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第3章
真壁真一
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真壁真一は、朝の新聞を広げながら、ゆっくりとコーヒーを口に運んでいた。
湯気の立つマグカップは、妻が淹れてくれたものだ。砂糖は入っていない。昔から、そうだった。
紙面をめくる音。
キッチンから聞こえる、食器の軽い触れ合う音。
窓の外では、まだ冷えきらない朝の空気が、穏やかに街を包んでいる。
――平凡で、ありふれた朝。
それが、彼にとっては、何よりも尊い時間だった。
「……」
向かいの席には、息子の隼人はいない。
中学生になってから、朝食を一緒に取ることはほとんどなくなった。
起きてきても、イヤホンを耳に突っ込んだまま、短く「行ってきます」と言うだけ。
目も、合わせない。
反抗期。
わかってはいる。
それでも、ときどき思う。
(俺は……ちゃんと父親をやれているのか)
だが、その問いを、口に出したことはなかった。
仕事の話も、家では一切しない。
危険な現場のことも、汚れた事件のことも。
血の匂いも、怒号も、恐怖も。
――すべて、家の外に置いて帰る。
それが、自分なりの誓いだった。
新聞の社会面に、ふと目が留まる。
小さな記事。虐待。保護。不起訴。
活字の行間に、言葉にならないものが滲んでいる。
真一は、カップを置き、ほんの一瞬だけ目を閉じた。
(……守られるはずの子どもが、守られていない)
世の中には、家に帰ることが“安らぎ”にならない子どもがいる。
親に殴られる子。閉じ込められる子。存在を否定される子。
守られるはずの存在が、環境によって、大人の都合によって、簡単に壊されていく。
(俺は、幸せだ)
真一は、そう思う。
守るべき家族がいる。帰る場所がある。
朝、コーヒーを淹れてくれる妻がいる。
それは、当たり前ではない。
だからこそ――
(だからこそ、俺は)
新聞を畳み、立ち上がる。
「行ってくる」
見送る妻に告げ、玄関に向かう。
それが、彼を刑事として立たせ続ける理由だった。
家族を守るために働く。
そして、家族を持たない誰かの子どもを、せめて“救われる側”に立たせるために。
* * *
「えっ、真壁さん。また、あの子どもに会いに行くんですか?」
庁舎の自動ドアを抜けたところで、鹿島が驚いたように声を上げた。
「今日は一杯どうです? 珍しく早く上がれたんですし」という鹿島の誘いを断ったからだ。
彼はまだ二十代後半。若いが、無駄に熱くならず、冷静に状況を見極められる刑事だった。真一にとっては、信頼できる相棒だ。
「悪いな」
真一は、ネクタイを緩めながら答える。
先週、保護した子ども。“ゼウス”と名乗る男の元で、長い間閉じ込められていた少年。
「毎日行ってますよね。あの無表情な顔を見に行くだけでも、正直、キツくないですか」
鹿島の言葉には、心配が滲んでいた。
真一は、少しだけ立ち止まり、夜の空を見上げる。
「心を開いてくれるまで、だ」
鹿島が小さく息を呑む。
「……簡単じゃないですよ」
「分かってる」
それでも、と真一は続けた。
「俺は、しつこいからな」
そう言って、真一は笑った。自分でも驚くほど、穏やかな笑みだった。
鹿島は、その横顔をじっと見つめる。
(この人は……。引き下がらない人だ)
「あんまり、無理だけはしないでください」
「お前こそな」
真一は軽く手を上げ、そのまま歩き出した。
彼のことを、何度も思い返していた。
自宅にいても。
庁舎にいても。
夜、目を閉じても――あの瞳が、脳裏から離れなかった。
“ゼウス”と名乗る男。
その男が運営していたサイトには、目を逸らしたくなるような映像が、無数に並んでいた。
画面の中の子どもは、天使のように整った顔立ちをしていた。
――それが、余計に残酷だった。
人形のように扱われ、人格ではなく“商品”として消費されている。
真一は、現場でその子を引き離したときの感触を、今でも覚えている。
