神様と契約を

小都

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その二日後
式神たちの回復を待って一葉たちは件の森の奥に来ていた。

草木を避けながら充分に警戒しながら一葉たちは進む。

本来ならば満月の夜ではないので妖の力も減退しているはずで
満月の日よりも妖に遭遇しても戦闘はそう辛くはないはずだ。

でもこれは今までとは違う。
前例にもない事態が今起きているのだ。
油断は禁物だ。

もし水光の推察が正しかったら・・・

妖を操れる何かがいるのだとしたら・・・

それが本当なら満月も何も関係なくなる。
今こうしてる間にも自分たちは妖の襲われる可能性があるという事だ。

妖が満月の日にしか暴れないという常識に囚われていては足元を掬われるだろう。

一葉は何があってもおかしくないのだと、自分の気持ちを引き締めた。


あの後、結局身体を動かしてみても一葉は痛みを感じる事はなく
退妖の力も衰えている事はなかった。

少しの休養を布団の上でとっただけで、式神たちよりも早く回復をした。
あれだけの怪我をした事など、嘘のようだった。

ここへ来る前にも、もう少し休養を取った方が良いのでは、と
何度も聞かれたけれども一葉はとてもそれを必要としているとは思えなかった。

痛みすら、傷跡すらないのに。
そうする必要がどこにあるだろうか。

寧ろ休養が必要なのは式神たちの方ではないかと一葉は思う。
一葉には式神たちの力を計る事ができない為に
本当の所どれぐらいの時間でどれぐらい戻るのか分からない。
彼女たちの大丈夫という言葉を信じる他にないのだ。

無理をさせてなければいいけれど。


一葉はそう心に一つの罪悪感を覚えながら前を見つめた。


そのまま前を進んで、一葉たちはついこの間来たばかりの
少し開けた木々の間の原っぱに辿り着いた。
満月の夜でない今日はしんと静まり返っていて
そこには何の気配も感じない。

「一葉、その影を見たのはどの辺りだった?」

辺りを見回した後、水光は一葉の方を向いて尋ねる。
一葉はその問いに、自分の倒れた付近まで歩いていった。

「ここで倒れて、水光様に癒しの術をかけてもらって」

一葉はその時の事を思い出す。
確か朦朧とする意識の中に見えたその影は、
倒れた一葉の左手の方角、その奥の森に消えていったはずだった。

「あちらの、岩壁と木々の間辺りだったと思います」

一葉が指で示した方向を全員が見つめ、その方向へと歩きだす。

少し先にはむき出しの岩肌が見え、その下は木々に隠れて見えにくいが
獣道のような細い道になっていて通れるようになっていた。

その道を注意を払って道なりに進む。
徐々に狭くなり辺りも暗くなって歩きにくいその道を
一葉たちは探るように一歩一歩慎重に進んだ。

すると突如その道が終わり、その先には小さな湖が見える。
その湖の周りを見渡すと、不思議な事にそこは木々が整理されたかのように
四角く湖を避け、まるで一つの部屋かのように立っている。

とても自然にそうなったとは思えなかった。

何かが、いるのかもしれない。
そう思った時だった。


「いる」

水光がそう声を発した。
慌てて水光の視線の先を確認すると、そこには、

あの、黒い影を纏った女性が湖の畔に座っていた。



その様子は、一見普通の人間のようだった。
その女性は湖の畔で水を掬いあげては戻し、掬いあげては戻し、
まるで若い女性が湖の水の綺麗さを喜んで遊んでいるかのようだった。
行動だけを見れば誰しもがそう思うだろう。

しかしそれを人間とは言えないのが、身に纏うおどろおどろしい影だ。

あの黒い影は一体・・・

「妖でしょうか・・・」

一葉がそう呟くと水光は困ったように言った。

「妖の気配ではない。しかし、生きている人間の生気がない」

「・・・それは・・・」

一葉は驚いて水光の顔を見上げた。
今まで一葉はそういうものに遭遇した事はなかった。
非現実的なものとして妖とは何度も何度も闘ってきたが
それ以外のものは知らなかった。

