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第1話 白い行列
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おれが扉を開けたとき、すでに三人がいた。
最初に目に入ったのは、部屋の奥で壁に背を預けている大柄な男だった。年季の入った体つき。顔の造りは無骨で、表情というものがほとんどない。腕を組んだその手は、おれの顔ほどもあるのではないかと思えた。
ドルク。処理班班長。冷徹にして有能、任務完遂率は騎士団でも随一——昨日の夜、先輩から聞いた評判が頭をよぎる。
「エルトです。本日より処理班に配属されました。よろしくお願いいたします」
おれは胸の紋章に手を当てて一礼した。訓練で叩き込まれた所作が、こういうときに背骨を支えてくれる。
ドルクの視線がこちらを一瞬だけ捉え、離れた。
「ああ」
それだけだった。肯定なのか、了承なのか、あるいはそのどちらでもないのか。声は低く、乾いていた。
壁際に立っていた二人がこちらを向いた。一人は顎の角張った男で、姿勢が良い。もう一人は小柄な女で、腰に短剣を二本差していた。
「ヨルンだ。よろしく」
顎の男が短く名乗った。目がまっすぐで、硬い。命令系統の中にきちんと収まっている人間の目だ、とおれは思った。
「テッサ。まあ、よろしく」
女のほうは軽く手を挙げただけだった。愛想がないわけではない。ただ、新人が来ることに慣れているような空気があった。
四人。これが処理班の全員だ。
おれが位置を決めかねて立っていると、作戦室の扉がもう一度開いた。
「失礼します」
入ってきたのは、整った身なりの男だった。聖騎士の装束だが、胸の紋章が違う。剣と盾の交差ではなく、天秤と羽根筆を組み合わせた意匠——監察部の徽章《きしょう》だ。
「監察官のハルスです。本任務に同行させていただきます。皆様のご負担にならぬよう努めますので、どうぞよろしくお願いいたします」
穏やかな声だった。知的で、柔らかく、敵意を感じさせない。年のころは三十を少し過ぎたくらいだろうか。丁寧に整えられた髪と、几帳面に留められた襟元が目を引いた。
ドルクはハルスのほうを見なかった。
ヨルンが小さく背筋を正した。テッサの視線が一瞬だけ班長に向かい、戻った。
監察官の同行——それが何を意味するのか、おれにはまだよくわからなかった。処理班の任務を「第二の目」で確認する役職だとは聞いている。だがこの部屋に流れたかすかな緊張を、おれは正しく読めていなかったのだと思う。
ドルクが壁を離れた。
「任務説明をする」
机の上に広げられた地図を、無骨な指が叩いた。
「辺境集落ラステン。人口約百二十。ここから東へ四日の行軍」
指が地図の上を滑り、白い街道の線を辿っていく。聖都から東へ伸びる道が、やがて途切れて荒野の記号に変わるあたりで、小さな丸が描かれていた。
「報告によれば、遺跡遺物の組織的な使用が確認されている。灯り、暖房。集落の複数世帯にわたる」
遺物。旧文明の遺した製造物。それを個人が道端で拾って使う程度なら、見逃される。だが組織的な使用は違う。閾値を超える。禁忌に触れる。
「処理に十分な違反です」
ハルスが静かに補足した。手にはすでにメモ帳が開かれ、筆記具が構えられていた。いつ取り出したのか、おれは気づかなかった。
「行軍は四日。街道を東へ二日、そこから荒野を二日。集落に着いたら潜入調査に移行する」
ドルクの説明は短かった。必要なことだけを、必要な分だけ。飾りのない言葉が、地図の上に任務の輪郭を描いていく。
「質問は」
沈黙。
「出発は明朝。以上」
ドルクは地図を畳み、作戦室を出ていった。
