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プロローグ
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リアヴェール王国の王都の中心には、王国の名を冠した広大な土地を持つ宮殿が建てられている。
現王より4代前に増築されたこのリアヴェール宮殿は美しい左右対称の作りをしていて、宮殿の「東側」では貴族院や王国研究所などが設けられており、国の運営を担う議員や研究員が激論を飛ばし合う「男の社会」が、「西側」では主に王族の住居や国内外問わず訪れるゲストの為の迎賓館、ダンスホールなど王宮女官や侍女が多く活躍する華やかな「女の社会」がそれぞれ日夜繰り広げられている。
大陸内で最大規模の肥沃な土地を持ち、長い歴史を主に農産業や畜産業で賄ってきたリアヴェール国にとって、王宮はまさに豊かさの象徴である。それ故にぴっちりと左右対称に設計された宮殿の造りも、背が高い石造の城壁も、広すぎて庭師が40人がかりで日々手入れを続けていると言われる自慢の薔薇園を有する王宮の中庭も、全てリアヴェール国の権威を示す目的のものなのだろう、と自分の身長ほどもある薔薇の生垣を眺めながら、王宮騎士のオズワルドは息を長く吐いた。
今日のオズワルドの仕事は薔薇園で行われているお茶会の警備だ。白亜色の大きなカゼボの下には軽食とお茶が出され、15人ほどのやんごとなき身分の若い令嬢とその世話役が色とりどりのドレスを身につけ、やれあの花がいいとか、やれ紅茶はどこ産だとか、最近流行りのオペラの若手俳優は声がいいのだとか、オズワルドにとってはどこかむず痒い話題に花を咲かせている。
普段の職場が男所帯の「東側」で、それこそ出くわす女性が騎士団執務室を訪れる妙齢の掃除婦か、食堂で働くこれまた妙齢の給仕係くらいのオズワルドにとって、むせかえるような花の香りと、それに負けないくらい匂い立つ甘ったるい化粧品特有の匂い。更にオズワルドの身を包む近衛騎士団特有の白い制服が珍しいのか、時折こちらをチラチラと見ては扇の影に隠れ、恥ずかしそうに笑い合う、少女めいていてどこか軽薄な令嬢たちの仕草。その全て一つ一つが慣れなくて、既に1日の仕事を終えた時くらいの疲労感を感じていた。
そんなオズワルドに気がついたのだろう、彼の隣に立つ後輩騎士が目立たないように後ろ手で組んだ肘をオズワルドの脇腹にぶつけ、小声で話しかけてくる。
「ダメですよ、先輩。ため息は堪えてください。失礼ですから」
「……なんで俺はこんなところに」
「それは何回も説明されたじゃないっすか。今日は貴族出身の未婚者だけで警備を組むって」
強いて言うなら結婚してない先輩が悪いっす、と身も蓋もないことを言われ、オズワルドは自身の唇を噛み締めた。
代々リアヴェール王国の運営を担う「東側」を束ねるのが国王であれば、「西側」を担当するのは王妃である。
しかし、このリアヴェール宮殿は8年ほど前に王妃を流行病で亡くしてから現在に至るまで、宮殿を代表する広大な薔薇園を含む「西側」を守る主人は空席のままである。
過去の王国史を紐解けば王の後妻はもちろん、世代によっては側室も第二王妃も認められている。だが、愛妻家だった現国王は側近たちの意見に頑として首を振り、「王子を2人ももうけた愛する妻に報いたいのだ」と強く切望したこともあり、現在それらしい立場の女性は存在しない。
人口の三分の一が亡くなったと言われる流行病の爪跡が今も残っており、身分問わず全ての国民が王族の婚姻などという最大級の祝事を受け入れられるような余裕がなかったという背景もある。
本来ならこういった不測の事態の場合、王太后が「西側」の指揮をとることが望まれるのだが、残念ながら現国王の先王夫妻は既に儚くなっており、男所帯の国王一家には姫もおらず。
図らずも主人が不在となってしまった宮殿の西側半分はこの8年間、王妃の側近だった女官たちによってかろうじて環境を保ち続けていたようなものだった。
また、王妃がいないことで起きている問題は宮殿についてだけではないらしい。剣一辺倒のオズワルドには難しいことはわからないが、リズヴェール王国において世相を反映し様々な文化の発展を後押ししたり、諸外国との橋渡しなどを担当するのもやんごとなき身分の女性の役割だ。端的に言えばファッションや芸術などの分野において王国内での経済発展に寄与したり、諸外国との交流を通じ最先端の技術を取り入れたりする立場の人間が、今のリアヴェール王国にはいないと言える。
現在はそういった分野に明るい公爵家が公爵夫人共々、外交も含め担当しているが、表向きにいち公爵家が王国主導の舞踏会やお茶会を先導するわけにはいかず。
