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第2章
CLUB ECLIPSE
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三浦理事長の妻・三浦明子は五十二歳。
警視庁の取調室に現れた彼女は、やや取り乱してはいたが、凛とした姿勢を一切崩さなかった。
白髪の混じった黒髪はきれいにまとめられ、耳元には小ぶりの真珠のイヤリング。
化粧は控えめだが、乱れはない。
――人前に立つことに慣れた、気品のある女の佇まい。
東山教授の妻のような派手なタイプではない。名家で育ち、厳しく躾けられたお嬢様なのだろう。
「……お忙しいところ、ありがとうございます」
低く、落ち着いた声。
悲嘆に沈みきっていないことが、かえって強く印象に残る。
隼人が、正面から静かに切り出す。
「ご主人の件、改めてお悔やみ申し上げます」
「……ありがとうございます」
小さく頭を下げたあと、明子は言った。
「主人は、本当に……穏やかで優しい人でした」
その言葉に、嘘は感じられなかった。
だが同時に――完璧すぎる、という違和感だけが残る。
彼女が取調室を出ると、第七係の一角に資料が広げられた。
三浦明子の行動記録。通話履歴。カードの使用明細。
荒巻係長が、低く言う。
「目立った動きはない。だが――一つ、引っかかる」
鑑識が、一枚の静止画を差し出した。
夜の路地。街灯の下に並んで立つ二人の影。
三浦明子。そして――若い男。
隼人が身を乗り出す。
「……この男、どこかで」
次の瞬間、あっという声が漏れた。
「東山教授の妻の“愛人”と、同一人物じゃないですか?」
室内が一気に静まる。
「顔認証、九割以上一致」
鑑識が淡々と告げた。
「歌舞伎町のホスト。名前は――朝比奈 玲央」
アレクは、写真をじっと見つめていた。
茶色に染めた肩までの長い髪に、軽薄そうな笑顔。
いかにも「ホスト」といった風体の男。
「二人の妻に接触。深夜の通話。金の流れもある」
「偶然じゃないな」
荒巻が即断する。
「このホストを当たれ」
隼人の胸に、嫌な予感が広がった。
(……結局、金と欲か)
アレクは、黙ったまま写真から視線を離さなかった。
* * *
夜の歌舞伎町は、組対にいた頃、隼人が幾度となく足を踏み入れてきた“馴染みの戦場”だった。
昼間の雑多さは影を潜め、ネオンだけがこの街の輪郭を塗り替えている。
頭上には無数の看板。
紫、青、赤、金。
縦に、横に、空へ向かって突き刺さるように並ぶ光の柱が、夜空を細切れにする。
路地に足を踏み入れるたび、甘ったるい香水と酒、揚げ物の油、湿ったアスファルトの匂いが混ざり合い、肺の奥まで入り込んでくる。
呼び込みの声。
客引きの軽薄な笑顔。
路上にしゃがみ込む若者。
タクシーのブレーキ音。
笑い声と怒鳴り声が、同じリズムで交差する。
ここは、欲と孤独が剥き出しになる場所だ。
「……あーあ、高級住宅地から、また歌舞伎町に逆戻りか」
隼人が、頭上のネオンを見上げて呟く。
「マル暴相手で、よく来てたんですか」
アレクが淡々と返す。
「おう。揉め事、金、女、クスリ。この街には、だいたい全部転がってる」
隼人は肩をすくめて笑った。
「ここは俺に任せろ、相棒」
軽くウインクすると、アレクは呆れたように息を吐く。
「……どうだか」
通りの奥、一段と強い光を放つ建物が姿を現した。
全面ガラス張りのファサードは、夜のネオンをそのまま映し返し、まるで巨大な宝石箱のようだ。
階層ごとに色を変えるLEDが脈打つように明滅し、建物全体が生き物のように呼吸している。
エントランスには黒服のスタッフが無言で並び、重厚な扉の向こうからは低音の音楽と、女たちの嬌声が途切れ途切れに漏れてきた。
〈CLUB ECLIPSE〉
歌舞伎町でも最大級と噂されるホストクラブ。
欲望と金、虚飾と孤独が渦巻く“夜の王国”の象徴のような場所だ。
二人がその入口に足を踏み入れようとした瞬間だった。
「……え?」
ボーイの一人が、アレクの顔を見た途端、完全に動きを止めた。