おれはその背中を見送りながら、胸の紋章に触れた。剣と盾の交差。聖騎士の証。処理班の一員として初めての任務に臨むのだという実感が、金属の冷たさを通じてようやく指先に届いた。
——神よ、おれの剣が正しく振られますように。
心の中で祈った。訓練生の頃から変わらない、毎朝の祈りの言葉を。
翌朝、聖都の東門を出た。
五人は縦列で街道を歩いた。先頭にドルク、続いてヨルンとテッサ、おれ、最後尾にハルス。処理班の標準的な行軍隊形だとヨルンが教えてくれた。
神聖国家の街道は白かった。
切り出した石を隙間なく敷き詰めた路面が、朝の光を受けて淡く輝いている。街道の両側には等間隔で魔石灯の柱が並び、その足元には手入れの行き届いた低木の植え込みが続いていた。整然として、美しく、一分の乱れもない。おれが生まれ育った国の姿だ。
街道沿いの集落を通り過ぎるたびに、白い壁の家屋が並ぶのが見えた。通りを掃く女、荷を運ぶ男、井戸端で話す老人たち。おれたちの白い装束を見て、足を止め、頭を下げる者もいた。聖騎士への敬意。あるいは畏怖。
一日目の行軍は穏やかだった。
街道は広く、平坦で、歩きやすい。ヨルンは時おり振り返っておれの歩調を確認し、短い助言をくれた。「荷を左に寄せすぎるな」「水はこまめに」。実務的で、無駄がない。テッサは黙って歩いた。ドルクはもっと黙って歩いた。
ハルスは最後尾で、時折メモ帳を開いていた。
何を書いているのだろう、とおれは思った。行軍の記録か。天候か。あるいは——おれたちの行動か。振り返るたびに、整った文字が小さな頁を埋めていくのが見えた。几帳面な筆跡。行間が均等で、書き損じがない。
二日目の昼過ぎに、街道が終わった。
突然ではなかった。白い石の路面が少しずつ欠け始め、魔石灯の柱の間隔が広がり、低木の植え込みが途切れ、やがて道は土に変わった。
最後の魔石灯を通り過ぎたとき、おれは足を止めて振り返った。白い街道が西に向かって伸びていく。その先に、聖都の尖塔がかすかに見えた——ような気がした。
「行くぞ」
ドルクの声に、おれは前を向いた。
そこからは荒野だった。
低い灌木が点在する、乾いた大地。風が砂を巻き上げ、靴の中に入り込む。空が広い。街道沿いでは建物や魔石灯の柱に区切られていた空が、ここでは端から端まで何にも遮られずに広がっていた。
遠くに、樹海の青い線が見える。地平線に沿って横たわる、深い青の帯。あの向こうに遺跡が眠り、魔獣が棲み、旧文明の残滓がある。おれたちが守るべきものと、おれたちが滅ぼすべきものが、同じ場所に。
三日目。荒野の道は細く、起伏が増した。
風が冷たくなった。聖都では感じなかった種類の寒さだ。乾いていて、肌を削るような風。おれは外套の襟を立てた。
ヨルンが隣に並んだ。
「初めての辺境か」
「はい」
「慣れる。三日もすれば」
それだけ言って、ヨルンは前に戻った。
テッサが短く振り返った。
「水、大丈夫?」
「はい。ありがとうございます」
「うん」
それだけだった。だがおれは、この二人が処理班としてドルクの下で何度も任務を重ねてきたのだということを、そうした短い言葉の端々に感じていた。余計なことを言わない。必要なことだけを、必要なときに。ドルクの寡黙が、班の空気を作っているのだろう。
四日目の行軍が終わるころ、ドルクが足を止めた。
「今日はここで野営する。明日、集落に入る」
荒野の中に、わずかに窪んだ地形があった。風除けになる岩が三つほど並んでいる。ドルクはそこを選んだ。
ヨルンとテッサが手際よく苔皮のテントを二つ張った。おれは見様見真似で手伝い、何度か紐の結び方を直された。ハルスは荷を下ろすと、岩の一つに腰を下ろしてメモ帳を開いた。