貴族女性たちが表舞台に出る場面が減れば、必然的にそういった文化的側面を担う事業が打撃を受けるのも当然のことである。
新型ドレスを流行らせたり、腕のいい音楽家に演奏の機会を与えたり、新しい小説や舞台の話に花を咲かせたり、ということが国王より王妃の方が得意だろうことは想像に難くない。オズワルド自身、週6日の仕事中着用しているのは同じ騎士団の隊服のみだ。私服のトラウザーズすらいつ仕立てたのか覚えてすらいないし、正装のウエストコートについては最早自宅にあるのかすらわからない。
女主人を無くした宮殿と、旗印を亡くし結果的には経済低迷につながっている王国の文化事情。
その両方を解決する一挙両得の方法というのが今年当人が22になるにも関わらず、未だ候補すらいない王太子妃の立場である。つまり次期国母をとっとと擁立して、問題を全て解決させてしまおうというある種の力技が今回のお茶会裏向きの目的であった。
王族の一員になるだけでなくもれなく宮殿の左半分の主人という絶大な影響力も手に入ってしまう「王太子妃」に是非我が家の娘を、と大手を振って送り込まれた貴族令嬢方を一気に王太子と面通しすることで次期王太子妃候補を見極めるついでに、同じく色恋に乏しい第二王子と王宮で働き詰めで交流が少ない若い未婚貴族もひと所に集めて、どんどん縁談まとめちゃおうという事実上の「貴族同士のお見合い」が此度のお茶会なのである。
巻き込まれた身としてはそんな大袈裟なと思わなくもないが、王家主導のお茶会というのは実に4年ぶりというのだから、国のトップが男所帯ゆえに手が回っていない分野というのは確かに存在するのだろう。
そんな背景もちゃんと理解しているからこそ、本日のオズワルドの眉間に刻まれた皺はなお深かった。そもそもオズワルドは貴族といえど、子沢山な侯爵家の六男坊である。
実家はとっくに年の離れた1番上の兄が継いでしまっているし、後継となる11歳の聡明な甥っ子もいる。今年21となったオズワルドにしてみれば、兄よりも甥っ子との方が年も近い。
両親は隠居して領地に引っ込んでいて面倒を見る必要もなければ、自身の面倒を見てもらえる当てもない。
無駄に古く由緒正しい家系故に、兄達は父が祖父から受け継いでいた子爵位の他にも、縁戚も含めれば伯爵以下いくらでも後継となれそうな爵位はあったが、それも六男坊となれば売れ残りすら存在しておらず。
生まれて早々、どこかの家に婿としてもらわれていくか、自身で身を立てなければ平民になるしか道がなかったのがオズワルドである。
侯爵家故に施された一流の教育と騎士団入団後あっという間に近衛騎士団に用立てられ、若手ながら小隊長にまで出世できたことについては感謝しているが、いざ嫁入り先を探している令嬢にしてみれば、騎士爵を保有しているだけの自分は決して優良物件には当たらないだろう。
騎士という仕事が身に合いすぎて侯爵家の邸宅に帰ることすらほぼなく、こうやって久々の社交の場に出てみても年頃の令嬢たちに全く心動かされないオズワルドにとっては意味もなければ興味もないのが、本日のお仕事なのだった。
そんなオズワルドの内面をありありと読み取ったのか、後輩は引き攣ったような苦笑いを浮かべ「もうちょっと愛想良くしてればいいじゃないすか」と苦言を述べる。
「お前も同じ立場だろう。今なら引く手数多じゃないか」
「いやいや、どうせこの後王子たち来たら絶対そっち行くでしょ。このご令嬢方全員そのために招待されてんだし」
夢がないじゃないすか、と肩をすくめる後輩にそれもそうか、と頷いて。会場全体を見渡したオズワルドは感じた違和感に顔を顰めた。
オズワルドのエメラルドグリーンの瞳が剣呑な色を乗せたことに、優秀な後輩は「何かありましたか」と空気に緊張感を漂わせる。
カゼボを囲むようにぐるりと配置された薔薇園の生垣を背に二人組の近衛騎士がポツポツと警備に立っている状況。この会の主催である国王も王子たちも未だ到着しておらず、警備担当のオズワルドたちに伝えられているのは「本日の参加者は伯爵位以上の未婚のご令嬢17名とそれぞれの世話役が1名の合計34名」という情報だ。
ほとんどのご令嬢がカゼボ内に適当に配置された椅子に座り休憩をするか、立食式で置かれた軽食を楽しんでおり彼女らの世話役も男性の従者を連れている者がポツポツとおれど、そこそこ上背があるオズワルドの視界を塞ぐような者はいない。
欠席や遅刻についての一報もなかったので、当然オズワルドの視界には己の顔見知りである近衛騎士の一員か、給仕の為動き回っている王宮侍女を除けば、参加者「34名」が全員存在しなくてはいけないはずである。
しかし、何度数えてもこの場には「32名」しかいないように見えた。
「……陛下の到着予定時刻にお変わりないよな?」
「はい。なので後10分ほどでしょうか」
「わかった。ちょっとここ任せていいか」
「はい、お任せください」