「ちょ、ちょっと待って! 兄さん、うちで働かない? 本気で言ってる!」
「は?」
アレクが反射的に一歩引く。
「……俺は客じゃない」
そのやり取りを合図にしたかのように、周囲の視線が一斉に集まった。
「新人?」
「え、なにあの人……タイプなんだけど」
店内のソファに座っていた女性客たちまでが、ざわめきながらアレクを振り返る。
(……おいおい。得する見た目なんじゃなかったのか?現場より、こっちの方が修羅場じゃないか)
隼人は内心で舌打ちしながら、周囲から浴びせられる熱を帯びた視線に辟易し、無言でポケットから警察手帳を取り出した。
「勘違いすんな。こいつはホスト志望じゃない。警察だ」
乾いた一言が落ちた瞬間、
ざわついていた空気が、嘘のように凍りつく。
「この店で働いてる朝比奈玲央に話を聞きたい」
ざわついていた店内が、水を打ったように静まった。
次の瞬間、店の奥から黒服を着た体格のいい男が二人、威圧するように歩み出てきた。
「なんだ? お前ら。警察が何の用だ」
隼人は一歩、前に出る。さっきまでの軽口は影も形もない。声に、低く硬い圧が宿った。
「殺人事件の重要参考人を追ってる。俺は元組対の真壁だ。お前らの“親父”に、余計な火の粉が飛ぶのが嫌なら――とっとと朝比奈を出せ」
ドスの利いた声が、エントランスに重く響いた。
(……なるほど。“組対四課は、マル暴以上にマル暴っぽい”って話、本当だな)
アレクは一瞬だけ目を見開き、すぐに視線を伏せて内心で小さく苦笑した。
黒服の男たちは隼人の態度を一瞥し、短く視線を交わすと、近くのスタッフに小声で何かを耳打ちする。
若いスタッフは顔色を変え、足早に店の奥へと消えていった。
「今、店長に確認してる。少し待て」
促されるまま、入口近くのボックス席に腰を下ろす。
「真壁さん」
隼人がグラスに手を伸ばしたところで、アレクが小さく声をかけた。
「ん? なんだよ」
「最初に会った時、俺、“乱暴なだけの現場屋は必要ない”って言いましたよね」
「……言ったな」
「前言撤回します」
珍しく、殊勝な声だった。
隼人が思わずアレクを見ると、彼はわずかに耳を赤くし、そっぽを向いている。
(なんだよ……。こいつ、結構かわいいとこあるじゃねぇか)
隼人は口元を緩め、にやにやとアレクを眺めた。
しばらくして、先ほど奥に消えたスタッフが戻ってくる。
その後ろには、貫禄のある中年男性――店長と思しき男が立っていた。
「真壁さん」
隼人の顔を確認すると、店長は深く頭を下げる。
「おう、久しぶりだな。なあ、店に迷惑かけるつもりはねぇんだ」
そう言って、隼人はポケットから一枚の写真を取り出し、テーブルに置いた。
「朝比奈レオ。この店で働いてるだろ?ちょっと話がしたいだけだ。連れてきてくれ」
店長は写真をしばらく見つめ、やがて小さく頷いた。
「……分かりました」
振り返り、スタッフに短く指示を出す。
「レオを呼べ」
数分後――
不満げな声が、通路の奥から聞こえてきた。
「なんすか?俺、接客中だったんすけど」
現れたのは、百八十センチ近い長身。
全身白のスーツに身を包んだ、二十代半ばの男だった。
軽い笑みを浮かべたその顔を見て、隼人は確信する。
――朝比奈レオだ。
隼人が警察手帳を見せて一歩出る。
「朝比奈レオ。東山教授と三浦理事長、知ってるな」
レオは一瞬、考える素振りを見せてから肩をすくめた。
「名前だけなら。お客さんの旦那さん、ですよね?」
その軽さに、隼人の眉が動く。
「二人とも――死んだ」
レオの笑みが、ほんの一拍、遅れて固まった。
「……は?」
アレクが淡々と続ける。
「東山は先週。三浦は今朝。どちらも自宅で毒殺された」
レオの喉が鳴る。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。冗談、きついっす」
「冗談じゃない」
隼人は低く言った。
「二人の妻と、お前が接触していたことが分かってる」
レオは反射的に立ち上がった。
「待って。それは、仕事っすよ。俺、ホストなんで」
「仕事で、深夜に個人的な通話をするのか?」
「……」
レオは口を開きかけ、閉じた。 アレクが、静かに距離を詰める。
