願わないと決めた

蛇ノ目るじん

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番外3、或いは明転 天秤は傾いだ 下

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 父王を一言で表現するのなら、寂しい人、だろう。
 玉座に在り続けるにはきっと、繊細過ぎた。それで、全てが許されるわけでも無いけれど。
 先々代の子の中で無事に育ったのは父王と、無嗣断絶の危機に陥った公爵家に養子に入った妹一人であったという。この二人は、異母兄妹ではあったが仲が良かった。これは、双方の母が良好な関係であったらしいから、それが理由であろう。
 先々代は王妃以外の側妃は一人しか娶らず、しかも当人が早世した。あまり丈夫な性質ではなかったらしい。子は五、ないし六人産まれたが一人は死産、三人も幼い頃に没したのだと。
 私達の一族……先祖は、得てしてそういった傾向が強く側妃や男妾は持って二、三人、という場合が多く、王妃・王配一人だけという事もあった。父王のように数多の相手に手を付けた、というのは先例が無いわけではないが、珍しい。

 国主である夫が亡くなり、新たに即位した息子はまだ幼弱。他の子供達も亡くなった以上、息子と娘も無事に育つとは限らない。……乳母達も居たとはいえ、彼女達の心労は、如何ばかりであっただろうか。多少の齟齬には目を瞑ってでも、連携を取る必要性を感じたのかもしれない。単純に相性が良かったのかも知れないが。
 直接は知らぬ以上、断言は出来ない。心労がたたったのであろうか、彼女達も父王が十を過ぎた頃、相次ぐように帰らぬ人となったというので。乳母の一人も、早くに没していたという。
 お互いと乳兄弟と、乳母。父の顔は覚えてさえおらず、早くに母を亡くした父王にとって、長らく信頼出来るのは彼らだけだった。それ以外の人間はむしろ不信の対象で、その明確な切っ掛けとなったのは第一子――娘だった――を孕んだ、最初の側妃で最初の女であったらしい。想像はつく。色々と、悪評高い母子ではあった。
 そんな彼らのあずかり知らぬ所で事態は動き、本来はもう少し先の予定だったという妹の養子縁組が前倒しされ、兄妹は引き離された。それでも兄は妹を気遣い、元より供をする予定だったその乳兄弟と合わせて残った乳母も、一緒に行かせてやったという。
 乳兄弟と二人きりになり、それでも信頼出来る者をと側妃を増やし、それでも植えつけられた不信はどうにもならず、結果として誰とも新たに心を通わせられなかった父王に、時間を掛けて寄り添い、和らげ、癒したのが、私の母だ。元々は妹の方の侍女だったらしいが紆余曲折を経て父王付きとなり、妃の一人として迎えられた。彼女が存命の間は、父王は側妃をそれ以上増やすことはなく、結果として二人以上子を成す側妃も出た。きっと、あの頃が一番、望み得る限りの平穏だった。

 しかしそれが長くは続かなかったのは、自分もよく知っている。平穏に見えていた水面の下で、渦を巻いていた感情が、留めきれずに噴き出した。それが、母を殺した。間もなくして、三人目の子を産んだ後に妹が儚くなり、それでめっきり気力を落とした乳母も息を引き取った。妹の乳兄弟を側仕えにするのは、産まれた子らに母代わりが必要だろうと、自身の意志で拒んだ。
 そうして最後、ただ一人側に残っていた乳兄弟も、また――。


 最初の一度目の後、一線を越える事は無かったが、父王が訪れる夜が時折あった。基本的には他の文官や武官の視線がある中、政治的なやり取りが殆どであったが、たまにひどく強く、手首を握られて離されない事があった。「震の宮」では人目につくと、やがて「坎の塔」へ夜中に呼び出されるようになり、一つの寝台の中で眠り、明け方前に戻る事を繰り返した。一線こそ越えていないが、一般的な親子の関係からはどんどん逸脱していった。
 その当時は基本的に、本当に文字通りただ眠るだけだったが、状況が問題だ。褥の中、抱く手は時に痕が残るほど拒絶を許さず、首筋や肩に顔を埋められ食まれながら繰り返された言葉。
 去るな。死ぬな。傍に居てくれ――そういった、寂しい発露を、痛ましく思った。
 とはいえその頃は、共に落ちようとは思いもしなかった。せめて、殺してやるのは自分が良いだろうと、思ってはいたけれど。我ながら薄情な息子である。
 それでも、疲弊はして。宮廷内で、息苦しく思う事が増えた。サダルスードは王宮を離れて久しく、オルテアとは接触をごく短くしていた。まだ幼いアストロードには、晒す気にもなれなかった。相談相手だった妹は同盟国へ輿入れが決まり――その背景もきな臭い――慌ただしくしていた。ヴァルテールとノールディンは知っていたが、当時は弱音を吐ける関係性では無かった。如何に穏便に見える手法で玉座を譲らせるか、あれこれ思索を向け合うような間柄だった。