ぴし、と胸に手をあて敬礼のポーズをした後輩に感謝をしつつ、オズワルドはするりとお茶会の会場を離れた。
オズワルドの知る国王陛下は、非常に温厚でお茶会の挨拶に遅れた程度で気分を損ねるような狭量な人物ではないが、ここは上位貴族のご令嬢しかいない上に事実上次の国母を決めるための選定の場である。その立場を望む望まないに関わらず、少しでも泥がかかればご令嬢同士の、強いては貴族同士の足の引っ張り合いになるのは想像に難くない。
おそらく会場に辿り着けていないのであろう迷子のご令嬢を不憫に思ったのと、広い王宮内で何かトラブルに巻き込まれてしまっているのではないかという事件の可能性は、オズワルドを退屈なお茶会の会場から遠ざける立派な理由となった。
***
オズワルドは迷路のように配置された生垣の脇を通りながら、頭の中ではお茶会会場に並んでいたご令嬢方の外見的特徴をお茶会の参加者リストと照らし合わせていく。
舞踏会などでよく見かける顔は皆揃っていたと思うから、恐らくいらっしゃらなかったのはマルーン辺境伯の、とあたりをつけたところで、オズワルドの思考遮る威勢のいい声が勢いよく耳に届いた。
「ケイティ様、もういい加減にしてください! 会場にむかいましょうよ!」
「わかってるわかってる、あとちょっとだけだから」
「絶対わかってない!」
少年らしいよく通る叫び声に「ああ、そうそう。ケイト・マルーン辺境伯嬢」と納得しかけて、オズワルドは慌てて声の聞こえた方向に進路を転換する。
それはなぜか「人目につかないように」配置された生垣の更に奥の方から聞こえる。とても華奢とは言えないオズワルドはその巨体を生垣の間に埋め、隙間を隠すように互い違いに配置された生垣を慎重に進んでいかなければならなかった。
狭い空間に四苦八苦しながらオズワルドが歩を進める間も悲痛そうな少年の声と、それに反して全く意に介してなさそうなこれまた若い女性の声が交互に聞こえてくる。
「ちょっとだけって約束でしたよね!?」
「うん、ちょっとだけ。……ああ、もうやっぱり宮殿の薔薇園にだっていたじゃない、お父様の嘘つき! 影も姿もないなんてどの口が言ってるのよ、花がこんなにあってそんなことあるわけないじゃない!」
「うわあ、ドレスで地団駄踏まないでください! シワになりますよ!?」
「これが感情的にならないでいられる!? もうこんなオペラグラスじゃ全然ダメだわ、いつものスコープを持ってくるべきだった!!」
「お茶会にオペラグラスも十分おかしいんですよ!? 怪しいことして騎士様に目をつけられたらどうするんですか!?」
「影も姿も」「オペラグラス」「スコープ」という怪しすぎる言葉の応酬に生垣に挟まりながらまさに騎士様と呼ばれる立場であるオズワルドの背中に冷や汗が流れた。もしかしたら「花」というのも何かの隠語かもしれない。
まさか今回の「4年ぶりの薔薇園でのお茶会」という機会を使い、不穏な動きに出ようという輩が存在したというのか、とむくむく猜疑心が浮かび上がってくる。
声に気取られないよう、オズワルドはそっと距離を詰め、彼らの背後を取れる位置の生垣の裏にたどり着く。未だ言い争いを続ける若い2人の声はオズワルドの存在には気が付いていないようだ。
今日はただのパフォーマンスでつけてるだけで出番はないはず、と思っていた剣を指だけで触れて確認するとオズワルドは音を立てないように息を吐き切り、そのまま右足で踏み込むようにして生垣の裏に飛び込んだ。オズワルドの身体に触れた薔薇の葉がガサガサと音を鳴らす。
「そちらで何をされてるんですか」
オズワルドが抑揚を抑えた低い声で二人の背に声をかけると、小柄な方の背がビクゥッと大袈裟に揺れてオズワルドを振り向いた。
黒の燕尾服に身を包み、袖口から覗く細い手足にきっとまだ甥っ子くらいの年頃の少年だろう、とアタリをつける。子供らしくふわふわ柔らかそうな茶髪から覗く髪色とお揃いのまんまるの瞳とまだ彫りがなくあどけない小さな鼻がオズワルドの顔を見上げると、彼の白い隊服を辿るように視線を落としていき、腰のあたりにぶら下がる剣に気がついたのか、「ひゃあああ」と今にもかき消えそうな声で叫ぶ。
「も、申し訳ございません、騎士様。どうかお見逃しいただけませんか……!」
「それはここで何をされてるか次第です。お答えいただけますか」
少年はもちろんと言わんばかりに首を縦に振ると、彼の隣で未だオズワルドに見向きもせず、屈むように背を丸めた姿勢のまま微動だにしない令嬢に「ケイティ様!」と声をかける。
「夢中なのはよろしいですが、だからって連行されたらあんまりでしょ!!」
「大丈夫よ、我が王国にはありがたくも容疑者にだって人権があるわ」
「なぜなんらかの容疑をかけられる前提で話を進めるんですか!?」
「……ケイト・マルーン辺境伯令嬢で間違いないでしょうか」
