは仕事なのだから…。
 井上は、自分の行動への言い訳のように、〝仕事だから〟と自分に言い聞かせる。
 必死に冷静になろうとした。
 抱きしめた思い出の残る部屋までの道のりは、鼓動を速めさせていた。
 微かに震える手で、ノックをする。
 まもなくしてドアが開く。
 グレーの長袖のTシャツにアイボリーのチノパン姿に眼鏡をかけている芦辺は、帰宅したばかりなのか、ずっと部屋にいたのか井上にはうかがえなかった。
 上司と部下。
 井上は必死に笑顔を作ろうとするけれど、顔が引きつって上手く出来ない。
 睨み付けるような視線を送ってくる、芦辺。
 どんどん早くなる鼓動で笑みを浮かべながら、井上は頭を下げた。
「お休みのところ申し訳有りませんが、仕事のことで少々ご相談がありまして…」
「で?」
 どんな顔をするのか気になってどきどきしながら、井上は芦辺の姿を見つめた。
 仕事場ですれ違うときと同じ顔。
 普段とまったく変わらない芦辺の表情は、自分と関わりのないものを見ているように感じられる。驚くくらいに冷たい表情をしている。
 考えている事がうかがえずに、戸惑いながら井上はめげそうになる自分を必死に奮いたたせる。
「あ、あの…、来月ある経営企画室に報告する資料のことなんですが…」
 そこで言葉を止めて、芦辺の様子をうかがった。
 責めることもなく、どちらかと言うと相手にされていないと思える表情。
「あの…、ここで話していいんでしょうか? 少し長い話しになると思うのですが、お時間の方はかまいませんか?」
 動こうとしない井上に、芦辺は眉をぎゅっと寄せる。
「…、中、入る?」
 訊ねながら向ける、芦辺の嫌そうな視線。
 益々機嫌の悪い顔をしながら芦辺は、ドアを井上の方へ一度強く押すと消える。
 オートロックのドアを慌てて押さえると、井上は芦辺の後を追い掛けた。
 最初に見たときはカーテンが開いていた所為か、がらんとしてとても寂しい部屋に感じた。
 今日は厚手のカーテンがしっかり閉まっているからか、あまり広い部屋には感じられなかった。
 明るい中で見る部屋は、普通のホテルのシングルルームだった。
 芦辺は仕事をしていたらしく、部屋に置かれているライティングデスクにはノート型パソコンが開かれ、脇では何枚もの書類が広げられていた。
 自分と関わって欲しくないと言わんばかりのうんざりした表情の芦辺は、応接セットに掛けていた洋服をベッドの上に放った。
 面倒だと言わんばかりの大きな息を吐くと、椅子にどかっと音を立てるように腰掛けた。
 深い腰の掛け方で長い足と腕を、難しそうな表情をしながら組む。
「で…、経営企画室に提出予定の書類がどうしたって?」
 井上を拒絶しているのだとはっきりとわかる声。
 痛いほどの厳しい視線に井上は緊張して震えている手をギュッと握った。それから出来るだけ平静を自分に力を入れてから、コートを脱いだ。
 ゆっくりと慌てずに、芦辺の座っている反対側の椅子に腰掛けて、口を開く。
「あ、えーと、ですね」
「何?」
 責めているような厳しい瞳で見つめられ、井上は緊張と混乱から真っ白になりそうになった。
 今逃げたら、ここまで来た意味が無くなる…。
 井上は勇気を引き絞り、負けないほど力強い視線で葦辺を見つめる。
「あ、あの…、メールでも何度か質問をさせていただいたと思うのですが…。ご覧になられたでしょうか?」
 井上の質問に芦辺は、眉間に皺を寄せながら首を横に振った。
「いや、今週は外出が多くて忙しかったからね。君からのメールは目を通す暇がなかったよ」
「そうですか…」
 多少は予想範囲内だった芦辺の返答。井上は自分を落ち着かせるように息を小さく吐くと、テーブルの上を簡単に片づけた。
 さあこれから説明しますよ、と勢いをつけて会社で用意した書類を鞄から取り出して並べていく。
 まるで捕まえたら離さない保険のサービスレディの様に。
 鞄の中には昼間上原から預かった書類は、芦辺が何か言いだした時のために、わざと鞄の中に入れたままにして。
「まず、来月末に新会社設立に伴う、経費報告会があるのはご存じでしょうか?」
 芦辺は〝ああ〟と軽くうなずいた。
「では、その報告会に出席するために、必要資料をいただきたいんですが…」
「予算表とか?」
「ええ、そうです。それと、新会社設立に伴う、プロジェクトの予定表等を含んだ、ビジネスプランを…」
 切羽詰まっている井上の説明と、余裕な態度の芦辺。
 一気に説明した井上に、芦辺は鼻で息をしながら笑みを浮かべる。
「ああ、それなら昨日作ってたから、君の手は借りなくても大丈夫だよ。もう提出済みだ…」
 鼻から息を吐く笑いをすると、早く帰ってくれと言わんばかりに芦辺は立ち上がった。
 はっきりとした拒絶に、自分でどんな仕事をしていいか、何のために芦辺の会社に来たのか真意がまったくうかがえない井上は焦った。
「これですよね」
 井上は上原から預かった書類を鞄から取り出す。
 途端に芦辺の表情が曇ってくる。
「どうしてそれを?」
「元上司の上原さんに返されたんですよ。芦辺さんが送って来たけどお前知っているかって、言われました…」
「で?」
「え?」
「それで、君は何をしに来たんだ?」
 きつい芦辺の表情に苛立ちが見えてくる。何故こんなに嫌われているのかを考えられないほど、井上には余裕がなかった。
 井上は、戸惑いがちに口を開く。
「え? あの…、少し芦辺さんと話をしてから…、提出しろって言われまして…」
 芦辺は小さく舌打ちをする。そして自身の躯に溜まった空気を抜くようにため息を付いた。
「君はそれで何か問題がある?」
「それは…、どう言う意味ですか?」
 気持ちがまったく理解出来ずに、井上は質問の意図を聞き返した。
 芦辺はイライラしながら、今度はわざとらしいため息を付く。
「提出したんだ。君には何の問題もないだろう? 何か言いたいことでもあるのか?」
「ちょ、ちょっと待って下さい。じゃあ、私は何をすればいいか、その指示をいただきたいのですか…」
「じゃあ、判った。君にも出来上がったら、経営企画へと一緒にメールで送っておく。それでいいかい?」
 いいかい? と訊ねながらも、井上の介入を拒もうとする芦辺の語り口に井上は途方に暮れた。
 冗談じゃない、それでは井上自身が新会社に来た意味が無くなってしまう。
 焦りと一緒に腹立たしさが胸の底から沸き上がってくる。
 確かに、新会社に移ると行った時に、開発にいる同期から芦辺がわがまま、勝手で仕事では苦労したと聞かされた。
 現実には百人からの部員を抱えた部署の部長をしていた人物だ。
 だとしてもいくら何でもこんな乱暴なことは言って来ないだろう思っていた。
 聞いた中には芦辺を慕っていた部員も少なくないことも社内では聞こえてきていた。
「そ、そんな…。あんたは…、俺の仕事をなんだと思ってるんだ?」
 井上は思わず敬語で話すのを忘れてしまうくらいの苛立ちを感じた。
 一回の経理部員の腹立ちも芦辺にはどうでもいいことの様で、何の感情も表に出さずに、すました顔をして微笑む。
「さあ、経理だったよね」
「そうです。移動の辞令と一緒に、本社の経理部から業務の説明を受けたときに、芦辺さんと協力して数字を固めて経営企画の方へ報告すると指示を受けました」
「じゃ、作った数字を君に渡すから、それを経営企画に提出してくれればいいことだろう?」
「では、その数字はいつ頃いただけますか?」
「来月の中旬には渡すよ。それでいい?」
「それじゃ遅すぎます! 少なくとも今月末にはいただかないと、本社との数字の摺り合わせが出来ません!」
 あくまでも自分にやらせない態度の芦辺。井上は驚きながら、声を上げていた。
「それは私の方でやっておくよ。どうせ君は経理部の仕事を手伝っているんだろう? だからこっちは心配しなくていいよ」
「俺は引継の書類を作っているだけです。でもなんでそう思うんですか?」
「それは…、君の机に経理部のファイルが置いてあったから…」
 芦辺は本当に面倒くさそうに、深いため息を付きながら告げた。
 いつも顔を逢わせてもいない芦辺が何故そう思うんだろう?