 そういった時に、彼に出会った。断絶の後、再びがあった。
 一度は途切れた関係を、彼から繋ぎ直して。父王が二度目を起こし、そうして三度目以降を求めるようになった時、今度は手を離さないでいてくれた。四か、五度目だったか。挿入によって、かつて越えた一線が明確に内実を伴った後も、それが続くのだと察した後も、彼の手が正気を繋いでくれた。
 中等部を卒業後、帰国せずに高等部へ進学しこの国に骨を埋めると、彼がそう告げた時、最初に過ぎったのは、間違いなく喜びだったのだ。それでも、衝動で動く愚かさは知っていたから、彼が後悔しないようにと、頭を冷やせるようにと、高等部を卒業するまではそういう接触を一切禁じた。その期間中に他の誰かに思いを寄せる事を期待し勧めさえしながら、一方で恐れていた。
 近寄りがたさはあれど端整で、優秀な若者であったから、秋波を送る令嬢は多く、娘の思慕を利用して後ろ盾が無い彼を取り込もうと画策する家もあった。その家について、自分が持っている情報を流しもした。
 しかし彼は、幸か不幸か、変わらなかった。
 私への――あるいは私が持つ面影への――、父王の執着も変わらなかった。むしろ、確実に悪くなっていた。当初は一ヶ月に一度あるかないかだった呼び出しは、その頃には半月に一度程度になっていた。
 高等部を卒業し、魔法師として宮廷に仕えるようになった彼と二人きりになれる時間は決して多くなく、肌を合わせた回数はさらに少ない。どうにか時間を工面しての行為は、ほとんどが性急だった。あの頃はまだ、内で拾える快楽など微々たるもので、それでも、少なくとも、私にとっては幸福で。初めて、満たされるとはどういう事なのかを知った。
 だからこそ、いよいよ父王の精神に走った亀裂の深さが崩壊に近付いたと感じた時、決してそういう意味では愛せなかった贖罪の代わりに共に落ちようと思い、それに巻き込めないと、伸ばされる手は他にもあると、彼を突き放したのだ。
 それ以前からアストロードを継承者と定め、王権の移譲がつつがなく為されるよう工作を進めてはいたが、こちらは成就するより早く父王の精神が崩れ落ち、継承争いを引き起こした。

 ――これは、後になって気付いたのだが。
 結果としては望み得る限りの最善となったといえ当時、自分では冷静なつもりだったが、何の相談もしていなかった弟へ、玉座を押し付ける行動をしていた時点でその頃の自分もまた、正気では無かったのだ……。



 *  *  *

 後宮の敷地内に引かれた温泉を中心とする大浴場は、後宮の女にとって最大の社交場であった。王、それから王妃、王太后と、ある程度育ってまだ嫁いでいない王女――王子は、十から遅くとも十三、四になるまでの間で後宮を出て宮廷や離宮に居を定め、自らの身の振り方を決めていく――、寵愛厚く遇されたないし実家が高い身分にある女、そして、個人の部屋を持たない女を王が招く時に用いられる……そういった部屋には、ここの温泉と同じものが引かれ、個人で入浴を出来るが、それ以外の女はなべて、この場を使うのが常だった。
 現在は、後宮に住まう者の数が減ったので侍女や女官達に解放されている――というより、本来は彼女らの為の場だった。古参の者達は、側妃に合わせ大規模に改装されているので、記憶と違ってどうも落ち着かないらしい。改装時、一時凌ぎのつもりで屋外に設けられた風呂が好評だったようで、今も使われているのは余談である。――この空間に、今は人気は無い。夜中に近いという事もあるが、敢えて人払いされているのだろう。
 先ほどまで居た、後宮における王の居室のすぐ隣にも当然ながら湯殿はあるのだが、そちらは一度も使った事は無い。これは、一種の線引き的な思いからだった。彼女らには申し訳ないとは思うが、一方で譲れない一線でもあった。

 外も内も清めて濡れた髪を括り上げ、幾つかある湯船の内一つへ段差を下り、仄かに温い縁床を越えて身を沈める。立ち上る微かな硫黄の匂いと、肌に馴染む、どこかとろりとした感覚と程よい温度に保たれた湯に身を浸していれば、じわじわと体の芯まで温まってくる。心地よさに息が漏れた。
 こうしてただ湯に浸かって過ごす時間の快さに気付いたのは、いつだっただろうか。縁床に頬杖をついて、目を伏せる。出入口の方が俄かに騒がしくなったのは、そんな時だった。
 跳ねるように身を起こせば、ややして視線の先で一人、しなやかに締った裸体を晒して下ってくる者がある。本来、この場には訪れるはずもない者。玉座を強いた、「私達」の弟。
 鮮やかな翠色で私を射すくめ、一言も無く私の横に入って来たアストロードは湯船の中で足を折り曲げ、身を縮める。小さく見えるその姿にふと、部屋の隅で膝を抱えていた幼いかつてが重なった。そう思ってしまうとどうも咎める気になれず、湯が注ぎ入る音だけがそこかしこで響く中、しばらく互いに無言になる。
 沈黙を破ったのは、弟からであった。
「明後日、客人達が来城しますね」
「お前の、即位三周年の祝賀の参列者としてね」
「ラル姉上、いえ。アツァリのエスメラルダ妃に会うのも久しぶりです。確か長兄上は、手紙をやり取りしていましたね」
「季節の挨拶と、多少はね。「坎の塔に幽閉されている廃太子」にとっては、良い無聊の慰めだ」
「本当は伝えられたら良いのですが……」
 顔を曇らせたアストロードに、思わず笑いを零す。
「秘密を知る者は少ない方が良い。それにラルも、私が全く政治に関わっていないとは思っていないよ。お前の治世の折々に私の気配を感じるから、複製を創るつもりかと言われている」
「姉上らしい」
 弟も微かに笑った。腹芸を見映えよく包み込まなければ政は渡っていけない面があるが、あの妹はことさら、皮肉を美しく表現するのに長けていた。それでいて配慮や気遣いも欠かさないのだから、大したものだと思う。先の手紙に、試作として作った一つだと書き添えられて共に送られてきた、安眠作用のあるという匂い袋は香りも好みの類であったし中々良い効き目だった。