そして、ドルクが飯を作り始めた。
装甲猪の干し肉を蒼牙のナイフで薄く切り、根菜の皮を剥き、携帯用の魔石コンロに装甲片の鍋を載せた。手つきに迷いがない。あの無骨な手が、刃物を精密に操って干し肉を均一な厚さに切っていく。
鍋に水を注ぎ、干し肉と根菜を入れ、腰の袋から香草を一掴み取り出して散らした。蓋をして、火加減を調え、それきりドルクは黙った。
やがて鍋から湯気が立ち始めた。
香草と干し肉が混ざり合った匂いが、荒野の冷えた空気の中に広がっていく。蒼苔《そうたい》スープの苦みのある匂いとは違う。もっと深くて、温かい。
ドルクが蓋を取り、装甲片の椀に煮込みをよそった。五人分。一つずつ、無言で差し出していく。最初にヨルン、次にテッサ、ハルス。おれの番が来たとき、ドルクの手が一瞬止まった。杓子《しゃくし》がもう一度鍋に沈み、椀の中身が他の者より気持ち多くなった。目は合わなかった。ドルクは何も言わず、最後に自分の分——一番少ない——をよそった。
おれは椀を受け取り、一口すすった。
——うまい。
干し肉の出汁が根菜に沁みて、香草の風味がそれを引き締めている。野営の飯とは思えない味だった。訓練生時代に食べた食堂の煮込みよりも、ずっと。
「班長、これは——」
「長い任務で覚えた」
ドルクは自分の椀に目を落としたまま言った。それ以上は何も。
おれは黙って二口目をすすった。
荒野の風が岩を回り込んで吹いてくる。魔石コンロの小さな光が、五人の顔を下から照らしていた。ドルクの無表情。ヨルンの硬い横顔。テッサが椀を両手で包んで息を吹きかけている。
ハルスが、椀を置いてメモ帳を取り出した。
食事の最中にも書くのか、とおれは少し驚いた。だがハルスは自然な所作でページを開き、筆記具を走らせ始めた。几帳面な文字が、薄い紙の上に並んでいく。行軍の日数、天候、到着予定——そういった事務的な記録だろうか。
テッサが視線をそちらに向け、すぐに戻した。
ヨルンは気にしていないようだった。
ドルクは最初から見ていなかった。
おれだけが、ハルスの筆記具の動きを目で追っていた。なぜだろう。あの几帳面さが気になった。一文字も書き損じない正確さ。行間の均一さ。まるで報告書をそのまま清書しているかのような——
「エルト」
ドルクの声で顔を上げた。
「見張りは二交代。前半はヨルンとテッサ。後半はおまえとおれだ」
「了解しました」
「監察官殿は休んでいてくれ」
ハルスが穏やかに頷いた。
「ありがとうございます。お言葉に甘えます」
メモ帳を閉じる仕草も丁寧だった。革の表紙を指で撫でるようにして、懐にしまう。
食事を終え、鍋を片づけた。ドルクは使った道具を手早く洗い、定位置に戻した。無骨な手が、鍋の縁を布で拭く。その動きに、何百回と繰り返してきた人間の手癖があった。
テントに入る前に、おれは空を見上げた。
星が多かった。聖都では建物と魔石灯の光に紛れて見えなかった星々が、荒野では手が届きそうなほど近くに瞬いている。
明日、おれたちはラステンに着く。
人口約百二十の辺境集落。遺跡遺物を灯りに使い、暖房に使い、生活の中に溶け込ませている人々が暮らす場所。
禁忌に触れた集落。
処理の対象。
おれは紋章に手を当てた。
——神よ。おれはこれから正しいことをしに行く。
訓練で教わった。処理とは罰ではない。神罰を未然に防ぐための措置だ。禁忌に触れた集落を放置すれば、やがて閾値を超え、神の怒りが降る。そのとき滅ぶのは百二十人ではない。周囲の集落も、街道沿いの町も、数千、数万の命が灰になる。
だから処理は正義だ。百二十の命で数千を救う。教義が、論理が、訓練がそう教えてくれた。おれの信仰がそれを支えていた。