 いや、何故そんなことを知っているのだろう? そんな疑問が井上の脳裏に浮かぶ。
 そこまで来て井上は、もしかしたら芦辺が仕事を本気でさせる気がないのではないか、それで無ければ、自分のことを疎んじているのではないか? そういう疑問が沸いてきた。
 そうだとしたら会社に近づこうとしないのも、こうやって話しを早く片づけようとしているのもすべて納得出来た。
 もちろん、芦辺が仕事は他人に手伝わさない主義だと言われれば、それまでだったが…。
 井上がそう言った瞬間、なんでお前とそんな話しをしなければいけないんだ、そんな風に語っていた芦辺の視線がきつくなる。
「君たち経営サイドの考えは判っていんだ。だから、君には予算に関してはあまり関わって欲しくないね」
 口惜しそうに呟くと、芦辺はまるで井上を睨み付けるように、眼鏡を外して目を細めた。そして、鼻から息を吐き、笑う。
「もちろん…、会社が動きだせば、それからは君にも協力して貰うこともあるかも知れないがね…」
「かもって、何ですが? それに魂胆って…。いったい芦辺さんは何を勘ぐっているんですか?」
 まるで自分が芦辺を陥れるために存在しているような、そんな言い方に井上は顔をしかめた。
 芦辺は井上の曇った表情も関係がないと言うように、すました顔をしている。
「勘ぐる? 本当にそうなのかな?」
 芦辺は感情を表にあまり出さないのだろう。
 口から出た言葉から、腹を立ててることは井上にも判った。何もなかったような顔で、口調も至って穏やかだった。
 反対に芦辺の真意を測りかねている井上の方が、声を荒立てている。
「そうじゃないですか。大体この会社の設立だって、芦辺さんが描いたヴィジョンが地に足が着いた状態で、送り出したいからって…。俺、経理の課長に言われましたよ、芦辺さんがやりたい様に出来る手助けをするんだって」
「…」
「だから、俺のこと…、信じてくれませんか?」
 言葉を重ねれば重ねるほど、芦辺への思いが強くなる。
 この人と共に、一緒に仕事がしたい、そんな感情が溢れだしてくる。
 思いっきり抱きしめたくなる…、そんな思いが。
 必死の思いで芦辺に訴える井上をあざけ笑うような、そんな侮蔑な表情を浮かべる。
「君が、君自身が口にすること自体、信じられないとは思わないの?」
 すべてを知っているのだと感じられる芦辺の余裕に、井上は益々混乱した。
 確かに新会社設立の会社側のもくろみも、芦辺の待遇も何となくだったけれど。
 井上は察しが付いた。だからよけい、自分が悪いと言われることが、井上を腹立たせている。
「何で、ですか?」
 少しだけ口調を強めに井上は訊ねた。そんな井上に今まで感情を感じなかった芦辺の言葉に、怒りと苛立ちを感じられるものに変わる。
「私が君を信用していないのは、会社のことだけじゃないと言うことだ」
「じゃあ、何ですか? そんな持って回った言い方せずに、はっきり言って下さい!」
 あまりに感情的になっている井上に芦辺は、鼻でフッと笑うとゆっくりと口を開く。
「君は…、あの晩、私だと判っていて、抱いて…、そのまま逃げるように帰ったんじゃないのか?」
「そ、それは…」
「仕事も家族も失った私の醜態を見られて、君はさぞかし可笑しかっただろう?」
「そ、そんなのあんたの被害妄想だろう? 俺は!」
「俺は 何なんだ…?」
「それは…」
 芦辺は自分の感情を抑えるように、大きく息を吐いた。もう一度ゆっくりと呼吸をする。
「とにかく、私は君に信じられない。だから仕事も任すわけには行かない」
「そんな…、大体逃げるようにって何だよ。確かに知っていたよ」
「だったら…」
「だけどな、俺は仕事を一緒にするのに、あんたがやりにくいと思って、知らん顔した方が、無かったことにした方がいいと思って、何も言わずに帰ったんだ。それを、人非人扱いされちゃたまんないよ」
「じゃあ、私が悪いと言うのかい、君は?」
「そんなのあんたの勝手じゃないか! いい加減にしろよ! ちょっと、マジで腹立った、もう上司だと思って話をするのをやめるぞ!」
「何だと?」
「確かに、仕事のことはあったし、なるべく急ぎで解決したかったってのは、あったけど…でもさ、俺、マジであんたが心配だったんだよ。あんたは犯り逃げって思ってるかもしんないけど」
「そうだろう?」
「ったく、あんたもあの晩のこと、少しでも覚えてるなら、俺を悪者にする前に少しは考えろよ! 俺がどんな思いで今日、あんたに逢いに来たのか…」
「どっちが勝手なんだ! 確かにあの晩、妻から離婚したいと言われた。それで年甲斐もなく飲んで、君に縋ったのも覚えている。しかし、それだって…」
「それだって何だよ。あんたは自分の犯られたこと認めるのが、嫌で俺の所為にしてたんだろう? 幸い俺は本社からあんたの首に鈴を付けに来た監視役だったしな…」
「そんなことは…」
 声を荒立てた井上に押されるように、芦辺は反論の言葉を失った。
 芦辺に言った言葉は、すべてを無かったことにしようとした、それは井上自身が反省していた。
 上手く伝えられない芦辺への思いに苛立ち、井上は益々声を荒立てる。
 半ばやけをおこしているように。
「あー、もう嫌だ! 確かにあの晩のことはお互いに忘れた方がいいと思った」
「ほらみろ。君だって!」
 非難しようとする芦辺の言葉を遮り、井上は続ける
「確かに俺は、あんたにも俺にも何も言わずに、何も無かったことになった方がいいと思ったから、犯り逃げみたいな態度をとった。それは認めるよ。俺が悪いんだ」
 〝ほらそうだろう〟と言う憎しみを込めた非難の視線で、芦辺は井上を睨み付ける。