 来賓について、一番最初の親愛は無いものの礼節を保って紡がれていた言葉が、やがて止まる。
「レントゥスの王も」
 その国名を口にした時の僅かな声の引きつりには、気付かない振りをした。
「あの国は、色々立て込んでいたようだからね。今回初めて、正式に使者が来る。王その人が。……北方でも有数の、魔鉱石の鉱脈を背景に」
 機嫌を損ねるのは得策ではないと、言外に含ませる。鉱山からの産出が先細りつつある我が国とは対照的に、かの国が半年ほど前に保持する国家を陥落させ得た鉱山は、太く鉱脈が走っていると目されている上に本格的な採掘が始まってまだ年月が浅く、さらにその国が秘匿していた古代文明の遺産の存在を開示した。調査はまだ遅々と、ほとんど進んでいないらしいが、漏れ聞こえてくる情報だけでも面白そうだと、サダルスードが目を輝かせていたのは余談である。
 この大陸は大きく北方と南方、そして、聳え立つ山脈を辛うじて横断する中継部に分けられる。平地が目立つ、良くも悪くもこの数百年、大きな変動が無い南方とは裏腹に、峻険な山と峡谷が多い北方は民族間の交流が少なく、結果として多くの小国が乱立する乱世とも言うべき趣だ。陸伝いの隣国より、海上を渡った先の南方諸国との方が交流が多いという時点で、察するに余りあるだろう。
 奪っては奪われ、攻めては攻められ。国家が中々安定しない。そんな状況では、技術の発展も当然立ち遅れる。レントゥスは前身の国家時代から、その土地は小さいながらも質の良い輝石を産出する鉱山を保有しており、輝石他細々とした特産品の輸入と引き換えに加工技術等を送る事で、表現は悪いが属国的な友好関係を保ち、技術を取得させながら周辺国への牽制としてきた。近隣には、北方には珍しく建国して二百年に届き、且つ侵略以外他国との交流が少ない国があったせいもある――半年前にレントゥスが併合した、まさにそこだ――。
 その関係に変化の兆しがあったのは、国号が改まった時だろう。新たな王は才をひけらかさず、それでいて侮らせもしなかった。顔色一つ変えず難しい綱渡りをこなして見せたその男を、祝いの使者として派遣された名代は、素直に称賛した。伝わってくる噂でも、国自体を豊かにし、拡張はやや急ではあるが反乱はほとんど起こしておらず、民に掛ける負担も決して重くはないようだ。輸出された技術を応用した日用品や武器の品質や有用性にも、目も瞠るものがあり、味方として強固に繋がりを保つべきと判断した宰相――ヴァルテールの行動は早く、レントゥスはあっという間に対応の序列を駆け上がった。
 そうして半年前、実質的にも対等の位置に上って来た。受け取って来た加工技術を駆使し編み出してきた兵器に、領土拡張による物量の増加を上乗せして強大化した軍事力に加えて、魔鉱石の輸出権という、優位性を握って。