2人に任せたら一生埒があかなそうな会話の応酬にオズワルドが迷子になってるはずの令嬢の名前を挙げると、背を向けたままだった細いドレス姿がピタリと動きを止め、ゆっくりとオズワルドに向き直った。
屋外でのお茶会に合わせたのであろう、大型の花飾りを載せたハットは彼女のドレスと同じラベンダー色に染められている。大人らしいデザインに敢えて大型のチュールリボンを合わせることで彼女のどこか浮世離れした雰囲気を見事に演出しているようだった。ハットの鍔の奥からオズワルドを見つめる顔は丸く、耳の前に垂れたシルバーブロンドもぷるりと紅を乗せた唇も小ぶりな鼻も扇のようなまつ毛も、まさに貴族のお嬢様と評される為に存在しているように見えるのに。オズワルドの顔を真っ直ぐに見つめるサファイヤのように爛々と輝く瞳はその裏に燃える好奇心を全くもって隠せていない。
なによりまるで花から産まれたようなその出立ちで抱えているのが黒く大振りなオペラグラスなのは王宮の薔薇園では異質過ぎるし、それこそ庭師くらいしか訪れなさそうなこんな隅っこから一体何が見えていたというのか。内容によってはオズワルドの立場上見逃すことは難しくなる。
しかし嫌疑を掛けられている立場にも関わらず、動揺した様子も見せずまっすぐこちらを見る令嬢の眼力に気圧されそうになったオズワルドは、ごほんと咳払いすると身を正してから再度口を開く。
「申し遅れました。わたくしリアヴェール近衛騎士団第三小隊長オズワルド・ワイズリーと申します」
きっと侯爵家の家名としてあまりに有名であろう名前を聞いて、燕尾服の少年が慌てた様子で頭を下げる。
そんな彼の隣に立つ令嬢は相当肝が座っているらしい。視線を地面に落とし、見事なカーテシーを披露すると「ご挨拶ありがとうございます、ワイズリー様。間違いなくわたくしがダズ・マルーン辺境伯が娘、ケイト・マルーンでございます」と落ち着いた声で挨拶を返した。
「しかしてご令嬢。そちらのオペラグラスで一体何をご覧になっていたのでしょうか」
お互いに上体を起こした後、無遠慮にオズワルドが斬り込んだ質問に対して、ケイトは「あら」とわざとらしく黒いレースの手袋に包まれた掌を口元にそえると、「世界一面白いものですよ」などと勿体ぶるように嘯く。
一体何を見たんだ、といっそう眉を顰めるオズワルドに「少々お待ちくださいませ。直接見てもらった方が早いですから」とケイトは隣に立つ少年にオペラグラスを押し付けるとむんずとスカートの裾を持ち上げると生垣に一歩近づいた。可哀想に少年は蛙が潰されたような悲鳴をあげる。
「ちょ、薔薇に近づいたらダメですって! ドレスが!」
「大丈夫よ、王宮だもの」
何が大丈夫なんだ、とオズワルドが少年に心から同情しているとケイトは生垣を撫でるようにひらりと何度か手を返すよう動かしてから、両手をボールのような形で握りしめ、そのままオズワルドに向かってズイズイと進んでくる。
オズワルドは咄嗟に身構えたが、こちらの令嬢はどうやら目の前の人間の反応なんてどうでもいいようで。
近くで見てみると思っていたより背が高い、と一瞬オズワルドが別のことを考えた隙に「これ見てください」とまるで小さな子供が親に宝物を見せるかのように、組んだ両手をぱっと開いてオズワルドの顔に押し付けるように持ち上げた。
一目見ただけではただ彼女の手の中には何も見つけられず、ただ両掌を見せつけられているだけのようにしか見えない。
しかし掌越しにこちらを見上げる小さな顔はなぜか満面の笑みを浮かべていて、騙されているのだろうかと半ば思いながらも、オズワルドは今度は彼女の掌を目を凝らして見つめる。
オズワルドが掌に顔を近づけると「ヒィ」と彼女の後ろに控えている少年が息を吸う音が聞こえた。一体何が、と思いながらも顔を近づけるのは都合が良くなさそうなのでその高さからじっと見つめていると、黒いレースの手袋の上をモゾモゾと小さな生き物が這い回っていることに気がついた。
半透明の黄緑色の玉と白い玉を繋げたような形の身体から、身体よりもずっと長い脚が左右均等に何本も生え、そのバランスの悪そうな姿で器用に歩く。それはケイトの、オズワルドの半分くらいしかなさそうな掌よりとうんと小さく、目を凝らしてやっと見つけられるくらいには、存在感がない生き物。
それはどこからどう見ても小型のクモだった。
「……これは?」
「『世界一面白いもの』ですわ」
自慢げに胸を張った彼女が大股で歩いて元の生垣に戻りクモを放つと、オズワルドに向き直りシャンと背を伸ばし、ふふんと大胆不敵に笑ってみせる。
「わたくし、正々堂々大好きなクモの観察をしておりましたの」
「ケイティ様、胸張っていうことじゃないですよ、それ……」
オペラグラスを握り締めて小さくなる少年の肩からは苦労の色が滲み出ていて。