「だけど、だけど、やっぱりあんたが気になった」
「何を勝手な…」
「そうさ、勝手だよ…。でも、あんたの会社に移って挨拶したときシカトされて腹が立った」
「だったら…」
「でも、それから、あの晩からのあんたのことが頭から離れなくて、離れなくて、最初はただあんたとあんなコトしたのに罪悪感があるんだと思っていた。でもそれ以上にあんたが心配で…」
 芦辺への思い。
 何もかもが頭の中でぐちゃぐちゃになり、井上は泣きそうになっていた。
 ここで泣いてしまうと、経理部から引っ越して来た二週間の辛さが、すべて消えてしまう気がした。
 井上は血液が逆流しそうな思いを必死に押さえて、口を開く。
「あんたがこの部屋で、一人でどうしてるのか、心配で、心配で…」
「だから…、何なんだ…」
 自分に苛立ちながら、井上は立ち上がる。
 深く椅子に腰掛けていた芦辺を強引に自分へ引き寄せ、今までの思いをすべて込めて抱きしめた。
 いきなり抱きしめられ、芦辺は驚きに身動きが取れないまま、井上を受け入れる形になってしまった。
 愛している…。
 弱さに付け入るような形でもいい、芦辺を支えていきたい。
 どんなことがあってももう芦辺を悲しませないようにする。
 どう告げていいのかもどかしく苛ついていた気持ちを、必死に抑えるように、ゆっくりと息を吐き、それから、優しく、そっと呟く。
「あんたにマジに惚れたんだ…。なあ、こんな恋愛の始まり方しちゃだめか? あんたも心の透き間を少しだけでもいいから埋めるつもりで、俺とつきあってくれないか?」
「何を言ってるんだ! 君は自分で言っていることが判っているのか?」
 芦辺は腹を立てたのか、井上の腕を振り払うように立ち上がる。
 自分から離れようとする芦辺を井上はもう一度、今度は力一杯抱きしめて、顔を近づけ微笑む。
「判ってるさ、こう言うことだよ」
 言いきると井上は芦辺を今まで以上にもっと力強く抱きしめて、唇で反論しようと開かれていた唇で塞いだ。
 久しぶりに触れる体温に、井上はずっと求めていた温もりを再認識する。
 芦辺の方は必死に暴れて、もがき、自分よりもがたいの大きな井上から逃れようと暴れる。
 井上は一回唇を外すと、腕のポジションを変えて、まるで子供を慰めるように優しく抱きしめる。
「なあ、あんたは天才クリエーターだろ? だったらさ、俺をあんたの技術で使いこなしてくれよ」
「…」
 芦辺は機嫌悪そうに眉音を寄せて、小さく息を吐くと、何も言わずにそっぽを向いてしまった。
 諦めたくない。諦めないと決めたから、こうやって芦辺の元を訊ねた。
「ここから始めようよ、芦辺さん…。俺、開発する技術とかは知らないけど、事務面はあんたが成功するまでずっと手伝う。だからあんたのパートナーとして、試用期間あってもいいから…、な、芦辺さん…」
 そっぽを向いたままだったけれど、芦辺はまったく抵抗をしなかった。
 井上は抱きしめる片方の手を外した。それから外した方の手を芦辺の顎に当て、顔を自分の方へ向ける。
 先が触れるだけの口付けを何度も繰り返し、芦辺の背に回している方の腕で先ほどよりも強く抱きしめてから、口をこじ開けると、舌と舌を絡めていく。
 酔った勢いだとか、そんな一時の衝動ではない。
 この二週間、仕事だけではなく、自分の心を離さなかった相手を、ようやくこの手に捕まえたのだ…。
 遅刻しそうな朝、駅で見かけた時のあこがれからくるどきどきなく。
 奥さんから別れを言い渡され、飲めない酒を無理に煽っていた姿に同情したのでもない。
 ただ抱きしめ、お互いの躯を繋げて一つになりたいのだと、はっきりと言い切れる。
 最初は有名クリエーターへのあこがれだった。
 お互いの関係にバランスが崩れれば、会社を去る日が来たとしても構わない。
 今までふらふらしていた井上に、覚悟を決めさせるほどの強さをもった真剣な恋愛だった。
 井上はそんな自分の思いに賭けたかった。
 突き上げる欲情。
 井上を否定して逃げようとしている芦辺は、自分の事をどう考えているのか判らなかった。けれど絡まりお互いの舌や混ざり合う唾液が、井上の思いを拒んでいないことを間接的に伝えてくる。
 これは恋愛の第一歩なのだ。
 井上は芦辺を強く抱きしめると唇を離す。
「ベッドに行っていい?」
 芦辺は深いため息を一回付くと、何も言わずに歩き出した。
「あ、芦辺さん。待って」
 慌てて井上が追い掛けると、芦辺はベッドに腰掛けて、着ていた服を脱ぎ始める。
「芦辺さん?」
 何をするのかまったく判らない行動に戸惑いながら、見つめる井上を楽しむように、芦辺はすました顔で、脱ぎ始めたTシャツを戻そうとする。
「脱がなくてもいいのか? それとも、やっぱり帰るか? 今なら、さっきの告白もすべて無かったことにしてもいいが…」
「そんな…、待って…」
 井上は、慌てて服を脱ぎ放つと、裸のままベッドへ掛けよった。
 まだ服を脱ぐ途中で止めたままの芦辺を抱きしめる。
 大切なものを扱うようにベッドへ横たえる。
 芦辺は覆い被さってくる井上を押し戻し、上半身だけ起きあがる。
「せっかちな奴だな。服を脱ぐまで待て…」
 小さくため息を付くと、面倒くさそうにシャツを脱ぎ、ズボンを緩めてから脱ごうとする。
 井上はにっこりと微笑みながら、芦辺を手伝いズボンと下着を一気に足から脱ぎ取ると、笑みを意地悪そうものに変える。
「あ、靴下どうします? 脱ぎます? それとも履いたままがいいですか? 寒いから足、冷やさない方がいいですか?」
 ちょっとだけふざけた口調で言ったつもりだった。
 芦辺はぴくりとした後、触れている井上をじゃまそうに払うと、渋い顔をしながら靴下を一人で脱ぐ。