——それでも。
おれは祈りの言葉を口の中で繰り返した。何に対する「それでも」なのか、自分でもわからなかった。ただ、聖都を出て四日目の夜に、星の下で、まだ見ぬ集落のことを考えている自分がいた。
百二十人。
その数が、数字ではなく重さを持ち始めていた。
ヨルンに肩を叩かれて目を覚ました。
「交代だ」
「——はい」
テントを出ると、東の空がわずかに白み始めていた。ドルクはすでに外にいて、岩に背を預けて座っていた。おれが来たことを確認するように一度だけ目を向け、それきり荒野の暗がりに視線を戻した。
おれは反対側の岩の横に立ち、周囲を見渡した。風は止んでいた。虫の声もない。荒野の夜明け前は、おれが知っているどの時間帯よりも静かだった。
ドルクは一言も発しなかった。
おれも黙っていた。
見張りとは、こういうものなのだと思った。言葉を交わす必要はない。二人の人間がそれぞれの方角を見張り、異変があれば動く。それだけのこと。
けれど、おれはその沈黙の中で、何かを聞いていたような気がする。
ドルクという人間が、十五年以上この仕事を続けてきたこと。その長い年月分の夜明け前の沈黙が、あの大きな体の中に積もっていること。おれにはまだわからない種類の重さが、この人の背中にはあるのだということ。
ふと気配を感じて横を見ると、ドルクの視線がこちらに向いていた。一瞬だけ。目が合う前に、もう荒野に戻っている。だがあの目は暗がりを見ていなかった。——おれを見ていた。
何を見ていたのか。新任の出来を測っていたのか。それとも——わからない。わからなかったが、あの一瞬の視線には、おれが知らない何かが乗っていた。
東の空が白くなり、やがて薄い橙色に染まった。
ドルクが立ち上がった。
「起こすぞ」
五日目の朝が来た。
今日、おれたちはラステンに着く。
最初に目に入ったのは、部屋の奥で壁に背を預けている大柄な男だった。年季の入った体つき。顔の造りは無骨で、表情というものがほとんどない。腕を組んだその手は、おれの顔ほどもあるのではないかと思えた。
ドルク。処理班班長。冷徹にして有能、任務完遂率は騎士団でも随一——昨日の夜、先輩から聞いた評判が頭をよぎる。
「エルトです。本日より処理班に配属されました。よろしくお願いいたします」
おれは胸の紋章に手を当てて一礼した。訓練で叩き込まれた所作が、こういうときに背骨を支えてくれる。
ドルクの視線がこちらを一瞬だけ捉え、離れた。
「ああ」
それだけだった。肯定なのか、了承なのか、あるいはそのどちらでもないのか。声は低く、乾いていた。
壁際に立っていた二人がこちらを向いた。一人は顎の角張った男で、姿勢が良い。もう一人は小柄な女で、腰に短剣を二本差していた。
「ヨルンだ。よろしく」
顎の男が短く名乗った。目がまっすぐで、硬い。命令系統の中にきちんと収まっている人間の目だ、とおれは思った。
「テッサ。まあ、よろしく」
女のほうは軽く手を挙げただけだった。愛想がないわけではない。ただ、新人が来ることに慣れているような空気があった。
四人。これが処理班の全員だ。
おれが位置を決めかねて立っていると、作戦室の扉がもう一度開いた。
「失礼します」
入ってきたのは、整った身なりの男だった。聖騎士の装束だが、胸の紋章が違う。剣と盾の交差ではなく、天秤と羽根筆を組み合わせた意匠——監察部の徽章《きしょう》だ。
「監察官のハルスです。本任務に同行させていただきます。皆様のご負担にならぬよう努めますので、どうぞよろしくお願いいたします」
穏やかな声だった。知的で、柔らかく、敵意を感じさせない。年のころは三十を少し過ぎたくらいだろうか。丁寧に整えられた髪と、几帳面に留められた襟元が目を引いた。
