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第4話 旅人
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白い上衣を脱ぎ、無地の外套《がいとう》と使い込まれた革の鞄を身につける。胸の紋章は荷袋の底に包んである。たったそれだけのことで、おれの輪郭が変わった。剣を握るために鍛えた手が何も持っていない。旅人の手だ、とおれは自分に言い聞かせた。
ドルクは商人のような格好をしていた。大柄な体躯《たいく》に、くたびれた旅装が意外なほど似合う。ヨルンとテッサは丘に残った。ハルスは別の道から、半刻《はんとき》遅れて集落に入る。
集落への道は、畑の脇を通っていた。秋の終わりの畑は土が露出して、冬作の青い葉が疎《まば》らに揺れている。朝日が低い角度で土の表面を照らし、霜が銀色に光っていた。
畑に人影があった。
腰を屈めて何かをしている男——中年か、もう少し上か。日に焼けた肌と、節くれだった手。振り向いた顔に警戒の色はなかった。
「旅の方かい」
ドルクが答えた。
「北の街道から来た。水をもらえるか」
「そりゃあ難儀だったろう。このあたりは宿場なんかないからな」
男は畑の脇の水壺《みずつぼ》を持ってきて、杯に注いでくれた。
ドルクが受け取り、一口飲んで、おれに渡した。冷たくて、澄んでいた。騎士団の本拠の水とは違う。土と草の匂いがする水だった。
「この先に集落がある。今夜の宿は見つかるかい」
「あてはないが」
「なら、ゲルダばあさんのとこに聞いてみな。広場の東、井戸のそばの家だ。息子が都に出て、部屋が空いてる。旅の者を泊めてくれることもある」
男は畑に目を戻しながら教えてくれた。おれたちが何者かも聞かず、どこへ行くのかも尋ねず、水を注いで、宿を教えて、仕事に戻った。
おれは聖騎士だ。処理班の騎士だ。この集落を調査し——。
そこで思考を止めた。今は旅人だ。
集落に入った。
丘の上から見た景色が、目線の高さにあった。石積みと木の壁。乾いた土の道。犬が一匹、日なたに寝そべっていて、おれたちを見ても起き上がらなかった。
集落の中央に小さな広場があった。井戸が一つ。その傍の長椅子に老人が二人座っている。
「旅の者です。畑のほうでゲルダさんという方の家を教えていただいて」
老人は頷いた。
「ゲルダなら、そこだよ。戸口に干し草をかけてある家」
ドルクが戸を叩いた。
出てきたのは腰の曲がった老婆だった。白髪を後ろに束ね、顔には深い皺が刻まれている。だが目は濁っていなかった。
「旅の者だが。一晩、部屋を借りられないだろうか」
ドルクの声は、任務のときよりもやわらかかった。おれは一瞬、この人の横顔に見知らぬものを見た。任務中の鉄のような寡黙でも、飯を作るときの無言の手際でもない。——どちらが本当のこの人なのだろう。
「息子の部屋なら空いてるよ。若い人には狭いかもしれないね」
「十分だ。ありがたい」
「食事は自分で用意するかい。うちの分なら少しは出せるけど」
「飯は持っている。場所だけで助かる」
老婆——ゲルダは頷いて、戸口を開けた。
中に入ると、土間の先に二部屋ほどの空間があった。小さな竈《かまど》に鍋がかかっている。壁に乾燥させた草束。生活の匂いがした。人が長い時間をかけて、同じ場所で暮らし続けた匂い。
そして——奥の部屋に、あの光があった。
窓辺に置かれた金属の筒。滑らかな表面に傷一つなく、周囲の木や石や土とはまるで質の違うものだった。その筒から、均一な温かい光が溢れていた。蜂蜜の色。脈動がない。昨夜、外から見たあの光。
おれの視線に気づいて、ゲルダが振り返った。
「ああ、灯りかい。夜になるともう少し明るくなるよ。目が悪くなってきたもんで、これがないと針仕事もできなくてね」
何でもないことのように言った。遺物だという意識がない。いや、遺物という概念自体が、この老婆にはないのだろう。これはただの灯りだ。針仕事を助けるもの。それだけだ。
