癒した手が人を殺すと知ったので、聖騎士団を辞めて辺境で薬屋を始めました

蒼月よる

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第1話 辺境到着

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 道の先に、灰色の屋根が見えた。

 三つ、四つ、五つ——数えるうちに木々の隙間から集落の全景が開けて、私はそこで足を止めた。
 蒼い樹海を背にして、石を敷いた細い道沿いに家々が並んでいる。屋根は棘鱗を重ねた灰色で、壁は装甲片を打ちつけた薄い褐色。柱には獣の骨材が使われているのだろう、節のある白い支えが家々の軒先を支えていた。小さな集落だ。五十人もいれば多いほうだと思う。
 道は一本だけで、それが集落の端から端まで緩く蛇行していた。畑がいくつか見える。どの家も同じくらいの大きさで、同じくらいの間隔を空けて建っている。けれどその並び方は整然とはほど遠く、地形に合わせて少しずつ傾いだり向きを変えたりしていて、まるで長い時間をかけて自然に生えてきたかのようだった。
 けれど、煙が出ていた。
 夕刻の空に、細く白い煙が何本も立ち上っている。夕餉の支度をしているのだ。その煙の匂いに、干した肉を炙る香ばしさが混じっている。風が樹海の方から吹いてきて、煙を東に流し、それと一緒に蒼い葉の湿った匂いを運んできた。
 ——ああ、人が暮らしている。
 当たり前のことなのに、それがひどく眩しく感じられて、私は少し息を吸った。

 七日、歩いた。
 聖騎士団の駐屯地を出てから、街道を避け、樹海の縁を辿って南へ。途中で二度、野営した。魔獣の気配がした夜は眠れず、蒼苔を齧って飢えをしのいだ日もあった。
 肩掛け鞄はすっかり軽くなっていた。薬草も干し肉もほとんど尽きて、残っているのは調合道具と、革のエプロンと、外した紋章だけだ。
 ——紋章。
 鞄の底で布に包んだままのそれを、ふと指先で触れそうになって、やめた。
 もういい。あれはもう、私のものではない。

 坂を下りて集落の入り口に近づくと、畑で作業をしていた男がこちらに気づいた。
 鍬を止め、目を細めて私を見る。日に焼けた顔に警戒の色が浮かんだ。当然だ。辺境の集落に、見知らぬ女がひとりで現れたのだから。
「あんた、どこから来た」
 男は鍬を握ったまま言った。声は低く、素っ気ない。
「南の——街道の方から、樹海の縁を歩いてきました」
 私は立ち止まり、両手が見えるように鞄の紐を肩から下ろした。
「旅の者です。この集落で、少し休ませていただけないでしょうか」
 男の目が私の鞄を見て、手を見て、それから顔に戻った。
「商人には見えねえな。冒険者か」
「いいえ。薬師です」
 その一言で、男の表情がわずかに変わった。
 警戒が消えたわけではない。けれど、眉の力が少しだけ抜けた。
「……薬師」
「はい。腕には——少し、自信があります」
 沈黙があった。
 男は鍬を地面に突き刺すと、集落の奥に向かって声を上げた。
「おい、イルダ婆さん。客だ。薬師だと」

