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二章 0で割れ

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「待ってたよ、こっち。隣とっておいたから座りなよ」

 テスト本番。
 白銀さんは既にテストをする大教室の中で席を取っておいてくれていた。基本的に講義と同様、席は自由だ。大教室に設置されている机は、教壇を囲むように少し湾曲し、10人ほどが座れるようになっている。
 私は促されるまま、彼の隣に座った。ラフィーさんの話を聞いたからだろうか、少し彼の隣に座るのが気まずい。


「いけそうかい、テスト」
「えぇ、白銀さんに教わったことは無駄にしません」

 だが、そんな気持ちとは関係なしに、時計の針は進み、試験時間が迫る。
 私は少しでも足掻こうと、レジュメやらノートやらを取り出し、机の上に置く。それでも、教科書の類はどうしてもかさばってしまうので、机の下の引き出しとも言えない、資料の置き場に突っ込んだ。その際、無理やり入れたためか、激しく擦った鈍い音が、私に聞こえる程度で響く。


「気合十分だね」
「これくらいしないと、とれないと思いますから」

 私は、白銀さんと会話をしながら、過去問、レジュメを見返す。程なくして、試験用紙の束を持った講師が入室し、試験は始まった。

 試験は順調に進んだ。
 途中、白銀さんがペンを落とし、講師を呼んで一言二言話したことくらいしか、印象に残らないほど、順調に進んだ。


 そして、試験が終わる。


 隣に白銀さんの姿はない。
 彼は、試験時間が3分の2程過ぎたところで、退出していた。それを確認し、私は、大教室から退出する。
 多くの学生がテストが終わったことでガヤガヤと廊下で騒いでいた。喧騒に包まれる廊下を歩く。音が遠ざかり、生徒が周りにいなくなるほど進んだところで、白銀さんと遭遇した。


「テスト、無事に終わったかい?」
「はい、お陰様で」

 本心だった。
 彼が丁寧に教えてくれたところが、そのままテストで出たのだから。

 そんな彼に、私は聞きたかった。

 どうして、笑ってるんですか。どうして、優しそうに笑えるんですか。
 

「そうか、なら僕の」
「聞きたくありません!」

 思わず、腹の底からというより、心の底から叫んでいた。
 聞きたくなかった。彼の口からそんな言葉聞きたくなかった。言わせたくなかった。
 大学に入ってから、初めてのことだった。誰かにこんな感情をぶつけたのは、初めてだった。悲しくて仕方がなかった。


「聞きなよ、子供じゃないんだから。それが義務だろう?」

 彼は、それでも笑顔だった。人を魅了するほどの柔和な笑顔だった。




 息をするように言われたその言葉を、私は止めることが出来なかった。


「さて、答えあわせをしようよ」
「したくありません」
「君がもし、僕に少しでも恩を感じているなら、お願いだ」

 彼のその言葉は、もはや呪いで。
 呪いは、震える私を確かに突き刺した。
 彼の瞳はあくまで穏やかで、私の口から言葉を発せられるのを待っている。
 何故、何故と心の中でもう一人の私が言う。言うなと、絶対に言うなと心を叩きつける。それでも私の口はもう言葉を発しようとしていた。彼のお願いは、答えなければならなかった。


「・・・思ったのが、何故初対面の私に、あそこまで優しく出来るのかってところからでした」

 全てはここからだった。
 最初にあった時から。初めて会った人に、金銭を出す理由がわからなかった。確かに、話の筋としては合っていたかもしれない。だが、それでも彼と勉強をしたときに感じたのだ。彼は、本当に過去問を必要としていたのか。すらすらと問題を解くその姿に疑問を感じずにはいられなかった。


「それで君は、どう考えた?」
「考えても、分かりませんでした。ラフィーさんの話を聞くまでは」
「あぁ、彼女から聞いたのか。聞いて、それで、君は答えに行きついたんだね」
「はい、白銀さんが私に嫉妬していると、分かりました」

 声は震えていなかっただろうか、その言葉がひどく重いものだったから、たかが空気が支えられたとは思えない。

 ラフィーさんに話を聞いた時、私は浮かれていた気分をどん底に叩き落とされた。気づいてしまったのだ。何の価値もない平凡に、価値ある天才が、どうしようもなく嫉妬しているという事実に。

 きっと彼は許せなかった。どこで見たかは分からないが、恐らくは、私とラフィーさんが話すところを目撃したのだろう。それだけで十分だったのだと思う。
 なぜなら、ラフィーさんがいつも教室を移動している時に見かける人の中に、彼を見かけたことがなかったから。
 本当に初めて見たのだ、書店に居る彼を。見かけたことすら、一度たりともなかった。ラフィーさんとはもう、関係が切れていたはずだ。白銀さんが告白をした、その時から。


「正解。それで、嫉妬に駆られた僕は、どうしようと考えたんだい?」
「同じ講義を受けていることを利用しようと考えたはずです」
「違うよ、話が飛んでる。それは方法の話だ。目的は?」
「私の単位を、この一年間の全ての単位を無効にしようと、そう思いたったのでは」
「ご明察、一緒に勉強をした時も思ったんだけど、勘がいいね」