ドルクが奥の部屋を覗いた。寝台が一つ。毛布が畳んで置いてある。息子が出ていった後も、ゲルダが手入れをしているのだろう。埃はなかった。
「もう一人来る。連れだ。半刻もすれば着く」
「三人かい。狭いけど、まあなんとかなるだろう」
ゲルダが笑った。歯が何本か欠けていたが、笑い方はあたたかかった。
荷を置いて、おれは集落を歩いた。ドルクに「見てこい」とだけ言われた。
どの家にも、暮らしがあった。報告書の中の「人口約百二十」という数字と、今おれの目の前にある景色は、同じものを指しているはずなのに、同じ重さを持っていなかった。
家の裏手に回ると、老人が一人、壁に背をもたせて日なたに座っていた。その足元に——。
小さな箱のような装置があった。金属製で、角が丸い。表面にオレンジ色の光が灯り、かすかな熱を出している。遺物の暖房だ。
老人はその装置に両手をかざしていた。関節が腫れた、骨ばった手。開いたままの掌《てのひら》を、オレンジの光にゆっくりとかざしている。
おれに気づいて、老人が顔を上げた。
「あんた、旅の人かい」
「はい」
「寒いだろう。こっちにおいで。これ、温かいよ」
老人がおれに手招きをした。遺物の暖房の前に。
おれは——一瞬、足が止まった。
禁忌遺物だ。教義によれば、処理の対象。おれは聖騎士だ。
だが今は旅人だ。旅人が、老人の好意を断る理由はない。
「ありがとうございます」
おれは老人の隣に腰を下ろした。装置からの熱はやわらかく、じわりと手のひらに染み込んだ。
「冬がつらくてね。この年になると、手が動かん。でもこいつがあるとなんとかなる。婆さんの代からずっとあるんだ」
老人は目を細めていた。温もりの中にいる人間の顔だった。
集会所のそばを通ったとき、中から声が聞こえた。昨夜、茂みから聞いた子供たちの声。昼間は窓が開いていて、はっきりと聞き取れた。
「はい、じゃあ次。この字は何て読むかな」
女の声。明るくて柔らかい。一緒に考えようとする声。
「えっと……『み』?」
「おしい!よく見て。ここの線がちょっと違うでしょ。これは『ま』。『み』と似てるけどね」
「あー、そっかー」
「じゃあ『ま』を使った言葉、何かある?」
「まめ!」
「そう!豆。いいね。他には?」
「まくら!」
「まど!」
声が次々に重なった。子供たちが競うように言葉を出していく。その声は弾んでいて、夢中になっている人間の声だった。
おれは窓の外に立って、中を見た。
十人ほどの子供が木の椅子に座っていた。前に立っているのが、あの声の主だった。
レンネ。報告書で読んだ名前。教師。二十代前半。
質素な身なりだった。だが粉筆《ふんぴつ》を石板に走らせる動きには迷いがなく、子供たちの顔を一人ずつ見る目は穏やかでまっすぐだった。
教室の天井近くに、金属の筒が二本、横木に括りつけてあった。遺物の灯り。昼間だから光は薄いが、均一な温かい色が教室を満たしている。窓のない壁側の席にも光が届いていた。
「先生、この灯りってなんで揺れないの?」
子供の一人が天井を見上げて言った。
レンネが顔を上げ、灯りを見た。それからその子に向かって、少し首を傾げるようにして答えた。
「この灯りはね、おばあちゃんのおばあちゃんの頃からあるの。昔の人が作ったものなんだって。すごいよね、ずーっと光ってるんだよ」
「すごーい」
「おれんちにもあるよ!」
「あるある。うちにもある」
子供たちが口々に言った。遺物の灯りは、この集落では特別なものではないのだ。禁忌でもなく、恐るべき遺産でもなく、ただ、ずっとそこにあるもの。
レンネの目が、窓の外のおれを捉えた。やわらかく笑った。
「旅のかた? よかったらどうぞ、覗いていってください」
子供たちが一斉にこちらを向いた。
「ねえ旅の人、どこから来たのー?」
「剣持ってる?」
子供というのは容赦がない。おれは曖昧に笑って、「北のほうからだ」とだけ答えた。