オズワルドはあまりの出来事に朝からずっと我慢していたため息をとうとう堪えることができなかった。
現王より4代前に増築されたこのリアヴェール宮殿は美しい左右対称の作りをしていて、宮殿の「東側」では貴族院や王国研究所などが設けられており、国の運営を担う議員や研究員が激論を飛ばし合う「男の社会」が、「西側」では主に王族の住居や国内外問わず訪れるゲストの為の迎賓館、ダンスホールなど王宮女官や侍女が多く活躍する華やかな「女の社会」がそれぞれ日夜繰り広げられている。
大陸内で最大規模の肥沃な土地を持ち、長い歴史を主に農産業や畜産業で賄ってきたリアヴェール国にとって、王宮はまさに豊かさの象徴である。それ故にぴっちりと左右対称に設計された宮殿の造りも、背が高い石造の城壁も、広すぎて庭師が40人がかりで日々手入れを続けていると言われる自慢の薔薇園を有する王宮の中庭も、全てリアヴェール国の権威を示す目的のものなのだろう、と自分の身長ほどもある薔薇の生垣を眺めながら、王宮騎士のオズワルドは息を長く吐いた。
今日のオズワルドの仕事は薔薇園で行われているお茶会の警備だ。白亜色の大きなカゼボの下には軽食とお茶が出され、15人ほどのやんごとなき身分の若い令嬢とその世話役が色とりどりのドレスを身につけ、やれあの花がいいとか、やれ紅茶はどこ産だとか、最近流行りのオペラの若手俳優は声がいいのだとか、オズワルドにとってはどこかむず痒い話題に花を咲かせている。
普段の職場が男所帯の「東側」で、それこそ出くわす女性が騎士団執務室を訪れる妙齢の掃除婦か、食堂で働くこれまた妙齢の給仕係くらいのオズワルドにとって、むせかえるような花の香りと、それに負けないくらい匂い立つ甘ったるい化粧品特有の匂い。更にオズワルドの身を包む近衛騎士団特有の白い制服が珍しいのか、時折こちらをチラチラと見ては扇の影に隠れ、恥ずかしそうに笑い合う、少女めいていてどこか軽薄な令嬢たちの仕草。その全て一つ一つが慣れなくて、既に1日の仕事を終えた時くらいの疲労感を感じていた。
そんなオズワルドに気がついたのだろう、彼の隣に立つ後輩騎士が目立たないように後ろ手で組んだ肘をオズワルドの脇腹にぶつけ、小声で話しかけてくる。
「ダメですよ、先輩。ため息は堪えてください。失礼ですから」
「……なんで俺はこんなところに」
「それは何回も説明されたじゃないっすか。今日は貴族出身の未婚者だけで警備を組むって」
強いて言うなら結婚してない先輩が悪いっす、と身も蓋もないことを言われ、オズワルドは自身の唇を噛み締めた。
代々リアヴェール王国の運営を担う「東側」を束ねるのが国王であれば、「西側」を担当するのは王妃である。
しかし、このリアヴェール宮殿は8年ほど前に王妃を流行病で亡くしてから現在に至るまで、宮殿を代表する広大な薔薇園を含む「西側」を守る主人は空席のままである。
過去の王国史を紐解けば王の後妻はもちろん、世代によっては側室も第二王妃も認められている。だが、愛妻家だった現国王は側近たちの意見に頑として首を振り、「王子を2人ももうけた愛する妻に報いたいのだ」と強く切望したこともあり、現在それらしい立場の女性は存在しない。
人口の三分の一が亡くなったと言われる流行病の爪跡が今も残っており、身分問わず全ての国民が王族の婚姻などという最大級の祝事を受け入れられるような余裕がなかったという背景もある。
本来ならこういった不測の事態の場合、王太后が「西側」の指揮をとることが望まれるのだが、残念ながら現国王の先王夫妻は既に儚くなっており、男所帯の国王一家には姫もおらず。
図らずも主人が不在となってしまった宮殿の西側半分はこの8年間、王妃の側近だった女官たちによってかろうじて環境を保ち続けていたようなものだった。
また、王妃がいないことで起きている問題は宮殿についてだけではないらしい。剣一辺倒のオズワルドには難しいことはわからないが、リズヴェール王国において世相を反映し様々な文化の発展を後押ししたり、諸外国との橋渡しなどを担当するのもやんごとなき身分の女性の役割だ。端的に言えばファッションや芸術などの分野において王国内での経済発展に寄与したり、諸外国との交流を通じ最先端の技術を取り入れたりする立場の人間が、今のリアヴェール王国にはいないと言える。
現在はそういった分野に明るい公爵家が公爵夫人共々、外交も含め担当しているが、表向きにいち公爵家が王国主導の舞踏会やお茶会を先導するわけにはいかず。
貴族女性たちが表舞台に出る場面が減れば、必然的にそういった文化的側面を担う事業が打撃を受けるのも当然のことである。
