癒した手が人を殺すと知ったので、聖騎士団を辞めて辺境で薬屋を始めました

蒼月よる

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第2話 蒼い樹海の縁

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 朝の光で目が覚めた。

 窓から差し込む蒼い光の中に、細かな粒がきらきらと舞っている。魔素だ。樹海の縁が近いこの家では、朝になると魔素の粒子が光に乗って部屋の中まで流れ込んでくる。
 ここには号令もなければ鐘もない。起きたければ起きる。窓の向こうで鳥が鳴いている。それだけだ。

 板張りの床から身を起こし、顔を洗い、革のエプロンをつけた。
 今日やることは決まっている。樹海の縁に出て、素材を採る。胃薬の元になる蒼苔、薬草、食用のキノコ——この集落で薬師をやるなら、まず素材がなければ何も始まらない。
 鞄の中の調合道具を確認し、布袋を三つ持って戸口を開けた。

 外に出ると、集落はもう動き始めていた。
 通りの向こうで女が洗い物をしている。畑のほうから鍬を打つ音が聞こえる。朝靄の中に、蒼苔スープを煮る匂いが薄く漂っていた。
 誰も私に声をかけない。昨日来たばかりの余所者だ。当然のことだった。
 鍋を返しに行こうと思ったが、女の姿が見当たらなかったので、戸口の脇に置いたままにして、集落の裏手——樹海の縁に向かった。

 集落の外れを過ぎると、すぐに景色が変わった。
 蒼い。
 地面から、木の幹から、枝から垂れ下がる苔から、何もかもが蒼い色を帯びている。空気そのものが蒼く染まっているように感じるのは、魔素の濃度が上がっているからだ。肺に吸い込むと、湿った苔と冷たい土の匂いがする。その奥に、かすかに甘い——いや、甘いのではない。魔素に敏感な舌が、空気中の粒子を甘さとして感じ取っているだけだ。
 足元に、蒼苔が広がっていた。
 樹海の縁に群生する、蒼い苔。乾燥させて煎じれば胃薬になるし、そのまま煮出せばスープの素材にもなる。辺境の暮らしを支える素材の一つ。
 しゃがんで指先で触れた。しっとりとした感触の中に、魔素の粒が細かく散っているのがわかる。

「色がいい」

 思わず声が出た。
 聖騎士団でも蒼苔は使っていた。けれど駐屯地に届く蒼苔は乾燥済みで、こんなに生き生きとした状態のものを見るのは久しぶりだった。粒の散り方が均一で、色艶も良い。上質な蒼苔だ。
 布袋を開いて、丁寧にひと房ずつ採り始めた。根ごと取ると再生しなくなるから、地面から指二本分の高さで茎を切る。師匠に教わった採り方だ。

「朝から何してんだ」

 声をかけられて振り向くと、男が立っていた。
 日に焼けた肌に、短く刈った黒髪。肩幅が広く、腰に蒼牙のナイフを差している。背中に弓を負い、腰には獲物を吊るす革紐が下がっていた。猟師だ。
 年は三十前後だろうか。顔つきは険しいが、目にあからさまな敵意はない。

「蒼苔を採っていました。薬の材料にするんです」
「ああ、昨日来た薬師か」

 噂が回るのが早い。五十人の集落だから当然か。

「ルッツだ。猟師をやってる」
「フィオナです。よろしくお願いします」

 頭を下げると、ルッツは少し面食らったような顔をした。辺境では頭を下げる挨拶は珍しいのかもしれない。

「……これから樹海の縁を回るつもりか」
「はい。蒼苔の他にも、薬草やキノコがあれば採りたいんです」
「一人で行くのか?」
「あの——はい。そのつもりでしたが」

 ルッツは少し考えるような顔をしてから、顎で樹海の方を示した。

「俺も縁を回る。罠の確認がある。ついて来い」
「いいんですか」
「縁とはいえ一人は勧めねえ。蒼牙狼が下りてくることがある」

 断る理由はなかった。むしろありがたい。
 ルッツは私の返事を待たず歩き出した。足取りが速い。慣れた道なのだろう、木の根を避け、苔を踏まず、獣道のような細い道を迷いなく進んでいく。

 樹海の縁は、歩くほどに蒼さを増していった。
 頭上の枝が重なり合い、蒼い天蓋を作っている。光は枝の隙間から筋になって降り注ぎ、地面に蒼白い斑点を散らしていた。木の幹には蒼い苔がびっしりとついている。空気中の魔素が肌を撫でるように流れていく。
 私は何度も足を止めそうになった。

「あの、ルッツさん。少し——」
「何だ」
「この苦香草、採ってもいいですか」

 指差した先に、膝丈の草が茂っていた。細い葉に白い花をつけた、地味な草。だがこの草は、肉の臭み消しに使う薬草だ。装甲猪の肉の下処理に使えば、独特の野性味を和らげることができる。