レンネが子供たちを宥《なだ》めて授業に戻した。文字を覚えること。数を数えること。それを照らす灯りがあること。一つ一つは小さな事実だ。だがそれらが積み重なって、教義にも報告書にも載っていない風景を作っている。
広場に戻ると、ハルスが井戸のそばにいた。監察官の徽章を外し、地味な外套を身にまとっている。おれが見たとき、ハルスは井戸の縁に立つゲルダの隣にいた。
ゲルダが縄を引いていた。桶を引き上げる重さに、老婆の腕が震えている。
「お手伝いしましょう」
ハルスが穏やかに言って、縄を受け取った。桶を引き上げ、ゲルダの水甕《みずがめ》に注いでやる。
「ああ、すまないね。助かるよ」
「いえ、こちらこそ。宿を貸していただくのですから」
ハルスは微笑んでいた。穏やかで、善意に満ちた顔。ゲルダがそれを疑う理由はどこにもない。
ゲルダが水甕を抱えて家に戻っていった。
ハルスはその背中を見送り——それから、外套の内側からメモ帳を取り出した。
筆を走らせる。短い文。さきほどまでの柔和な微笑みはどこにもなかった。いや——消えたのではない。微笑みかける相手がいなくなっただけだ。
メモ帳を閉じ、外套の内に戻す。顔を上げたとき、おれと目が合った。
「ああ、エルト。集落の様子はいかがですか」
「……平穏です。特に変わったことは」
「そうですか。住民は友好的ですね。旅人に慣れている印象です」
ハルスの声は穏やかだった。——だがおれには、あのメモ帳に何が書かれたのかが想像できた。灯りの数。住民の態度。水汲みの合間に観察した全てが、あの几帳面な字で記録されている。
老婆の水汲みを手伝い、感謝され、微笑みを返し——そしてメモを書く。
悪意はない。悪意がないことが、おれには恐ろしかった。親切であることと職務を遂行することが、この男の中ではまったく矛盾していない。
おれはゲルダの家に戻った。
ドルクが戸口にいた。
正確に言えば、戸口のそばに屈んでいた。手に何かを持っている。おれが近づくと、ドルクの大きな手が、戸の蝶番《ちょうつがい》に触れているのが見えた。
蝶番の片方が錆びて、軸がずれていた。冬になれば隙間から冷気が這い込む。
ドルクは荷物の中から小さな工具を出していた。錆びた軸を抜き、代わりの金具をあてがい、木槌《きづち》で静かに叩いている。手つきは手慣れていた。何度もやったことがあるような動きだった。
「班長」
「ん」
「それ……頼まれたんですか」
ドルクは答えなかった。蝶番の軸を調整し、戸を開閉して動きを確かめている。二度、三度。滑らかに動くのを確認して、工具を仕舞った。
頼まれていないのだ、とおれは理解した。
ドルクは立ち上がり、手の錆を外套の裾で拭いた。何事もなかったかのように家の中に入っていく。
処理班の班長が、処理対象の集落で、老婆の家の蝶番を直している。頼まれてもいないのに。
その意味を、おれはまだ掴めなかった。だが昨夜、丘の南端で集落を見つめていたドルクの背中と、今の背中が、同じものであるような気はした。
夕方になった。
集落に灯りが点《とも》っていく。一つ、また一つ。魔石灯の脈動ではない、均一な温かい光が、窓という窓に灯る。丘の上から見た地上の星座が、今度はおれの目線の高さにあった。
ゲルダの家でも、窓辺の金属筒が光を増した。蜂蜜色の光が部屋を満たす。ゲルダは灯りの下で針仕事を始めた。ゆっくりと布を繕っている。
ドルクは隅で黙って干し肉を齧っていた。ハルスは壁際に座り、外套の内からメモ帳を取り出して何かを書いていた。おれはその両方を見ていた。
外から子供の声が聞こえた。夜学が始まるのだろう。集会所の方向から、走る足音と笑い声。
「あの子たちはね、毎晩来るんだよ」
ゲルダが言った。針から目を上げず、穏やかな声で。
「レンネ先生のとこに。字を覚えるのが楽しいんだってさ。うちの孫もね、前は通ってたんだけど。今は都に行っちまった。字が読めるようになったから、都で仕事が見つかったんだよ」
