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目覚めの日
三話 悪夢
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ここは、どこなんだろうか。
暗かった。
周りの様子がわからないくらいには、暗かった。
それについ先ほどまでの記憶が、まるで霧がかかったように曖昧で思い出せなかった。
唯一わかることは、冷たい風が、肌を撫でているということ。
つまり、ここは屋外だ。
どうにかここに来た経緯を思い出そうとした。
しかし、どうしても思い出せない。
歩いてみようか、しばらくして、やっとそう思った。
ちょうどよくぼんやりとした月明かりが、周囲を照らし始めた。
まず目に入ったのは木箱だ。雑然と積み上げられた木箱だった。
埃にまみれたそれが、ここが滅多に人が訪れることのない場所であることを物語っていた。
その先に道はなかった。行き止まりだ。
ぐるんと辺りを見回す。
僕の背後以外は、石造りの丈夫そうな建物に囲まれていた。袋小路というやつだ。
そして、知っている場所だった。ここは町の外れだ。
断言できた。
なぜ断言できるかといえば、幼いころ一度だけ迷い込んだ記憶があったからだ。
入り組んだ道の先にある場所。
そのせいか滅多に人が来ない場所。
そんな場所に僕は一人で突っ立っていた。
「昔、帰り方が分からなくなって泣いちゃったなぁ」
ぽつりと呟く。
当時は、本当にそのまま死んでしまうかと思ったのだ。一人ぼっちで。誰にも見つけられることなく。
僕を探しだしてくれたティナに、泣きながら抱きついてしまったのを覚えている。
当然のように殴り飛ばされた。再び泣いた。
もし彼女も一緒に泣いて喜んでくれたなら、僕と彼女の絆の物語として生涯語り続けた。
ぜひともそうしたかった。
今は忘れたことにしている。
こんな時に何を考えているのか。
思い出に浸っている暇などないのだ。
疑問は解決していないのだから。
なぜ僕はここにいるのか。
まだ、思い出せなかった。
「……とりあえず、帰るか」
さすがに今なら、一人で帰れるはずだ。過去の汚名をそそぐのだ。
そんなわけで、意気揚々と歩き出そうとして、足が止まった。
別に道がわからなくなったわけじゃない。どたどたと荒っぽい足音が聞こえてきたからだ。
音の方へ目を凝らす。
――薄闇の中、
一人の男性が、後ろをちらちらと振り返りつつ、こちらの方へ走って来ていた。
名前はわからない。
が、町で何度か見たことがある顔だった。
たぶん『祝福者』をティナたちと一緒に見に行った時にもいたはずだ。
ぼけっと『祝福者』の少女に見とれていた気がする。
男性は汗を滝のように垂らし、必死に走っていて、呼吸がひどく乱れていた。
このままだと間違いなく衝突してしまいそうだった。きっとお互いにひっくり返って、僕は「ご、ごめんなさい」と謝って、男性は「なに、ぼさっとしてんだ!」と怒鳴るのだ。
そうなるに違いない。
もちろん嫌だったから、僕はすっと脇によけた。
すると男性は、僕なんて見えていないかのように目の前を通り抜け、そして先に道が続いていないことを確認して、膝からどさりと崩れ落ちた。
男性がゆっくりとこちらを振り返る。
その顔には、深い絶望が浮かんでいた。
死神と出会った、といわれても納得してしまいそうな表情だった。
「ちょ、ちょっと大丈夫ですか!?」
