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第3章
君を守りたい
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鹿島と真一は、警察官としての業務の合間を縫って、少年の戸籍取得に必要な膨大な資料と向き合い続けていた。
母親はすでに行方知れずだったが、残された断片的な情報――
母親の姓が「東条」であること、そして少年自身が名乗っていた名前が「アレク」であること。
新島の尽力もあり、家庭裁判所、役所、関係機関との調整を重ね、ようやく一つの結論に辿り着く。
戸籍上の名前は、「東条アレク」。
正式な戸籍が作られるまで、二年の歳月がかかった。
真一は、その間ほとんど毎日、欠かさず彼の様子を見に行っていた。
――やっと、報告できる。
少年が「存在する人間」として、社会に認められたことを。
足取りは、自然と軽くなっていた。
* * *
真一がいつものように施設を訪れると、思いがけない光景が目に飛び込んできた。
アレクが、他の子どもと向き合っている。
――珍しい。
児童養護施設の中で、彼は誰とも深く関わろうとしなかった。
食事は一人。読書も一人。
遊びの輪に入ることもない。
周囲から見れば、静かで、問題を起こさない子ども。
だがそれは、
孤立を選んでいるというより、最初から世界に交わることを拒んでいるようにも見えた。
――いや。
向き合っている、という表現は正しくない。
空気が、張り詰めていた。
声を出しているのは、アレクより二つほど年上の、体格の良い少年だった。
施設では古株で、態度も大きい。
「なあ」
にやついた笑みを浮かべ、少年が言う。
「お前さ、おじさんの“愛人”やってたんだろ?」
その言葉が、空間を汚した。
周囲の子どもたちが、息を潜める。
誰も止めない。止められない。
アレクは、何の表情も見せなかった。
ただ――
手に持っていた鉛筆を、静かに持ち替えた。
次の瞬間。
少年の目を目がけて、鉛筆が振り上げられる。
「危ないっ!」
叫びと同時に、真一は駆け出していた。
考えるより早く、二人の間に身体を滑り込ませ、反射的に左手を前に出す。
ぐっ、と鈍い感触。
遅れて、熱。
真一の左手に、尖った鉛筆が深く突き刺さっていた。
赤い血が、床に滴る。
時間が止まったように、周囲が静まり返る。
アレクは、目をまんまるくしていた。
自分の手。
そして、真一の手。
血。
自分が、やったこと。
「……」
騒ぎを聞きつけて、職員の中年女性が駆け寄ってくる。
「きゃああ!救急車! 救急車呼んで!」
だが、真一は即座に首を振った。
「大丈夫です」
穏やかな声だった。
「これくらい。警察官なんで平気です。騒ぎを大きくしないでください。すぐ病院に行きます。本当に、大丈夫ですから」
少年は腰を抜かし、真一の背後でへたり込んでいた。
アレクは、まだ動けずにいた。
真一の手と、顔を、交互に見つめている。
「……」
真一は、振り返り、二人を見て言った。
「どちらも。無事でよかった」
それだけだった。
* * *
簡単な応急処置を受け、左手に包帯を巻いた真一は、そのまま施設を後にしようとした。
玄関へ向かう背中に、小さな足音が追いついてくる。
「……」
「おう」
真一は振り返った。
「どうした?」
アレクは俯いたまま、しばらく黙っていた。
ようやく、か細い声が漏れる。
「……なんで」
真一は、何も言わずに歩み寄り、そっとアレクを抱き寄せた。
一瞬、アレクの身体がびくりと強張る。
(……背が、伸びたな)
初めて会ったときより。骨ばって、まだ軽いが、確かに成長している。
真一は、静かに言った。
「君を守りたいって思う人間が、この世に、一人でもいるってことを知ってほしかった」
アレクの身体から、少しずつ力が抜けていく。
何も言わない。だが、逃げもしない。