新型ドレスを流行らせたり、腕のいい音楽家に演奏の機会を与えたり、新しい小説や舞台の話に花を咲かせたり、ということが国王より王妃の方が得意だろうことは想像に難くない。オズワルド自身、週6日の仕事中着用しているのは同じ騎士団の隊服のみだ。私服のトラウザーズすらいつ仕立てたのか覚えてすらいないし、正装のウエストコートについては最早自宅にあるのかすらわからない。
女主人を無くした宮殿と、旗印を亡くし結果的には経済低迷につながっている王国の文化事情。
その両方を解決する一挙両得の方法というのが今年当人が22になるにも関わらず、未だ候補すらいない王太子妃の立場である。つまり次期国母をとっとと擁立して、問題を全て解決させてしまおうというある種の力技が今回のお茶会裏向きの目的であった。
王族の一員になるだけでなくもれなく宮殿の左半分の主人という絶大な影響力も手に入ってしまう「王太子妃」に是非我が家の娘を、と大手を振って送り込まれた貴族令嬢方を一気に王太子と面通しすることで次期王太子妃候補を見極めるついでに、同じく色恋に乏しい第二王子と王宮で働き詰めで交流が少ない若い未婚貴族もひと所に集めて、どんどん縁談まとめちゃおうという事実上の「貴族同士のお見合い」が此度のお茶会なのである。
巻き込まれた身としてはそんな大袈裟なと思わなくもないが、王家主導のお茶会というのは実に4年ぶりというのだから、国のトップが男所帯ゆえに手が回っていない分野というのは確かに存在するのだろう。
そんな背景もちゃんと理解しているからこそ、本日のオズワルドの眉間に刻まれた皺はなお深かった。そもそもオズワルドは貴族といえど、子沢山な侯爵家の六男坊である。
実家はとっくに年の離れた1番上の兄が継いでしまっているし、後継となる11歳の聡明な甥っ子もいる。今年21となったオズワルドにしてみれば、兄よりも甥っ子との方が年も近い。
両親は隠居して領地に引っ込んでいて面倒を見る必要もなければ、自身の面倒を見てもらえる当てもない。
無駄に古く由緒正しい家系故に、兄達は父が祖父から受け継いでいた子爵位の他にも、縁戚も含めれば伯爵以下いくらでも後継となれそうな爵位はあったが、それも六男坊となれば売れ残りすら存在しておらず。
生まれて早々、どこかの家に婿としてもらわれていくか、自身で身を立てなければ平民になるしか道がなかったのがオズワルドである。
侯爵家故に施された一流の教育と騎士団入団後あっという間に近衛騎士団に用立てられ、若手ながら小隊長にまで出世できたことについては感謝しているが、いざ嫁入り先を探している令嬢にしてみれば、騎士爵を保有しているだけの自分は決して優良物件には当たらないだろう。
騎士という仕事が身に合いすぎて侯爵家の邸宅に帰ることすらほぼなく、こうやって久々の社交の場に出てみても年頃の令嬢たちに全く心動かされないオズワルドにとっては意味もなければ興味もないのが、本日のお仕事なのだった。
そんなオズワルドの内面をありありと読み取ったのか、後輩は引き攣ったような苦笑いを浮かべ「もうちょっと愛想良くしてればいいじゃないすか」と苦言を述べる。
「お前も同じ立場だろう。今なら引く手数多じゃないか」
「いやいや、どうせこの後王子たち来たら絶対そっち行くでしょ。このご令嬢方全員そのために招待されてんだし」
夢がないじゃないすか、と肩をすくめる後輩にそれもそうか、と頷いて。会場全体を見渡したオズワルドは感じた違和感に顔を顰めた。
オズワルドのエメラルドグリーンの瞳が剣呑な色を乗せたことに、優秀な後輩は「何かありましたか」と空気に緊張感を漂わせる。
カゼボを囲むようにぐるりと配置された薔薇園の生垣を背に二人組の近衛騎士がポツポツと警備に立っている状況。この会の主催である国王も王子たちも未だ到着しておらず、警備担当のオズワルドたちに伝えられているのは「本日の参加者は伯爵位以上の未婚のご令嬢17名とそれぞれの世話役が1名の合計34名」という情報だ。
ほとんどのご令嬢がカゼボ内に適当に配置された椅子に座り休憩をするか、立食式で置かれた軽食を楽しんでおり彼女らの世話役も男性の従者を連れている者がポツポツとおれど、そこそこ上背があるオズワルドの視界を塞ぐような者はいない。
欠席や遅刻についての一報もなかったので、当然オズワルドの視界には己の顔見知りである近衛騎士の一員か、給仕の為動き回っている王宮侍女を除けば、参加者「34名」が全員存在しなくてはいけないはずである。
しかし、何度数えてもこの場には「32名」しかいないように見えた。
「……陛下の到着予定時刻にお変わりないよな?」
「はい。なので後10分ほどでしょうか」
「わかった。ちょっとここ任せていいか」
「はい、お任せください」
ぴし、と胸に手をあて敬礼のポーズをした後輩に感謝をしつつ、オズワルドはするりとお茶会の会場を離れた。