「手伝いますよ」
「いらない、もう脱いだ。さあ、煮るなり、焼くなり、好きにしてもらおうか? ここまでお前に協力したんだ、後はお前の腕次第だからな…。もう待ったは無しだぞ!」
「はい…」
 自棄なのかは判らなかったが、素っ裸になると乱暴にベッドに寝ころびそっぽを向いてしまった。
 背中越しで恥ずかしそうに見える芦辺の姿が、井上にはとても可愛く感じられてしまった。
 四十近い男に対して。
 井上はクスリと笑うと顔を自分の方に寄せて、額に音を立ててキスをする。
「本当にいいんですね?」
 芦辺にいきなり服を脱がれ、裸でベッドに上がるまではよかった。これから自分たちが行う行為は、もう普通では無い。
 少しだけ胸に残る不安から、井上は芦辺に尋ねた。
 井上の感情の揺らぎが感じられたのか、芦辺は舌打ちを一回する。
「この前は、酔った勢いですべてが許されたんだろうけれどな、今日はそうはいかないだろう?」
「それは…」
「これ以上のことをすれば、もう無かったってことには出来ない。そんな責任を君は取る自信がないのか?」
「そ、そんな…」
 自分から離れてもうすべてが終わったのだと告げるように、服を着ようとする芦辺を見て、井上は慌てて抱きしめた。
「ごめん…。もう悩まない…」
 耳元で呟くと、井上はベッドにゆっくり芦辺を横たえた。
「電気、このまま点けてていい?」
「しらん…」
 諦めたようにいったい深くため息を付いてから、ベッドに寝ころぶと、真っ直ぐに井上の顔を見つめていた芦辺は、羞恥心からかまたそっぽを向く。
「芦辺さんって、本当に可愛いよね…」
「そ…」
 反論しようと口を開く芦辺の唇を井上はそっと塞いで、音が漏れるような舌を絡めた濃厚な口付けをする。
 先ほどの一方的に井上だけが積極的だったものではなく、芦辺もそれに酔う。
 まるで躯を既に繋げているような錯覚に陥るような、それだけに没頭できるものを…。
 もっと芦辺と関わりたい。強い思いが井上にどんどん増してくる。井上は口付けながら、芦辺の体温を確かめるように触れていく。
 次へのステップへの前技ではなく、温もりを知るためにだった。
 重なり合う肌に熱が高まり、お互いの股間から理性が欲望にはっきりと変化を感じられる。
 井上は優しく唇を離す。
「芦辺さん、俺、すごくわがままになりそう…」
 井上はそう漏らすと、芦辺の首筋に吸血鬼の様に唇を落とす。
「十分わがままだよ…」
 芦辺はため息と熱い息を混ぜながら、井上に身を任せてていった。
 鎖骨、胸、腹と、何度も味わうように口付けていく。まるで芦辺を自分だけのものだと主張するように…。
 芦辺の口からは言葉は発せられないが、その変わりに出る吐息や、喘ぎ声が拒んでいないことを伝えてくれる。それどころか井上と同じ行為に、芦辺が引き込まれて行っているのが判る。
 芦辺の手がそろそろと井上の股間にのびてくる。
「君も…」
 その手を辞退するように、自身から外すと額に唇を落とし、躯を起こす。
「ごめん、早く一つになりたいから、今は俺に任せて…」
「しかし…」
 一人良い思いをしている芦辺は頬を赤らめながらも、恥ずかしそうに表情をしかめた。
 優しくなだめるように、井上は唇にチュッと音を立てたキスをする。
「その変わり、この指を舐めてくれる?」
 言葉の意味をすぐに理解したのか、益々顔を赤らめながら芦辺は、井上の言葉に眉をひそめた。
 それは本当に一瞬のことで、嘆息すると赤く艶めかしく見える舌で、井上の人差し指と中指を舐め始めた。
 色を感じる芦辺の舌。
 芦辺の唾液で濡れた指が、部屋のオレンジ色の灯りに光を帯びている。
 あまりに欲情をそそる芦辺の表情。
 今までの人生の中で、両手に余るほどの女性とつきあった経験があったが、これほど股間に直接刺激を与えるような表情を見たことがなかった。
 確かに今までの経験だと、こんな風にベッドの中でも、50/50の関係ではなかったからよけいなのかもしれない。
 二人の距離が、不満なのではない。
 こんな関係が病みつきになりそうで怖いのだ。自制という言葉すら消え去りそうだった。
「芦辺さん…、そんな顔しないで…。俺、自分のこと制御出来なくなっちゃいそうだ…」
 舐めるのを止め、芦辺は笑みを浮かべる。
 余裕すら感じられる表情は、益々井上を誘惑しているような、そんな表情だった。
「もう、だめだって…。そんな顔しないで。マジに止まんなくなるよ?」
 芦辺は鼻から軽く息を吐き、不適な笑みを浮かべたまま、再び指を舌で舐り始めた。
 耳に届く舐る音は、井上の股間を直撃していく。
「知らないからね…」
 そう言うと、井上は芦辺をベッドに押さえつけ、唾液でたっぷり濡れた指で今日はまだ一度も触れていない蕾に触れる。
 硬く開花する時が本当にあるのか、不安を感じさせる秘めたる部分。
 井上の気持ちは早く芦辺と一つになりたくて、どんどん急いてくる。
 自分の屹立したものから溢れる体液と、芦辺の唾液を借りて一つになる準備をする。
 脅えさせないように、時折、芦辺の胸を摘んだり、股間で揺れているものを刺激しながら、ほぐしていく。
 歯を噛み締め、痛みと快感をやり過ごそうとしている芦辺に、指が一本やっと入った部分を広げてやりながら、井上は触れるだけのキスをする。
「そんな顔しないで。芦辺さんが感じているのか、痛いのか判らない…」
 脅えている表情している芦辺は、躯を硬くしている。井上は苦笑しながらも、指を筒のなかで何回かぐるりと回した。
 途端に芦辺が感じる部分を触れたらしく、いきなり息を大きく吐くように口を広げる。