「宰相があちらの即位記念に、この二年名代ではなく私が直接向かうよう画策している時点で、我が国におけるあの国の位置は明白でしょう」
「そう。言うまでも無かったね」
 オモルフォは客観的に、国力も権威も持つ国だ。そんな国の王が直々に友好の証として渡国するのは長年、関係が深いアツァリと他数国に限られていた。そこへ僅か数年前に加わってきたのが、レントゥスである。
 実際は、返答など分かり切っていた。それでも念を押したのは、こちらを見なくなった弟の翠眼に浮かぶ澱み。
「明後日は、どうするつもりです?」
「いつもの通り、随伴は私以外にしてくれ」
 視線が、突き刺さるような強さで向けられたのが分かる。
「……会われないのですか」
「これでか? そもそも着けていなかったところで『今の私』が、個人的に会う理由は無い」
 首をなぞって、嗤う。弟が沈黙した。――突き放した時点でもう、私の手が届く相手ではないと、そう割り切った。少なくとも、理性は。
 この国の王の秘書官と護衛官は、主が越境する際はよほどの事が無い限り付き従う。特に双方が若い頃は、際立って。そしてその先で外交を果たすと共に他国を視察し、見聞を広める。いつ頃からか、そういう慣習だった。“鎖”の範囲がどうしても限られてくる以上、これは大層役に立った。
 そんな立場であるから、会話こそ無いが会った事はあるのだ。ある時は彼らの自国で、またある時は王の名代としてこちらを訪れた時に。けれど彼は、一度としてこちらをそうと認識した様子は無かった。一廉の魔法師さえ欺く。サダルスードの術式が完成されている証明である。……一抹の落胆は、愚かしい事だ。
 そもそも、三年以上あちらは会ったと認識していないのに、未だに好かれていると認識するのは思い上がりも甚だしいだろう。彼はあくまで、私達とは違う、一般的な人間であるのだから。
 将来に展望が何も無く、こまめにやり取りもしていない同士の人間が、互いに距離を置いて、愛を保ち続けられる例は稀だ。その点で言えば、この弟はまだ認識が甘いとも言える。
 その理由に根差すものは周囲の血族達であり、また己自身も、それに振り回されている節があるからか。
 ――アストロードが私に対して肉親の枠を越えて執着している事は、かつて財務省長官に引導を渡した時に察した。その執着が肉欲を伴ったものだと確信したのは、ルクレンティスにはもう通えないと自ら判断を下した時。
 湯に沈んだ自らの体の足の付け根。陰茎と睾丸に添うように、すっかり生え揃っている下生えを僅かに意識した。……こちらも、半年を過ぎて一年が視野に入る頃か。引きずられるように思い出しかけて、振り払った。
 この弟が、私と「彼」の関係性をどこまで知っているかは聞いた事が無い。そもそも、そういった類の話を振った事が無い。ただ、初対面から互いに相手を敵視している節があった相手に対して、今も何かしら思う所があるらしいのは気付いていた。私に対しての親愛に劣等感、「彼」に対しての対抗心。核にあるのはこれらだろうとは思うのだが、ずいぶん捻じれたものだとは思う。
 本当は、今の状況が望ましくないのは分かっている。弟はそろそろ、王として妃を娶るべき時期だろう。実際書類を仕分けている時、そういった話題に触れたものを見かける機会が最近増えたように思う。
 出生時の状況ゆえに「灰色」とされた王子の頃、彼の扱いをどうするかは、為政者の悩みどころの一つだった。母が継承権を有する公爵家の出身である以上、薄くとも王家の血を引くのは確実で、下手な対応は出来ない。王宮で飼い殺しにするか、出家させるか、毒にも薬にもならぬ相手と娶わせるか……。少なくとも、国外に出す選択は無かった。
 そんな状態であったのでこの弟には、ある程度の歳になっても婚約の話さえ無かった。私を含めた他の兄弟姉妹に対しては、まとまるにしろそうでないにしろ、何かしらあったにも関わらず。
 私にも隣国の王族や、王姉・王妹・王女には至らずとも王家に所縁ある令嬢との婚姻の打診はあったのだが、病による逝去や、命を落とすまではいかなかったが身体に支障が残ったり、「先方の都合」で取り下げられたりで、どうにも縁の無い話だった。そういう星の巡り合わせなのだろう。言いがかりを付けられた記憶も、もはや朧だ。結果としては良かったのか、あるいはそれ故に、父王が深みに落ち込んだのか――。
 兎も角、アストロードには今、遅れを取り戻すように縁談の打診が来ている、というわけだった。当人は現時点では判断を保留としているが、先の財務省長官に処断を下すのを筆頭に、それ以外の目に余った者達にも相応の処分を下し、あるいは摘発し、じき一年。地方の領土の多くは土地に任ぜられた貴族が自治権を行使するため、目が届かない部分も多いが、王都はおおむね平穏となり、儀礼等で折々見かける事のある若き王が未だ婚姻していない事を、民が取り沙汰する声が流れてくることもあるほどとなった。最近雰囲気が和らいだらしく、好意的な発言が増えたのは喜ばしくはあるが、派生して愛人の噂まで飛び出してくるのは望ましい傾向ではない。なるべく早く、新しい真実で上書きしてしまう方が良い。
 そして私は、この弟から距離を置かなくてはならない。――幸い近頃は、期間がそれなりに開いても所構わず雄を求めるような盛りは、大人しくなってきた。良い機会だろう。


 再度落ちた、長い沈黙。ああ、こういう時に切り出すのが望ましいのかもしれない。
「アストロード、そろそろこの」
 言葉の途中で、それまで穏やかに揺蕩っていた湯の気配が、一つの方向性を以て打ち寄せてくるのと、水面を波打たせる音が形を取ったのは、ほぼ同時。水中に沈んだ私の腕に触れる、湯の熱とは違う、ひどく控えめな触れ方をする、温み。アストロードが、そっと腕に触れていた。覗き込んでくる顔。そこに浮かんだ色は、切実ささえ滲ませている。遮りに掛かったのだと、気付いた。互いに分かっている、この状態の不安定さと不健全さは。それでも終わりを拒む弟に、いま馬鹿正直に強要する気にもなれなかった。
 口を、開いて。閉じて。繰り返して。やがて絞り出された内容に、応じる私は間違っている。それでもこの弟の望みは、可能な限り叶えてやりたいと。
 その感情はきっと、贖罪に似ている。

