癒した手が人を殺すと知ったので、聖騎士団を辞めて辺境で薬屋を始めました

蒼月よる

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第8話 巡回の噂

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 灰枝のギルドは、いつもの賑わいだった。

 受付の前に立つと、ナタリアが顔を上げて笑った。
「フィオナさん、おはよう。今日は何を持ってきてくれたの?」
「蒼傘茸の乾燥品と、苦香草の束を少し。あと、軟膏を五つ」
 肩掛け鞄から布袋を取り出して、受付台に並べる。ナタリアが一つずつ手に取り、色と匂いを確認していく。

「うん、いつも通りいい品質。蒼傘茸は乾燥の具合が完璧だし、軟膏も……ちょっと嗅いでいい?」
「どうぞ」
 ナタリアが蓋を開けて鼻を近づけ、小さく頷いた。
「いい匂い。前に買った冒険者が、他の軟膏にはもう戻れないって言ってたよ」
「それは嬉しいです」
 素直にそう思った。自分の作ったものが誰かの役に立っている。それを確かめられる場所があるということが、私にとってはまだ少し新鮮だった。

 ナタリアが買取の伝票を書いている間、私はいつものように受付の横で待った。ギルドの広間には冒険者たちが数人いて、依頼板の前で話し込んでいる。
 その声が、ふと耳に入った。
「——聖騎士が来るらしいぞ」
 指先が、止まった。
「巡回だとさ。灰枝にも寄るって話だ」
「マジかよ。何の用だ?」
「さあな。遺跡絡みじゃねえの。最近、北の方で発掘の動きがあるって話だし」
「やめてくれよ。聖騎士が来ると空気が悪くなるんだよなあ」
 冒険者たちの声は、ごく普通の世間話の調子だった。彼らにとっては少し迷惑な噂、その程度のことだろう。
 けれど、私の胸の奥で、何かが冷たく縮んだ。

「はい、できたよ。銅貨四十二枚」
 ナタリアの声で、私は我に返った。
「あ、はい。ありがとうございます」
 銅貨を受け取る手が、わずかに震えていないか確かめた。大丈夫。震えてはいない。
 でも、きっと顔色は変わっていたのだろう。
「フィオナさん、大丈夫? 顔色悪いよ」
 ナタリアが受付台から身を乗り出して、私の顔を覗き込んだ。
「少し疲れてるんじゃない? 今日は暑いし、帰り道気をつけてね」
「……ええ、大丈夫です。少し、暑さにやられただけだと思います」
 笑ってみせた。うまく笑えたかどうかは分からない。
 ナタリアはまだ少し心配そうな目をしていたが、それ以上は踏み込んでこなかった。この人のこういう距離感が、私はありがたかった。

「じゃあ、また来ます」
「うん。無理しないでね」
 ギルドを出た。

 灰枝の通りを歩きながら、冒険者たちの言葉が頭の中で繰り返された。
 ——聖騎士が来るらしい。
 巡回。遺跡関連。
 私を探しに来るわけではない。そんなことは分かっている。薬師の一人が抜けた程度で、聖騎士団が巡回を増やすはずがない。五年いた薬師が一人いなくなっても、翌月には補充が来る。そういう組織だ。
 分かっている。分かっているのに、足が早くなった。

 灰枝の門を出て、南への街道に入った。集落まで二日の道のり。いつもは途中で野営するが、今日はできるだけ歩いてしまいたかった。
 歩きながら、頭の中が静かにならなかった。
 聖騎士、という言葉が、記憶の底に沈んでいたものを揺り起こしていく。
 やめよう。
 そう思うのに、一度浮かんだものは沈まなかった。

 街道の脇の木陰で水を飲み、腰を下ろした。膝の上に両手を置いて、目を閉じる。
 瞼の裏に、白い壁が見えた。


 聖騎士団の駐屯地は、白い石造りの建物が整然と並ぶ、規律正しく清潔な場所だった。
 私はその一角にある薬師棟で、五年間を過ごした。薬師は六人。交代で聖騎士たちの怪我を治し、薬を作り、包帯を巻く。癒すことが薬師の務めだった。それ以上でもそれ以下でもないと、私は思っていた。