オズワルドの知る国王陛下は、非常に温厚でお茶会の挨拶に遅れた程度で気分を損ねるような狭量な人物ではないが、ここは上位貴族のご令嬢しかいない上に事実上次の国母を決めるための選定の場である。その立場を望む望まないに関わらず、少しでも泥がかかればご令嬢同士の、強いては貴族同士の足の引っ張り合いになるのは想像に難くない。
おそらく会場に辿り着けていないのであろう迷子のご令嬢を不憫に思ったのと、広い王宮内で何かトラブルに巻き込まれてしまっているのではないかという事件の可能性は、オズワルドを退屈なお茶会の会場から遠ざける立派な理由となった。
***
オズワルドは迷路のように配置された生垣の脇を通りながら、頭の中ではお茶会会場に並んでいたご令嬢方の外見的特徴をお茶会の参加者リストと照らし合わせていく。
舞踏会などでよく見かける顔は皆揃っていたと思うから、恐らくいらっしゃらなかったのはマルーン辺境伯の、とあたりをつけたところで、オズワルドの思考遮る威勢のいい声が勢いよく耳に届いた。
「ケイティ様、もういい加減にしてください! 会場にむかいましょうよ!」
「わかってるわかってる、あとちょっとだけだから」
「絶対わかってない!」
少年らしいよく通る叫び声に「ああ、そうそう。ケイト・マルーン辺境伯嬢」と納得しかけて、オズワルドは慌てて声の聞こえた方向に進路を転換する。
それはなぜか「人目につかないように」配置された生垣の更に奥の方から聞こえる。とても華奢とは言えないオズワルドはその巨体を生垣の間に埋め、隙間を隠すように互い違いに配置された生垣を慎重に進んでいかなければならなかった。
狭い空間に四苦八苦しながらオズワルドが歩を進める間も悲痛そうな少年の声と、それに反して全く意に介してなさそうなこれまた若い女性の声が交互に聞こえてくる。
「ちょっとだけって約束でしたよね!?」
「うん、ちょっとだけ。……ああ、もうやっぱり宮殿の薔薇園にだっていたじゃない、お父様の嘘つき! 影も姿もないなんてどの口が言ってるのよ、花がこんなにあってそんなことあるわけないじゃない!」
「うわあ、ドレスで地団駄踏まないでください! シワになりますよ!?」
「これが感情的にならないでいられる!? もうこんなオペラグラスじゃ全然ダメだわ、いつものスコープを持ってくるべきだった!!」
「お茶会にオペラグラスも十分おかしいんですよ!? 怪しいことして騎士様に目をつけられたらどうするんですか!?」
「影も姿も」「オペラグラス」「スコープ」という怪しすぎる言葉の応酬に生垣に挟まりながらまさに騎士様と呼ばれる立場であるオズワルドの背中に冷や汗が流れた。もしかしたら「花」というのも何かの隠語かもしれない。
まさか今回の「4年ぶりの薔薇園でのお茶会」という機会を使い、不穏な動きに出ようという輩が存在したというのか、とむくむく猜疑心が浮かび上がってくる。
声に気取られないよう、オズワルドはそっと距離を詰め、彼らの背後を取れる位置の生垣の裏にたどり着く。未だ言い争いを続ける若い2人の声はオズワルドの存在には気が付いていないようだ。
今日はただのパフォーマンスでつけてるだけで出番はないはず、と思っていた剣を指だけで触れて確認するとオズワルドは音を立てないように息を吐き切り、そのまま右足で踏み込むようにして生垣の裏に飛び込んだ。オズワルドの身体に触れた薔薇の葉がガサガサと音を鳴らす。
「そちらで何をされてるんですか」
オズワルドが抑揚を抑えた低い声で二人の背に声をかけると、小柄な方の背がビクゥッと大袈裟に揺れてオズワルドを振り向いた。
黒の燕尾服に身を包み、袖口から覗く細い手足にきっとまだ甥っ子くらいの年頃の少年だろう、とアタリをつける。子供らしくふわふわ柔らかそうな茶髪から覗く髪色とお揃いのまんまるの瞳とまだ彫りがなくあどけない小さな鼻がオズワルドの顔を見上げると、彼の白い隊服を辿るように視線を落としていき、腰のあたりにぶら下がる剣に気がついたのか、「ひゃあああ」と今にもかき消えそうな声で叫ぶ。
「も、申し訳ございません、騎士様。どうかお見逃しいただけませんか……!」
「それはここで何をされてるか次第です。お答えいただけますか」
少年はもちろんと言わんばかりに首を縦に振ると、彼の隣で未だオズワルドに見向きもせず、屈むように背を丸めた姿勢のまま微動だにしない令嬢に「ケイティ様!」と声をかける。
「夢中なのはよろしいですが、だからって連行されたらあんまりでしょ!!」
「大丈夫よ、我が王国にはありがたくも容疑者にだって人権があるわ」
「なぜなんらかの容疑をかけられる前提で話を進めるんですか!?」
「……ケイト・マルーン辺境伯令嬢で間違いないでしょうか」
2人に任せたら一生埒があかなそうな会話の応酬にオズワルドが迷子になってるはずの令嬢の名前を挙げると、背を向けたままだった細いドレス姿がピタリと動きを止め、ゆっくりとオズワルドに向き直った。
