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第3章
救う者、救われる者
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都内の雑居ビルの一室。
エレベーターを降りてすぐのフロアに、そのNPO法人の事務所はあった。
古いビルだが、室内はよく整えられている。
簡素な机がいくつも並び、壁には手書きの掲示物や、役所の書類をコピーしたファイルが所狭しと貼られていた。
「戸籍」「就学」「医療」「保護申請」――
どれも、普通に生きていればあまり意識することのない言葉ばかりだ。
「どうぞ、こちらへ」
声をかけてきたのは、三十代半ばほどの女性だった。
彼女はこのNPO法人の代表で、新島綾子という。
濃紺のジャケットに動きやすそうなパンツスタイル。化粧は薄いが、目の奥に芯の強さがある。
少し早口だが、相手を置き去りにしない話し方をする人間だった。
「お話は鹿島さんから電話でざっと聞いています。戸籍がないお子さん、ですね」
真一と鹿島が席に着くと、新島は分厚いファイルを開いた。
「まず、現実的な話をしますね。実は戸籍がない、というのはそんなに珍しいことじゃありません。特に外国人との間に生まれた子や、出生届が出されなかったケースでは、どうしても起きます。よくあるのが、母親が再婚したばかりで、離婚が正式に成立する前に出産すると、その子どもは前の夫との子どもとして受理されてしまいます。それを不満に思う母親が出生届を出さないケースがあるんですよね」
彼女は淡々と説明を続ける。
「今回の場合、母親が出生届を出していない以上、“無戸籍者”として扱われます。ですから、最初にやるのは――」
ペン先で書類を指す。
「家庭裁判所への申立てです。“出生届不受理の理由”と、“実際にこの子が存在する証拠”を積み上げていく必要があります」
「証拠、ですか」
鹿島が眉をひそめる。
「はい」
新島は頷いた。
「当時の母親の証言、近隣住民の聞き取り、医療機関の受診歴。保育所や施設の記録。警察の保護記録も使えます」
真一は、思わず身を乗り出していた。
「……警察の資料は、使えるんですね」
「ええ」
新島は真一を見て、少しだけ柔らかく笑う。
「だから、あなた方が関わってくれているのは、とても大きい」
ファイルをめくりながら、彼女は続ける。
「家庭裁判所が“出生の事実”を認めれば、市区町村が職権で戸籍を作成します。そこまで行けば、住民票が出せる。保険証も、就学も、病院も――ようやく“普通のスタートライン”に立てる」
一瞬、言葉を切る。
「……ただし」
新島の声が、少し低くなった。
「時間は、かかります。早くても数ヶ月。場合によっては一年以上。その間、この子は宙ぶらりんのままです」
真一は、静かに頷いた。
「構いません。どんなに時間がかかっても、俺がやります」
即答だった。
鹿島は横で、ため息をつく。
「真壁さん……。これは正直、警察官の職務じゃない。相変わらず、重たいものを全部背負う人だ」
新島は、そんな二人を見て小さく笑った。
「でも、そういう人がいないと、この仕事は回らないんです。私も、元は弁護士でしたから」
「元、ですか?」
真一が訊ねる。
「ええ」
新島は肩をすくめた。
「法廷で正義を語るより、こっちの方が性に合ってて。法律は、守る人がいないと意味がないですから」
その言葉に、真一は何も言わなかった。
ただ、深く頭を下げた。
* * *
少年と初めて会ってから、すでに三ヶ月が経っていた。
真一は、一日も欠かさず施設に通った。
仕事が終わってから。
時には、ほんの十分だけでも。
それでも――
少年は、相変わらずだった。
言葉は返らない。
視線も合わない。
それでも、真一は行く。
“何かをしてあげたい”というより、“いなくならない”と伝えたかった。
ある夜、施設を出たところで、鹿島が言った。
「真壁さん、俺みたいな独り身ならいいですけどね」
歩きながら、ちらりと横を見る。
「真壁さんは、家族がいる。奥さんも、息子さんも……あんまり、ほったらかしちゃダメですよ」
真一は、少しだけ困ったように笑った。
「そうだな……」
冗談めかして続ける。
「俺に、もし何かあったら…。この子のことも、家族のことも――あとはお前に頼む」
鹿島は、足を止めた。
「……縁起でもないこと言わないでくださいよ」
だが、真一は振り返らなかった。
夜の街に向かって、独り言のようにぽつりと言う。
「息子の隼人も、こうやって他の誰かを全力で守れる大人になってほしい」
その背中を、鹿島は何も言えずにただ見つめていた。