その夜、アレクは初めて――
真一の腕の中で、ほんのわずかに震えた。
それが、彼が初めて、誰かに預けた弱さだった。
母親はすでに行方知れずだったが、残された断片的な情報――
母親の姓が「東条」であること、そして少年自身が名乗っていた名前が「アレク」であること。
新島の尽力もあり、家庭裁判所、役所、関係機関との調整を重ね、ようやく一つの結論に辿り着く。
戸籍上の名前は、「東条アレク」。
正式な戸籍が作られるまで、二年の歳月がかかった。
真一は、その間ほとんど毎日、欠かさず彼の様子を見に行っていた。
――やっと、報告できる。
少年が「存在する人間」として、社会に認められたことを。
足取りは、自然と軽くなっていた。
* * *
真一がいつものように施設を訪れると、思いがけない光景が目に飛び込んできた。
アレクが、他の子どもと向き合っている。
――珍しい。
児童養護施設の中で、彼は誰とも深く関わろうとしなかった。
食事は一人。読書も一人。
遊びの輪に入ることもない。
周囲から見れば、静かで、問題を起こさない子ども。
だがそれは、
孤立を選んでいるというより、最初から世界に交わることを拒んでいるようにも見えた。
――いや。
向き合っている、という表現は正しくない。
空気が、張り詰めていた。
声を出しているのは、アレクより二つほど年上の、体格の良い少年だった。
施設では古株で、態度も大きい。
「なあ」
にやついた笑みを浮かべ、少年が言う。
「お前さ、おじさんの“愛人”やってたんだろ?」
その言葉が、空間を汚した。
周囲の子どもたちが、息を潜める。
誰も止めない。止められない。
アレクは、何の表情も見せなかった。
ただ――
手に持っていた鉛筆を、静かに持ち替えた。
次の瞬間。
少年の目を目がけて、鉛筆が振り上げられる。
「危ないっ!」
叫びと同時に、真一は駆け出していた。
考えるより早く、二人の間に身体を滑り込ませ、反射的に左手を前に出す。
ぐっ、と鈍い感触。
遅れて、熱。
真一の左手に、尖った鉛筆が深く突き刺さっていた。
赤い血が、床に滴る。
時間が止まったように、周囲が静まり返る。
アレクは、目をまんまるくしていた。
自分の手。
そして、真一の手。
血。
自分が、やったこと。
「……」
騒ぎを聞きつけて、職員の中年女性が駆け寄ってくる。
「きゃああ!救急車! 救急車呼んで!」
だが、真一は即座に首を振った。
「大丈夫です」
穏やかな声だった。
「これくらい。警察官なんで平気です。騒ぎを大きくしないでください。すぐ病院に行きます。本当に、大丈夫ですから」
少年は腰を抜かし、真一の背後でへたり込んでいた。
アレクは、まだ動けずにいた。
真一の手と、顔を、交互に見つめている。
「……」
真一は、振り返り、二人を見て言った。
「どちらも。無事でよかった」
それだけだった。
* * *
簡単な応急処置を受け、左手に包帯を巻いた真一は、そのまま施設を後にしようとした。
玄関へ向かう背中に、小さな足音が追いついてくる。
「……」
「おう」
真一は振り返った。
「どうした?」
アレクは俯いたまま、しばらく黙っていた。
ようやく、か細い声が漏れる。
「……なんで」
真一は、何も言わずに歩み寄り、そっとアレクを抱き寄せた。
一瞬、アレクの身体がびくりと強張る。
(……背が、伸びたな)
初めて会ったときより。骨ばって、まだ軽いが、確かに成長している。
真一は、静かに言った。
「君を守りたいって思う人間が、この世に、一人でもいるってことを知ってほしかった」
アレクの身体から、少しずつ力が抜けていく。
何も言わない。だが、逃げもしない。
その夜、アレクは初めて――
真一の腕の中で、ほんのわずかに震えた。
それが、彼が初めて、誰かに預けた弱さだった。
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