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二章 0で割れ
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しおりを挟む「僕の名前は、白銀 俊介。よろしくね」
あの後、彼と近くのファストフード店に入った。
彼と私は珈琲を頼み、安っぽい白いテーブルの上に先ほどの過去問を置き、勉強を行う。
その際、彼は自分の名前を私に告げた。
「いいお名前ですね」
つい、口から出たのは世辞とも言えない世辞だった。
私は、どうしても会話の中で世辞を多用する癖があった。それは、抜けきらない染みのようで、口に馴染んで離れない。
かといって、それが全くの嘘かと問われれば違うと答えられる。実際、彼のような柔和な笑みをする人物の名前にピッタリだと私は思った。
「名前に良い悪いもないよ。結局は、僕たちを区別するための造語だから」
しかし、彼は否定する。
それは、自分の名前が気に入らないというよりも、名前という単語が気に入らないかのような話し方だった。
その解答に、私は返答を詰まらせてしまう。どのように返答すればいいか、それが分からなかったからだ。
私の様子を見た彼は、それでも柔和な笑顔を保ち、続ける。
「気にしないで、どうしても、名付けという行為に距離を置いておきたいんだ」
彼には自分自身の考えがあるようだった。それは少し私の興味を駆り立てる。
この大学に来てから、誰かの考えを直に聞く機会にそれほど恵まれてはいない。凡人であるこの身の上からすれば、この大学に在籍する天才の考え方には人知れず惹かれる。思わず、理由を尋ねた。
「差支えなければ、理由を教えていただけませんか?」
「そこまで、深い意味はないよ。ただ、僕が数学が好きなのと関係しているのかもね」
「白銀さんは、理系の学部なのですか?」
「うん、文学はどうも好きじゃない」
彼は、口に珈琲を運ぶ。グラスいっぱいに入った氷が、彼の動きに合わせて小さな音を立てた。
「君は、名称、というものについてどう思う?」
「名称? それは、何についての名称ですか」
「全部の名称についてだよ。僕らが物体として認識する全ての名称についてさ」
彼は一つ間を置くと、さらに言葉を追加する。
「例えば、今僕らが使っているテーブルもそう、座っている椅子なんかもそうだね。これをテーブルと名付け、そして椅子と名付けたのは、人間だ。それは区別という線引きのためにどうしても必要な行為だ、それは理解できるんだ。じゃあ、この物体の本当の名称って一体、なんだろうね」
それはある意味、哲学ともとれる言葉だった。彼はそんな言葉をすらすらと積み重ねる。それがある意味、ビルの建設のようで、パズルを解き明かすような行為に感じられた。
「このテーブルを作るためにつかった材料は何種類もある。そして、それを区別するためにまた名称がある。人間が勝手に決めた名称だ。だからこそ、住む地域とそこに住む人間が変われば、名称も変わる。例えば、椅子はフランス語でシェズ、なんて具合にね」
彼は少し面白そうに喉を鳴らした。不思議と聞き入ってしまう声だった。今は、過去問よりも彼の言葉に集中してしまう。
「僕はあると思うんだ。人間が勝手に決めた造語なんかじゃなく、それだけを示す、それだけに持つことが許された言葉が」
集中して、彼の言葉に耳を傾けて。
「つまり、僕が言いたいのは、名称は酷く曖昧で不安定と言うことなんだ。それを補う為、覆い隠すために他のそこから派生する全てのものに名称を与え、がっちり固めている。嘘の産物なんだよ、名称っていうのは。だから僕は、数字という、誰もが共有出来る、確固たるものが好きなんだ、これだけは本質だって思えるから」
そう言って、珈琲を彼はまた口に含んだ。
「話が脱線したね。まだ君の名前を聞いていなかった」
一息ついて、私の名前を尋ねてくる彼の印象が最初とは変わっていた。
優しい人物だと思っていた、それは間違いない。
ただ、加えて少し臆病なように思えたのだ。
彼の今までの話は、理解出来ないものから逃げた結果、安心できるものに縋ったとも解釈できる内容だったから。
「すみません、どうしてか言いづらいです。先ほどの話を聞くと、自分の名前を言うのが怖いですね」
苦笑交じりに私はそう言った。いや、誤魔化したという方が正しい。
彼は、私の反応を見ると、また柔和に笑う。それは、弱者を嗤うものではなく、本当にただ純粋な意味での笑みだった。
「君は面白いね、なんていうか、普通だ。大学じゃ、凄く珍しい部類に入ると思う」
「そう言われると、惨めな気持ちになります・・・」
「ゴメン、冗談だよ。さぁ、勉強でもしようか」
過去問を二人で見る。
この大学に入ってから、他人と勉強するというのは初めてだった。少しばかり、緊張する。
しかし、そんな私の気持ちとは裏腹に、彼はスムーズに問題を解いては、私に教えてくれた。
教え方も丁寧で、私のレベルに合わせてくれている気がする。半ば、理解することを放棄していた私の脳が、自分の働きを思いだしたかのようにフル回転する。
彼は時々冗談を交えながら、自分のことを話してくれた。
その様子を見て、彼にはこの勉強が不要な行為であると、私は確信する。そんな事を顔に出さない彼は、やはり、不思議な魅力で溢れていた。
不意に、今日の昼間にあった出来事を思い出す。
家に帰ると御剣さんはほぼ間違いなく私の部屋にいるだろう。
この前はうちに帰ったら、私のパソコンのロックを不思議な機械で解除していた。その事がフラッシュバックし、軽く体が震えた。保存していたとっておきのファイルが、彼女の写真画像に代わっていた時、私は怒りよりもまず先に焦燥に駆られ、自分のスマホのロックを10桁に増やしたことを覚えている。
そのことが彼との過去問を解いているうちに思い起こされ、残りの問題数が少なくなるにつれて、重い事実としてのしかかる。
凄く憂鬱だった。
「白銀さん」
「なんだい?」
「今日は家に帰りたくありません」
「やめて、僕にそんな趣味はないよ」
勿論、全部の問題を解いてお開きとなった。彼は去り際、では試験でまた、と言い、それに対し私は、首が吹っ飛ぶほど頷いた。
試験自体は酷くつらいものなのに、次の試験が楽しみで仕方なかった。
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