「なあ。今この瞬間も、軽口で逃げられると思ってるなら――」
緑色の目が、真正面からレオを射抜く。
「状況が、まったく見えてない」
レオは、初めて視線を逸らした。
「……殺したとか、俺じゃないっすよ」
声が、わずかに掠れる。
「俺は、話聞いてただけだし。愚痴とか、泣き言とか……」
「その“だけ”が、命に関わることもある」
隼人が言う。
「事情聴取だ。任意だが、来てもらう」
レオは唇を噛んだ。
「……行かないって言ったら?」
隼人は答えない。
レオは、力なく笑った。
「……マジか」
その顔から、夜の街で生きるための仮面が、少しずつ剥がれていく。
「分かったっすよ。行けばいいんでしょ」
アレクが、短く告げる。
「逃げるな。ここで逃げたら、お前は一生、 “関係ない”とは言えなくなる」
その言葉の重みを、レオはすぐに理解したらしかった。
軽口も、反発も返さない。ただ、小さく喉を鳴らし、黙って頷く。
「……一服だけ。吸わせてください」
レオはスーツの内ポケットからマルボロの箱を取り出し、ズボンのポケットを探ってから、くしゃりと潰れたマッチ箱を引き出した。奇妙な絵柄が印象的なマッチの箱だった。
一本抜き取り、擦る。
しゅっ、と乾いた音。
小さな炎が立ち上がり、先端が赤く灯る。
レオは煙を肺に満たし、ゆっくりと吐き出した。
白い煙が、夜気の中に溶けていく。
煙の向こうで、レオはもう“夜の男”ではなく、ただの――逃げ場を失った若者に見えた。
隼人は、そのレオの横顔と、テーブルの上に置かれたタバコとマッチの箱をぼんやりと眺めていた。
* * *
取調室は、静かだった。
無機質な机。 パイプ椅子。 壁にかかった時計の秒針の音だけが、やけに大きく響いている。
朝比奈レオは、椅子に浅く腰掛け、落ち着きなく膝を揺らしていた。 両手を何度も組み替え、視線が定まらない。
「……俺、ほんとに殺してないっす」
先に口を開いたのは、レオだった。 声は震え、軽口の調子は完全に消えている。
隼人は真正面から彼を見据えた。
「二人の妻と接触していた。事件前後に、頻繁な通話。金のやり取りもある」
机の上に写真を並べる。
東山教授の妻と、夜の街を歩くレオ。 三浦理事長の妻と、路地で立ち話をするレオ。
「説明してもらおうか」
レオは、唇を噛んだ。
「……客です。それ以上でも、それ以下でもない」
「客に、“旦那がいなくなれば楽になる”なんて言うのか?」
隼人が低く詰める。
レオは目を伏せた。
「……言いましたよ。でも、それ、誰でも言うでしょ?愚痴の流れで」
その言葉に、 隼人の中で苛立ちが膨らむ。
「結果として、二人とも死んでる」
レオが、はっと顔を上げた。
「俺のせいだって言うんすか?」
声が裏返る。
「俺、殺せって言ったわけじゃない。毒盛れとも言ってない」
「じゃあ、何を“隠してる”?」
隼人が一歩踏み込む。
間違いない、こいつは何かを隠してる。
この目を見ればわかる。
隼人はそう確信していた。
アレクが、首を傾げた。
(……違う)
この男は、 思想を持っていない。 裁く側ではない。
アレクは静かに口を開く。
「お前、殺しはやってないだろ」
レオが、驚いたように顔を上げる。
「……え?」
「だが、この事件と“無関係”でもない」
緑色の目が、じっとレオを捉える。
「隠してることを言え。今なら、“殺人”とは切り分けて考える」
レオの喉が、大きく鳴った。
隼人は、 アレクが“逃げ道”を作っていることに気づき、 苛立ちを覚えた。
「東条――」
だが、アレクは視線を逸らさない。
「……最後に聞く」
低く、淡々と。
「お前、彼女たちに“何を渡してた”?」
その一言で、 レオの顔色が、はっきりと変わった。
沈黙。
秒針の音。
やがて―― レオは、崩れるように項垂れた。
「……クスリです」
隼人が息を呑む。
「覚醒剤。量は、ほんの少し。“眠れるようになる”って……」
「ふざけるな!」
隼人が机を叩いた。
レオは肩をすくめ、声を震わせる。
「依存させるつもりはなかった。俺だって、そんなヤバいこと……」
「違法だ」
アレクが、冷たく言い切る。
「完全に」
レオは必死に続けた。