「あれは死霊だろう・・・しかもあの黒い影は・・・」

水光も断定はできないのか、考える素振りを見せる。
もしかしたらそれは一葉たちの管轄ではないのかもしれない。

「悪いものになりかかっているのだろう・・・
 気付いているのかいないのか分からないが、妖の気を引きよせている」

黒い影は妖から発せられる気をその身に取りこんでいるのだろうと水光は言う。
本来ならそんな事なく霊は成仏するものだが
何かの意識に囚われているのか、成仏できないで彷徨う内に
妖の気を吸収して悪い気になっているのだろうと。

水光とそう話している内に、その影が動きを見せた。
はっとして一葉たちは身構えたが、そこで思いがけないものを聞いた。

『だあれ』

「!?」

それは紛れもない女性の声だった。
目の前の女性の影は、畔から立ってこちらを見ている。

まさか、目の前の霊が話せるとは思えなくて
一葉は目を見開いたまま数秒動きを止めてしまっていた。

『だあれ』

もう一度その影が声を発すると、一葉も我に返りその言葉に反応を返した。

「あなたは誰ですか?なぜそこにいるのですか?」

不用意な発言をしないように努め、一葉は逆に質問で返す。
一葉は退妖なら何度もこなしてきたが
さすがに霊に対しての知識は何もない。
不必要な接触は避けたかった。

『私は志津。目的があってここにいるの』

ちゃんと会話が成立する。
どうしてだろう。この女性からはまるで悪い気は感じない。
とても妖を従えているようには見えない。

「稀有なものだ」

その問いの答えに水光も珍しいと感じているようだった。

『あなたたちはだあれ。どうしてここにいるの』

「道に迷ってここに辿り着いたのです。あなたは何者ですか?」

その女性の影には、正体を探りにきた等の直接的な答えは避ける。
少しずつ情報を仕入れたかった。

『私は私。何者でもない』

けれどその女性の影もはっきりとした答えは何も言わない。
言えないのか、言わないのか。
でももしこの女性の影が一連の犯人ならば、
知能があり妖を操っているかもしれないのだから
この問いかけ自体にも気をつけなければいけなかった。