 あの日のことを、正確に覚えている。

 秋の終わりだった。夕刻、任務から帰還した部隊が医務室に入ってきた。第三小隊。七人編成の、よく知っている部隊だった。隊長のガレスは左肩に古い傷跡があって、季節の変わり目になると痛むから湿布を多めにくれと、いつも言っていた。
 その日、第三小隊は予定より半日遅れて帰還した。
 医務室の扉を開けたガレスの鎧に、私はまず目を留めた。
 ——赤い。
 白い外套の裾が、赤黒く汚れていた。泥ではない。乾きかけた、赤い染み。
 ガレスの後ろに続く騎士たちも同じだった。鎧の継ぎ目に赤いものがこびりつき、手甲にも、靴にも、乾いた赤が残っている。
 そして、目。
 ガレスの目は、いつもと違っていた。何かを見つめているようで、何も見ていない。焦点が合っていないのではなく、合わせることを拒んでいるような目だった。後ろの若い騎士の一人は、唇が白かった。別の一人は、まっすぐ前を見たまま瞬きをしなかった。
 ——何があったんだろう。
 そう思ったが、聞かなかった。聞くのは薬師の仕事ではない。
 私は手を洗い、薬瓶を取り、いつもの通りに治療を始めた。

 ガレスの左腕に浅い切り傷があった。刃物によるものだ。消毒液を含ませた布で汚れを拭き、軟膏を塗り、包帯を巻く。その間、ガレスは一言も喋らなかった。いつもなら「痛いな」とか「もう少し丁寧にやれ」とか、軽口を叩く人だった。
 治癒魔法を手のひらに灯して、傷口にあてた。淡い光が傷の縁を繋いでいく。私の治癒魔法は弱い。大きな傷は塞げない。けれど薬と併用すれば、浅い傷なら一晩で治る。
「……ありがとう」
 ガレスがそう言った。声がひどく乾いていた。
「お疲れさまでした」
 私はそう返して、次の騎士に移った。

 若い騎士——名前はディルクだった——の手当てをしているとき、彼の手が震えているのに気づいた。私が手甲を外そうとすると、ディルクは自分の手を見て、それから目を逸らした。
 手甲の下の手には傷がなかった。赤いものは、彼自身の血ではなかった。
 ——聞かない。聞くのは薬師の仕事ではない。
 私は何も言わず、手を清め、念のために鎮静作用のある薬草茶を淹れた。ディルクはそれを両手で受け取って、黙って飲んだ。

 七人全員の手当てを終え、彼らが宿舎に引き上げた後、私は調合台を片づけた。
 血の匂いが残っていた。消毒液と混じった、鉄と薬草の匂い。いつもの匂いだ。任務帰りの騎士の手当てをすれば、医務室にはこの匂いが残る。
 いつもの匂いのはずだった。
 けれどあの日は、その匂いが喉の奥に貼りついて、離れなかった。

 夕食の後、薬師棟の廊下で、同僚のリーゼと顔を合わせた。
 リーゼは私より二つ年上で、薬師棟では一番の古株だった。手際がよくて、口数は少ないが、面倒見のいい人だった。
「今日の第三小隊、大変だったでしょう」
 リーゼがそう言った。私は頷いた。
「ええ。全員、様子が変でした。何があったんでしょう」
 リーゼは廊下の先に目をやり、誰もいないことを確かめてから、低い声で言った。
「処理だよ」
「処理?」
「集落がひとつ。禁忌に触れたって」
 リーゼの声は平坦だった。長くこの場所にいる人間の、感情を薄く均した声。
「……集落」
「東の樹海の奥にあった小さな集落。旧文明の遺物を掘り出して、使っていたらしい。それで——まあ、そういうこと」
 リーゼはそれ以上は言わなかった。
 私も、それ以上は聞けなかった。

 宿舎に戻って、寝台に座った。
 処理。その言葉の意味を、初めて理解した。

 ガレスの鎧の赤。ディルクの震える手。あの赤は、彼ら自身の血ではなかった。
 東の樹海の奥の、小さな集落。暮らしのために旧文明の遺物を使っていた——それだけのことで。
 そしてその聖騎士たちの傷を、私が治した。
 ——私が治した手で、あの人たちは。
 その思考が頭に浮かんだ瞬間、胃の奥が冷たくなった。