「でも、殺しじゃない。毒じゃない。あんなもん、俺の手に入るルートじゃないっす」
隼人は、 レオの目を見つめる。
恐怖。 保身。 浅ましさ。
だが―― 殺意だけが、ない。
(……くそ)
隼人は、歯を食いしばった。
取り調べが終わり、 レオは薬物関連で身柄を拘束された。
だが―― 殺人事件の核心は、 一つも掴めていない。
第七係に戻る廊下で、 隼人は立ち止まった。
「……結局、殺人の犯人じゃなかった」
吐き捨てるような声。
アレクは、窓の外を見たまま答える。
「最初から、違うと思ってた」
「じゃあ、俺たちは何を追ってる?」
アレクは、静かに言った。
「“裁いているつもりの誰か”だ」
その言葉が、隼人の胸に重く落ちる。
警視庁の取調室に現れた彼女は、やや取り乱してはいたが、凛とした姿勢を一切崩さなかった。
白髪の混じった黒髪はきれいにまとめられ、耳元には小ぶりの真珠のイヤリング。
化粧は控えめだが、乱れはない。
――人前に立つことに慣れた、気品のある女の佇まい。
東山教授の妻のような派手なタイプではない。名家で育ち、厳しく躾けられたお嬢様なのだろう。
「……お忙しいところ、ありがとうございます」
低く、落ち着いた声。
悲嘆に沈みきっていないことが、かえって強く印象に残る。
隼人が、正面から静かに切り出す。
「ご主人の件、改めてお悔やみ申し上げます」
「……ありがとうございます」
小さく頭を下げたあと、明子は言った。
「主人は、本当に……穏やかで優しい人でした」
その言葉に、嘘は感じられなかった。
だが同時に――完璧すぎる、という違和感だけが残る。
彼女が取調室を出ると、第七係の一角に資料が広げられた。
三浦明子の行動記録。通話履歴。カードの使用明細。
荒巻係長が、低く言う。
「目立った動きはない。だが――一つ、引っかかる」
鑑識が、一枚の静止画を差し出した。
夜の路地。街灯の下に並んで立つ二人の影。
三浦明子。そして――若い男。
隼人が身を乗り出す。
「……この男、どこかで」
次の瞬間、あっという声が漏れた。
「東山教授の妻の“愛人”と、同一人物じゃないですか?」
室内が一気に静まる。
「顔認証、九割以上一致」
鑑識が淡々と告げた。
「歌舞伎町のホスト。名前は――朝比奈 玲央」
アレクは、写真をじっと見つめていた。
茶色に染めた肩までの長い髪に、軽薄そうな笑顔。
いかにも「ホスト」といった風体の男。
「二人の妻に接触。深夜の通話。金の流れもある」
「偶然じゃないな」
荒巻が即断する。
「このホストを当たれ」
隼人の胸に、嫌な予感が広がった。
(……結局、金と欲か)
アレクは、黙ったまま写真から視線を離さなかった。
* * *
夜の歌舞伎町は、組対にいた頃、隼人が幾度となく足を踏み入れてきた“馴染みの戦場”だった。
昼間の雑多さは影を潜め、ネオンだけがこの街の輪郭を塗り替えている。
頭上には無数の看板。
紫、青、赤、金。
縦に、横に、空へ向かって突き刺さるように並ぶ光の柱が、夜空を細切れにする。
路地に足を踏み入れるたび、甘ったるい香水と酒、揚げ物の油、湿ったアスファルトの匂いが混ざり合い、肺の奥まで入り込んでくる。
呼び込みの声。
客引きの軽薄な笑顔。
路上にしゃがみ込む若者。
タクシーのブレーキ音。
笑い声と怒鳴り声が、同じリズムで交差する。
ここは、欲と孤独が剥き出しになる場所だ。
「……あーあ、高級住宅地から、また歌舞伎町に逆戻りか」
隼人が、頭上のネオンを見上げて呟く。
「マル暴相手で、よく来てたんですか」
アレクが淡々と返す。
「おう。揉め事、金、女、クスリ。この街には、だいたい全部転がってる」
隼人は肩をすくめて笑った。
「ここは俺に任せろ、相棒」
軽くウインクすると、アレクは呆れたように息を吐く。
「……どうだか」
通りの奥、一段と強い光を放つ建物が姿を現した。
全面ガラス張りのファサードは、夜のネオンをそのまま映し返し、まるで巨大な宝石箱のようだ。
階層ごとに色を変えるLEDが脈打つように明滅し、建物全体が生き物のように呼吸している。
エントランスには黒服のスタッフが無言で並び、重厚な扉の向こうからは低音の音楽と、女たちの嬌声が途切れ途切れに漏れてきた。