 一度上に上がっていったアストロードが、脱衣所にいくつか置いてある陶製の容器の一つを持って戻ってくる。そのまま縁床に腰を下ろしたので、自分も隣り合って座った。そうして腕を引かれて倒され、背中に感じた滑らかな石の床が冷たい。湯から引き上げた足が、ひどく熱を帯びている気がする。
 容器から弟の掌の上へ出された液から、柔らかい花の匂いがする。風呂上がりの肌に馴染ませる、保湿液のにおい。
 刷り込まれるように、馴染ませるように、保湿液で濡れた手が私の肌を這う。愛撫というよりは、確かめているような動きで、まさぐっていく。煽るような手付きでもないのに、引きかけた熱が、また灯されていく。
 腹、胸、肩、首、顔。背中、大腿、ふくらはぎ――手の指、足の指の間まで。一度二度と液が足されて、肌の上に濡れていない場所が無いのではないかと思うほどになったところで、アストロードが手だけでなく、自分の体ごとすり寄ってくる。体温が入り混じって、むせ返りそうなほどに花が濃く香った。まとめてあった髪を解かれ、重さを増したそこに半ば鼻を埋めながら、寄せられた頬が熱い。
 ゆっくりと重ねられて、肌を合わせられて、擦り合わせられて。直接的な行動は無いのに、じりじりと灯された熱が熾されていくのが、ありありと知れて。左側の二の腕に、淡く残った引きつれを引っ掻かれ、身を捩る。痛みはもう無いが、かつて傷だったそこは他より今も少し、感覚が鋭敏だ。
 性急さがあまり感じられない行為に、やはり理由は性欲に依るところではないと確信を深める。そう、この弟は、二回目がしたいと願ったのだ。その根底にあるものはきっと、どちらかといえば精神的な、そう。強いて言うのなら不安の解消、安堵の確認、が一番近いのかもしれない。本当の意味で解決するものではないとしても。
 眩暈を起こしそうなほどの花の芳香に溺れながら、言葉にならない声が混じった息を吐く。首の、“鎖”で覆われていない場所の少し上を、痛みさえ感じるほどきつく吸われ、悲鳴に満たない呼吸が喉奥に凝った。ああ、手持ちの服で隠れる位置だろうか――。
 熱に左右されない思考はそこまでで、前後してとうとう肌の上を滑っていた指が下肢へ伸びてきて、直截な責め立てへと流れるように移行する。既に芯を持ち始めていたそこが首をもたげるまでは、早かった。同じ熱さを帯びたものが押し付けられて、緩く握りこまれ、動かされる。
「ん、ん、あ、は、あァ」
 腹の間でぬるぬると擦れ合って、じりじりと昂っていくのが分かる。堪らず背筋を丸めるのを待っていたかのように、背中と床の僅かな隙間を縫ってぬるりと手が差し入れられた。窄まりの縁に至った指先が確かめるようにぐるりと動いて、そうして、ゆっくりと内へ沈んでいく。その動きの妨げにならないよう意識して力を抜いて、増えていく指の本数を数えた。
 途中から、仰向けから横向きになり、直接触れ合っていた熱が離れた僅かな寒さを押しやるように、後ろを解されながら前も責められる。後ろはそこまで執拗に慣らさずともとっくに受け入れられる状況だというのに、前は浮き上がった血管をなぞられたり亀頭をくすぐられたりで、絶頂に至らないようじわじわと弄ばれるばかり。焦らされているのが分かって、いよいよどうしようもない。
「ぅ、う…もう、良いだろう」
「そうですね」
 返された声は、自分とは対照的に冷静なように聞こえた。尻たぶを割り開く動きも、竿を擦りつけてくる動きも、焦りらしい焦りは感じられない。自分ばかりがみっともなく乱れている気がして、目許に全身を苛むものとはまた違う熱が宿った。床に着いた手を、握りしめる。
 少し身を起こし、半ば覆い被さられるような体勢で後ろからゆっくりと、みちみちと隘路を押し広げて入って来た熱が、納まった。そうして背中に、何かが触れた。水、のような。何か。意識のどこかに引っ掛かる。汗か、それとも。
「アスト?」
「ッ……何でも、ありません」
 声が湿っていたように思われたのは、錯覚だったのだろうか。
 それまでの静かさが嘘のように擦り上げられ、かと思えばぎりぎりまで引き抜かれ、また突き荒らされ。あっという間に押し流されていく。あっという間に達したのが分かるのに、休む間もなく追い上げられる。
「っひ、が…ふ、う、う゛…ん゛ん、っああ゛、あ、あ、ぁ、あ゛ぁ゛ァ゛ァ゛」
 坂をゆっくりと上がるように高められた性感はいつの間にか、意識にまで絡み着いていて。簡単には振りほどけず、やみくもに抗っても縺れるばかり。
 いつ頃からか弟は、こういう手管を覚えた。あるいは私の方が、堪え性を無くしつつあるのか。そういえば、最近はチェスを指していても、純粋に彼が読み合いを制して勝つ場合がちらほら出てくるようになった。
 玉を促すように揉みこまれた後、先ほどまでの緩慢さが嘘のように、幹を擦り上げられていく。恐らくもう二度は射精している気がするが、その手付きは容赦が無かった。苦しい。背中に痕を残されていった気もするが、よく分からない。とうとう為されるがままに腰を上げ、肘をつき、獣のように受け入れている。

 浴場に反響する声が、口も耳を塞げないまま広がっていくのを止められない。頭を振った。目許からとうとう滲んで溢れた理由は、自分でも定かでなくなっている。堪えきれずに肘が折れ、重ねた手の上にようやく頭を乗せ、揺さぶられるばかりだ。腰も支えられず崩れたが、鷲掴まれて離してくれない。尻たぶを寄せられて抜き差しされ、中にあるものをまたありありと思い知らされる。内側が無意識の内にうねって、頭上で息を詰める気配をどこか遠く感じた。そうして、腹に広がる別の熱。しかし、納まったままのそれはまだ剛く、太く。何故と思う間もなく、再び始まった。
 うやむやにするつもりだと察して、しかし。責めるつもりにはなれないのだと、自分にそんな資格など無いのだと、ばらばらになっていく理性の断片が苦く笑った気がする。同一の人間の中に見え隠れする、純真さと懊悩。その断絶の深さ。原因の全てではなくとも一端を担っているのは自分だと、知っていた。



 *

 完全に喉が隠れる服は、息が詰まる。禁欲的な装いはもはや自分の常装であるとはいえ、ある程度隠すのと、完全に隠すでは、やはり別物だ。
 昨日と一昨日の境目とも呼べる夜中、アストロードに付けられた痕の中で“鎖”の上に残された一つは、やはり手持ちでは完全に隠れなかった。常に陰に誰かしら控えている隠密が気を回し、私が宿舎へ戻るまでの間で、喉の詰まった装いを何着か見繕ってくれていたのでその点、気を揉む必要は無かったが、息苦しい点はどうしようもない。季節は小麦の種蒔きが全国的に終わり、地域によっては畑がそろそろ青くなる頃。大麦らは生育は平年並みとの報告はあるが、まだ収穫には早い。夏でなかっただけまだ良かった。