痩せた体。力なく、されるがままの重さ。
思わず、抱き寄せた。
だが――その子の表情は、何ひとつ変わらなかった。
泣かない。
叫ばない。
助けを求めない。
感情が、抜け落ちたような目。
そこにあったのは、
夢も希望もなく――社会そのものへの、諦めに近い拒絶だった。
(……この子は。一体どれだけ多くの大人に、裏切られてきた)
生みの親にも。
育ての親にも。
居場所と呼べるものを、一度も与えられなかった人生。
その事実が、真一の胸を締めつける。
子どもは、児童養護施設に保護されることになった。
それから真一は、時間の許す限り、その施設を訪ねた。
仕事の合間。帰宅前のわずかな時間。
何かをしてやれるわけではない。言葉を交わすことも、ほとんどない。
それでも――“忘れていない”と、伝えたかった。
一方で。
“ゼウス”の正体である片桐淳は、取調室で、薄く笑ってこう言った。
「俺を捕まえたところで、世の中は何も変わらない」
反省の色は、微塵もなかった。
「俺は、ただの末端だよ。氷山の一角ってやつだ。サイトの常連? みんな立派なお偉いさんさ。肩書きも、地位もある連中だ。そいつらを捕まえないで、何が警察だ?」
その言葉は、真一の中で、鈍い音を立てて沈んだ。
片桐のサイトの顧客リスト。
それさえ手に入れば、背後にいる“本体”に辿り着ける。
だが、そこに個人情報は一切残されていなかった。
巧妙に、用意周到に、“追えない形”で作られていた。
――だが。
(それでも)
真一は思う。
あの子のような存在を、これ以上、増やしてはいけない。
救われるはずの人生が、最初から壊される社会を――“仕方ない”で終わらせてはいけない。
真一は、拳を握る。
守られるはずの子どもが、大人の欲望の中で、静かに壊されていく。
そんな現実を、見なかったことには、できない。
(……一人でも。一人でも多く、救えればいい)
その思いだけが、真一を前に進ませていた。
それが、たとえどんな結末を招くとしても。
湯気の立つマグカップは、妻が淹れてくれたものだ。砂糖は入っていない。昔から、そうだった。
紙面をめくる音。
キッチンから聞こえる、食器の軽い触れ合う音。
窓の外では、まだ冷えきらない朝の空気が、穏やかに街を包んでいる。
――平凡で、ありふれた朝。
それが、彼にとっては、何よりも尊い時間だった。
「……」
向かいの席には、息子の隼人はいない。
中学生になってから、朝食を一緒に取ることはほとんどなくなった。
起きてきても、イヤホンを耳に突っ込んだまま、短く「行ってきます」と言うだけ。
目も、合わせない。
反抗期。
わかってはいる。
それでも、ときどき思う。
(俺は……ちゃんと父親をやれているのか)
だが、その問いを、口に出したことはなかった。
仕事の話も、家では一切しない。
危険な現場のことも、汚れた事件のことも。
血の匂いも、怒号も、恐怖も。
――すべて、家の外に置いて帰る。
それが、自分なりの誓いだった。
新聞の社会面に、ふと目が留まる。
小さな記事。虐待。保護。不起訴。
活字の行間に、言葉にならないものが滲んでいる。
真一は、カップを置き、ほんの一瞬だけ目を閉じた。
(……守られるはずの子どもが、守られていない)
世の中には、家に帰ることが“安らぎ”にならない子どもがいる。
親に殴られる子。閉じ込められる子。存在を否定される子。
守られるはずの存在が、環境によって、大人の都合によって、簡単に壊されていく。
(俺は、幸せだ)
真一は、そう思う。
守るべき家族がいる。帰る場所がある。
朝、コーヒーを淹れてくれる妻がいる。
それは、当たり前ではない。
だからこそ――
(だからこそ、俺は)
新聞を畳み、立ち上がる。
「行ってくる」
見送る妻に告げ、玄関に向かう。
それが、彼を刑事として立たせ続ける理由だった。
家族を守るために働く。
そして、家族を持たない誰かの子どもを、せめて“救われる側”に立たせるために。
* * *
「えっ、真壁さん。また、あの子どもに会いに行くんですか?」
庁舎の自動ドアを抜けたところで、鹿島が驚いたように声を上げた。