僕はただ事ではないと思って、男性に駆け寄りそのまま抱き起そうとした。
――けれど、僕の両手が、男性に触れることはなかった。
男性の身体を、僕の両手がそのまま通り抜けたのだ。
そこには、空気しかなかった。
呼びかける声が聞こえている様子もなかった。
そう、まるで僕がここに存在していないかのように。
あるいは、まるでここに存在している男性が幻であるかのように。
これまで体験したことのない現象に困惑し、自分の両手を見下ろし、後退る。
「はっ、はぁ、あぁ、も、もうやめてくれ! 本当に、しらないんだ。本当だ!」
男性は来た方向へ向けて手をかざし、震えた声を出した。
「……誰か、いる?」
呟く。
しかし、その声をかき消すように、何かが風を切る音がした後、男性が大きな悲鳴をあげた。夜の静かな町全体に響きそうな、痛々しい悲鳴だった。
何かが、僕の足元にぼとりと飛んできた。
出来の悪い木の枝みたいな、何かだった。
違った。
それは、腕だった。
恐る恐る男性の方を見る。
かざしていた方の腕が、肩からなくなっていた。
間違いなく、男性の腕が、こちらに飛んできたのだ。
先ほどまで腕がついていた男性の肩から、血がドバドバと流れ落ちて、地面を濡らす。
瞬く間に、血の池が出来上がった。
「一体、何が……」
混乱が支配する頭で、僕はもう一度男性に駆け寄った。
だけど、手はそのまま通り抜け、声は届かない。
男性は、ただ呻き声を上げてうずくまるだけだ。僕が何度繰り返しても同じだった。
「――感じるぞ」
声が、聞こえた。
聞くだけで体が縮みあがりそうな低い声だ。
耳にしたものに憎悪と殺意を感じさせる声だ。
思わずごくりと生唾を飲みこんだ。
やけに粘つく唾だった。
そして闇を引きずり、静かに何かがやってきた。
暗くておぼろげな影のようにしか見えないが、おそらく男性はその影から逃げてきたのだ。
「し、知らないって言ってるだろ!? なんなんだよ」
ガタガタと歯を鳴らし、男性が叫んだ。
「忌々しい、『契約者』の魔力の残滓だ」
「わ、わけわかんねぇっ! なぁ、あんた一体」
「……言い残すことはあるか?」
「お、おい、待て。嘘だろ、ま――」
男性はそれ以上声を出さなかった。
いや、出せなかった。
影がぶつぶつと何かを呟きつつ、徐に右の腕を男性に向けたかと思うと、その腕の先から、見えない何かが飛び出し、男性の頭部に直撃したのだ。
――『魔法』……!?
男性から音を上げながら血が噴き出て、辺り一面に飛び散る。
噴き出た血が僕の方にも飛んでくる。
べっとりと僕を濡らすはずだったその血は、なぜか体に付着することなく素通りしていく。
殺した、のか……?
何も、できなかった。
あまりにも現実感のない光景に思わず呆然としてしまう。
恐怖で足がすくむ。
動け。動け。動け。動け。
このままでは、きっと僕も殺される。
たった今殺された、あの男性のように。
逃げなくては。
逃げて誰かに助けを求めるのだ。頼りになる誰かに。
逃げて誰かに伝えるのだ。ここで起こったことを。
頭ではわかっているのに、体はその場に磔になったかのように動かない。いつ襲ってくるかもわからない痛みに恐怖し、ぎゅっと目を瞑る。
だけど幸い、というより不思議なことに、殺された男性が僕に気づかなかったのと同じように、影もここにいる僕の存在に気がついていないようだった。
「これも外れ、か。まぁいい」
その言葉を最後に残して、足音が遠ざかっていく。