 昨日は執務中は取り繕ったが、終わったら雑談もそこそこに自室へ籠もった。個人的な好悪はさておき、痕一つであげつらってくるような同僚は居ないが、むやみと晒すのはどうも居心地が悪い。後、さすがに疲れてもいた。
 寝台の上で広げ、見下ろしていた上着を、ようやく覚悟を決めて手に取り羽織ったところで、寝室の窓が軽く鳴らされた。隠密は……全く気配を感じない。通常通りだ。という事は。
「サディかい?」
 声を掛ければ、鍵を掛けてあったはずの窓が、僅かな軋みとともに開く気配。そうして垂らしてあった幕をかき上げ、サダルスードが軽々窓枠を越えて入って来た。
「式典は夜だろう? それに、到着が一番遅いレントゥスは早くて午後だったはずだが」
「まあ、他にも幾つか用事があったので。ついでです」
 下衣の上へ上着を羽織っただけの私を見て、サダルスードが軽く眉を寄せた。その視線の先は、こちらの首の辺り。分かりやすい。苦笑した。
「甘やかしすぎでは?」
「そんなつもりは無いけれどね。……ああだが、確かに侍女長がアストを叱っていたな」
 あまり覚えはないが、ずいぶん時間が経っていたらしい。石の床に着いて赤くなっていた肘や膝に軟膏を刷り込んだり按摩をしたりと、私の介抱をしながら侍女長が、夜が明けてしまう、などと苦言を呈していた。実際、日が長くなりつつあるとはいえ宿舎に辿り着く頃には、空がうっすら白み始めていた。
 私が出入りするようになってから、閉じられた場である後宮においては“鎖”にかかった認識阻害が緩むよう、土地そのものにこの弟の手で調整がかかっている。その緩みがどこまでかは定かではないが、関係性の深さが関連しているとは思う。侍女長初め後宮付きになって長いか、それなりに関わりがあった侍女達は、私をクレスレイドとほぼ確信しているようだが、それ以外の者はまちまちだ。私が父王の手で後宮に連れ込まれていた時期、世話をしてくれていたのは専ら彼女達であったから、当時はずいぶん心配を掛けたと思う。そしてそれは、今も変わらない。
 上着の留め具を填めていきながら応じると、彼は何やら考える風情になってから、おもむろに手を伸ばしてきた。
「失礼」
 指先が触れるか触れないかの辺り、首回りの空気が温かいような、何かが巡るような気配が分かる。
 自分の魔法の素養は、王族として体面を保てる程度、だが、側に居た人間が規格外であったので、探知能力はそれなりに磨かれたとは思う。今、サダルスードが掛けているのが“鎖”の術式に影響を及ぼさないよう、繊細な技量を求められるかなり高度な物であるとは察しがついたので、身動ぎは耐えた。結局のところ、自分はいつも誰かに世話を掛けている。ならばその相手に、可能な限り報いてやらねばとは思ってはいるのだが、これが中々難しかった。
 ややして気配が収まり、サダルスードが手を引く。
「首回りに認識阻害を施しました。完全に晒した状態では効果は殆どありませんが、襟元を緩めるくらいであれば気付かれないはずです。痕が目立たなくなるまでは毎日かけ直しておきましょう」
「有難いが……それはお前に悪い」
「いえ」
 サダルスードが軽く口元を歪めた。ひどく皮肉めいた、それでいてどこかやるせなさそうな、口元だけの笑み。
「兄上、貴方は。誰かを憎みませんね」
 話題が急に切り替わったように思われて、返答に悩む。今回、これ一度の事を指しているわけでは無いのは分かる。しかし、それはどこまでを意味しているのか。留め具を再び填めていきながら、思考を軽く巡らせる。
「恨み続けるというのは、とても疲れる事だよ」
「見返りも求めず愛し続けるというのも、似たようなものでしょう。……会わないおつもりですね」
 同族の中でも一際、興味を持つ人間が限られている一方で、懐に入れた相手に対してこの弟は、ひどく繊細な情を配る。今は自惚れでも無く私と、恐らく「彼」にも向けられたものだ。だがしかし、肯くわけにはいかなかった。
「あの日彼は、私が死ぬつもりだと、気付いていた」
 訣別を告げた日、看過されてその上で、最後に思い出を乞うた彼を受け入れた。それで、終わったのだ。
「結果、死なずに今があったとしても、今さら合わせる顔があると思うのかい? 貞操一つ守れなかった、この恥知らずが。――会わない方が良い」
 指先は淀みなく襟元を立てて整え、最後の一つを填めて、言い捨てる。サダルスードがどんな表情をしているのか、見たくは無かった。視線を逸らしたまま櫛を取り出し、髪を梳き整える。いつもより執拗に。

