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序章
『少年と死の川と身投げ』
しおりを挟む「久しぶりだな……」
暁は、木々の合間から見える赤岩集落を眺めながら、そう呟いた。
赤岩は、暁の生まれ育った集落である。
雨風に晒されたためか、色の薄くなった飯綱神社の鳥居をくぐり抜ける。
鳥居が小さくなったと感じるのは、暁の背丈が大きくなったからだろう。
石段の最後の一段をとんと飛び降りると、開けた大きな道に出た。
すぐ先には、たくさんの屋敷が立ち並んでいる。
ここからは、いよいよ赤岩集落だ。
「……」
思わず、息を飲む。
幸い、ここまで来るのに、誰かとすれ違うことはなかった。
でも、ここから先は違う。
お天道様が沈みかけているとはいえ、誰かとばったり出くわすかもしれない。
気付けば、なぜか胸がとくとくと高鳴っていた。
何故だろう。
胸を抑えながら、考える。
ここまでの道のりが、だいぶ険しかったからだろうか?
下り坂とはいえ、だいぶ遠い道のりだった。
それで、息が上がったのだろう。
きっと、そうだ。そうに違いない。
暁は、己にそう言い聞かせ、近くの木に身を預けた。
しばらくすると、だいぶ落ち着いた。
再び、赤岩に目をやると、遠くに東堂が見えた。
その更に奥には、畑や田んぼが広がっている。
「あ…………」
暁の脳裏に、懐かしい昔の記憶が蘇る。
幼い頃、弟や近所の子と遊んだ時のことだ。
東堂では隠れんぼをして、畑や田んぼの畦道では鬼ごっこをして、村の大人達によく怒られたな……。
ここからは、見ることは出来ないが、もう少し先は、暁の生家があったところだ。
どこかに、母や弟達がいるのではないかと、思わず辺りを見渡してしまう。
彼らがここにいることなど、ありえないのに。
それでも…………。
もう少しだけ、ここにいたい。
もう少しだけ、足を踏み入れたい。
つい、そんなことを考えてしまう。
しかし、暁は頭を振り、邪念を消す。
暁がここまで下りてきたのは、生まれ故郷を眺めるためではない。
ここには、暁が会いたい人も、暁の帰りを待ってくれる人もいない。
暁は、ぐっと唇を噛む。
ここに留まっても、昔のことを思い出して、辛くなるだけである。
ーーーーじゃあな。
暁は、生まれ育った赤岩に背を向け、歩き出した。
集落のはずれへと続く道を進む。
赤岩から離れるにつれ、蛙や蝉の鳴き声に混じり、水の流れる轟轟とした音が聞こえるようになってくる。
暁の目指すところには、すぐ着いた。
そこは、集落のはずれの崖だった。
ここは、岩山を切り開いてつくった、赤岩と他所を繋ぐ数少ない道でもある。
そのため、崖のそばには柵が建てられていた。
暁は、柵をひょいと飛び越えた。
崖近くに生えた木に手をかける。
谷底を覗くと、大きな川が流れていた。
須川という名の川だ。
須川は、水の色こそ普通であるが、ここを流れるのは強い酸の水だ。
今は夕刻で分かり辛いが、川の周りに転がる岩はどれも赤く錆びているはずである。
須川という名も、酸の川が転じてそうなったという。
須川は強い酸を理由に、魚はもちろん、あらゆる生き物がいないため、死の川とも呼ばれていた。
「死の川か……」
今の暁にお似合いの場だと思った。
そんなことを考えながら、木から手を離し、半歩足を踏み出す。
すぐ後に風が吹き、崖先の小石が谷底に落ちていく。
もう半歩、踏み出そうとした暁の足が止まる。
「別に怖いことなんて、ねえのに……」
この高さだ。
痛むかもしれないが……それでもすぐに楽になれるはずだ。
そう思い込もうとするが、暁の体は鉛のように重い。
暁の足がそれ以上、進むことは無かった。
思わず、舌打ちをする。
そんな時だった。
「!」
暁は、後ろを振り返った。
何者かの気配を感じたからだ。
後ろには誰もいない。
しかし、暁の周りには真っ黒な靄が立ち込めていた。
「早く、早くしねえと……」
暁は、焦っていた。
早くしないと、あいつが来てしまう。
五年前に、暁から全てを奪った化け物が。
早く終わらせないとなのに……!
それなのに、暁の足は動かない。
しばらくすると、谷底から風が吹き上がってきた。
息が詰まりそうになるくらい、強い風だ。
暁の袖から、何かが落ちた。
「あっ……」
暁は舞い上がった砂が目に入るのも気にせずに、落ちたそれを急いで拾う。
拾ったそれを空にかざす。
それは、暁の母が遺した髪飾りである。
真っ黒なその髪飾りには、笹りんどうの家紋が刻まれている。
笹りんどうの紋は、暁が生まれた篠原家を表す紋である。
もう、顔も声も思い出すことの出来ない、母と弟が頭に浮かぶ。
彼らは、暁がいなくて寂しがっていないだろうか。
いや、絶対寂しがっているに、決まっている。
暁が五年前から…………彼らに会えなくて、ずっと寂しかったように。
そういえばと、思う。
人々は、死に肉が朽ちても、魂はこの世に残り続けるという。
そんな魂は、永い時を経て、先立った一族の元へと還り、祖霊と呼ばれる存在になるという。
それはつまり、暁が死ねば、早世した母や弟達に会えるということではないか。
「そうか、死んだらみんなに会えるのか……」
こんな易しいことに、なぜ今まで気付かなかったのだろう。
「ははっ……馬鹿野郎だな、俺は」
暁は、ほくそ笑んだ。
五年間も、ろくに眠れず悩み続けた己の馬鹿さを呪う。
だけど、とにかく、もう迷いは消えた。
早く、早くみんなに会いたい。
そう思うと、暁の体はとても軽くなっていた。
「母さん、望、皓、満……今から会いに行くよ」
暁は、微笑みながら一歩足を踏み出した。
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