「あっ…。いや…」
「見つけた…。ここが感じるんだね…」
 シーツを必死に掴み、目をきつく閉じながら、胸を喘がせている芦辺の額にキスをする。
 井上は芦辺が感じる部分を中心に、出来るだけ傷つけないように指を動かしていく。
 芦辺は強い快感の波に飲まれているのか、股間では触れてもいないのに腹に付きそうなほど下半身がぴくぴく震えている。
「一回いっちゃった方が、芦辺さんは楽なのかな?」
 井上は芦辺が感じてる部分を強く押しながら、逆の手で屹立したものを数度しごく。
「ぁ…、あぁ…」
 激しい喘ぎ声、そして、芦辺は井上の手の中で精を吐き出した。
 べっとりと手にこびり付く体液。芦辺は肩を揺らしながら、呼吸を整えている。
「気持ちよかった? 芦辺さんには悪いんだけど、今度は俺を気持ちよくしてね?」
 井上は芦辺の唇を一歩的に奪うと、濡れた指を一気に三本にし、丁寧に濡らしながら、蕾を広げていく。
 一旦達して力の抜けた芦辺の躯は、井上の指を容易に受け入れる。
「芦辺さん、もう大丈夫だよね? ちょっと恥ずかしいかもしれないけど、我慢して? 痛くしないようにするだけだから…」
 慰めるようにそっと告げると、井上は芦辺を後ろ向きにし、歩幅を取り、腰を高く上げさせると、少しずつ自分を埋めていく。
「い、い、井上…」
 苦しそうに息をしている芦辺。
 亀頭の部分をやっと飲み込んだだけだったけれど、あまりの羞恥からか芦辺の口から発せられる言葉は震えている。
 反対に初めて自分の名を呼ばれた井上の体温は、一気に上昇する。
「ごめんね。嬉しい、芦辺さんに名前で呼んでもらえた。でもせっかく恋人同士になるんだから、〝寿一〟って読んでよ。ね、芦辺さん…」
「じゃあ…、特別に、今だけ、恵助って読んでいいよ…」
 苦痛に表情を曲げながら、芦辺は井上の方へ顔を向け、笑みを浮かべている。
「本当? 嬉しいです、恵助さん…」
 後ろ向きの芦辺の項に唇を寄せると、一気に芦辺を貫いた。
 いきなりの衝撃に、芦辺の口からは苦痛を訴える叫び声が漏れる。
「あぁ…、ああ…」
 芦辺の呼吸までしばし待つ。
 動いても大丈夫そうだ、そう判断出来るほど落ち着いたのを待ってから、井上は芦辺をゆっくりと反転させ抱きしめる。
「ねぇ、恵助さん。名前で呼んでると、何かマジに恋人同士になったって感じですよね…。嬉しいな…」
「そ、そんなものか? 井上は…」
「寿一ですって…。ま、慣れて下さいね、そのうち…。だって、すごく親しくなきゃ名前でなんて呼べないじゃん。俺みたいに同じ名字の人間が一杯いる場合は別だけど…」
「芦辺はめずらしい名字だからな…。寿一…」
 名前で呼び合うのが恥ずかしいのだろうか。
 最後の方は聞き難いくらい早口だった。
 微かに〝寿一〟と聞こえ、井上はにっこりと笑みを浮かべる。
「ねえ、恵助さんにお願いがあるだ」
「お願い? やっ、あ…」
 あまりに可愛い芦辺をからかうように井上は、少しだけ腰を回す。
 急な刺激に芦辺の口からは、繋がっている部分が、感じているのだとはっきり判る甘い喘ぎ声が漏れる。
 猫のようにじゃれ合い、ふざけ合う二人。
 芦辺と言うゲームクリエーターを知ったとき、駅で逢ったとき、一人で煮詰まっていた二週間、こんな風に幸せな気分に浸れるとはまったく予想出来なかった。
 満ち足りた気分は、井上の表情を笑みに変える。
「明日さ、恵助さんが仕事じゃなきゃ、俺とデートしませんか?」
「え?」
「恵助さんとゲーセン行って、一緒に夕飯食べて、それから、こうやってまた抱きしめ合って…。普通の恋人のデートしたい」
 中途半端に与えられる快感にうっすらと汗をかきながら、芦辺は突拍子もない井上の言葉に複雑な表情をする。
「普通の恋人って…、俺たちは男同士だからあり得ないだろう? それに、こんなおじさん相手にしたいのか?」
 芦辺の頬に唇を寄せると、井上は出来るだけ優しい声で囁く。
「恵助さんはおじさんじゃないですよ。それに、自分でおじさんって思わなきゃ、おじさんにはならないって」
 眉を寄せていた芦辺の表情が変わり、鼻からはかれた息に、笑みがこぼれたのが伝わる。
「そんなものなのか? デートね。まあ、いいか…。明日は別に予定が入っていないからな…」
「やったー、恵助さん、この調子で仕事も俺に協力させて下さいね」
「それは…」
「大丈夫ですよ、今あなたに骨抜きにされているから…。俺は恵助さんの下僕になりますよ」
「それは、それで迷惑な気もするんだが…」
「そんなこと言わないで下さいよ~。恵助さん」
 じゃれ合うように二人の甘い時間。他愛もない約束は、二人の幸せに満ちている時間を伝えている。
 拗ねながら、少しだけ意地悪く自分のリアクションを伝えようと、井上は腰をもう一度回した。
「あ…、だめだ…」
 微笑み楽しんでいた芦辺が縋り付く。
 芦辺は大人の余裕をみせるようににっこりと笑って井上の額に自分からキスをする。
「じゃ、頑張ってもらうかな…」
「芦辺さん!」
 初めて貰った芦辺からの口付け。
 嬉しさのあまり、芦辺の中に自分がいることを忘れて、思いっきり抱きしめる。
「い、井上、だめ…。あっ…」
 急に動かれ繋がっている部分の刺激に、芦辺はうめき声を思わず挙げてしまったが、それすら幸せの一部だと思えた。
「頑張らせてもらいます~、あ、こっちもそろそろね…」
 苦痛と快感に唇を噛み締めている芦辺の耳に空気を入れるように、そっと井上は囁いた。
 芦辺は顔を真っ赤にしながら、井上の頭をもう一度こづく。
 自分の言葉通りに井上は、ゆっくりと腰を動かし始めた。