足音が完全に離れるのを待って、目を開く。
足元には既に事切れた男性の体があった。
汗が体中から噴き出て、心臓が早鐘を打って、身体が空気を欲した。
自分の肉体が活動をやめていないことを主張するかのようだった。
「何が、起きて」
その口から勝手に漏れた呟きの後、視界が端の方から、じわじわと白に染まっていく。
それは、まるで自分がこの世界から追い出されていくみたいで、ひどく心細かった。
――世界の終わりに視界に入った月が、なぜか強く印象に残った。
◇
不意に目が覚めた。
脈打つように、頭が痛い。
嫌な汗をかいていて、ぐっすり眠っていたはずなのに、どっしりとした疲労感に侵されていた。
――夢、か。
思わず安堵のため息を漏らす。これまで見た中で間違いなく最悪な夢だ。
けれど夢にしては嫌にリアルなものだった。
まるで、本当に見てきたかのような――。
胸のあたりがすごくもやもやする。
外はまだ日が昇りきっていないらしい。家の中はどんよりと薄暗い。
いつもより随分と早く目が覚めてしまったようだ。
もう少しだけ寝ようかとも思ったけど、あの悪夢の続きを見てしまいそうで怖かったから、すぐに考えを改めた。
一先ず深呼吸する。
嫌な夢を忘れるためにも、たまには朝からおいしいものを食べてもいいかもしれない。
うん。それがいい。
そうと決まれば後は早かった。
ベッドから起き上がり、『火』を意味する魔導文字が刻まれた石を用意した。
魔導文字とは、大まかにいえば、魔力を蓄える性質と、その蓄えた魔力を消費することで、何らかの事象を引き起こす二つの性質を持っている不思議な形をした文字だ。
一説によると、大昔に魔法が使えない人でも、魔法に似たようなことをできるようにするために開発されたものらしい。
人類史上、最も生活に役立つ発明の一つだと思う。
それこそ、使える人間が限定されてしまう魔法なんかよりもよっぽど。
……今はいろいろな理由から魔法に劣ったものとされているけど、そのうち評価をひっくり返すに違いないのだ。たぶん。きっと。おそらく。
一応、様々なものに魔導文字を刻み、魔力を込める作業を行う『刻印師』というのが僕の仕事だ。
自分で言うのもなんだけど、僕の魔力の量はかなりのものらしいから、まさに天職だと思っている。
『火』を意味する魔導文字が刻まれた石を起動させて、かまどの下へ放り投げる。起動させるのは簡単だ。刻まれた魔導文字をきっちり認識して、軽く魔力を流しながら、文字を指でなぞればいい。そうすれば、あとは刻まれた時に込められた魔力が、勝手に事象を引き起こすのだ。子供でもできる簡単なことだ。
まもなく『火』の文字の効果で、石が火をまとい始めた。
それは普通であれば、ありえない光景だ。石は燃えることなんてないのだから。
僕は、昔からこのあり得ない光景を見るのが好きだった。
自分の手で『神秘』を起こす感覚。
魔法を使うことのできない僕でも『神秘』の一端に触れることができるのだ。
かまどの上に鍋を置く。
そのさらに上にとっておきのベーコンを置く。
そのままベーコンがカリカリになるまで火を通す。
ベーコンはやっぱりカリカリに焼くべきだ。
少し待つとこんがりと香ばしい匂いがしてきたので、卵を二つその上に落として、塩を一つまみ振りかけて、ふたをした。そして卵が焼けるのを待つ間に、付け合わせのパンとサラダを用意している時、不意に、こんこんと戸を叩く音が聞こえた。
――ティナかな?