〈CLUB ECLIPSE〉
歌舞伎町でも最大級と噂されるホストクラブ。
欲望と金、虚飾と孤独が渦巻く“夜の王国”の象徴のような場所だ。
二人がその入口に足を踏み入れようとした瞬間だった。
「……え?」
ボーイの一人が、アレクの顔を見た途端、完全に動きを止めた。
「ちょ、ちょっと待って! 兄さん、うちで働かない? 本気で言ってる!」
「は?」
アレクが反射的に一歩引く。
「……俺は客じゃない」
そのやり取りを合図にしたかのように、周囲の視線が一斉に集まった。
「新人?」
「え、なにあの人……タイプなんだけど」
店内のソファに座っていた女性客たちまでが、ざわめきながらアレクを振り返る。
(……おいおい。得する見た目なんじゃなかったのか?現場より、こっちの方が修羅場じゃないか)
隼人は内心で舌打ちしながら、周囲から浴びせられる熱を帯びた視線に辟易し、無言でポケットから警察手帳を取り出した。
「勘違いすんな。こいつはホスト志望じゃない。警察だ」
乾いた一言が落ちた瞬間、
ざわついていた空気が、嘘のように凍りつく。
「この店で働いてる朝比奈玲央に話を聞きたい」
ざわついていた店内が、水を打ったように静まった。
次の瞬間、店の奥から黒服を着た体格のいい男が二人、威圧するように歩み出てきた。
「なんだ? お前ら。警察が何の用だ」
隼人は一歩、前に出る。さっきまでの軽口は影も形もない。声に、低く硬い圧が宿った。
「殺人事件の重要参考人を追ってる。俺は元組対の真壁だ。お前らの“親父”に、余計な火の粉が飛ぶのが嫌なら――とっとと朝比奈を出せ」
ドスの利いた声が、エントランスに重く響いた。
(……なるほど。“組対四課は、マル暴以上にマル暴っぽい”って話、本当だな)
アレクは一瞬だけ目を見開き、すぐに視線を伏せて内心で小さく苦笑した。
黒服の男たちは隼人の態度を一瞥し、短く視線を交わすと、近くのスタッフに小声で何かを耳打ちする。
若いスタッフは顔色を変え、足早に店の奥へと消えていった。
「今、店長に確認してる。少し待て」
促されるまま、入口近くのボックス席に腰を下ろす。
「真壁さん」
隼人がグラスに手を伸ばしたところで、アレクが小さく声をかけた。
「ん? なんだよ」
「最初に会った時、俺、“乱暴なだけの現場屋は必要ない”って言いましたよね」
「……言ったな」
「前言撤回します」
珍しく、殊勝な声だった。
隼人が思わずアレクを見ると、彼はわずかに耳を赤くし、そっぽを向いている。
(なんだよ……。こいつ、結構かわいいとこあるじゃねぇか)
隼人は口元を緩め、にやにやとアレクを眺めた。
しばらくして、先ほど奥に消えたスタッフが戻ってくる。
その後ろには、貫禄のある中年男性――店長と思しき男が立っていた。
「真壁さん」
隼人の顔を確認すると、店長は深く頭を下げる。
「おう、久しぶりだな。なあ、店に迷惑かけるつもりはねぇんだ」
そう言って、隼人はポケットから一枚の写真を取り出し、テーブルに置いた。
「朝比奈レオ。この店で働いてるだろ?ちょっと話がしたいだけだ。連れてきてくれ」
店長は写真をしばらく見つめ、やがて小さく頷いた。
「……分かりました」
振り返り、スタッフに短く指示を出す。
「レオを呼べ」
数分後――
不満げな声が、通路の奥から聞こえてきた。
「なんすか?俺、接客中だったんすけど」
現れたのは、百八十センチ近い長身。
全身白のスーツに身を包んだ、二十代半ばの男だった。
軽い笑みを浮かべたその顔を見て、隼人は確信する。
――朝比奈レオだ。
隼人が警察手帳を見せて一歩出る。
「朝比奈レオ。東山教授と三浦理事長、知ってるな」
レオは一瞬、考える素振りを見せてから肩をすくめた。
「名前だけなら。お客さんの旦那さん、ですよね?」
その軽さに、隼人の眉が動く。
「二人とも――死んだ」
レオの笑みが、ほんの一拍、遅れて固まった。
「……は?」
アレクが淡々と続ける。
「東山は先週。三浦は今朝。どちらも自宅で毒殺された」
レオの喉が鳴る。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。冗談、きついっす」