「この付近には妖が多い。あなたは大丈夫なのですか?」

『大丈夫。妖は襲ってこない。どうしてあなたたちは妖が多いとわかる?』

その質問には一葉も困る。
知能戦では勝てる気がせず、一葉はひとつ汗を流した。

「この辺りではよく出ます」

『妖の気配がわかる?』

「……」

『そう、妖の気配がわかるの。そうなの』

一葉の沈黙を肯定ととったのか、
その瞬間、それまで無表情だった女性の影はにいと笑った。



『じゃああなた退妖師なのね』

そう言った志津という女性は、笑いながら右手をあげて

『出ておいで坊やたち』

と言った。
するとその瞬間、周りの木々の影から妖が出てきたのだ。

「な!?」

一葉たちは驚きながらも、一歩引いて身構えた。

やはりあの志津という女が妖を操れるという意見は正しかった。
まさかこんないとも簡単に妖が言う事を聞くとは・・・

目の前に現れた妖は3体。
うまく連携をとれば難しくはないはずだ。


しかし志津という女性の力がわからない。
あの霊が何の力もなく、こちらに攻撃等ができない事が前提でしかなかった。

妖は構えたままこちらに襲い掛かる様子を見せず、一葉たちと睨み合う時間が数秒続く。

すると志津という女性が笑って言ったのだ。


『退妖師なんて、みんな滅んでしまえばいいのよ』

そうして今にも妖に命令を下そうとしている。

しかし一葉はその言葉がどうしても気になった。

「どうしてですか?どうして退妖師が滅べばなどと…」

一葉がそう言葉を発すると、志津はそれに気づきあげかけた手を止めこちらを向いた。

『退妖師なんて惨めだわ。惨めでみんな可哀相。なら、滅んでしまえばいいでしょう?』

「どういう事ですか、どうして惨めだなんて・・・」

一葉がそう言うと志津は笑いながら首を傾げ
一葉の顔をじっと見つめながら言った。

『あなたは思った事がない?どうして自分が退妖師なのか。
 どうして身を捧げて人間を守らねばならないのか。
 どうして自分の幸せを第一に考えてはいけないのか』

くすくすと志津は笑う。
その志津の言葉に、一葉は言葉を返す事が出来なかった。

それは、一葉の心に重く圧し掛かる言葉だった。



一葉の目の前が暗くなる。
どうしてだろう。
その言葉は一葉にとって仕舞い込んだ箱の中の言葉。

それを、心の中を見透かされた気がして一葉は息が詰まる。


「一葉、耳を貸すな。あれは死霊だ」

「あ・・・水光様・・・」

一葉は自分の思考に落ちそうになった所に、水光の言葉で我に返る。
志津の言葉に一葉は、
心の奥底の一番脆い場所を、突かれた気がした。

「心を強く保たないと死霊にのまれるぞ」

「はい、すみません・・・」

どんなに痛い言葉でも、それに耳を貸してはいけない。
一葉は心に刺さるその言葉を気にしないふりをした。

『可哀想な退妖師。私がその痛みから解放してあげるわ』

「どうしてそう思う?お前は退妖師だったのか?」

薄気味悪く笑い続ける志津に、今度は水光が問いかけた。
すると、志津は初めて水光を認識したかのように目を見開いた。

『あなたはだあれ?』

「水光という」

『・・・』

「お前は退妖師だったのか?何か辛い事があった。
 だから恨みに思っている。そうではないのか?」

水光がそう言うと一瞬、志津の動きが止まる。
その動きこそ、水光の言葉を肯定するものだった。

しかし志津はそのまま水光を見つめ、暫く声を発さなかった。
まるで探り合いだ。

『・・・それがなんだ』

それから数秒止まったままだった志津がそう水光に言う。
志津の目は今度は水光を睨んでいるようだった。

「自分が辛い思いをしたからと言って、他もそうだとは早計だな。
 そしてだから滅ぼしてしまおうとは何とも短絡的だ」

『何が言いたい』

「この子は確かに退妖師で辛い思いもしてきた。
 だが今幸せでないと、この先幸せになれないと誰が決めた?」

水光は一葉の髪をさら、と撫でながらそう志津に言う。
一葉はその言葉を聞いて、さっきまでの暗い気持ちが払拭された。

そうだ。私は、水光様にこうして救われて幸せだ。

例えこの先に何があろうとも、

今、今この瞬間は、水光様の隣にいるこの瞬間は幸せではないか。


一葉は水光の言葉に温かな気持ちを覚えた。


忘れてはだめだ。
辛い事も色々あったけれど、こうして水光様に出会えた事。
それは何よりも幸せな事。

例え契約が終わっても、
水光様に出会えなければこんな気持ちは持ち得なかった。

今幸せでないと、どうして何も知らぬ死霊にわかるだろうか。


水光は隣の一葉の目に光が戻ったのを見て、安心する。
そして少し微笑みもう一度一葉の髪を撫でる。


「退妖師であることを誇りに思っている者もいる。その血を何より尊んでいる者も。
 退妖師としての力が少なくても、必死で闘っている。
 それをどうして惨めだなどと思えようか」

『うるさい、うるさい!』

水光のその言葉に志津は聞きたくないとでも言うように頭を振った。
まるで癇癪を起した子供のようだ。

しかしそれで志津の頭に血がのぼったのか、
逆上して志津は右手をあげて妖たちに命令をした。

『そんなこと知らない!退妖師は滅ぼす、それだけだ!
 坊やたち、あいつらを始末するのよ!!』

あげた右手を一葉たちの方へ向けると、
すぐさまその命令通りに妖たちは敵意を持って向かってくる。

一葉たちはその攻撃をまずかわして、一か所に纏まらないように分散した。
式神たちで1体、水光が1体、一葉が1体どうにか捕縛までできれば1番いい。

そう思って一葉は攻撃をかわす為に身を翻しながら
自分の方向へ1体だけを誘導する。

知能がある分うまくいくかは分からなかったけれど
その作戦には乗ってくれたようだ。

1体が一葉の方へと攻撃を繰り出す。
動きがいつもの妖とは違いやはり早い。
その所為で苦戦はしていたが、木々の間をうまく使い
捕縛の術が間違いなく当たる所まで誘い込んだ。

今だ!