 集落の長は、イルダという名の老婆だった。
 背は低いが、蒼牙のナイフを腰に差したその佇まいには、辺境で長く生きた人間の芯がある。白髪を後ろで結い上げ、深い皺の刻まれた目で私をじっと見た。
「薬師、ねえ」
 イルダは石積みの低い塀に腰を下ろしたまま、私の足元から顔までをゆっくりと見上げた。
「随分くたびれてるね。どこの所属だい」
「……どこにも。今は、どこにも属していません」
 嘘ではなかった。もう属していないのだから。
 イルダの目が一瞬だけ鋭くなったが、すぐに元の穏やかさに戻った。
「まあいいさ。事情のない人間なんて、辺境には来ないからね」
 そう言ってから、イルダの視線が私の手に落ちた。
「ちょっと、手を見せな」
 言われるまま、両手を差し出した。自分でも分かっている。七日間の旅で泥に汚れてはいるが、それ以前の——年季の入った痕跡は隠しようがない。
 イルダが私の右手を取り、掌をひっくり返した。
「乳鉢ダコだね。親指の付け根と、ここ」
 硬くなった皮膚を、節くれだった指先でなぞられる。乳鉢と乳棒で薬草をすり潰す作業を何年も続けると、親指の付け根と人差し指の側面に独特のタコができる。薬師の手だ。
「小刀の跡もある。薬草を刻む方の手だ。……ふうん、嘘じゃなさそうだね」
 イルダは私の手を離すと、集落の通りを顎でしゃくった。
「うちの薬師は三年前に死んだよ。ゴルドっていう爺さんだったんだけどね、冬を越せなかった。それからは灰枝まで二日かけて薬を買いに行くしかなくてね。……不便だったよ、正直」
 三年。三年間、この集落には薬師がいなかったのか。
「怪我や病気のときは、どうされていたんですか」
「薬草茶を煎じて気合で治すか、灰枝に担いで連れて行くか。間に合わなけりゃ——まあ、そういうこともある」
 イルダの声は淡々としていた。辺境で暮らすとは、そういうことなのだろう。
 私は背筋を伸ばした。
「私に、ここで薬師をやらせていただけませんか」
 イルダが眉を上げた。
「唐突だね」
「はい。唐突です。でも、私は薬師です。ここには三年間薬師がいなかった。私にはその三年分を埋める腕があります」
 イルダは私の目を見た。長い、値踏みするような視線だった。
 私は逸らさなかった。これだけは、逸らしたくなかった。
「……ゴルドの家が空いてる」
 イルダはそう言って、立ち上がった。
「埃だらけだけどね。掃除は自分でおやり。——ただし」
 振り返った目が、鋭い。
「変なことをしたら、村の全員で叩き出す。いいね」
「はい。ありがとうございます」
 頭を下げたとき、視界の端で、先ほどの畑の男がまだこちらを見ていた。

 空き家——ゴルドの家は、通りの外れにあった。
 一部屋だけの小さな家。土間と板張りの居室があり、壁際に棚がいくつか並んでいる。棚には乾いた薬草の茎が数本残っていた。三年前の薬師の、最後の仕事の痕跡だ。
 棚の手前に、擂り減った乳鉢が一つ置かれていた。底がすり鉢状に深くえぐれている。何十年と使い込まれたのだろう、石の肌が滑らかに光っていた。そのそばに、小さな木の箱がある。蓋を開けると、茶色く変色した紙の札が数枚入っていた。薬の名前が、褪せた墨で書かれている。「蒼苔胃薬」「虫刺軟膏」——丁寧な、けれどもう読みにくくなった文字。ゴルドという薬師の手跡だ。
 三年間、誰にも使われず、ここに残っていた。
 窓を開けると、蒼い光が差し込んだ。
 樹海が近い。この家は集落の端にあって、裏手はもう樹海の縁だった。窓の向こうに、蒼い葉が幾重にも重なっている。深い海の底のような色だ。風が吹くと、葉擦れの音と一緒に、湿った土と苔の匂いが流れ込んでくる。
 ——いい場所だ。
 薬師の家としてこれ以上の場所はない。樹海の縁がすぐそこにある。蒼苔も薬草も、朝起きて数歩歩けば採れる。
 棚の埃を手で払い、鞄を下ろし、調合道具を一つずつ並べた。乳鉢、乳棒、小刀、布袋、量り皿。聖騎士団から持ち出した——いや、これは元々私のものだ。騎士団に入る前から使っていた、師匠譲りの道具。
 ゴルドの乳鉢の隣に、私の乳鉢を並べた。古い薬師の道具と、新しい薬師の道具。大きさも石の種類も違うが、同じように底がすり減っている。
 並べ終えて、眺めた。
 埃だらけの棚に、使い込まれた道具が並んでいる。たったこれだけ。けれど、これが私の全部だった。