――それにしては随分と早いけど。
戸を叩く音にも違和感があった。
なんというか、品が良かった。
僕は鍋を火からしっかり下ろし、戸の鍵を外して、ゆっくりと戸を開く。
そこには、一人のフードを被った人物がぽつりと立っていた。
女性だった。
体つきから、すぐにわかった。
かなり深くフードを被っているせいで顔は見えない。
しかし、誰が見ても怪しいと思うであろう風貌だ。
毎朝のように、僕を起こしに来てくれるティナではない。
ティナとは違って出るところが出ている。
ゾワリと寒気がしたから、それ以上考えるのをやめた。
そして、
「あの、どちら様ですか?」
訝しげに声を掛けた。
すると、
「おはようっ!」
目の前のフードを被った人物――いや、昨日見た『祝福者』の少女は、ぱっと顔をあげて、お日様のような明るい笑顔を浮かべ、元気な朝の挨拶をしたのだった。
暗かった。
周りの様子がわからないくらいには、暗かった。
それについ先ほどまでの記憶が、まるで霧がかかったように曖昧で思い出せなかった。
唯一わかることは、冷たい風が、肌を撫でているということ。
つまり、ここは屋外だ。
どうにかここに来た経緯を思い出そうとした。
しかし、どうしても思い出せない。
歩いてみようか、しばらくして、やっとそう思った。
ちょうどよくぼんやりとした月明かりが、周囲を照らし始めた。
まず目に入ったのは木箱だ。雑然と積み上げられた木箱だった。
埃にまみれたそれが、ここが滅多に人が訪れることのない場所であることを物語っていた。
その先に道はなかった。行き止まりだ。
ぐるんと辺りを見回す。
僕の背後以外は、石造りの丈夫そうな建物に囲まれていた。袋小路というやつだ。
そして、知っている場所だった。ここは町の外れだ。
断言できた。
なぜ断言できるかといえば、幼いころ一度だけ迷い込んだ記憶があったからだ。
入り組んだ道の先にある場所。
そのせいか滅多に人が来ない場所。
そんな場所に僕は一人で突っ立っていた。
「昔、帰り方が分からなくなって泣いちゃったなぁ」
ぽつりと呟く。
当時は、本当にそのまま死んでしまうかと思ったのだ。一人ぼっちで。誰にも見つけられることなく。
僕を探しだしてくれたティナに、泣きながら抱きついてしまったのを覚えている。
当然のように殴り飛ばされた。再び泣いた。
もし彼女も一緒に泣いて喜んでくれたなら、僕と彼女の絆の物語として生涯語り続けた。
ぜひともそうしたかった。
今は忘れたことにしている。
こんな時に何を考えているのか。
思い出に浸っている暇などないのだ。
疑問は解決していないのだから。
なぜ僕はここにいるのか。
まだ、思い出せなかった。
「……とりあえず、帰るか」
さすがに今なら、一人で帰れるはずだ。過去の汚名をそそぐのだ。
そんなわけで、意気揚々と歩き出そうとして、足が止まった。
別に道がわからなくなったわけじゃない。どたどたと荒っぽい足音が聞こえてきたからだ。
音の方へ目を凝らす。
――薄闇の中、
一人の男性が、後ろをちらちらと振り返りつつ、こちらの方へ走って来ていた。
名前はわからない。
が、町で何度か見たことがある顔だった。
たぶん『祝福者』をティナたちと一緒に見に行った時にもいたはずだ。
ぼけっと『祝福者』の少女に見とれていた気がする。
男性は汗を滝のように垂らし、必死に走っていて、呼吸がひどく乱れていた。
このままだと間違いなく衝突してしまいそうだった。きっとお互いにひっくり返って、僕は「ご、ごめんなさい」と謝って、男性は「なに、ぼさっとしてんだ!」と怒鳴るのだ。
そうなるに違いない。
もちろん嫌だったから、僕はすっと脇によけた。
すると男性は、僕なんて見えていないかのように目の前を通り抜け、そして先に道が続いていないことを確認して、膝からどさりと崩れ落ちた。
男性がゆっくりとこちらを振り返る。
その顔には、深い絶望が浮かんでいた。
死神と出会った、といわれても納得してしまいそうな表情だった。
「ちょ、ちょっと大丈夫ですか!?」
僕はただ事ではないと思って、男性に駆け寄りそのまま抱き起そうとした。