「風縛!!」

手に力を込めて術を繰り出す。
すると光に包まれた風が勢いよく妖の身に絡まりついた。
体力のみならず術の力も少し上がっているだろうか。
いつもより勢いよく強い風が妖を取り囲む。

捕らえた!

あとは浄化を、
そう思った時だった。

目の前の妖は捕らえたはずの風を吹き飛ばしたのだ。


「な!?」

その勢いで一葉は吹き飛ばされ背後にあった樹木に身体を打ちつけた。

「ぐ、うぅ」


息がつまり、一瞬呼吸が止まる。
そのすぐ後にごほごほと一葉は何とか呼吸を整える。
背中が痛むけれど目の前に妖が迫っていて気にしている余裕はなさそうだ。

風縛が効かない・・・


風縛は捕縛系術の中でも上位で
この術で捕らえられなかった妖は今までいなかったというのに・・・


これよりも上の術となると力の消耗が激しく、
一葉の力ではそう何度も使えるものではなかった。

でも、そうも言っていられなさそうだ・・・


向かってくる妖に一葉は力を込めて術を解き放った。

「炎舞陣!!」

手から大量の力が放出されるのがわかる。
まるで精気を吸い取られるかのようだった。

しかしそこから放たれた炎と化した一葉の力は
陣となって妖を取り囲み、灼熱の炎が身を焦がすように舞っていた。

その術はさすがに妖も破れないようで苦しそうに喘いでいる。

一葉はすぐにこの機会を逃さず次の術を繰り出す。

「お眠りなさい・・・浄化!!」




やっとの思いで一葉は1体を浄化し立ちあがった。
1体でこんなに力を消費するとは・・・
そう思いながら、他のみんなはと辺りを見回すと
水光は1体を捕縛した所で、式神たちは苦戦をしている所だった。


水光が妖を捕縛したのを確認して一葉は式神たちの方へ走りだした。
妖は一度捕縛できれば術が切れるまではそれに捕らわれる。
一葉の術ですら1時間2時間で切れる事はないから、
水光の術でならまず間違いない。
そちらは一先ずおいて、一葉は式神たちを助けようと思った。

「浮珠、秘雲、鼓羽、その妖は上級術しか効かないようです!
 炎舞陣、もしくはそれと同等の術を!」

「!?……わかりました一葉様!!」

そう返事を返した式神たちは一度妖から離れ態勢を立て直す。
そして妖にまた対峙して3人で術を繰り出せるように連携をとっていた。

一葉は少しでも式神たちが楽に闘えるようにと
気を逸らす為に攻撃系の術を紡ごうと手に力を入れた、

その時だった。


いきなり一葉の手が重くなり動作が鈍くなる。

・・・重い・・・っ!?


驚き自分の身体をよく見ようとするが、それすら上手くいかない。

何故、そう思ってもう一度手を見ると、
そこには黒い妖気が仄かに巻きついていた。

「!?」


今までに経験した事のない事態に一葉は驚いて言葉を瞬時に発する事は出来なかった。

何が、起こったのだ・・・!!?