「冗談じゃない」
隼人は低く言った。
「二人の妻と、お前が接触していたことが分かってる」
レオは反射的に立ち上がった。
「待って。それは、仕事っすよ。俺、ホストなんで」
「仕事で、深夜に個人的な通話をするのか?」
「……」
レオは口を開きかけ、閉じた。 アレクが、静かに距離を詰める。
「なあ。今この瞬間も、軽口で逃げられると思ってるなら――」
緑色の目が、真正面からレオを射抜く。
「状況が、まったく見えてない」
レオは、初めて視線を逸らした。
「……殺したとか、俺じゃないっすよ」
声が、わずかに掠れる。
「俺は、話聞いてただけだし。愚痴とか、泣き言とか……」
「その“だけ”が、命に関わることもある」
隼人が言う。
「事情聴取だ。任意だが、来てもらう」
レオは唇を噛んだ。
「……行かないって言ったら?」
隼人は答えない。
レオは、力なく笑った。
「……マジか」
その顔から、夜の街で生きるための仮面が、少しずつ剥がれていく。
「分かったっすよ。行けばいいんでしょ」
アレクが、短く告げる。
「逃げるな。ここで逃げたら、お前は一生、 “関係ない”とは言えなくなる」
その言葉の重みを、レオはすぐに理解したらしかった。
軽口も、反発も返さない。ただ、小さく喉を鳴らし、黙って頷く。
「……一服だけ。吸わせてください」
レオはスーツの内ポケットからマルボロの箱を取り出し、ズボンのポケットを探ってから、くしゃりと潰れたマッチ箱を引き出した。奇妙な絵柄が印象的なマッチの箱だった。
一本抜き取り、擦る。
しゅっ、と乾いた音。
小さな炎が立ち上がり、先端が赤く灯る。
レオは煙を肺に満たし、ゆっくりと吐き出した。
白い煙が、夜気の中に溶けていく。
煙の向こうで、レオはもう“夜の男”ではなく、ただの――逃げ場を失った若者に見えた。
隼人は、そのレオの横顔と、テーブルの上に置かれたタバコとマッチの箱をぼんやりと眺めていた。
* * *
取調室は、静かだった。
無機質な机。 パイプ椅子。 壁にかかった時計の秒針の音だけが、やけに大きく響いている。
朝比奈レオは、椅子に浅く腰掛け、落ち着きなく膝を揺らしていた。 両手を何度も組み替え、視線が定まらない。
「……俺、ほんとに殺してないっす」
先に口を開いたのは、レオだった。 声は震え、軽口の調子は完全に消えている。
隼人は真正面から彼を見据えた。
「二人の妻と接触していた。事件前後に、頻繁な通話。金のやり取りもある」
机の上に写真を並べる。
東山教授の妻と、夜の街を歩くレオ。 三浦理事長の妻と、路地で立ち話をするレオ。
「説明してもらおうか」
レオは、唇を噛んだ。
「……客です。それ以上でも、それ以下でもない」
「客に、“旦那がいなくなれば楽になる”なんて言うのか?」
隼人が低く詰める。
レオは目を伏せた。
「……言いましたよ。でも、それ、誰でも言うでしょ?愚痴の流れで」
その言葉に、 隼人の中で苛立ちが膨らむ。
「結果として、二人とも死んでる」
レオが、はっと顔を上げた。
「俺のせいだって言うんすか?」
声が裏返る。
「俺、殺せって言ったわけじゃない。毒盛れとも言ってない」
「じゃあ、何を“隠してる”?」
隼人が一歩踏み込む。
間違いない、こいつは何かを隠してる。
この目を見ればわかる。
隼人はそう確信していた。
アレクが、首を傾げた。
(……違う)
この男は、 思想を持っていない。 裁く側ではない。
アレクは静かに口を開く。
「お前、殺しはやってないだろ」
レオが、驚いたように顔を上げる。
「……え?」
「だが、この事件と“無関係”でもない」
緑色の目が、じっとレオを捉える。
「隠してることを言え。今なら、“殺人”とは切り分けて考える」
レオの喉が、大きく鳴った。
隼人は、 アレクが“逃げ道”を作っていることに気づき、 苛立ちを覚えた。
「東条――」
だが、アレクは視線を逸らさない。
「……最後に聞く」
低く、淡々と。
「お前、彼女たちに“何を渡してた”?」
その一言で、 レオの顔色が、はっきりと変わった。
沈黙。
秒針の音。
やがて―― レオは、崩れるように項垂れた。
「……クスリです」
隼人が息を呑む。