 日が落ちる頃、戸を叩く音がした。
 開けると、中年の女が鍋を持って立っていた。
「イルダ婆さんに言われてね。今日のところはこれで食べな」
 差し出された鍋の中身を見て、私は目を瞬いた。
 蒼苔のスープだった。
 淡い蒼色の液体に、根菜の白い断面が浮かんでいる。湯気の中に、苔の青い香りと、ほのかに甘い根菜の匂いが混じっている。鍋を受け取ったとき、掌にじんわりと温もりが伝わってきた。
「蒼苔のスープ……」
「ん? 珍しいかい。こっちじゃ毎日食べるよ」
「いえ、知っています。ただ——」
 作り手の顔が見えるスープは久しぶりだった。
 聖騎士団では、食事は一括で調理場が作る。大鍋で煮て、列に並んで受け取る。温かくはあったが、誰が作ったかは分からなかった。誰のために作ったかも。
「ありがとうございます」
「礼はいいよ。じゃあね」
 女は鍋を渡すと、さっさと帰っていった。素っ気ないが、冷たいのではない。辺境の人の距離感なのだろう。

 鍋を土間の魔石コンロに乗せ、弱い火で温め直した。コンロの中の魔石は小指の爪ほどの粗石で、光は弱いが、スープを温めるには十分だった。
 木の匙で一口、掬って口に運ぶ。
 ——苦い。
 蒼苔の独特の苦味が、舌の奥に広がる。けれどその奥に、根菜の甘みと、かすかな塩気がある。飾り気のない、素朴な味。根菜は柔らかく煮崩れかけていて、匙の背で軽く押すだけでほどけた。
 二口目を食べた。三口目を食べた。
 四口目で、手が止まった。
 匙を持つ指が、少しだけ震えていた。
 ——おいしい。
 何の変哲もないスープだ。蒼苔を煮て、根菜を入れて、塩を振っただけ。技巧も工夫もない、辺境の普段の食事。
 それなのに、涙が出そうになった。
 聖騎士団の食堂で食べていたスープのことを思い出す。あれも温かかった。あれも蒼苔が入っていた。けれど、あのスープを食べて体力を回復した聖騎士たちが、翌朝何をしに出かけていったか——。
 ——やめよう。
 私は匙を握り直して、スープを飲み続けた。
 ここのスープは、ただのスープだ。誰かを戦場に送り出すためのものではない。お腹が空いた人のための、ただの夕飯。
 それが、こんなにありがたかった。

 鍋を空にして、洗って、戸口の脇に置いた。明日、返しに行こう。
 板張りの床に、持っていた布を敷いて横になる。天井の梁に、棘鱗の屋根材の裏側が見えた。灰色の、硬い鱗。
 窓の外から、虫の声が聞こえる。蒼い樹海の虫は、鳴き方が少し違う。低くて、ゆっくりで、波のように寄せては引く。
 聖騎士団の駐屯地では、夜は松明と魔石灯の光でいつも明るかった。巡回の足音が絶えず聞こえていた。静かな夜はなかった。
 ここは暗くて、静かで、虫の声だけがある。
 肩掛け鞄の底に手を伸ばしかけて、やめた。紋章に触る必要はない。もう確かめなくていい。外したのは、自分の意志だ。
 ——明日から、やることがある。
 棚の埃を払い、窓辺に乾燥棚を作り、樹海の縁に出て蒼苔と薬草を採る。この集落に三年間なかったものを、私が埋める。
 それだけでいい。今は、それだけでいい。
 目を閉じると、蒼苔のスープの苦い余韻がまだ舌の奥に残っていた。

 辺境の夜は、思っていたよりずっと静かだった。
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