そう思った瞬間、耳元で笑う声が響いた。


『ふふ、捕まえた』


それは、あの死霊、志津の声だった。


あまりに近い、耳元でそうと囁かれて一葉は皮膚に鳥肌を立てた。




「一葉!!」

水光の呼ぶ声が聞こえたけれど、一葉にはそれが遠いのか、近いのかすら分からない。

妖気と、耳元から聞こえる死霊の声に
一葉は焦りついと背中に汗が流れる。

緊張で胸がどくどくと鼓動を打つけれど
妖気に捕らわれた一葉は振り返る事も出来ず志津がどこにいるか
確認する事も出来なかった。


『おいたは、だめよ』

もう一度声が聞こえたと思ったら、
一葉の首元がひんやりとした。

それが何かは、すぐにわかった。

志津が、後ろから一葉の首に手を回したのだ。
それは後ろからの抱擁というよりは、拘束に近い。

一葉はその拘束に、動かせない身体に、
じわじわと額に汗を滲ませていた。


「一葉!!」

『動かないで』

水光が一葉の元へと走り出そうとしたが、
首に回した手に力を入れる真似をしてみせて志津が周囲を脅した。

『この子がどうなってもいいなら動きなさい』

そう言って志津は水光や式神たちを見渡して動きを封じた。
するとふふ、と笑って身体を揺らす。

『すぐに殺してもいいのだけれど、せっかく育てた坊やたちを浄化されて
 少し私も怒っているのよ?だから少しずつ殺してあげる』

志津はそう言った後も何がおかしいのか笑っている。

『おかしなものよね。私が退妖師だった時は必死で妖と闘っていたのに
 今はこうして妖を育てているだなんて、とっても皮肉だわ』

一葉の首に回った腕はそのままで、力を入れる気配は今の所ない。
ひんやりとした手を首におかれているだけだ。
それでも、一度怒らせてしまえばすぐに力を入れられるのには違いないけれど。