レンネが教えた字。遺物の灯りの下で覚えた字。それがゲルダの孫を都へ送り出した。おれはその事実を、報告書のどの欄に書けばいいのかわからなかった。
「いい先生なんだ、あの子は。この集落の宝だよ」
ゲルダの声に、誇りがあった。小さな、静かな誇り。
おれは外に出た。
夜気が冷たかった。丘の上から見た星と、集落の中から見上げる星は、違う空のように感じられた。
集会所に近づいた。窓から光が漏れている。子供たちの影が壁に映っていた。
しばらく壁に背をもたせて聞いていた。やがて子供たちが出てきた。小さな影が走り、笑い、夜の集落に散っていく。「またあしたねー」という声。
最後にレンネが出てきた。石板を胸に抱えている。おれの姿を見て、少し驚き、それから笑った。
「ああ、昼間の旅のかた。まだいらしたんですね」
「ゲルダさんのところに泊めてもらっています」
「ゲルダおばあちゃんのとこ。よかった、いい人でしょう」
レンネは石板を持ち替えて、少し首を傾げた。
「旅のかた、北から来られたんですよね。都のほうですか」
「……いえ、都ではないですが。北の街道沿いの町からです」
「そうですか」
レンネの声がわずかに静かになった。昼間の、子供に話しかける明るさとは少し違う。何かを測っている声だった。
「前にね、都のかたが来たことがあるんです。この灯りのことを、いろいろ聞いていかれて」
おれの胸の奥で、何かが冷たく動いた。
「どんな質問を」
「灯りがいつからあるかとか、いくつあるかとか。丁寧な人でしたよ。でも……なんだろう、聞きかたが少し変わっていて。お医者さんが病気のことを聞くみたいな感じ、っていうのかな」
事前の監視員。処理班が派遣される前に、密偵が事前調査を行う。訓練で学んだ手順だ。
レンネの前に来たのは、その密偵だったのだろう。
「あまり気にしないでくださいね」
レンネは笑って話を変えようとした。だがおれは、その笑顔の奥に——ほんの一瞬だけ——別のものを見た気がした。不安ではない。もっと静かなもの。灯りのことを聞きに来る都の人間が何を意味するのか、薄々感じ取っている人間の顔。
それでもレンネは灯りを使い続けている。それがどういう覚悟なのか——おれには、まだわからなかった。
「おやすみなさい。明日もいらっしゃるなら、子供たち喜びますよ。旅のお話、聞かせてもらえると」
「……おやすみなさい」
レンネの背中が、集落の暗がりに消えていった。石板を抱え、遺物の灯りが点々と浮かぶ道を歩いていく。ただの教師だった。
ゲルダの家に戻ると、ドルクが戸口に立っていた。直した蝶番に手をかけている。おれと目が合ったが、何も言わなかった。おれも何も言わなかった。
部屋に入ると、ハルスはすでに毛布にくるまっていた。メモ帳は革の覆いに包まれ、荷袋の中に仕舞われている。あの中に、今日一日の全てが正確に記録されているのだろう。
おれは毛布にくるまり、天井を見た。窓辺の遺物の灯りが、まだ光っていた。ゲルダの針仕事の音が、夜の静けさに溶けていく。
温かい光だった。
おれは目を閉じた。
報告書に書くべきことは明確だ。遺物の組織的使用。住居、教育施設、公共の場での恒常的な利用。処理の根拠として十分。
だが報告書に書けないものがある。老人の掌の温もり。子供の声。「おばあちゃんのおばあちゃんの頃からある」という言葉の重さ。ゲルダの針仕事を照らす光。レンネの石板。
その二つの間に、おれは立っている。
聖騎士として来た。旅人のふりをしている。どちらがおれの本当の顔なのかと問われたら——今日この一日に限って言えば、旅人の顔のほうが、よほど自然だった。
それがどれほど危うい感覚であるかは、わかっていた。わかっていて、振り払えなかった。
おれは浅い眠りの縁で、あの老人の手を思い出していた。関節が腫れた、骨ばった手。オレンジの光にかざされた掌。
あの手が冷えるとき、おれは何を思うのだろう。
——答えは出なかった。まだ出なくていい。おれは今日、旅人だった。明日もたぶん、旅人だ。だがいつか旅人でなくなる日が来る。紋章を胸に戻し、剣を手に取り、聖騎士としてこの集落の前に立つ日が。