――けれど、僕の両手が、男性に触れることはなかった。
男性の身体を、僕の両手がそのまま通り抜けたのだ。
そこには、空気しかなかった。
呼びかける声が聞こえている様子もなかった。
そう、まるで僕がここに存在していないかのように。
あるいは、まるでここに存在している男性が幻であるかのように。
これまで体験したことのない現象に困惑し、自分の両手を見下ろし、後退る。
「はっ、はぁ、あぁ、も、もうやめてくれ! 本当に、しらないんだ。本当だ!」
男性は来た方向へ向けて手をかざし、震えた声を出した。
「……誰か、いる?」
呟く。
しかし、その声をかき消すように、何かが風を切る音がした後、男性が大きな悲鳴をあげた。夜の静かな町全体に響きそうな、痛々しい悲鳴だった。
何かが、僕の足元にぼとりと飛んできた。
出来の悪い木の枝みたいな、何かだった。
違った。
それは、腕だった。
恐る恐る男性の方を見る。
かざしていた方の腕が、肩からなくなっていた。
間違いなく、男性の腕が、こちらに飛んできたのだ。
先ほどまで腕がついていた男性の肩から、血がドバドバと流れ落ちて、地面を濡らす。
瞬く間に、血の池が出来上がった。
「一体、何が……」
混乱が支配する頭で、僕はもう一度男性に駆け寄った。
だけど、手はそのまま通り抜け、声は届かない。
男性は、ただ呻き声を上げてうずくまるだけだ。僕が何度繰り返しても同じだった。
「――感じるぞ」
声が、聞こえた。
聞くだけで体が縮みあがりそうな低い声だ。
耳にしたものに憎悪と殺意を感じさせる声だ。
思わずごくりと生唾を飲みこんだ。
やけに粘つく唾だった。
そして闇を引きずり、静かに何かがやってきた。
暗くておぼろげな影のようにしか見えないが、おそらく男性はその影から逃げてきたのだ。
「し、知らないって言ってるだろ!? なんなんだよ」
ガタガタと歯を鳴らし、男性が叫んだ。
「忌々しい、『契約者』の魔力の残滓だ」
「わ、わけわかんねぇっ! なぁ、あんた一体」
「……言い残すことはあるか?」
「お、おい、待て。嘘だろ、ま――」
男性はそれ以上声を出さなかった。
いや、出せなかった。
影がぶつぶつと何かを呟きつつ、徐に右の腕を男性に向けたかと思うと、その腕の先から、見えない何かが飛び出し、男性の頭部に直撃したのだ。
――『魔法』……!?
男性から音を上げながら血が噴き出て、辺り一面に飛び散る。
噴き出た血が僕の方にも飛んでくる。
べっとりと僕を濡らすはずだったその血は、なぜか体に付着することなく素通りしていく。
殺した、のか……?
何も、できなかった。
あまりにも現実感のない光景に思わず呆然としてしまう。
恐怖で足がすくむ。
動け。動け。動け。動け。
このままでは、きっと僕も殺される。
たった今殺された、あの男性のように。
逃げなくては。
逃げて誰かに助けを求めるのだ。頼りになる誰かに。
逃げて誰かに伝えるのだ。ここで起こったことを。
頭ではわかっているのに、体はその場に磔になったかのように動かない。いつ襲ってくるかもわからない痛みに恐怖し、ぎゅっと目を瞑る。
だけど幸い、というより不思議なことに、殺された男性が僕に気づかなかったのと同じように、影もここにいる僕の存在に気がついていないようだった。
「これも外れ、か。まぁいい」
その言葉を最後に残して、足音が遠ざかっていく。
足音が完全に離れるのを待って、目を開く。
足元には既に事切れた男性の体があった。
汗が体中から噴き出て、心臓が早鐘を打って、身体が空気を欲した。
自分の肉体が活動をやめていないことを主張するかのようだった。
「何が、起きて」
その口から勝手に漏れた呟きの後、視界が端の方から、じわじわと白に染まっていく。
それは、まるで自分がこの世界から追い出されていくみたいで、ひどく心細かった。
――世界の終わりに視界に入った月が、なぜか強く印象に残った。
◇
不意に目が覚めた。
脈打つように、頭が痛い。
嫌な汗をかいていて、ぐっすり眠っていたはずなのに、どっしりとした疲労感に侵されていた。