「覚醒剤。量は、ほんの少し。“眠れるようになる”って……」
「ふざけるな!」
隼人が机を叩いた。
レオは肩をすくめ、声を震わせる。
「依存させるつもりはなかった。俺だって、そんなヤバいこと……」
「違法だ」
アレクが、冷たく言い切る。
「完全に」
レオは必死に続けた。
「でも、殺しじゃない。毒じゃない。あんなもん、俺の手に入るルートじゃないっす」
隼人は、 レオの目を見つめる。
恐怖。 保身。 浅ましさ。
だが―― 殺意だけが、ない。
(……くそ)
隼人は、歯を食いしばった。
取り調べが終わり、 レオは薬物関連で身柄を拘束された。
だが―― 殺人事件の核心は、 一つも掴めていない。
第七係に戻る廊下で、 隼人は立ち止まった。
「……結局、殺人の犯人じゃなかった」
吐き捨てるような声。
アレクは、窓の外を見たまま答える。
「最初から、違うと思ってた」
「じゃあ、俺たちは何を追ってる?」
アレクは、静かに言った。
「“裁いているつもりの誰か”だ」
その言葉が、隼人の胸に重く落ちる。
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彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
【完】君に届かない声
未希かずは(Miki)
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内気で友達の少ない高校生・花森眞琴は、優しくて完璧な幼なじみの長谷川匠海に密かな恋心を抱いていた。
ある日、匠海が誰かを「そばで守りたい」と話すのを耳にした眞琴。匠海の幸せのために身を引こうと、クラスの人気者・和馬に偽の恋人役を頼むが…。
すれ違う高校生二人の不器用な恋のお話です。
執着囲い込み☓健気。ハピエンです。
僕の幸せは
春夏
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【完結しました】
【エールいただきました。ありがとうございます】
【たくさんの“いいね”ありがとうございます】
【たくさんの方々に読んでいただけて本当に嬉しいです。ありがとうございます!】
恋人に捨てられた悠の心情。
話は別れから始まります。全編が悠の視点です。
【完結】恋した君は別の誰かが好きだから
海月 ぴけ
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本編は完結しました。後日、おまけ&アフターストーリー随筆予定。
青春BLカップ31位。
BETありがとうございました。
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俺が好きになった人は、別の誰かが好きだからーー。
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二つの視点から見た、片思い恋愛模様。
じれきゅん
ギャップ攻め
生意気Ωは運命を信じない
羊野迷路
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小学生の時からかっていた同級生と、進学校(自称)である翠鳳高校で再会する。
再会した元同級生はαとなっており、美しさと男らしさを兼ね備えた極上の美形へと育っていた。
*のある話は背後注意かもしれません。
独自設定ありなので1話目のオメガバースの設定を読んでから進んでいただけると理解しやすいかと思います。
読むのが面倒という方は、
1、Ωは劣っているわけではない
2、αかΩかは2つの数値によりβから分かれる
3、Ωは高校生以上に発覚する事が多い
この3つを覚えておくと、ここでは大体大丈夫だと思われます。
独自設定部分は少しいじる事があるかもしれませんが、楽しんで頂けると幸いです。
追記
受けと攻めがくっつくのはまだ先になりますので、まったりお待ちください。
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