そのとき、おれは何を選ぶのか。
遺物の灯りが、おれの閉じた瞼《まぶた》の裏を、やわらかく照らしていた。
ドルクは商人のような格好をしていた。大柄な体躯《たいく》に、くたびれた旅装が意外なほど似合う。ヨルンとテッサは丘に残った。ハルスは別の道から、半刻《はんとき》遅れて集落に入る。
集落への道は、畑の脇を通っていた。秋の終わりの畑は土が露出して、冬作の青い葉が疎《まば》らに揺れている。朝日が低い角度で土の表面を照らし、霜が銀色に光っていた。
畑に人影があった。
腰を屈めて何かをしている男——中年か、もう少し上か。日に焼けた肌と、節くれだった手。振り向いた顔に警戒の色はなかった。
「旅の方かい」
ドルクが答えた。
「北の街道から来た。水をもらえるか」
「そりゃあ難儀だったろう。このあたりは宿場なんかないからな」
男は畑の脇の水壺《みずつぼ》を持ってきて、杯に注いでくれた。
ドルクが受け取り、一口飲んで、おれに渡した。冷たくて、澄んでいた。騎士団の本拠の水とは違う。土と草の匂いがする水だった。
「この先に集落がある。今夜の宿は見つかるかい」
「あてはないが」
「なら、ゲルダばあさんのとこに聞いてみな。広場の東、井戸のそばの家だ。息子が都に出て、部屋が空いてる。旅の者を泊めてくれることもある」
男は畑に目を戻しながら教えてくれた。おれたちが何者かも聞かず、どこへ行くのかも尋ねず、水を注いで、宿を教えて、仕事に戻った。
おれは聖騎士だ。処理班の騎士だ。この集落を調査し——。
そこで思考を止めた。今は旅人だ。
集落に入った。
丘の上から見た景色が、目線の高さにあった。石積みと木の壁。乾いた土の道。犬が一匹、日なたに寝そべっていて、おれたちを見ても起き上がらなかった。
集落の中央に小さな広場があった。井戸が一つ。その傍の長椅子に老人が二人座っている。
「旅の者です。畑のほうでゲルダさんという方の家を教えていただいて」
老人は頷いた。
「ゲルダなら、そこだよ。戸口に干し草をかけてある家」
ドルクが戸を叩いた。
出てきたのは腰の曲がった老婆だった。白髪を後ろに束ね、顔には深い皺が刻まれている。だが目は濁っていなかった。
「旅の者だが。一晩、部屋を借りられないだろうか」
ドルクの声は、任務のときよりもやわらかかった。おれは一瞬、この人の横顔に見知らぬものを見た。任務中の鉄のような寡黙でも、飯を作るときの無言の手際でもない。——どちらが本当のこの人なのだろう。
「息子の部屋なら空いてるよ。若い人には狭いかもしれないね」
「十分だ。ありがたい」
「食事は自分で用意するかい。うちの分なら少しは出せるけど」
「飯は持っている。場所だけで助かる」
老婆——ゲルダは頷いて、戸口を開けた。
中に入ると、土間の先に二部屋ほどの空間があった。小さな竈《かまど》に鍋がかかっている。壁に乾燥させた草束。生活の匂いがした。人が長い時間をかけて、同じ場所で暮らし続けた匂い。
そして——奥の部屋に、あの光があった。
窓辺に置かれた金属の筒。滑らかな表面に傷一つなく、周囲の木や石や土とはまるで質の違うものだった。その筒から、均一な温かい光が溢れていた。蜂蜜の色。脈動がない。昨夜、外から見たあの光。
おれの視線に気づいて、ゲルダが振り返った。
「ああ、灯りかい。夜になるともう少し明るくなるよ。目が悪くなってきたもんで、これがないと針仕事もできなくてね」
何でもないことのように言った。遺物だという意識がない。いや、遺物という概念自体が、この老婆にはないのだろう。これはただの灯りだ。針仕事を助けるもの。それだけだ。
ドルクが奥の部屋を覗いた。寝台が一つ。毛布が畳んで置いてある。息子が出ていった後も、ゲルダが手入れをしているのだろう。埃はなかった。
「もう一人来る。連れだ。半刻もすれば着く」
「三人かい。狭いけど、まあなんとかなるだろう」