――夢、か。
思わず安堵のため息を漏らす。これまで見た中で間違いなく最悪な夢だ。
けれど夢にしては嫌にリアルなものだった。
まるで、本当に見てきたかのような――。
胸のあたりがすごくもやもやする。
外はまだ日が昇りきっていないらしい。家の中はどんよりと薄暗い。
いつもより随分と早く目が覚めてしまったようだ。
もう少しだけ寝ようかとも思ったけど、あの悪夢の続きを見てしまいそうで怖かったから、すぐに考えを改めた。
一先ず深呼吸する。
嫌な夢を忘れるためにも、たまには朝からおいしいものを食べてもいいかもしれない。
うん。それがいい。
そうと決まれば後は早かった。
ベッドから起き上がり、『火』を意味する魔導文字が刻まれた石を用意した。
魔導文字とは、大まかにいえば、魔力を蓄える性質と、その蓄えた魔力を消費することで、何らかの事象を引き起こす二つの性質を持っている不思議な形をした文字だ。
一説によると、大昔に魔法が使えない人でも、魔法に似たようなことをできるようにするために開発されたものらしい。
人類史上、最も生活に役立つ発明の一つだと思う。
それこそ、使える人間が限定されてしまう魔法なんかよりもよっぽど。
……今はいろいろな理由から魔法に劣ったものとされているけど、そのうち評価をひっくり返すに違いないのだ。たぶん。きっと。おそらく。
一応、様々なものに魔導文字を刻み、魔力を込める作業を行う『刻印師』というのが僕の仕事だ。
自分で言うのもなんだけど、僕の魔力の量はかなりのものらしいから、まさに天職だと思っている。
『火』を意味する魔導文字が刻まれた石を起動させて、かまどの下へ放り投げる。起動させるのは簡単だ。刻まれた魔導文字をきっちり認識して、軽く魔力を流しながら、文字を指でなぞればいい。そうすれば、あとは刻まれた時に込められた魔力が、勝手に事象を引き起こすのだ。子供でもできる簡単なことだ。
まもなく『火』の文字の効果で、石が火をまとい始めた。
それは普通であれば、ありえない光景だ。石は燃えることなんてないのだから。
僕は、昔からこのあり得ない光景を見るのが好きだった。
自分の手で『神秘』を起こす感覚。
魔法を使うことのできない僕でも『神秘』の一端に触れることができるのだ。
かまどの上に鍋を置く。
そのさらに上にとっておきのベーコンを置く。
そのままベーコンがカリカリになるまで火を通す。
ベーコンはやっぱりカリカリに焼くべきだ。
少し待つとこんがりと香ばしい匂いがしてきたので、卵を二つその上に落として、塩を一つまみ振りかけて、ふたをした。そして卵が焼けるのを待つ間に、付け合わせのパンとサラダを用意している時、不意に、こんこんと戸を叩く音が聞こえた。
――ティナかな?
――それにしては随分と早いけど。
戸を叩く音にも違和感があった。
なんというか、品が良かった。
僕は鍋を火からしっかり下ろし、戸の鍵を外して、ゆっくりと戸を開く。
そこには、一人のフードを被った人物がぽつりと立っていた。
女性だった。
体つきから、すぐにわかった。
かなり深くフードを被っているせいで顔は見えない。
しかし、誰が見ても怪しいと思うであろう風貌だ。
毎朝のように、僕を起こしに来てくれるティナではない。
ティナとは違って出るところが出ている。
ゾワリと寒気がしたから、それ以上考えるのをやめた。
そして、
「あの、どちら様ですか?」
訝しげに声を掛けた。
すると、
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そんな、ちょっぴり切ない恋と友情と姉妹愛、そして私の成長の物語です。
※本作の章構成:
第一章:アカデミー&聖女覚醒編
第二章:勇者パーティ結成&魔王討伐軍北上編
第三章:帰郷&魔将・魔王決戦編
※「小説家になろう」にも掲載(異世界転生・恋愛12位)
※ アルファポリス完結ファンタジー8位。応援ありがとうございます。
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