「兄上」
 一度そこで言葉を切った彼が続けて、低く絞り出す。
「貴方の母に手を下した私の母を赦したように、その感情を、過去にしてしまえる人であれば、貴方はそこまで苦しまず済んだでしょうに」
「この国の王族である以上、難しい話だよ。……他国の母君の血が入ったお前も、例外では無いように」
 オモルフォの王家には、始祖から引き継がれる一面がある。血がある程度薄れてもなお現れるそれは、もはや業だろう。
 それは、特定の相手に対して情が濃やかになりすぎる事。相手と引き離されても、死に別れても、あるいはそもそも振り向いてもらえなくとも、思い続けるという事だ。対象は必ずしも一人ではなく、そもそも人間になるとも限らないが、かといって感情の重さが分散されるとも限らない。色恋ともなれば、その傾向はいよいよ顕著になる。
 公爵家という、王位継承権を有する家が恒常的に存在するのも、それに由来する。即ち、王が子を成せず、断絶するという可能性だ。
 この傾向は王家や、定期的に王族の血が入る公爵家の人間に多かれ少なかれ共通しており、幼少期からそれに対応出来るように教育が施される。
 継承権の上下の決め手、それは母の家柄であり、その家の権勢であり、年齢や性別であり。そして、感情制御の程度の度合いでもある。傾向的に玉座に着く者は、感情をある程度抑えられる者が多い。そうでない者は周囲によって象徴の範囲に抑えられ、実権は乏しくなるよう、当代の者達によって為される。王権の制限が必ずしも世代を跨がないのは王家の外に、公爵家という抑止力と代替力がある、というのも理由の一つであろう。また公爵家に対する、非常時以外成り代わる余地は無いという牽制でもある。
 ともあれ人間であるから、必ずしも感情を抑え続けられるとは限らず、あるいは血の業に押し潰される者は当然居る。父王も、その一人だった。
「王太后陛下は、過ちを過ちと認識され、正す努力をされる方だ。……母の事は、あるが、現在のあの方を否定する気にはなれない。原因の根底は、先代にある事だしね」
 父王は、王妃を遠ざけた。サダルスードをもうけた後は、訪れる事さえ稀だったという。一方で後宮には足繫く通い、側妃と次々子を成していく夫に、せめてと文を認めてもほぼ返されない事実に、彼女は何を思っただろうか。政略的な趣が強い婚姻であった以上、愛し愛される事は難しくとも、互いに尊重し合える夫婦にはなれた筈だった。しかし父王は、その努力を一方的に絶ったのだ。
 自分の息子と同時期に、男児を産んだ女。夫である王から、母子共に寵愛を受け続けた女。――憎悪の対象となるには、十分だったろう。
 母が健康保持のために散策として、よく出向いていた庭園に至る階段――その、手摺の下の部分に、尽く油を塗りこめるほどの情念か、執念か。それほどに、恨みは深かった。
 母が手摺に摑まって階段を降りようとして、足を滑らせて転落した報を受けた時、彼女は何を思ったのだろう。
「むしろお前が、私達と親しくなったのが、意外だったよ」
「……病より、暇で殺されそうだったので」
 彼女が態度を和らげたのはあるいは、息子がこちらに好意を寄せたからかもしれない。それはそれとして、己の過ちを認め、受け入れるのは、とても難しい事だ。少なくとも王妃が手を下したのは、母に対してだけだった。それ以降も後宮では穏やかならざる件は起こったが、彼女が糸を引いているものは一つも無かった。
 むしろ、彼女が後宮の主として役割を果たすようになったためある程度規律が保たれるようになり、だいぶ助かった。王と、王が後宮入りする際に伴う侍従、許可を得た妃の身内と王子以外、男は原則として足を踏み入れられない空間であるので、対応せざるを得ない案件は、少ないに越したことは無い。何せ、立入承認の手順が大変手間だ。それから、「原因不明の病死」の報告も減った。
 過去は変えようがなく、無かったことにも出来ない。しかし一度犯した領域は得てして二度目以降、踏み越える躊躇を鈍らせる。彼女は、その二度目以降を踏み止まった。自国に帰らず、国母として在る覚悟を固めた。私の母に危害を加えた事実を認め、「卑しい女の息子」に頭を垂れさえした。女官や侍女を下げ恨まれる可能性も、織り込み済みで。
 少なくともその事実は、尊重に値すると思うのだ。

 髪をまとめ終えて、振り返る。彼女の息子は、どこか苦しそうな顔をしていた。
「サディ、サダルスード」
 近付いても、身動ぎ一つしない。自分より少し位置が高い頬に手を触れさせれば、目が一瞬揺れた気がした。
「少なくとも私は、お前よりは幸福だ。彼は、元気に生きているのだからね」
 この弟が狂おしいほどの「愛」を向ける相手はもう、この世の何処にも居ない。新たに生じる可能性は、かなり低いだろう。胸を鷲掴み、嗚咽に近いひきつった笑いで以て、先の財務省長官を廃人にした理由を吐露した姿を、一抹の痛みと共に思い出す。彼もまた父王と同じように、愛した相手に去られ続けた半生だった。一方は決して手に入らない相手を。もう一方は――彼が気付いた時には、もう遅かった。
 あるいは私の感情を気に掛けるのは、彼自身の過ちに由来する代償行為でもあるだろう。何せ彼らと違い、「彼は元気に生きている」のだから。それを哀れには思うが、私には恋に比重を傾けて生きる資格など無いのだ。少なくともあの手を放した、あの日から。
 頬を撫で上げ、踵を巡らす。そろそろ出仕の時刻だ。弟は、それ以上は追い縋っては来なかった。



 *

 弾んだ呼吸を止めず、緩やかに深く長く整えながら、手にした木剣を下ろす。治まったところで滲んだ汗と上がった体温を、外気で冷やす前に魔力の循環で乾かし、下げる。
 しばらく振るう機会が無かったから鈍ってしまった。もっと積極的に時間を持たなければならない。誰かをまた相手とする気は、まだ起こらないけれど。
「相手が居た方が良いのは知っているが」
 独り言ちて、頭を振る。
 こなすべき執務は終わったがどうにも気分が落ち着かずに、宿舎へ戻る気にもなれなかった。結局、執務室の内外で控えていた護衛――普段よりは少なく一人づつ――の武官達に声をかけて、鍛錬場の片隅の使用許可を取り、そうして今だ。……武官達の関心の視線には、気付いていない振りをした。姿勢やら所作なりで、同僚とでも呼ぶべき間柄になった当初から、武芸を修めている事は悟られていて、手合わせの打診も何度かある。一度も応じたことはないが。それでも態度を変えないでいてくれるのは有難い。
 あとは、一人になりたかった。いや、隠密は誰かしら控えているのだが気分的なものだ。