『私が人間という枠からはみ出したせいかしらね』

怒っていると言う割には嬉しそうに志津はそう話す。
何かの感情が高ぶって興奮しているのだろうか。

「・・・どうして、あなたは霊になってしまったのですか?」

恐る恐る一葉は声を絞り出す。
身動きは取れないけれど声は何とか出す事が出来た。

しかしその質問に、志津はぴたりと笑うのをやめ、しばしの間沈黙を保った。

でも、その沈黙は怒っているのではなく、
その質問に答えるかどうか迷っているのではないか、と一葉には感じられた。

「どうして・・・」

もう一度一葉が尋ねると、志津は一葉の後ろで息を吐き出した。

『あなたにも契約している神がいるでしょう』

「・・・?」

そろ、と小さく志津が言った言葉、それは水光には聞こえただろうか。
志津はまだ水光が神だとは気付いていないようだ。
なるべくこちらの情報を話していなくて良かった。

霊になったのが神に関係する事なのだったら黙っていた方がいい。


『私にもいたわ。とても優しい神と契約をした。
 無垢だった私は終わりがくることなど信じずその神に恋をしたのよ』

「!?」

『神も私を愛してくれている。自分には終わりなどない。そう思っていた。
 ・・・私は子供だったの』

「志津・・・さん・・・」


その言葉を聞いた一葉は、今まで張りつめていた心が
ゆっくりと力を抜いて溶けてゆくのを感じた。

その言葉は、正に今の一葉そのままではないか。

じくじくと、心臓が波をうつ。
いけないと分かっていながらも、一葉の意識は志津へと向いていった。


『たとえ新月の日にしか逢えなくても幸せだった。
 でもいつも終わりに怯えていたわ。だから思ったの。
 私が人間をやめればいいんだわ、って』

「・・・え?」


どういう事だろう。
人間をやめても、今こうして霊の姿でも神と一緒にはなれない。
それに今の志津が神と一緒にいて幸せなのだとは、とても思えないのに。

『風の噂で聞いたのよ。聖水に身を浸しながら自害すると神の世界に行けるって
 だからそうしようと思ったの』

志津はそう言ってふふと笑う。
しかし一葉はそんな噂など聞いた事がない。
それは本当なのだろうか。

神の世界に行くだなんて。
そんな事がただの人間にできる事なんだろうか。

もしできるなら・・・

そう思った時
『でも、』と志津が続けた。


『そうしようとした時に神に裏切られたのよ』


そう言った志津の声はさっきよりも少し低く、
そして一葉の首元にあった手は少しだけ、きゅと力が入った。


「・・・ど、どういうこと、ですか・・・」

一葉は志津の過去の話をもっとよく聞きたいと思った。
それは、自分にも無関係ではないからだ。

それは、いつか自分も辿る道かもしれない。

そう思ったら、もう他に気が向かなくなってしまっていた。

胸がずきずきと痛む。
もし自分がそうだったら、もし自分が同じだったら、
そんな思いだけが一葉の頭を支配した。


『結局、愛しているだなんて、口だけだったのよ。
 あんなに愛した神に、私は記憶を消され捨てられたの』

「な、どうして・・・」

『暫くはそのままだったけれど、ふとした事で記憶が戻った。
 その後は地獄だったわ。あんなに愛したのに。あんなに愛してると言っていたのに』

志津の声は低く、どんどん周りの妖気も濃くなっている。
悪い気がどんどんと一葉の周りを取り巻くけれど、
志津の話に同調してしまっている一葉はそれに気付く事が出来なかった。

『私は発狂したわ。そして今度こそ本当に自害したの。
 そして気がついたらこの姿になっていた』

「そんな・・・」

一葉がそう言うと、志津は先ほどとは違う、
何かとても憎んでいるような、それでいて悲しんでいるような、
そんな顔で低く笑った。

『だからあなたも。神を愛してはいけないわ。
 そんな事になったら、私のように捨てられるの』


そう言った志津の言葉を聞いた一葉は、
耐えきれず頬に雫を流していた。

捨てられる。
いつか捨てられる。

そう、そんなこと分かっていた。

いつだって覚悟していた。


でも、そうじゃなければいいのにって、
本当は心の奥底で微かに思っていたんだ。

だけど、それが決して叶えられない望みなのだと、
今はっきりと志津の言葉で分かってしまった。

一葉の意識は完全に志津に呑み込まれ、
一葉はそのまま雫を流し続けていた。


『あら、泣いているの?』

首元に手を回したまま志津は一葉の顔を覗き込んだ。
静かにほろほろと涙を流す一葉は志津の言葉にはもう反応しなかった。

ただ、涙を流しているだけだ。

『あなたも悲しい恋をしているのね。』

志津は一葉を憐みの目で見つめる。
けれどそれも一瞬で、すぐにその顔は微笑へと変わっていった。

『大丈夫よ、私がその辛い思いから解き放ってあげる』

そして志津の手は一葉の首筋を捕らえ、今まさに力が入れられようとしていた、
その時だった。


「黙って聞いていれば、戯言を」

声がする方を向けば、水光がこちらへ向かい一歩一歩進んできている。
水光は眉間に皺をよせ、とても怒っているようだった。

『それ以上来るな!この子がどうなってもいいのか!!』

水光を見て志津はそう怒鳴った。
そしてその瞬間、一葉の首にある手にきゅっと少しだけ力が入る。

「っ・・・・!」

一葉はその刺激に肩をびくりと震わせる。

志津はそれで水光を脅したつもりだったけれど
しかし、それこそが自分の首を絞める事になるとは志津は気がつかなかった。

「その子を放せ」

今までに聞いたことのない水光の低い声が聞こえた。
その声が発せられたと同時に水光の周囲に一瞬で風が巻き起こる。
それはまるで水光の感情に同調しているかのような風だった。

『何を・・・!』

「放せと言っているのが聞こえないのか?」

既に水光の周囲で荒れている風は術でできる範囲のものではない。
竜巻と言っていいほどだ。
それに志津も気付いているのか、
志津はかたかたと震えだし、逆に怯えて一葉を放す事ができなくなっていた。

