癒した手が人を殺すと知ったので、聖騎士団を辞めて辺境で薬屋を始めました

蒼月よる

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第6話 集落の子供

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 戸を叩く音で目が覚めた。

 まだ薄暗い。窓の外の蒼い樹海が夜明け前の灰色に沈んでいて、朝の虫の声もまだ始まっていなかった。
 工房に寝泊まりするようになって何日目だろう。板張りの床に敷いた布の上で体を起こすと、腰が少し痛んだ。

 戸を叩く音が、もう一度。今度は強い。

「フィオナさん! フィオナさん、起きてる!?」

 女の声だった。切迫している。
 私は布を払いのけて立ち上がり、急いで戸を開けた。

 立っていたのは、集落の南側に住むマーラだった。三十すぎの、日に焼けた頬の女。いつもは落ち着いた人なのに、今は額に汗が浮いて、目が赤い。
「どうしました」
「うちのエミル——息子が、朝から熱を出して。ずっと震えてて、顔が真っ赤で——」
 マーラの声が震えていた。その手が、エプロンの裾を握りしめている。
「いつからですか」
「夜中から。最初はぐずってるだけだと思ったんだけど、さっき触ったらすごく熱くて——」
 私は頷いた。
「すぐ行きます。少しだけ待ってください」

 棚から鞄を取り、中身を確認した。乳鉢、小刀、布袋。蒼苔の胃薬、苦香草の煎じ薬、軟膏、はちみつの小瓶。解熱に使える薬草は蒼傘茸の粉末がある。鎮痛用の根蛇の毒腺から作った鎮痛剤も入れた。
 革のエプロンを締め、鞄を肩にかける。
 マーラが不安そうにこちらを見ていた。
「大丈夫です。診せてください」

 マーラの家は集落の南寄り、畑に面した小さな家だった。装甲片の壁に棘鱗の屋根。戸口の脇に山羊に似た家畜——角曲がりと呼ばれる乳獣が繋がれていた。いつもは朝になると鳴くのに、今朝はぐったりと座り込んでいる。

 家に入ると、土間の奥の寝台に小さな体が横たわっていた。
 エミル。五つか六つの男の子だ。集落で何度か見かけたことがある。走り回って、よく転んで、膝を擦りむいて泣いていた子。
 今は泣いていなかった。顔が赤く、唇が乾いて、薄く目を開けたまま荒い息をしている。
「エミル、こんにちは。薬師のフィオナだよ」
 寝台の横にしゃがみ、小さな額に手を当てた。

 ——熱い。

 けれど私が感じたのは温度だけではなかった。手のひらの下で、魔素の流れが乱れているのが分かる。体内のナノマシン——住人たちは魔素と呼ぶそれが、正常な循環を崩している。炎症だ。体のどこかで魔素が滞り、熱を持っている。
 目を閉じて、手のひらの感覚に集中した。
 魔素の流れを辿る。胸のあたりで渦を巻いている。喉から肺にかけて。呼吸器だ。
「喉と肺のあたりですね。風邪のようですが、魔素の流れが少し乱れています」
 マーラが寝台の反対側で膝をつき、息子の手を握ったまま私を見た。
「治る?」
「治ります」
 断言した。これは断言していい症状だった。

 鞄を開き、調合を始めた。
 まず蒼傘茸の粉末を量り皿に取る。乳鉢に移し、少量の水で溶く。ここに苦香草の煎じ液を数滴。苦香草には発汗を促す作用がある。蒼傘茸の解熱作用と合わせれば、子供の熱を穏やかに下げられる。
 乳棒で丁寧に混ぜながら、薬に魔素を通した。成分の粒が均一に散るように、指先の感覚で確かめる。聖騎士団時代、百人分の薬を一度に調合していた頃の手癖がここで役に立つ。
 ただし、今は百人分ではない。この子一人のための薬だ。

 煎じ薬ができた。椀に注ぐと、薄い蒼色の液体から苦い湯気が立ち上る。
「これを飲ませます。すごく苦いので」
 はちみつの小瓶を取り出した。
「これを混ぜます。少しは飲みやすくなるはずです」
 蜂蜜をひと匙、椀に落として混ぜた。蒼い液体に琥珀の色が溶けて、ほんの少しだけ甘い匂いが混じる。

 マーラがエミルの上体を起こし、私が椀を口元に持っていった。
「エミル、お薬だよ。苦いけど、頑張って飲もうね」
 エミルが薄く目を開けた。ぼんやりした目が私の顔を見て、それから椀を見た。
 一口、含んだ。
 ——顔がしわくちゃになった。
「にが……」
 かすれた声で言って、顔をそむけようとする。
「うん、苦いね。でもあと少しだけ。はちみつ、入ってるでしょう? 甘いところを探して飲んでみて」
 エミルが渋々と椀に口をつけた。二口、三口。途中でまた顔をしかめたが、マーラが頭を撫でると、最後まで飲み干した。
「偉い。よく飲めたね」
 空の椀を受け取り、エミルを寝かせ直した。