屋外でのお茶会に合わせたのであろう、大型の花飾りを載せたハットは彼女のドレスと同じラベンダー色に染められている。大人らしいデザインに敢えて大型のチュールリボンを合わせることで彼女のどこか浮世離れした雰囲気を見事に演出しているようだった。ハットの鍔の奥からオズワルドを見つめる顔は丸く、耳の前に垂れたシルバーブロンドもぷるりと紅を乗せた唇も小ぶりな鼻も扇のようなまつ毛も、まさに貴族のお嬢様と評される為に存在しているように見えるのに。オズワルドの顔を真っ直ぐに見つめるサファイヤのように爛々と輝く瞳はその裏に燃える好奇心を全くもって隠せていない。
なによりまるで花から産まれたようなその出立ちで抱えているのが黒く大振りなオペラグラスなのは王宮の薔薇園では異質過ぎるし、それこそ庭師くらいしか訪れなさそうなこんな隅っこから一体何が見えていたというのか。内容によってはオズワルドの立場上見逃すことは難しくなる。
しかし嫌疑を掛けられている立場にも関わらず、動揺した様子も見せずまっすぐこちらを見る令嬢の眼力に気圧されそうになったオズワルドは、ごほんと咳払いすると身を正してから再度口を開く。
「申し遅れました。わたくしリアヴェール近衛騎士団第三小隊長オズワルド・ワイズリーと申します」
きっと侯爵家の家名としてあまりに有名であろう名前を聞いて、燕尾服の少年が慌てた様子で頭を下げる。
そんな彼の隣に立つ令嬢は相当肝が座っているらしい。視線を地面に落とし、見事なカーテシーを披露すると「ご挨拶ありがとうございます、ワイズリー様。間違いなくわたくしがダズ・マルーン辺境伯が娘、ケイト・マルーンでございます」と落ち着いた声で挨拶を返した。
「しかしてご令嬢。そちらのオペラグラスで一体何をご覧になっていたのでしょうか」
お互いに上体を起こした後、無遠慮にオズワルドが斬り込んだ質問に対して、ケイトは「あら」とわざとらしく黒いレースの手袋に包まれた掌を口元にそえると、「世界一面白いものですよ」などと勿体ぶるように嘯く。
一体何を見たんだ、といっそう眉を顰めるオズワルドに「少々お待ちくださいませ。直接見てもらった方が早いですから」とケイトは隣に立つ少年にオペラグラスを押し付けるとむんずとスカートの裾を持ち上げると生垣に一歩近づいた。可哀想に少年は蛙が潰されたような悲鳴をあげる。
「ちょ、薔薇に近づいたらダメですって! ドレスが!」
「大丈夫よ、王宮だもの」
何が大丈夫なんだ、とオズワルドが少年に心から同情しているとケイトは生垣を撫でるようにひらりと何度か手を返すよう動かしてから、両手をボールのような形で握りしめ、そのままオズワルドに向かってズイズイと進んでくる。
オズワルドは咄嗟に身構えたが、こちらの令嬢はどうやら目の前の人間の反応なんてどうでもいいようで。
近くで見てみると思っていたより背が高い、と一瞬オズワルドが別のことを考えた隙に「これ見てください」とまるで小さな子供が親に宝物を見せるかのように、組んだ両手をぱっと開いてオズワルドの顔に押し付けるように持ち上げた。
一目見ただけではただ彼女の手の中には何も見つけられず、ただ両掌を見せつけられているだけのようにしか見えない。
しかし掌越しにこちらを見上げる小さな顔はなぜか満面の笑みを浮かべていて、騙されているのだろうかと半ば思いながらも、オズワルドは今度は彼女の掌を目を凝らして見つめる。
オズワルドが掌に顔を近づけると「ヒィ」と彼女の後ろに控えている少年が息を吸う音が聞こえた。一体何が、と思いながらも顔を近づけるのは都合が良くなさそうなのでその高さからじっと見つめていると、黒いレースの手袋の上をモゾモゾと小さな生き物が這い回っていることに気がついた。
半透明の黄緑色の玉と白い玉を繋げたような形の身体から、身体よりもずっと長い脚が左右均等に何本も生え、そのバランスの悪そうな姿で器用に歩く。それはケイトの、オズワルドの半分くらいしかなさそうな掌よりとうんと小さく、目を凝らしてやっと見つけられるくらいには、存在感がない生き物。
それはどこからどう見ても小型のクモだった。
「……これは?」
「『世界一面白いもの』ですわ」
自慢げに胸を張った彼女が大股で歩いて元の生垣に戻りクモを放つと、オズワルドに向き直りシャンと背を伸ばし、ふふんと大胆不敵に笑ってみせる。
「わたくし、正々堂々大好きなクモの観察をしておりましたの」
「ケイティ様、胸張っていうことじゃないですよ、それ……」
オペラグラスを握り締めて小さくなる少年の肩からは苦労の色が滲み出ていて。
オズワルドはあまりの出来事に朝からずっと我慢していたため息をとうとう堪えることができなかった。
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