気がつくとその風がまるで吹き飛ばしたかのように、
人間と同じようにと黒い色に変えていた水光の髪と瞳の色が元に戻っていた。

『・・・・・っまさか・・・』

「その子は私と契約をしている子だ」

『まさか、まさか神だというのか・・・!?』

その水光の銀髪と橙の瞳の色を見て志津は気付いたのか
驚き瞳を大きく開いて呆然と水光を見ていた。

「返してもらう」

そう言って水光は一葉の手を取り、自分の懐へ抱きこんだ。

一葉はその腕の中に安堵したけれど、
一度呑まれた意識は簡単には浮上せず、暗い瞳をしたままだ。

そんな一葉を水光は大切そうに抱きかかえたまま
一葉の頬をゆっくりと撫でた。


『そんな、そんなはずは・・・だって今日は新月ではないのに・・・
 神がこちらへ降りてくるなど・・・そんなまさか』

目の前の水光の存在が神だった事が志津には未だに理解が出来ていないようだった。

それはそうだろう。
一葉でさえ水光がこちらへ降りてきた時は相当驚いたのだ。

「やってできない事はない。色々と掟破りではあるけどな」

そう言って水光は志津を見る。
その目は、先ほどまでの怒りは携えてはいないけれど
とても真剣に志津を射抜くように見つめていた。

「悪いが、一葉はお前と同じ道は辿らない」

『・・・・・』

「大体にしてこの子がこの先惨めで不幸になるなんて、有り得ない事だ。
 俺が共に生き、共に幸せになるのだからな」

「!?」


その言葉に、一葉は大きく目を見開き水光を見た。
志津に呑まれていた意識が、その言葉で揺らいでいるのが分かる。


『・・・そんな、馬鹿な』

今の水光の言葉が信じられず、志津は呆然としたまま水光を見ている。
そんな事が神にできるなんて思いもしなかったのだ。
神がこちらへ降りてくるなど、有り得ない事だと思っていたからだ。

「ああそういえば」

そんな視線も定まらない志津に水光は何かを思い出したかのように話しかけた。

「俺の知り合いに、以前掟を破って幽閉されている神がいる」

何を話し出すのだろうと思った。
突拍子もないその会話がどこへ向かうのかなんて誰が予想しただろう。

「人間界のものに過度な干渉をした罪だ。
 契約した人間の退妖師の記憶を許可なく消したらしい」

『!?』

志津はその言葉にばっと音がするように
俯かせていた顔を水光に向けた。

それは、もうずっと知ることのできなかった神の事かもしれなかった。

「俺の古い知り合いだ。幽閉された後に何度か会いに行った事がある。
 その時、その神に何故そんな掟を破るような事をしたのか聞いた事があったな。
 その神はこう言っていた」

『人間には限りがある。その限りある生を精一杯生きている人間は美しいものだ。
 風の噂に惑わされて自らの命を絶つよりも、私は彼女に人間として生きて欲しかった。
 とても愛している。とても愛おしい。だからこそだ』

「それがその神の思いだった。たとえ自分は罰を受けようと、幽閉されようと、
 彼女が幸せに生きるのならその方がいいのだと言っていた」

『あ・・・あ・・・・・』

志津はその言葉を聞いて、身体から力が抜けたのか
その場に座り込んでしまった。

そして手で顔を覆って、自分の行動を思い返す。

ずっと、ずっとそんな事知らずに神を恨み続けたのだ。
死霊になってまで。

その頬からは、涙が流れていた。


「お前の話を聞いてその神の事を思い出した。
 その彼女の事が誰かは俺は知らないが、その神はそれでも満足そうだった」

志津は肩を震わせ泣いている。
それが志津の事だということは間違いないのだろう。

『うぅ・・・』


「裏切られたのではない。それがその神の愛の形だったんだ」

その水光の言葉に、志津は少しだったがこくりと首を縦に振った。

それから暫く志津は泣き続けていた。
一葉も志津と、その神の話を思い、静かに涙をこぼした。

「その神はお前が死霊になっている事を知らないだろう。
 知らないうちに成仏するといい。
 いつか、その神の幽閉が解けた時にお前がそこにいる事を
 その神は望まないだろう」

その言葉に志津は最初は呆然としたままで
聞こえているのかいないのか分からなかったが、
それから暫くした後で何度か頷き、辺りを一度見渡した。

そして水光、一葉を見つめた後
静かにすうと姿を消していった。

姿が透明になっていく間ずっと志津は一葉を見ていた。
殺そうとした事を詫びているのか、一葉が羨ましいのか、
それとも何か別に言いたい事があったのか、
何も話さなかったせいで一葉には分からなかった。

ただ、消えていくその姿の周りに、黒い影はもうなかった事だけは
一葉にもはっきりと分かった。

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