 次に、治癒魔法をかける。
 両手をエミルの胸の上にかざし、目を閉じた。体内の魔素に意識を向ける。大気中の魔素を手のひらに集め、エミルの胸に向けて流し込む。
 ——私の治癒魔法は、弱い。
 聖騎士団の治癒士のように傷を一瞬で塞いだり、病をたちどころに消したりはできない。私にできるのは、薬の浸透を助けること。体の中で薬が効くべき場所に、魔素の流れで導くこと。
 薬と魔法の併用。それが私のやり方だった。
 手のひらの下で、蒼傘茸の成分が喉と肺に向かって広がっていくのを感じた。魔素の乱れが、少しずつ整っていく。

 数分。手を離すと、エミルの呼吸が穏やかになっていた。
 額にもう一度触れる。まだ熱いが、さっきよりは落ち着いている。
「薬が効き始めました。半日もすれば熱は下がるはずです。水をたくさん飲ませて、今日は安静に」
 マーラが深く息を吐いた。ずっと止めていた息を、やっと吐いたような顔だった。
「……ありがとう。ありがとう、フィオナさん」
「薬師の仕事ですから」
 そう言いながら、私は自分の手を見た。薬草の匂いが染みついた、荒れた指先。
 この手で薬を作って、この手で魔素を流して、一人の子供の熱を下げた。
 一人の子供のために薬を作り、その子の顔を見て、苦いと言われて、飲み干すのを見届けた。
 それが薬師の仕事だ。今は、それだけでいい。

 戸口を出ると、繋がれた角曲がりが重たげにこちらを見た。
 朝の光の中で見ると、毛並みがくすんでいる。目に力がない。
「この子も、具合が悪いんですか」
 マーラが頷いた。
「昨日の夕方から乳を出さなくなって。餌も食べないの」
 角曲がりの傍にしゃがみ、首筋に手を当てた。魔素を流して、体の状態を探る。
 ——腹だ。消化が滞っている。何か硬いものを飲み込んだか、餌が合わなかったか。
「お腹の調子が悪いようですね。何か変わったものを食べませんでしたか」
「そういえば……昨日、畑の端に生えてた草を食べてた。いつもは食べない草だったけど」
 畑の端。樹海の縁に近い場所に、時折見慣れない草が生えることがある。樹海の種が風で飛んでくるのだ。食用に適さないものも多い。
「たぶんそれですね。お腹の中で消化できずに詰まっているようです」
 鞄から蒼苔の胃薬を取り出した。人間用の配合だが、量を調整すれば家畜にも使える。聖騎士団では軍馬の治療も薬師の仕事だった。馬も山羊も、腹を壊す仕組みは似ている。
 胃薬を水に溶き、角曲がりの口元に持っていった。最初は嫌がったが、鼻先に近づけると匂いを嗅いで、ゆっくりと舐め始めた。
「これで今日中には楽になるはずです。水は多めに。餌は夕方まで控えて、柔らかいものから少しずつ」
 マーラがまた深く頭を下げた。
「息子だけじゃなくて、この子まで……本当に、なんてお礼を言ったらいいか」
「大丈夫です。角曲がりの方は軽い症状ですから」
 立ち上がると、空がすっかり明るくなっていた。蒼い樹海の上に朝日が差して、葉先が青白く光っている。

 昼過ぎに様子を見に行くと、エミルの熱は目に見えて下がっていた。
 寝台の上で体を起こし、マーラが作った蒼苔スープを飲んでいる。顔色はまだ青いが、目に光が戻っていた。
「あ、薬のお姉ちゃん」
 エミルが私を見て言った。
「もう苦いの飲まなくていい?」
「今日の分はもう飲んだから大丈夫。明日の朝、もう一回だけね」
「えー……」
 嫌そうな顔をする元気があるなら、もう心配ない。
 角曲がりも復調していた。繋ぎ場で立ち上がり、餌の干し草に鼻を近づけている。マーラが嬉しそうに角曲がりの首を撫でていた。

 夕方、マーラの夫のダルクが工房を訪ねてきた。
 日に焼けた、骨太の男だ。畑仕事の後らしく、腕に土がついている。
「今晩、うちで飯を食わないか」
 ぶっきらぼうに言った。辺境の男の話し方だ。素っ気ないが、目は真剣だった。
「いいんですか」
「女房がどうしてもって言うんでな。俺からも——その、世話になった」
 最後の方は少し目を逸らしていた。
「ありがとうございます。喜んで」