「ああ、そいつか。好きに採れ。いくらでもある」
「ありがとうございます」

 しゃがんで茎を折ると、鼻先に苦い清涼感のある香りが広がった。この匂いだ。聖騎士団の調理場でも使っていた香草だが、こんなに香りが強いのは野生のものならではだろう。
 葉を一枚ちぎって指先で揉んでみた。汁が出る。魔素の粒が葉脈に沿って並んでいるのが、指先の感覚でわかる。

「この苦香草、すごく質がいいです。葉脈の魔素の並び方が綺麗で——乾燥させたら肉の臭み消しに使えますし、煎じれば消化を助ける薬にもなるんですよ」

 ルッツが無言でこちらを見ていた。
 しまった。また早口になっていた。

「す、すみません。独り言です」
「いや」

 ルッツの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。笑ったのかどうかは分からない。

「ゴルド爺さんも、採取のときはそんな感じだったよ」
「……ゴルドさんも?」
「ああ。こいつは質がいい、ここの粒は申し分ない——って、ずっと独り言を言ってた。薬師ってのはみんなそうなのか」

 前の薬師——三年前に亡くなったという人。この人もゴルドさんと一緒に樹海の縁を歩いたことがあるのだろう。

「……そうかもしれません。素材を前にすると、つい」
「別にいい。静かすぎるよりはましだ」

 ルッツは再び歩き出した。私はその背中に小走りでついていきながら、布袋に苦香草を詰めた。

 罠を二つ確認した。どちらも空だった。

「最近は獲物が少ねえ。装甲猪が縁に下りてこない時期がある」
「季節で変わるんですか」
「わからん。魔素のせいだってゴルド爺さんは言ってたが。中層の魔素が濃くなると、装甲猪は縁から離れるって」

 興味深い話だった。魔素の濃度変動が魔獣の行動に影響する。聖騎士団でも研究されていた分野だが、こうして実地で暮らす人間の観察には机上の理論にない実感がある。

 三つ目の罠のそばで、私はキノコを見つけた。
 倒木の側面に、蒼い傘を広げたキノコが三本、寄り添うように生えている。

「蒼傘茸だ」

 声が弾んだ。自分でもわかるくらい、声が明るくなっていた。

「食べられるキノコですか?」

 ルッツが聞いた。

「はい。蒼傘茸は食用です。炒めると香りが良くて——」

 私はしゃがんで、キノコの傘を丁寧に観察した。蒼い傘の裏側に、白いひだが放射状に広がっている。傘の表面に散る魔素の粒は、細かく均一に散っている。これが重要だ。

「毒キノコとの見分け方があるんです。魔素の粒の散り方を見るんですよ」

 隣のキノコを指差した。こちらも蒼い傘だが、よく見ると傘の縁に沿って魔素の粒がまばらに固まっている。

「こっちは蒼毒傘です。見た目はそっくりですが、魔素の粒が偏って散っている。食べると腹を壊します」
「……見分けがつかねえな」
「慣れれば分かります。あとは——」

 私は指先に魔素を集中させた。微弱な魔素操作。聖騎士団の薬師なら誰でもできる基本技術だが、辺境では珍しいのだろう。指先が淡く光る。
 キノコの傘に軽く触れると、食用の蒼傘茸は魔素に反応してほのかに温かくなった。毒キノコのほうは、冷たいままだ。

「温かい方が食用、冷たい方が毒。こうすれば確実です」
「便利だな」
「薬師の基本です」

 蒼傘茸を三本とも丁寧に採り、布袋に入れた。毒キノコのほうは残しておく。毒キノコは毒キノコで、摘出した毒腺と合わせれば解毒剤の材料になるが、今日のところは見送りだ。

 さらに奥へ進むと、低木に蒼い実がなっているのを見つけた。蒼実だ。
 小指の先ほどの丸い実が、枝にびっしりとついている。一粒つまんで齧ると、鋭い酸味が舌を刺した。

「すっぱ——」

 思わず顔をしかめた。ルッツが今度こそ笑った。短い、低い笑い声だった。

「蒼実はそのまま食うもんじゃねえよ」
「わかってます。わかっていたんですが、つい」

 酸味の奥に、微かな甘みがある。砂糖か蜂蜜で漬ければ保存食になるし、煮詰めればソースにもなる。

「蒼実を手に入れたら試したいことがあるんです。煮詰めて酸味を活かしたソースにしたら、装甲猪の脂っこさに合うんじゃないかと——」
「また早口になってるぞ」
「……すみません」