 立ち上がって、窓を開けた。夜の空気が入ってくる。巡回の足音が規則正しく聞こえた。
 私が治した傷は、次の任務のためだった。私が作った薬は、次の処理のためだった。私が癒した手は、刃を握り直す手だった。
 五年間の仕事が、一枚の布を裏返すように、別の意味を帯びた。

 机の上に、紋章があった。
 白い紋様。剣と盾の交差。聖騎士団の一員である証。薬師にも支給される。これを胸につけている間は、私は聖騎士団の人間だった。
 手に取った。小さな金属片。磨かれた表面に、松明の明かりが映っている。
 涙は出なかった。
 泣くような気持ちではなかった。もっと静かで、もっと冷たい何かが、胸の底に沈んでいた。
 ——もう、戻れない。
 そう思った。元に戻れないのではなく、元いた場所がもう存在しない。五年間、私が信じていた「薬師の仕事」は、最初から半分しか見えていなかっただけだ。
 紋章を布で包んだ。捨てることはできなかった。五年間の証だから——ではない。捨てたら、見なかったことにしてしまいそうだったから。自分が何の一部だったのか、忘れてはいけない。
 布に包んだ紋章を、鞄の底にしまった。

 翌朝、日が昇る前に起きた。
 荷物は少なかった。調合道具、革のエプロン、薬草の残り、着替え。そして鞄の底の紋章。
 薬師棟を出て、駐屯地の裏門に向かった。裏門は物資の搬入口で、早朝は見張りが手薄になる。
 門を出る直前、振り返りそうになった。けれど振り返らなかった。振り返ったら、足が止まる。
 門の外は、まだ薄暗い街道だった。南に行こう、と思った。辺境に行こう。人が少なくて、静かで、誰も私のことを知らない場所へ。
 そこで、薬師をやり直そう。
 ——癒した手が、ただ生きるために使われる場所で。
 歩き出した。朝の冷たい空気が、肺を満たした。


 ——目を開けた。

 木陰の下に座ったまま、私はしばらく動けなかった。
 街道の向こうに、午後の陽が傾き始めている。風が吹いて、道の脇の草が揺れた。蒼い葉の匂いが微かに混じっている。樹海が近い。
 水筒の水を一口飲んで、立ち上がった。膝が少しだけ重かった。

 それから私は歩いた。街道を南へ。樹海の縁が近づくにつれ、空気が湿り気を帯びていく。
 日が暮れる頃には、見慣れた分岐に差しかかっていた。街道を外れて、細い脇道に入る。この道は地図にはない。集落の人だけが知っている、樹海の縁を縫う小道だ。

 木々の間から、灰色の屋根が見えた。
 棘鱗を重ねた、くすんだ灰色。夕暮れの光を受けて、少しだけ橙に染まっている。煙が細く立ち上っている。夕餉の支度だ。
 帰ってきた。
 その言葉が自然と浮かんだことに、自分で少し驚いた。いつからここを「帰る場所」だと思うようになったのだろう。

 工房の戸を開けると、薬草の乾いた匂いがした。
 棚には瓶が並び、乾燥棚には蒼傘茸が吊るされている。窓の向こうに、蒼い樹海の影が見える。虫の声がする。低く長い声が闇の奥で重なっている。
 鞄を棚の横に下ろして、革のエプロンを掛けた。
 いつもの場所。いつもの匂い。いつもの音。
 聖騎士の巡回がどうであれ、明日もここで薬を作る。蒼苔を擂り、苦香草を煎じ、軟膏を練る。集落の人が怪我をすれば治す。子供が熱を出せば薬草茶を淹れる。
 それが、今の私の仕事だ。
 ここにいよう。
 窓辺に手をついて、外を見た。蒼い闇の中に、虫の声が満ちている。
 ここにいよう。まだ、誰かに胸を張って言えるほどの確信ではないけれど。ここで薬を作って、ここで人を癒して、ここで暮らす。
 それだけのことを、もう一度信じたいと思った。
 明日、イルダに会ったら話してみよう。この集落で、ちゃんと店を出したいと。
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