ドルクはハルスのほうを見なかった。
ヨルンが小さく背筋を正した。テッサの視線が一瞬だけ班長に向かい、戻った。
監察官の同行——それが何を意味するのか、おれにはまだよくわからなかった。処理班の任務を「第二の目」で確認する役職だとは聞いている。だがこの部屋に流れたかすかな緊張を、おれは正しく読めていなかったのだと思う。
ドルクが壁を離れた。
「任務説明をする」
机の上に広げられた地図を、無骨な指が叩いた。
「辺境集落ラステン。人口約百二十。ここから東へ四日の行軍」
指が地図の上を滑り、白い街道の線を辿っていく。聖都から東へ伸びる道が、やがて途切れて荒野の記号に変わるあたりで、小さな丸が描かれていた。
「報告によれば、遺跡遺物の組織的な使用が確認されている。灯り、暖房。集落の複数世帯にわたる」
遺物。旧文明の遺した製造物。それを個人が道端で拾って使う程度なら、見逃される。だが組織的な使用は違う。閾値を超える。禁忌に触れる。
「処理に十分な違反です」
ハルスが静かに補足した。手にはすでにメモ帳が開かれ、筆記具が構えられていた。いつ取り出したのか、おれは気づかなかった。
「行軍は四日。街道を東へ二日、そこから荒野を二日。集落に着いたら潜入調査に移行する」
ドルクの説明は短かった。必要なことだけを、必要な分だけ。飾りのない言葉が、地図の上に任務の輪郭を描いていく。
「質問は」
沈黙。
「出発は明朝。以上」
ドルクは地図を畳み、作戦室を出ていった。
おれはその背中を見送りながら、胸の紋章に触れた。剣と盾の交差。聖騎士の証。処理班の一員として初めての任務に臨むのだという実感が、金属の冷たさを通じてようやく指先に届いた。
——神よ、おれの剣が正しく振られますように。
心の中で祈った。訓練生の頃から変わらない、毎朝の祈りの言葉を。
翌朝、聖都の東門を出た。
五人は縦列で街道を歩いた。先頭にドルク、続いてヨルンとテッサ、おれ、最後尾にハルス。処理班の標準的な行軍隊形だとヨルンが教えてくれた。
神聖国家の街道は白かった。
切り出した石を隙間なく敷き詰めた路面が、朝の光を受けて淡く輝いている。街道の両側には等間隔で魔石灯の柱が並び、その足元には手入れの行き届いた低木の植え込みが続いていた。整然として、美しく、一分の乱れもない。おれが生まれ育った国の姿だ。
街道沿いの集落を通り過ぎるたびに、白い壁の家屋が並ぶのが見えた。通りを掃く女、荷を運ぶ男、井戸端で話す老人たち。おれたちの白い装束を見て、足を止め、頭を下げる者もいた。聖騎士への敬意。あるいは畏怖。
一日目の行軍は穏やかだった。
街道は広く、平坦で、歩きやすい。ヨルンは時おり振り返っておれの歩調を確認し、短い助言をくれた。「荷を左に寄せすぎるな」「水はこまめに」。実務的で、無駄がない。テッサは黙って歩いた。ドルクはもっと黙って歩いた。
ハルスは最後尾で、時折メモ帳を開いていた。
何を書いているのだろう、とおれは思った。行軍の記録か。天候か。あるいは——おれたちの行動か。振り返るたびに、整った文字が小さな頁を埋めていくのが見えた。几帳面な筆跡。行間が均等で、書き損じがない。
二日目の昼過ぎに、街道が終わった。
突然ではなかった。白い石の路面が少しずつ欠け始め、魔石灯の柱の間隔が広がり、低木の植え込みが途切れ、やがて道は土に変わった。
最後の魔石灯を通り過ぎたとき、おれは足を止めて振り返った。白い街道が西に向かって伸びていく。その先に、聖都の尖塔がかすかに見えた——ような気がした。
「行くぞ」
ドルクの声に、おれは前を向いた。
そこからは荒野だった。