ゲルダが笑った。歯が何本か欠けていたが、笑い方はあたたかかった。
荷を置いて、おれは集落を歩いた。ドルクに「見てこい」とだけ言われた。
どの家にも、暮らしがあった。報告書の中の「人口約百二十」という数字と、今おれの目の前にある景色は、同じものを指しているはずなのに、同じ重さを持っていなかった。
家の裏手に回ると、老人が一人、壁に背をもたせて日なたに座っていた。その足元に——。
小さな箱のような装置があった。金属製で、角が丸い。表面にオレンジ色の光が灯り、かすかな熱を出している。遺物の暖房だ。
老人はその装置に両手をかざしていた。関節が腫れた、骨ばった手。開いたままの掌《てのひら》を、オレンジの光にゆっくりとかざしている。
おれに気づいて、老人が顔を上げた。
「あんた、旅の人かい」
「はい」
「寒いだろう。こっちにおいで。これ、温かいよ」
老人がおれに手招きをした。遺物の暖房の前に。
おれは——一瞬、足が止まった。
禁忌遺物だ。教義によれば、処理の対象。おれは聖騎士だ。
だが今は旅人だ。旅人が、老人の好意を断る理由はない。
「ありがとうございます」
おれは老人の隣に腰を下ろした。装置からの熱はやわらかく、じわりと手のひらに染み込んだ。
「冬がつらくてね。この年になると、手が動かん。でもこいつがあるとなんとかなる。婆さんの代からずっとあるんだ」
老人は目を細めていた。温もりの中にいる人間の顔だった。
集会所のそばを通ったとき、中から声が聞こえた。昨夜、茂みから聞いた子供たちの声。昼間は窓が開いていて、はっきりと聞き取れた。
「はい、じゃあ次。この字は何て読むかな」
女の声。明るくて柔らかい。一緒に考えようとする声。
「えっと……『み』?」
「おしい!よく見て。ここの線がちょっと違うでしょ。これは『ま』。『み』と似てるけどね」
「あー、そっかー」
「じゃあ『ま』を使った言葉、何かある?」
「まめ!」
「そう!豆。いいね。他には?」
「まくら!」
「まど!」
声が次々に重なった。子供たちが競うように言葉を出していく。その声は弾んでいて、夢中になっている人間の声だった。
おれは窓の外に立って、中を見た。
十人ほどの子供が木の椅子に座っていた。前に立っているのが、あの声の主だった。
レンネ。報告書で読んだ名前。教師。二十代前半。
質素な身なりだった。だが粉筆《ふんぴつ》を石板に走らせる動きには迷いがなく、子供たちの顔を一人ずつ見る目は穏やかでまっすぐだった。
教室の天井近くに、金属の筒が二本、横木に括りつけてあった。遺物の灯り。昼間だから光は薄いが、均一な温かい色が教室を満たしている。窓のない壁側の席にも光が届いていた。
「先生、この灯りってなんで揺れないの?」
子供の一人が天井を見上げて言った。
レンネが顔を上げ、灯りを見た。それからその子に向かって、少し首を傾げるようにして答えた。
「この灯りはね、おばあちゃんのおばあちゃんの頃からあるの。昔の人が作ったものなんだって。すごいよね、ずーっと光ってるんだよ」
「すごーい」
「おれんちにもあるよ!」
「あるある。うちにもある」
子供たちが口々に言った。遺物の灯りは、この集落では特別なものではないのだ。禁忌でもなく、恐るべき遺産でもなく、ただ、ずっとそこにあるもの。
レンネの目が、窓の外のおれを捉えた。やわらかく笑った。
「旅のかた? よかったらどうぞ、覗いていってください」
子供たちが一斉にこちらを向いた。
「ねえ旅の人、どこから来たのー?」
「剣持ってる?」
子供というのは容赦がない。おれは曖昧に笑って、「北のほうからだ」とだけ答えた。
レンネが子供たちを宥《なだ》めて授業に戻した。文字を覚えること。数を数えること。それを照らす灯りがあること。一つ一つは小さな事実だ。だがそれらが積み重なって、教義にも報告書にも載っていない風景を作っている。
広場に戻ると、ハルスが井戸のそばにいた。監察官の徽章を外し、地味な外套を身にまとっている。おれが見たとき、ハルスは井戸の縁に立つゲルダの隣にいた。