 蒼実を両手でたっぷり採った。布袋が三つとも膨らんできた。蒼苔、苦香草、蒼傘茸、蒼実。上出来だ。初日の採取としては十分すぎるくらい。

 帰り道、ルッツが罠の仕掛け方を教えてくれた。装甲猪を狙う罠は、地面に浅い穴を掘って蒼実を撒いておくのだという。

「蒼実の匂いに寄ってくるのか、装甲猪は」
「ああ。あいつら、酸っぱいものが好きでな」

 意外だった。あの硬い外殻の猪が、蒼実の酸味を好むとは。

「ルッツさんは、ずっとこの集落に?」
「生まれてからずっとだ。親父も猟師だった」
「樹海の中層に入ることはありますか」
「たまにな。縁で獲物が減ると、中層まで足を伸ばすことがある。危ねえが」

 ルッツは樹海の奥を見やった。蒼い木々の向こう、さらに色が濃くなっていく深みの方を。

「中層にはもっと色んな薬草があるって、ゴルド爺さんが言ってた。縁には生えない種類がな」
「はい。中層でしか採れない薬草があるんです」

 聖騎士団の薬草目録にも記載されていた。蒼命草《あおいのちぐさ》——中層の大木の根元にだけ生える、強い治癒力を持つ薬草。煎じれば高熱にも効く。この集落には薬師が三年間いなかったのだから、いざという時にそういう薬が必要になる場面もあるだろう。
 けれど、中層は縁とは危険度が違う。鉄牌の冒険者でなければ踏み入れない領域だ。今の私が行ける場所ではない。

「まあ、その話はいずれ。今は縁にあるもので十分です」

 集落に戻ると、昼を過ぎていた。
 通りを歩いていると、畑の男——昨日最初に声をかけてきた男が、ちらりとこちらを見た。目が合うと、小さく顎を引いた。会釈のようなものだと思う。
 私も頭を下げた。

 ゴルドの家に戻り、採取した素材を広げた。
 板張りの床に布を敷き、蒼苔、苦香草、蒼傘茸、蒼実をそれぞれ分けて並べる。

「蒼苔は両手いっぱいが三束。乾燥させれば胃薬十五回分くらい。苦香草は二十本。乾燥すれば半分の嵩になるから、保存にも困らない。蒼傘茸は三本。今日のうちに食べたほうがいい。蒼実は——けっこう採れたな」

 独り言だった。誰も聞いていない。
 けれど、素材を並べている時間が楽しかった。一つひとつの色を見て、匂いを嗅いで、魔素の状態を確認する。この素材で何が作れるか、何に使えるか、頭の中で組み立てていく。
 私が自分の手で採って、自分の目で選んで、自分で品質を確かめた素材だ。一つひとつに、採った場所の風景がついてくる。蒼苔には朝の光の匂いが、苦香草にはルッツの足音が、蒼傘茸には倒木の湿った手触りが、蒼実には自分のしかめっ面が。

 窓辺に蒼苔と苦香草を広げて干した。明日には使えるようになるだろう。
 蒼傘茸は薄く切って、今夜の食事にする。蒼実はひとまず日陰に置いておく。

 夕方、また戸を叩く音がした。
 昨日の女が鍋を取りに来たのだ。洗った鍋を返すと、女は鍋の底をちらっと見て、「きれいに洗ったね」とだけ言った。
 それから、少し間があって。

「今日、蒼苔を干してただろう。薬を作るのかい」
「はい。胃薬と、できれば軟膏も」
「……ふうん」

 女は鍋を抱えて帰っていった。

 その夜、蒼傘茸を焼いて食べた。
 魔石コンロの弱火で、薄く切った蒼傘茸をゆっくり炙る。何の調味料もない。塩すらない。だが、火が通るにつれて、キノコの蒼い傘から甘い香りが立ち上ってきた。
 箸がないので指でつまんで口に運ぶ。
 おいしい。
 歯応えがしっかりしていて、噛むほどに旨味が出る。蒼い色は火を通しても残っていて、見た目は不思議だが、味は確かだ。

「明日は塩がほしいな」

 独り言を言って、蒼傘茸を食べ終えた。
 窓の外から、低く長い虫の声が、暗い樹海の方から響いている。
 鞄の底に、布に包んだ紋章がある。今日は触れようとも思わなかった。
 代わりに、明日の予定を考えた。乾燥棚を作る。蒼苔を煎じて胃薬を作る。軟膏も調合したい。それから、蒼実のソースを試してみたい。
 やることがたくさんある。
 それが嬉しくて、少し笑った。
 明日、マーラに蒼実のソースを味見してもらおう。迷惑がられるかもしれないが、あの蒼実の酸味は試す価値がある。
 それから、集落の人たちに、もう少しちゃんと薬を届ける方法を考えなければ。余所者が軒先に立って「薬があります」と言ったところで、信用されるはずがない。まずは顔を覚えてもらうことからだ。

 辺境の二日目は、蒼い素材の匂いと共に暮れていった。
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