低い灌木が点在する、乾いた大地。風が砂を巻き上げ、靴の中に入り込む。空が広い。街道沿いでは建物や魔石灯の柱に区切られていた空が、ここでは端から端まで何にも遮られずに広がっていた。
遠くに、樹海の青い線が見える。地平線に沿って横たわる、深い青の帯。あの向こうに遺跡が眠り、魔獣が棲み、旧文明の残滓がある。おれたちが守るべきものと、おれたちが滅ぼすべきものが、同じ場所に。
三日目。荒野の道は細く、起伏が増した。
風が冷たくなった。聖都では感じなかった種類の寒さだ。乾いていて、肌を削るような風。おれは外套の襟を立てた。
ヨルンが隣に並んだ。
「初めての辺境か」
「はい」
「慣れる。三日もすれば」
それだけ言って、ヨルンは前に戻った。
テッサが短く振り返った。
「水、大丈夫?」
「はい。ありがとうございます」
「うん」
それだけだった。だがおれは、この二人が処理班としてドルクの下で何度も任務を重ねてきたのだということを、そうした短い言葉の端々に感じていた。余計なことを言わない。必要なことだけを、必要なときに。ドルクの寡黙が、班の空気を作っているのだろう。
四日目の行軍が終わるころ、ドルクが足を止めた。
「今日はここで野営する。明日、集落に入る」
荒野の中に、わずかに窪んだ地形があった。風除けになる岩が三つほど並んでいる。ドルクはそこを選んだ。
ヨルンとテッサが手際よく苔皮のテントを二つ張った。おれは見様見真似で手伝い、何度か紐の結び方を直された。ハルスは荷を下ろすと、岩の一つに腰を下ろしてメモ帳を開いた。
そして、ドルクが飯を作り始めた。
装甲猪の干し肉を蒼牙のナイフで薄く切り、根菜の皮を剥き、携帯用の魔石コンロに装甲片の鍋を載せた。手つきに迷いがない。あの無骨な手が、刃物を精密に操って干し肉を均一な厚さに切っていく。
鍋に水を注ぎ、干し肉と根菜を入れ、腰の袋から香草を一掴み取り出して散らした。蓋をして、火加減を調え、それきりドルクは黙った。
やがて鍋から湯気が立ち始めた。
香草と干し肉が混ざり合った匂いが、荒野の冷えた空気の中に広がっていく。蒼苔《そうたい》スープの苦みのある匂いとは違う。もっと深くて、温かい。
ドルクが蓋を取り、装甲片の椀に煮込みをよそった。五人分。一つずつ、無言で差し出していく。最初にヨルン、次にテッサ、ハルス。おれの番が来たとき、ドルクの手が一瞬止まった。杓子《しゃくし》がもう一度鍋に沈み、椀の中身が他の者より気持ち多くなった。目は合わなかった。ドルクは何も言わず、最後に自分の分——一番少ない——をよそった。
おれは椀を受け取り、一口すすった。
——うまい。
干し肉の出汁が根菜に沁みて、香草の風味がそれを引き締めている。野営の飯とは思えない味だった。訓練生時代に食べた食堂の煮込みよりも、ずっと。
「班長、これは——」
「長い任務で覚えた」
ドルクは自分の椀に目を落としたまま言った。それ以上は何も。
おれは黙って二口目をすすった。
荒野の風が岩を回り込んで吹いてくる。魔石コンロの小さな光が、五人の顔を下から照らしていた。ドルクの無表情。ヨルンの硬い横顔。テッサが椀を両手で包んで息を吹きかけている。
ハルスが、椀を置いてメモ帳を取り出した。
食事の最中にも書くのか、とおれは少し驚いた。だがハルスは自然な所作でページを開き、筆記具を走らせ始めた。几帳面な文字が、薄い紙の上に並んでいく。行軍の日数、天候、到着予定——そういった事務的な記録だろうか。
テッサが視線をそちらに向け、すぐに戻した。
ヨルンは気にしていないようだった。
ドルクは最初から見ていなかった。
おれだけが、ハルスの筆記具の動きを目で追っていた。なぜだろう。あの几帳面さが気になった。一文字も書き損じない正確さ。行間の均一さ。まるで報告書をそのまま清書しているかのような——