ゲルダが縄を引いていた。桶を引き上げる重さに、老婆の腕が震えている。
「お手伝いしましょう」
ハルスが穏やかに言って、縄を受け取った。桶を引き上げ、ゲルダの水甕《みずがめ》に注いでやる。
「ああ、すまないね。助かるよ」
「いえ、こちらこそ。宿を貸していただくのですから」
ハルスは微笑んでいた。穏やかで、善意に満ちた顔。ゲルダがそれを疑う理由はどこにもない。
ゲルダが水甕を抱えて家に戻っていった。
ハルスはその背中を見送り——それから、外套の内側からメモ帳を取り出した。
筆を走らせる。短い文。さきほどまでの柔和な微笑みはどこにもなかった。いや——消えたのではない。微笑みかける相手がいなくなっただけだ。
メモ帳を閉じ、外套の内に戻す。顔を上げたとき、おれと目が合った。
「ああ、エルト。集落の様子はいかがですか」
「……平穏です。特に変わったことは」
「そうですか。住民は友好的ですね。旅人に慣れている印象です」
ハルスの声は穏やかだった。——だがおれには、あのメモ帳に何が書かれたのかが想像できた。灯りの数。住民の態度。水汲みの合間に観察した全てが、あの几帳面な字で記録されている。
老婆の水汲みを手伝い、感謝され、微笑みを返し——そしてメモを書く。
悪意はない。悪意がないことが、おれには恐ろしかった。親切であることと職務を遂行することが、この男の中ではまったく矛盾していない。
おれはゲルダの家に戻った。
ドルクが戸口にいた。
正確に言えば、戸口のそばに屈んでいた。手に何かを持っている。おれが近づくと、ドルクの大きな手が、戸の蝶番《ちょうつがい》に触れているのが見えた。
蝶番の片方が錆びて、軸がずれていた。冬になれば隙間から冷気が這い込む。
ドルクは荷物の中から小さな工具を出していた。錆びた軸を抜き、代わりの金具をあてがい、木槌《きづち》で静かに叩いている。手つきは手慣れていた。何度もやったことがあるような動きだった。
「班長」
「ん」
「それ……頼まれたんですか」
ドルクは答えなかった。蝶番の軸を調整し、戸を開閉して動きを確かめている。二度、三度。滑らかに動くのを確認して、工具を仕舞った。
頼まれていないのだ、とおれは理解した。
ドルクは立ち上がり、手の錆を外套の裾で拭いた。何事もなかったかのように家の中に入っていく。
処理班の班長が、処理対象の集落で、老婆の家の蝶番を直している。頼まれてもいないのに。
その意味を、おれはまだ掴めなかった。だが昨夜、丘の南端で集落を見つめていたドルクの背中と、今の背中が、同じものであるような気はした。
夕方になった。
集落に灯りが点《とも》っていく。一つ、また一つ。魔石灯の脈動ではない、均一な温かい光が、窓という窓に灯る。丘の上から見た地上の星座が、今度はおれの目線の高さにあった。
ゲルダの家でも、窓辺の金属筒が光を増した。蜂蜜色の光が部屋を満たす。ゲルダは灯りの下で針仕事を始めた。ゆっくりと布を繕っている。
ドルクは隅で黙って干し肉を齧っていた。ハルスは壁際に座り、外套の内からメモ帳を取り出して何かを書いていた。おれはその両方を見ていた。
外から子供の声が聞こえた。夜学が始まるのだろう。集会所の方向から、走る足音と笑い声。
「あの子たちはね、毎晩来るんだよ」
ゲルダが言った。針から目を上げず、穏やかな声で。
「レンネ先生のとこに。字を覚えるのが楽しいんだってさ。うちの孫もね、前は通ってたんだけど。今は都に行っちまった。字が読めるようになったから、都で仕事が見つかったんだよ」
レンネが教えた字。遺物の灯りの下で覚えた字。それがゲルダの孫を都へ送り出した。おれはその事実を、報告書のどの欄に書けばいいのかわからなかった。
「いい先生なんだ、あの子は。この集落の宝だよ」
ゲルダの声に、誇りがあった。小さな、静かな誇り。
おれは外に出た。
夜気が冷たかった。丘の上から見た星と、集落の中から見上げる星は、違う空のように感じられた。