 井上の形で広げられた部分を動かされ、今まで言葉を語っていた口はただ息を吐くだけで精一杯になる。
「うっ…、あぁ…」
「恵助さんが熱く絡みついてくる…」
 熱に酔ったように、腰をスライドさせながら、井上はそう呟いた。
「気持ちいい…」
 芦辺は繋げられてから何度もふざけるように中を掻き回されながら、鈍い快感をもたらされていた。その所為か、動きが激しくなると自然に感じ方も敏感になっていく。
「うっ、寿一…」
 井上を捕まえて離さないように、芦辺の熱い筒はどんどんきつく締め付けてくる。
 ただの性をはけ口ではない。
 本当に気持ちが繋がっているから、感じる本当の快感なのかも知れない。
 芦辺の躯がどんどん井上を包んで離さない。
「恵助さん…、いいっ…。あっあん、イキそう…」
 どんどん引き出される快感に芦辺は喘ぎながら、身悶え溢れ出すものをやり過ごそうとシーツを握りしめる。
 井上の動きに合わせて揺れる腰。そして快感の象徴は、粘つく涎をたらしている。
 敏感な蕾を開かれ、芦辺が屹立したものが涙を流しながら、二人の腹を濡らしていく。
 自分がもたらすもので感じてくれている自覚が井上を喜ばせ、芦辺の最奥を目指して、腰を打ち付ける速度を速めていく。
「あ…、いい…。恵助が締め付ける。あ、う…、イく…」
 井上は奥に自分の精を思いっきり吐き出した。
 熱い井上の熱を受けて、芦辺も背を何度か敏感に震わせた。そして井上を追うように、芦辺もそれを自制の効かない官能を吐き出した。


「あ、ごめんな…、今日、帰らないから…。ちゃんと戸締まりして気を付けて寝ろよ。…、明日? えーと、夕方くらいには戻るから…。飯? いらないよ…。ごめんな、結希、あぁ、お休み…」
 井上は芦辺を起こさないように、こっそりと結希に連絡を入れる。
 今晩、帰宅しないと連絡を入れた。
 滅多に外泊をしない井上は、結希に彼女が出来たんでしょう? とからかわれた。
 もし結希は芦辺ときちんとつきあい始めたと告げたら、どう思うんだろうか。
 ずっと結希も幸せになれる相手を、選ばないといけないと思っていたはずだった。
 あれだけ強く告白しておきながら、それでも本当に上手くやっていけるのか不安がないわけではなかった。
 結希に嫌われるかもしれない…。
 芦辺とのことは、きちんと結希に説明したかった。
 芦辺が本当に自分とつきあってくれるか自信もなく、結希にきちんと説明する勇気も今は出来なかった。
 外泊の理由に困り、井上は友人の所へ泊まると嘘を付いた。
 自分がどんなに小さい人間かを思い知らされ、井上はため息を付きながら電話を切った。
 それから、温もりを確かめ合い、井上を受け入れ、疲れてベッドで休んでいる芦辺に向ける。
 芦辺恵助…。
 冷静に考えれば、手が届かない相手だった。
 今は色々なことがあって井上の相手をしてくれているだけかもしれない…。
 歯止めの利かない芦辺への思いに戸惑い、井上はため息を付いてから電話を着ていた服のポケットに仕舞った。
 電話を終えてベッドに戻ると、芦辺の肩が微かに動くのに気付く。
 井上は慌ててベッドに戻って、表情を伺うようにのぞき込む。
「恵助さん…、大丈夫? もしかしたら俺の声で起こしちゃった?」
 軽く肩を揺り動かすと、声をかけると微かに苦痛を訴える呻き声が聞こえてくる。
 井上が与えた耐えられないほどの熱に、芦辺は躯の自由が利かなくなっているらしかった。
 声に目覚めたのか、戻ると芦辺はゆっくりと視線を井上へ向ける。
 まだはっきりと目覚めた様子ではない芦辺は、井上を視線の視線と合わさった瞬間、驚いた顔をした。
 気絶のするように意識を手放した所為で、記憶が混乱しているようだった。
 ベッドの上にいる芦辺は、もう上司ともあこがれのそんざいとも違う、大切な人。
 そんな風に考えられる井上は、この関係を無かったことにはしたくなかった。
 芦辺を抱くためにくどいた訳ではない。芦辺はどう思っているのだろうか? 行為には応じてくれた。
 言葉では何も聞いていなかった井上は、芦辺の言葉が知りたかった。
 まだ微睡んでいるのか、突然芦辺は動こうとして、躯の痛みにベッドへ倒れ込んだ。
 井上は芦辺に慌てて近づく。
「大丈夫!?」
 息を荒くしながら、歯を噛み締め、芦辺は痛みが落ち着くのを待っていた。
 苦しそうな芦辺の様子に、そこまで来て初めて芦辺に無茶なことをしたのだと井上は知った。
 躯を繋げる前に、あれだけほぐしたはずだった。
 これだけ苦しそうにしている芦辺の姿を見て、自分の性を抑えられなかったことに反省した。
 あの晩、酔って感覚が麻痺していたこともあったのかもしれないが、あまりにすんなり自身を芦辺は受け入れてくれた。
 男同士のこんな関係を忘れた方がいい…、そう思っていたあの晩とは違い今日は優しくしたかった。
 芦辺が目覚めた瞬間、井上は隣にいたかった。と言っても後の後悔かも知れなかった。
 何も付けずに精を吐き出してしまった責任も感じられた。
 せめてとの思いで、意識を失っている間に、急いでシャワーを浴びると、濡れたタオルを用意して、汚れた躯を何度か拭った。
 大切なものを扱うようにほぐしたつもりだったが、井上を受け入れた部分を拭うと、気を失っている芦辺の表情がきついものに変わり苦しそうに息を吐く。
 赤く腫れてはいたが、怪我はしていないようだったが、それでも相手の受け入れる部分を考えずに行為に及んだ自分に反省した。
 躯を拭き終わってもなお目覚めない芦辺。
 芦辺を起こさないように井上は、結希にこっそり連絡をした。