「エルト」
ドルクの声で顔を上げた。
「見張りは二交代。前半はヨルンとテッサ。後半はおまえとおれだ」
「了解しました」
「監察官殿は休んでいてくれ」
ハルスが穏やかに頷いた。
「ありがとうございます。お言葉に甘えます」
メモ帳を閉じる仕草も丁寧だった。革の表紙を指で撫でるようにして、懐にしまう。
食事を終え、鍋を片づけた。ドルクは使った道具を手早く洗い、定位置に戻した。無骨な手が、鍋の縁を布で拭く。その動きに、何百回と繰り返してきた人間の手癖があった。
テントに入る前に、おれは空を見上げた。
星が多かった。聖都では建物と魔石灯の光に紛れて見えなかった星々が、荒野では手が届きそうなほど近くに瞬いている。
明日、おれたちはラステンに着く。
人口約百二十の辺境集落。遺跡遺物を灯りに使い、暖房に使い、生活の中に溶け込ませている人々が暮らす場所。
禁忌に触れた集落。
処理の対象。
おれは紋章に手を当てた。
——神よ。おれはこれから正しいことをしに行く。
訓練で教わった。処理とは罰ではない。神罰を未然に防ぐための措置だ。禁忌に触れた集落を放置すれば、やがて閾値を超え、神の怒りが降る。そのとき滅ぶのは百二十人ではない。周囲の集落も、街道沿いの町も、数千、数万の命が灰になる。
だから処理は正義だ。百二十の命で数千を救う。教義が、論理が、訓練がそう教えてくれた。おれの信仰がそれを支えていた。
——それでも。
おれは祈りの言葉を口の中で繰り返した。何に対する「それでも」なのか、自分でもわからなかった。ただ、聖都を出て四日目の夜に、星の下で、まだ見ぬ集落のことを考えている自分がいた。
百二十人。
その数が、数字ではなく重さを持ち始めていた。
ヨルンに肩を叩かれて目を覚ました。
「交代だ」
「——はい」
テントを出ると、東の空がわずかに白み始めていた。ドルクはすでに外にいて、岩に背を預けて座っていた。おれが来たことを確認するように一度だけ目を向け、それきり荒野の暗がりに視線を戻した。
おれは反対側の岩の横に立ち、周囲を見渡した。風は止んでいた。虫の声もない。荒野の夜明け前は、おれが知っているどの時間帯よりも静かだった。
ドルクは一言も発しなかった。
おれも黙っていた。
見張りとは、こういうものなのだと思った。言葉を交わす必要はない。二人の人間がそれぞれの方角を見張り、異変があれば動く。それだけのこと。
けれど、おれはその沈黙の中で、何かを聞いていたような気がする。
ドルクという人間が、十五年以上この仕事を続けてきたこと。その長い年月分の夜明け前の沈黙が、あの大きな体の中に積もっていること。おれにはまだわからない種類の重さが、この人の背中にはあるのだということ。
ふと気配を感じて横を見ると、ドルクの視線がこちらに向いていた。一瞬だけ。目が合う前に、もう荒野に戻っている。だがあの目は暗がりを見ていなかった。——おれを見ていた。
何を見ていたのか。新任の出来を測っていたのか。それとも——わからない。わからなかったが、あの一瞬の視線には、おれが知らない何かが乗っていた。
東の空が白くなり、やがて薄い橙色に染まった。
ドルクが立ち上がった。
「起こすぞ」
五日目の朝が来た。
今日、おれたちはラステンに着く。
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再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
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