 その口調は褒めているようで、全てを諦めているようで、どこか達観していた。その度に、解答は出ているのに、彼のお墨付きも貰っているのに、間違っていると心が叫ぶ。


「じゃあ、手段は?」
「カンニングです、カンニングさせたことにする」
「そうだね、目的に直結する手段だ。手っ取り早い。その方法は?」
「同じ講義であることを利用して、誘導したんです。カンニングの答えが、机の下の資料置き場に彫ってある、その席に」

 カンニングさせる、したように見せかけるなら、物的証拠がなければ、信憑性に欠ける。だから、それを補わせるためにも、確たる証拠が必要になる。しかし、彼と私は会ってまだ間もない。証拠を私に仕込むことは不可能だ。なら、席に仕込めばいい。座るであろう席に、座らせる席に、種を植えればいい。


「下の資料置き場、ボルトで固定されていて外すことは出来ませんから、恐らく、釘か何かで答えを引っ掻いたんです。席に座らせた後は、試験が始まってから、講師を呼び出して、怪しい動きをしていると告げれば、それで終わりです」

 試験中、白銀さんがペンを落としたのは、この為だ。あの時私は、講師に告げ口されていた。


「うん、大正解。僕がやったことは、それで全部だ」

 彼は笑顔だった。こちらに向ける瞳には増悪も何もない。穏やかさだけがそこにあった。


「・・・どうして」

 やめろ、と心がいっても体が止まらなかった。


「どうしてなんですか!!そんな穏やかな顔出来るならなんでこんなことやったんですか!?」

 この計画、実際には穴だらけだ。
 私が試験を休めば、破綻する。私が違う席に着いただけで、破綻する。砂糖菓子のような脆さの計画だった。私に対する増悪の薄さが、この計画から滲み出ていた。


「その前に、聞かせてほしい。どうやって、あの証拠を消したんだい? そうじゃなきゃ、今頃君は、講師に捕まっているはずだ」

 言葉が上手く出なかった。私は、もう遮二無二なりながら、後ろに背負っていたカバンから、先程の講義の教科書を見せつけた。


「そっか、そういうことかぁ。頭が固くなりすぎてた、その手は思いつかなかったよ」

 彼に見せつけた教科書には、びっしりとが貼られていた。別に消したんじゃない、上書きしただけだ、傷を。だから、ホームセンターに行った、だから、教科書を資料置き場に突っ込んだ。


「じゃあ、今度は僕の独白かな」

 彼はそういうと、瞼を閉じた。


「ご存じの通り、僕はシェルトさんに振られた。それだけなら、よかったんだ。僕が振られるのはなんとなく、分かってはいたんだ。だから、心の整理はついていた。そう、ついていたと勘違いしたんだ。君とシェルトさんが話しているのを見かけるまでは」

 一旦閉じた瞼を、彼は開く。その瞳にはやっぱり、嫉妬なんて感情は読み取れなかった。


「さて、問題。何故、僕は君に嫉妬したんだろう? 話していること自体に嫉妬しているなら、私は彼女の友達全員に、今のような計画を立てなきゃいけない。でも、ここまでやったのは、君だけだ。さて、どうしてだろう?」

 私は無言だった。答えが分からないから、声が上手く出そうにないから。


「君だけなんだよ。彼女を“ラフィー”って呼べるのは」

 そのことは少なからず、私の心に衝撃をもたらした。そう呼べと、口火を切ったのは、他でもないラフィーさんだったから。


「わかっちゃいたんだけどね。こんなことしても、彼女は振り向いてくれないって。僕じゃあ、彼女を振り向かせられないって」

 もう、やめてくれ。


 無意味なんだ、こんな問答。彼女には彼氏がいる。それを、恐らく彼は知らない。嫉妬する相手も間違えてるんだ。お願いだから、そんな悲しそうな顔で、笑わないでくれ。私を弱者と嗤っていいから、蔑んでいいから。


「結局、この想いを0で割っただけ。恋焦がれるくらい、いいじゃないか」

 だが、そんなことを私は彼に告げられなかった。告げる勇気がない、やったことは全て無意味だと。彼の私を見る目が、いつも私がこの大学の生徒を見る目と、


「この想いはきっと無限大で、意味がないものなんだから」

 どうしようもなく、重なってしまうのだから。

 彼はもう話さなかった、そこで話は終わりだった。身を翻すと、私に背を向け、立ち去ろうとする。駄目だ、このまま彼を帰すな。最悪、先程の教室に戻る。戻って、ありのままを全部話してしまう。


「待っ
「止めないでくれ、止める気もない癖に」

 放たれた言葉は、私を縫い付ける。どうしようもなく、床と縫い付ける。


「録音、してるんだよね?」

 指が硬直する。拍子、ポケットを強く握ってしまう。
 ポケット。スマホが入っているポケット。
 録音アプリが起動しているそのスマホごと、割れるのではないかと思うほど、強く強く、握りしめた。


「それでいいんだ、僕の完敗だよ」

 こちらを向いていない彼の顔が、何故か脳裏に浮かんでくる。

 どうしようもない笑顔だった。柔和で、純粋な笑顔だった。


「最後に、一つだけ。シェルトさんと正面向いて、キチンと会話できるのは君しかいない。頑張るんだよ」

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