「今日は一杯どうです? 珍しく早く上がれたんですし」という鹿島の誘いを断ったからだ。
彼はまだ二十代後半。若いが、無駄に熱くならず、冷静に状況を見極められる刑事だった。真一にとっては、信頼できる相棒だ。
「悪いな」
真一は、ネクタイを緩めながら答える。
先週、保護した子ども。“ゼウス”と名乗る男の元で、長い間閉じ込められていた少年。
「毎日行ってますよね。あの無表情な顔を見に行くだけでも、正直、キツくないですか」
鹿島の言葉には、心配が滲んでいた。
真一は、少しだけ立ち止まり、夜の空を見上げる。
「心を開いてくれるまで、だ」
鹿島が小さく息を呑む。
「……簡単じゃないですよ」
「分かってる」
それでも、と真一は続けた。
「俺は、しつこいからな」
そう言って、真一は笑った。自分でも驚くほど、穏やかな笑みだった。
鹿島は、その横顔をじっと見つめる。
(この人は……。引き下がらない人だ)
「あんまり、無理だけはしないでください」
「お前こそな」
真一は軽く手を上げ、そのまま歩き出した。
彼のことを、何度も思い返していた。
自宅にいても。
庁舎にいても。
夜、目を閉じても――あの瞳が、脳裏から離れなかった。
“ゼウス”と名乗る男。
その男が運営していたサイトには、目を逸らしたくなるような映像が、無数に並んでいた。
画面の中の子どもは、天使のように整った顔立ちをしていた。
――それが、余計に残酷だった。
人形のように扱われ、人格ではなく“商品”として消費されている。
真一は、現場でその子を引き離したときの感触を、今でも覚えている。
痩せた体。力なく、されるがままの重さ。
思わず、抱き寄せた。
だが――その子の表情は、何ひとつ変わらなかった。
泣かない。
叫ばない。
助けを求めない。
感情が、抜け落ちたような目。
そこにあったのは、
夢も希望もなく――社会そのものへの、諦めに近い拒絶だった。
(……この子は。一体どれだけ多くの大人に、裏切られてきた)
生みの親にも。
育ての親にも。
居場所と呼べるものを、一度も与えられなかった人生。
その事実が、真一の胸を締めつける。
子どもは、児童養護施設に保護されることになった。
それから真一は、時間の許す限り、その施設を訪ねた。
仕事の合間。帰宅前のわずかな時間。
何かをしてやれるわけではない。言葉を交わすことも、ほとんどない。
それでも――“忘れていない”と、伝えたかった。
一方で。
“ゼウス”の正体である片桐淳は、取調室で、薄く笑ってこう言った。
「俺を捕まえたところで、世の中は何も変わらない」
反省の色は、微塵もなかった。
「俺は、ただの末端だよ。氷山の一角ってやつだ。サイトの常連? みんな立派なお偉いさんさ。肩書きも、地位もある連中だ。そいつらを捕まえないで、何が警察だ?」
その言葉は、真一の中で、鈍い音を立てて沈んだ。
片桐のサイトの顧客リスト。
それさえ手に入れば、背後にいる“本体”に辿り着ける。
だが、そこに個人情報は一切残されていなかった。
巧妙に、用意周到に、“追えない形”で作られていた。
――だが。
(それでも)
真一は思う。
あの子のような存在を、これ以上、増やしてはいけない。
救われるはずの人生が、最初から壊される社会を――“仕方ない”で終わらせてはいけない。
真一は、拳を握る。
守られるはずの子どもが、大人の欲望の中で、静かに壊されていく。
そんな現実を、見なかったことには、できない。
(……一人でも。一人でも多く、救えればいい)
その思いだけが、真一を前に進ませていた。
それが、たとえどんな結末を招くとしても。
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独自設定部分は少しいじる事があるかもしれませんが、楽しんで頂けると幸いです。
追記
受けと攻めがくっつくのはまだ先になりますので、まったりお待ちください。
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