 冷静に考えれば判ることだったけれど、男性との性交渉の経験もあるのだろうと勝手に思ってしまっていた。
 これだけ苦しそうに悶えている芦辺に、井上は罪悪感を覚えながら、恐る恐る訊ねる。
「ねぇ、もしかして…、あの晩が…、初めてだったとか?」
「?」
「お、男と抱き合うの…」
 何と言えばいいのか判らない曖昧な言葉だったけれど、意味が通じたらしく芦辺は眉を寄せる。
 井上は自分へ伸ばされた芦辺の手があまりに普通だったから、普段受け入れる場所ではない部分でするのが、あまりに自然だった。
 だから無理な行為だと全く考えていなかった。
 あまりの不自然のなさに、嫉妬すら覚えていた。しかし芦辺は、ゆっくりうつ伏せていた状態から、横になって肩で息をすると、歯を噛み締めながら一回うなずいた。
 ゆっくりと息を吐きながら口を開いた。
「あの晩、お前に見捨ててくれた所為で、大変な目にあった…。翌日は会議があったがキャンセルさせてもらったよ…」
「うそ…」
 血の気が引いた。
 井上は芦辺が腹を立てた理由を少しずつ理解してくる。
「うそ、じゃない。本当に大変だった…。だが、お前に縋り付いたのは私だから、自分でその責任を取るしかないだろう?」
「…」
「それにな、お前が言っていたように、なかったことにした方がいいとも思ったよ…」
 それだけ言うと、局部に響くのか、芦辺はため息にも似た呼吸をしていた。
 この人は不器用なのだと感じた。
 天才と呼ばれ、自分の夢通りに歩み、仕事で、そして家庭で挫折した四十近い男が愛おしく思えてならなかった。
 井上は傷に障らないように芦辺を抱きしめると、額にキスをする。
「ごめんね、俺、移動のこと知ってたから、お互いの仕事に影響出るって。ほんと、自分のことしか考えていなかったんだよね…」
 シュンとしてしまった井上の額をこづくと、芦辺は体制を無理のないものにゆっくりと変える。
「いや…、私も他人のことを考える余地が、最近なくてね…。でも、大丈夫…、大丈夫だ…」
「ほんと?」
「あ、ああ…。ただ今は、躯が痛いから…、動けないがな…」
「無理に動かないでいいよ。俺は芦辺さんの下僕になるって言ったでしょう?」
 井上は芦辺の躯に触らないように、腕を伸ばし、そっと額にキスをしようとする。しかし、芦辺の顔をすっとずれる。
「満足しらた…、また〝芦辺さん〟に戻るのか…。別にいいがな…」
 ため息混じりに呟く芦辺。
「芦辺さん?」
 何を言っているのか判らず、井上は首を傾げた。
 恵助と呼ばなかったことに距離を感じて腹を立てたのだろうか?
 芦辺は何かを考えているらしく表情を曇らせている。
「この時間ならまだ終電に間に合うだろう? 間に合わなかったらタクシー代は請求すれば支払うから、君は帰りなさい…」
「ちょ、ちょっと、何言ってるの? 芦辺さん!!」
 名前で呼ばなかったことを腹立てているのだろうか? 部屋へ来たときと同じように、よそよそしい冷たい声色に変化していた。
 井上からすれば、いたしていた時は良かったが、熱が冷めればやはり恵助と呼ぶのは、いささか恥ずかしかっただけだった。
 頬を赤らめながら井上は、芦辺を抱きしめ、慌てて否定する。
「そ、そんな、何言っているの? 明日はデートする約束したでしょう? それとも、俺がいちゃ寝れない? もう無理に抱いたりしないから…、ね、今晩は一緒にいたいよ。だめ?」
「…」
「ね、どうして応えてくれないの? 俺言ったよね? 芦辺さんが好きだから、一緒にいたいって…。明日、一緒にゲーセン行って、バーチャルバトルしたいんだ!」
 小さくため息を付いた後、芦辺は冷えた目線を井上に向ける。
「バーチャルバトルね…」
「だめ?」
 芦辺は、視線を井上から外したと思ったら、体制をうつ伏せにゆっくり直し、もう一度嘆息してから、ベッドヘッドを見つめる。
「君は、きっと勘違いしているんだ…。それで無ければ、ただちょっとだけゲーム界で名の通った私と知り合えて、つきあってみたいと思っているだけだ…」
「何でそうなるの?」
 あまりに信じられない芦辺の言葉に、井上は声を震わせ訊ねた。
 井上の信じられないと言う思いとは反対に、芦辺はクスリと笑う。
「私は仕事さえあれば大丈夫だからね…。君に気を使わせて悪かったと思う。でももう帰りなさい。君だって待っている人間が家にいるんだろう?」
「待っている人間…って、結希は…」
「結希さんって言うのか…。君はいくらでの恋愛を楽しめる年齢だろうが、私はあまり得意じゃないんだ…。年齢的にもね…」
「そんなことないです! 芦辺さんだって恋愛したっておかしく無いですよ」
「しかしね…」
「もういい!」
 井上はそう怒鳴ると、芦辺の背を抱きしめた。
「もう止めなよ、あし…、ううん、恵助さん…。そんなに脅えないでよ…。家は両親が離婚してて、結希は一緒に暮らしてる妹だよ…」
「離婚?」
「うん、俺と結希を置いて両親は出ていったんだよ」
「すまん…」
 いいんだと言う変わりに、痛そうにしている部分を避け後ろから抱きしめる。ふれた部分から、芦辺の肩が震えているのが伝わった。
 この人はゲームを作ることしかなかったんだと、思える。
 飛ぶ鳥を落とす勢いでゲーム界に君臨していた人間が、部署を追われ、会社を追われ、離婚を言われ、家族を失った。
 芦辺の人生をすべてわかるとこは出来なかったが、自分でもリストラ対象になった人の話を聞いたりすれば、不安でやるせなかったりする。
 これだけマイナスなことが起こり、それでも芦辺恵助と言う天才ゲームクリエーターの名前はどこに行っても付いて回る。
 不安で押しつぶされそうな芦辺に、井上は何ができるんだろうか?