 マーラの家の食卓は、小さかった。
 板を渡しただけの卓に、木の皿が四つ。装甲猪の煮込みが鍋のまま真ん中に置かれ、蒼苔スープの椀と、蒸し芋の皿が並んでいる。
 装甲猪の煮込みは、大ぶりに切った肉を根菜と一緒にじっくり煮たものだった。脂が溶けて、汁が琥珀色に透き通っている。香草の匂いが湯気と一緒に立ち上る。蒼苔スープには小さく刻んだ根菜が浮かんでいて、あの独特の苦い蒼の匂いがする。蒸し芋は皮ごと蒸してあり、割ると白い湯気が上がった。
「たいしたもんじゃないけど」
 マーラが言った。
「いえ、すごくいい匂いです」
 エミルが寝台から降りてきて、卓の端に座った。まだ顔色は万全ではないが、煮込みの匂いを嗅いで目を輝かせている。
「エミル、まだお芋とスープだけね。お肉は明日からよ」
「えー」
 マーラに言われて、エミルが膨れた。ダルクが息子の頭を無言で撫でた。

 四人で、食べた。
 装甲猪の煮込みは、素朴だが深い味だった。脂の甘みと香草の苦みが口の中で混じり合う。蒸し芋はほくほくと甘い。蒼苔スープは相変わらず苦いが、この苦みにもすっかり慣れた。
 エミルが蒸し芋を頬張りながら、今日あった夢の話をしていた。蒼い森の中で大きな魚が泳いでいた、という夢。マーラが笑い、ダルクが黙って聞いていた。
 小さな食卓だった。飾り気のない料理だった。

 ふと、食卓を見渡した。
 エミルが蒸し芋の二つ目に手を伸ばして、マーラに「もう一個だけ」とねだっている。ダルクが黙って自分の分を息子の皿に移す。マーラが「あなた、自分の分がなくなるでしょう」と言い、ダルクが「腹は足りてる」と短く答える。
 誰のために作った食事か、分かる。誰と食べているか、分かる。
 それだけのことが、胸の奥にじんと温かかった。

「フィオナさん、煮込み、おかわりある?」
 マーラが鍋を傾けて見せた。
「いただきます」
 椀を差し出すと、マーラがたっぷりと注いでくれた。肉の塊と根菜が椀からはみ出しそうだ。
「遠慮しないでね。うちの猟師が仕留めた猪だから、いくらでもあるの」
「ありがとうございます。……おいしいです、本当に」
 二杯目の煮込みを食べながら、私は思った。

 一人の子供のために薬を作る。そしてその子の家族と同じ卓で、同じ鍋の煮込みを食べる。
 これが薬師の本来の姿なのだと、この夕食が教えてくれた気がした。

 食事の後、マーラが蒼酒を出してくれた。甘くて、蒼みがかった透明な酒。度数は低いが、体が温まる。
「エミルの薬、明日の分はもう準備してあります」
 私は椀を置いて言った。
「それと、ひとつお話があるんですが」
 マーラとダルクが顔を見合わせた。
「エミルの熱は下がりますが、喉と肺の炎症が完全に治まるまでは少しかかります。今の薬でも治せますが、再発を防ぐには——もう少し効きのいい薬草が必要なんです」
「その薬草は、手に入るのかい」
 ダルクが聞いた。
「銀葉草という薬草があります。解熱と炎症を鎮める力が強くて、煎じ薬にすれば再発防止にもなります。ただ——」
 一瞬、迷った。けれど、迷いはそこまでだった。
「樹海の縁には生えません。中層にしかない薬草です。——私が取りに行きます」
 食卓が静かになった。
 中層。その言葉の重さを、辺境の人間は知っている。集落の住人が足を踏み入れる場所ではない。猟師でさえ、滅多に入らない。
「……あんた、本気かい」
 ダルクの声が低かった。
「はい。猟師さんに道案内をお願いできれば、日帰りで行けると思います」
 マーラが口を開きかけて、閉じた。
 ダルクが腕を組み、しばらく黙った。
「——明日、猟師に話してみる」
「ありがとうございます」
 私は頭を下げた。

 帰り道、夜の集落を歩いた。
 魔石灯のぼんやりとした光が、通りの石畳をほの白く照らしている。虫の声が低く、波のように寄せては引く。
 蒼い樹海の影が、夜空の下で黒々と広がっていた。あの奥に、銀葉草がある。
 鞄の中の調合道具が、歩くたびにかちゃりと小さな音を立てた。
 明日、準備をしよう。
 工房に戻り、板張りの床に横になった。
 まぶたの裏に、エミルの顔が浮かんだ。苦い薬に顔をしかめた顔。蒸し芋を頬張った顔。蒼い森で魚が泳ぐ夢の話。
 あの子のために、薬を取りに行く。
 聖騎士団にいた頃の私には、考えもしなかったことだ。
 一人の子供のために樹海の中層に入る薬師。効率で言えば、最低だろう。
 けれど——。
 目を閉じて、私は少しだけ笑った。
 これでいい。これが、私のやりたかったことだ。
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