エレベーターを降りてすぐのフロアに、そのNPO法人の事務所はあった。
古いビルだが、室内はよく整えられている。
簡素な机がいくつも並び、壁には手書きの掲示物や、役所の書類をコピーしたファイルが所狭しと貼られていた。
「戸籍」「就学」「医療」「保護申請」――
どれも、普通に生きていればあまり意識することのない言葉ばかりだ。
「どうぞ、こちらへ」
声をかけてきたのは、三十代半ばほどの女性だった。
彼女はこのNPO法人の代表で、新島綾子という。
濃紺のジャケットに動きやすそうなパンツスタイル。化粧は薄いが、目の奥に芯の強さがある。
少し早口だが、相手を置き去りにしない話し方をする人間だった。
「お話は鹿島さんから電話でざっと聞いています。戸籍がないお子さん、ですね」
真一と鹿島が席に着くと、新島は分厚いファイルを開いた。
「まず、現実的な話をしますね。実は戸籍がない、というのはそんなに珍しいことじゃありません。特に外国人との間に生まれた子や、出生届が出されなかったケースでは、どうしても起きます。よくあるのが、母親が再婚したばかりで、離婚が正式に成立する前に出産すると、その子どもは前の夫との子どもとして受理されてしまいます。それを不満に思う母親が出生届を出さないケースがあるんですよね」
彼女は淡々と説明を続ける。
「今回の場合、母親が出生届を出していない以上、“無戸籍者”として扱われます。ですから、最初にやるのは――」
ペン先で書類を指す。
「家庭裁判所への申立てです。“出生届不受理の理由”と、“実際にこの子が存在する証拠”を積み上げていく必要があります」
「証拠、ですか」
鹿島が眉をひそめる。
「はい」
新島は頷いた。
「当時の母親の証言、近隣住民の聞き取り、医療機関の受診歴。保育所や施設の記録。警察の保護記録も使えます」
真一は、思わず身を乗り出していた。
「……警察の資料は、使えるんですね」
「ええ」
新島は真一を見て、少しだけ柔らかく笑う。
「だから、あなた方が関わってくれているのは、とても大きい」
ファイルをめくりながら、彼女は続ける。
「家庭裁判所が“出生の事実”を認めれば、市区町村が職権で戸籍を作成します。そこまで行けば、住民票が出せる。保険証も、就学も、病院も――ようやく“普通のスタートライン”に立てる」
一瞬、言葉を切る。
「……ただし」
新島の声が、少し低くなった。
「時間は、かかります。早くても数ヶ月。場合によっては一年以上。その間、この子は宙ぶらりんのままです」
真一は、静かに頷いた。
「構いません。どんなに時間がかかっても、俺がやります」
即答だった。
鹿島は横で、ため息をつく。
「真壁さん……。これは正直、警察官の職務じゃない。相変わらず、重たいものを全部背負う人だ」
新島は、そんな二人を見て小さく笑った。
「でも、そういう人がいないと、この仕事は回らないんです。私も、元は弁護士でしたから」
「元、ですか?」
真一が訊ねる。
「ええ」
新島は肩をすくめた。
「法廷で正義を語るより、こっちの方が性に合ってて。法律は、守る人がいないと意味がないですから」
その言葉に、真一は何も言わなかった。
ただ、深く頭を下げた。
* * *
少年と初めて会ってから、すでに三ヶ月が経っていた。
真一は、一日も欠かさず施設に通った。
仕事が終わってから。
時には、ほんの十分だけでも。
それでも――
少年は、相変わらずだった。
言葉は返らない。
視線も合わない。
それでも、真一は行く。
“何かをしてあげたい”というより、“いなくならない”と伝えたかった。
ある夜、施設を出たところで、鹿島が言った。
「真壁さん、俺みたいな独り身ならいいですけどね」
歩きながら、ちらりと横を見る。
「真壁さんは、家族がいる。奥さんも、息子さんも……あんまり、ほったらかしちゃダメですよ」
真一は、少しだけ困ったように笑った。
「そうだな……」
冗談めかして続ける。
「俺に、もし何かあったら…。この子のことも、家族のことも――あとはお前に頼む」
鹿島は、足を止めた。
「……縁起でもないこと言わないでくださいよ」
だが、真一は振り返らなかった。
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その背中を、鹿島は何も言えずにただ見つめていた。
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追記
受けと攻めがくっつくのはまだ先になりますので、まったりお待ちください。
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