集会所に近づいた。窓から光が漏れている。子供たちの影が壁に映っていた。
しばらく壁に背をもたせて聞いていた。やがて子供たちが出てきた。小さな影が走り、笑い、夜の集落に散っていく。「またあしたねー」という声。
最後にレンネが出てきた。石板を胸に抱えている。おれの姿を見て、少し驚き、それから笑った。
「ああ、昼間の旅のかた。まだいらしたんですね」
「ゲルダさんのところに泊めてもらっています」
「ゲルダおばあちゃんのとこ。よかった、いい人でしょう」
レンネは石板を持ち替えて、少し首を傾げた。
「旅のかた、北から来られたんですよね。都のほうですか」
「……いえ、都ではないですが。北の街道沿いの町からです」
「そうですか」
レンネの声がわずかに静かになった。昼間の、子供に話しかける明るさとは少し違う。何かを測っている声だった。
「前にね、都のかたが来たことがあるんです。この灯りのことを、いろいろ聞いていかれて」
おれの胸の奥で、何かが冷たく動いた。
「どんな質問を」
「灯りがいつからあるかとか、いくつあるかとか。丁寧な人でしたよ。でも……なんだろう、聞きかたが少し変わっていて。お医者さんが病気のことを聞くみたいな感じ、っていうのかな」
事前の監視員。処理班が派遣される前に、密偵が事前調査を行う。訓練で学んだ手順だ。
レンネの前に来たのは、その密偵だったのだろう。
「あまり気にしないでくださいね」
レンネは笑って話を変えようとした。だがおれは、その笑顔の奥に——ほんの一瞬だけ——別のものを見た気がした。不安ではない。もっと静かなもの。灯りのことを聞きに来る都の人間が何を意味するのか、薄々感じ取っている人間の顔。
それでもレンネは灯りを使い続けている。それがどういう覚悟なのか——おれには、まだわからなかった。
「おやすみなさい。明日もいらっしゃるなら、子供たち喜びますよ。旅のお話、聞かせてもらえると」
「……おやすみなさい」
レンネの背中が、集落の暗がりに消えていった。石板を抱え、遺物の灯りが点々と浮かぶ道を歩いていく。ただの教師だった。
ゲルダの家に戻ると、ドルクが戸口に立っていた。直した蝶番に手をかけている。おれと目が合ったが、何も言わなかった。おれも何も言わなかった。
部屋に入ると、ハルスはすでに毛布にくるまっていた。メモ帳は革の覆いに包まれ、荷袋の中に仕舞われている。あの中に、今日一日の全てが正確に記録されているのだろう。
おれは毛布にくるまり、天井を見た。窓辺の遺物の灯りが、まだ光っていた。ゲルダの針仕事の音が、夜の静けさに溶けていく。
温かい光だった。
おれは目を閉じた。
報告書に書くべきことは明確だ。遺物の組織的使用。住居、教育施設、公共の場での恒常的な利用。処理の根拠として十分。
だが報告書に書けないものがある。老人の掌の温もり。子供の声。「おばあちゃんのおばあちゃんの頃からある」という言葉の重さ。ゲルダの針仕事を照らす光。レンネの石板。
その二つの間に、おれは立っている。
聖騎士として来た。旅人のふりをしている。どちらがおれの本当の顔なのかと問われたら——今日この一日に限って言えば、旅人の顔のほうが、よほど自然だった。
それがどれほど危うい感覚であるかは、わかっていた。わかっていて、振り払えなかった。
おれは浅い眠りの縁で、あの老人の手を思い出していた。関節が腫れた、骨ばった手。オレンジの光にかざされた掌。
あの手が冷えるとき、おれは何を思うのだろう。
——答えは出なかった。まだ出なくていい。おれは今日、旅人だった。明日もたぶん、旅人だ。だがいつか旅人でなくなる日が来る。紋章を胸に戻し、剣を手に取り、聖騎士としてこの集落の前に立つ日が。
そのとき、おれは何を選ぶのか。
遺物の灯りが、おれの閉じた瞼《まぶた》の裏を、やわらかく照らしていた。
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