 小さく息を吐くと、井上は、耳元にそっと口付ける
「確かにね、芦辺さんの名前も知っていたし、実はずっとあこがれもあった。それに、奥さんと離婚の話しをしている所に立ち合ってさ、恵助さんが縋り付く手に欲情した…」
「だったら…」
 開こうとした芦辺の口に指をあて、言葉を遮る。
「でもね。今なら自信持って言えるよ。俺、恵助さんと一緒に歩いて見たい。確かに、まだ恵助さんとは始まっていないけど、でもかけてみたいんだ、この関係に…だめ?」
「さっきの電話の主が妹さんだったとしても、君はまだ若いんだ…。もっと普通の恋をするチャンスがあるだろう? 何も俺でなくても…」
「俺は、恵助さんがいい」
「しかし…、妹さんだって納得しないだろう?」
「ゆっくり説明すれば判ってくれるよ。俺は彼女を苦しめたくないってずっと思ってから。だから自信があるんだ。芦辺さんと一緒でも、彼女を幸せに出来るって」
 根拠がある訳ではなかった。実際電話を切ったときに、そんな自信はひとかけらもなかった。
 芦辺への止められない思いは、きっと結希も判ってくれると信じたかった。
 勝手な論理かもしれないけれど、人は別れるよりも出逢う方が幸せだから、結希も判ってくれると思うことにした。
「ね、怖がらないで、これから始めればいいじゃない?」
「…」
「俺、もし恵助さんが出てけって言うなら、いつでも会社、辞めていいよ。でも今は、恵助さんを手伝って、ゲーム、作ってみたいと思っている」
「…、そんな…」
「開発のことは全然判らないけど、でもそんな力が恋の力と平行してかかってもいいんじゃない?」
 芦辺は目を閉じ、そして、大きくため息を付いた。
「ねぇ、恵助さんが嫌じゃ無ければ…、会社以外では、恵助さんって呼ばせて。ね、恵助さん…、マジ、好きです。つきあって下さい!!」
 〝中学生日記〟のような今のティーンでもしないような告白だった。それでもこれが一番気持ちを伝えられる自分らしい言葉だと思った。
「有り難う…」
「芦辺さん」
「でもね…、私は…仕事のためなら、家族を省みないほどの、わがままな男だ…」
 泣いているのではないかと思えるほど、トーンが下がった芦辺の声だった。
 井上は芦辺の背中を、子供をあやすように何度か優しく叩く。
「そんなの関係ないよ。だって、俺たちは、一緒に仕事しながら、恋愛もしようとしてるんだもん」
「だったらよけい…」
「違うよ、二倍問題があるかもしれないけど、二倍お互いを知って、嫌なところも、良いところも判ること出来るだろう?」
「しかし…」
「俺には自信があるんだ。芦辺さんが仕事にわがままになっても、助けること出来る…そんなね」
 不安そうに見下ろしている井上。芦辺は少しだけ顔をしかめた。
「たいした自信だな…」
「うん、俺、これから起きることに…、どきどきしてる。あ、でもこのどきどきが無くなったら、きっともっと自然な恋人以上のものになれると思ってる。芦辺さん、俺だってもうすぐ三十で、そう若い中には入らないんだよ?」
 抱きしめる腕が、強くなる。芦辺は深々とため息を付く。
「どっちでもいい…、好きにすればいいだろう?」
 恥ずかしげにそっぽを向いた芦辺を、井上は微笑みながら抱きしめた。
「ね、一つ聞いていい?」
「なんだ?」
「明日デート、してくれる?」
「痛みが収まったらな…」
 芦辺は苦笑しながら、井上のキスを受け入れた。



  * * *



 その晩井上は芦辺を抱きしめながら、翌日の昼までゆっくり同じベッドの上で休んだ。
 ホテルの近くにある地下街で、ハワイ風カフェでブランチを摂ってから、約束通りホテルの近くのアミューズメントセンターに行く。
 芦辺がプロデュースしたバーチャルバトルの対戦をした。
 勝てると踏んでいた井上だったけれど、雑誌にも載っていない裏技を知っている芦辺に不覚にも惨敗してしまった。
 井上が負けた悔しさに何度も戦いを挑んでいると、周りに芦辺の顔を知っている客が集まりだした。
 小サインが始まりそうな雰囲気になって、二人で笑いながら逃げた。
 井上は、芦辺に群がるファンとは違う時別な姿を知っていることを心の中で、少しだけだったが、自慢したかった。
 それから普通の恋人同士のように、二人座りできる他社で製造している大型のメダルゲーム少し少しだけ遊んだ。
 ゲームをすると芦辺はやはりクリエーターの血が騒ぐらしく、事細かに動作を観察していた。
 まじまじとゲームを調べて、遊ぶと言うよりも、基礎研究している芦辺を見つめながら井上は昨日から思っていた提案を口にする。
「そう言えば、あのホテル、いつまでいるの?」
「さあな、でも、引っ越しも面倒だし…。まだいると思うが…」
「ね、家、来ない? 妹いるけど、一戸建てだから、部屋余っているし…」
「しかし…」
 少しだけ欲張りな思いだった。しかし、がらんとしたホテルで、一人、暮らしている芦辺を見ている
「ね、そうしなよ。ホテル代って経費で出ないよ?」
 子供のように駄々をこねる井上に、呆れたように芦辺は息を吐く。
「もう少し待ってくれないか?」
「もう少しってどのくらい?」
「どのくらいって…」
 井上の突拍子もない提案に、芦辺は表情を歪める。
「だって、そうでしょう? 明日? 来週? 来月?」
「…」
 恋人だと当たりで勘ぐるのではないかと言うほど、猫が飼い主にすり寄ってご飯を貰うときのような態度で井上は、芦辺の太股に置かれた手に触れる。
「ね、夕べみたいにむちゃはしないよ。でも少しでも芦辺さんと一緒にいたいんだ…。だめ?」
 芦辺は困ったようにため息を吐くと、手を裏返した。そして逆に井上の手を握る。
「そうだな…、やっぱり今は自信がないんだよ。だからもう少し私の気持ちがはっきりするまで…。そのくらい待てないか? まだ三日目だろう? 君と知り合って…」
「そうだね…。急ぎすぎる恋も、遅すぎる恋も上手くいかないって言うもんね…。じゃあ、仕事の邪魔しないから、俺が芦辺さんのところに行ってもいいよね?」
 唇を尖らせ、自分を納得させる井上に、芦辺は微笑む。
「そうだな、妹さんに迷惑をかけないくらいにな…」
「あ、それを言われると…。でも会社でも逢うもんね」
「ああ、そうだな…。君には一月に経営企画に提出する資料を、山ほど作ってもらわなければいけないからな…」
「あ…」
 動きを止めて、握っていたメダルを落とす井上を芦辺は声を立てて笑った。
 リラックスしている芦辺。
 こんなナチュラルな姿を見れるとは思っていなかった井上も自然に笑みがこぼれていた。それから夕飯を一緒に食べ、仕事の資料を取りに、テイクアウトでコーヒーを買って芦辺の部屋行く。
 夕べ辛そうにしていた芦辺の躯を気づかっていたが、最終的に欲望を止められず躯を繋げはしなかった。
 芦辺に『結希さんが待っているんだろう?』と窘められた。
 お互いの体温を確かめ合い、抱きしめ合いながら、口付けを何度か交わして、翌日逢う約束をしてから駅まで送ると言う芦辺の行為を辞退し。
 井上はホテルを後にした。


 つきない欲望と熱情。
 その日を境に、芦辺は仕事で避けることは無くなり、スケジュール管理も経費もすべて井上と相談して行っていた。
 もっとも芦辺は知れば知るほど暴君だった。けれども惚れた弱みなのか、喧嘩をすればするほど幸せな気分になった。
 気まずくなると、井上は芦辺を抱きしめて、そっと口付けを交わす。


Fine…。
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