 鍛錬場のそこかしこには、昼間に吸収した光を夜間に発散させて光るよう術を施された輝石が中心に据えられたランタンが置かれていて、昼間のようにとまではいかないが、周囲を確認するのにさほど不自由はない程度に明るい。
 普段であればこの明るさを利用して鍛錬に励む者の姿が幾らかあるのだが、今日は午前から続く国賓の出迎えと滞在中の付添、そして、今まさに行われている頃である式典の警備と常時より増やされた巡回とで、そんな余裕も無いと見える。全くの無人だった。
 剣を振るえる最低限に緩めた装束をそのままに――上着も脱がないのは“鎖”を身に着けるようになってからの、もはや習いだ――、木剣を元の位置に戻しに行こうとした時、視線に気付いた。
 血の気が引く。無意識の内の木剣を握り直して視線の方向に向き直った時、先ほどとは違う意味で、愕然とした。
 先ほどまで、確かに人気を感じなかった鍛錬場に、立っている姿がある。大股で十歩も歩けば、距離を詰められるであろう位置に。相手の方がより多角度から光の当たるからだろうか、大まかな輪郭しか判別出来ない。しかし。
 複数の光源を受けて複雑に落ちた影が揺れる。一歩、踏み出された。考えるより早く後退る。まずい、背後には日陰になる樹木が数本の他は、境界となる塀しかない。鍛錬中の逃亡を防ぐため、塀と木々の間の距離は飛び移れない程度には広く、塀は漆喰で塗り固められて足場が無い。横を抜いて逃げるには、相手に隙が無い。……実力行使は、今の相手では命の取り合いになりかねない。
 背中が、硬い壁に阻まれる。手を伸ばせば届く距離で亜麻色が微かに揺れ、ゆるく編みこんでまとめられた髪を留める飾りに填められた石の、青というにはいささか濃すぎる色合いが、やけに目に付いた。そんな視界の片隅に、ちらりと映った立ち姿。あの、輪郭は。
「私はお前達に、それほど危うく見えていたか。リデル」
 ここに至るまで、隠密達に全く動きが無いということは、これが彼らも同意の上での事態であるに他ならない。そうして彼らのうち半数はまだ、「彼」とも知らぬ仲ではなかったはずだ。
 目の前の相手が沈黙を保つ中、空気が淡く動く。
「責はこちら一人に。お咎めは、いかようにも」
 嘆息が、留めようもなくこぼれ落ちた。すぐ側の相手に、ひどく緩慢に視線を合わす。急かすでもなく、彼はこちらを見据えていた。煉の瞳が、細まる。その指先が、一切の迷いもなく自らの喉に触れて掴むように掌で首を覆う。意図する所は、明白だった。
「ッ、サダルスード!」
「そう。サダルスード講師……師匠の手引き。そこに残った気配を追ってきた」
 手引きと言われて思い当たったのは、術式を重ねられた朝。あの弟は本来、術を用いても気配を残すことは殆どない。時間を置いたならなおさらだ。ならばあの時点で既に、この状況を考えていたのかと、そして気付かなかった自分自身に臍を噛む。
「あんたが死ぬつもりなのは分かっていた。でも、あんたは死ねない気がしていた。……自分で思っているよりきっと、ずっと、周りから大切にされてるよ。今も」
 そう、こういう声だった。時が、巻き戻されるような錯覚。
「何故、いまさら」
 もっと、冷淡に撥ねつける事も出来たはずなのに、そうしなければいけなかったのに、口を衝いた口調は詰るようなもので。加えて滲んでしまった甘えに顔を覆いたくなったが、一度発してしまったものはもう戻せない。
「うん。師匠の術は完璧だった。僕はあんたを、少し似ている他人だと、ずっと思ってた。……今も自分に認識補正を掛け続けてるのに、ともすれば別人に見えそうになる」
 彼が息を漏らす。夏に近付きつつあるとはいえ、まだ夜になれば一気に涼しくなるというのにその額には髪が張りついて、じっとりと湿っていた。髪の下から、真っ直ぐに向けられる視線が、そこに宿る熱が、あまりにも眩しく、それでも目を逸らせない。……逸らしたくない。しかし、外した。渾身で。
 地面に切っ先を垂らした木剣を、それしか縋るものが思い浮かばずに握りしめる。髪をまとめていた紐を、毟るように解く。力任せに髪をいくらか引き抜かれた頭皮の痛みが鈍く、遠い。
「私は、会うつもりは無かった」
 声が詰まる。呼吸が掠れて、震えて、ひどく無様だ。戦慄く口許を奥歯で嚙み締めた。いくら顔を逸らしたところで、髪で覆った程度で、少し下から覗いてくる彼の目線からは逃れられないと知っていても、知らぬ振りをしていたかった。辛うじて、歯を離す。幸い、震えて鳴りはしなかった。
「こんな年増など、忘れて捨て置けば良かったのだ。君は、まだ若いのだから」
「言って、四つかそこらじゃないか」
「五つだ」
「四歳差の時期もあるから、四つでも良いんだよ」
 ここまで距離を詰めていて、それでも手を伸ばしてこない。なけなしの慈悲か、こちらから伸ばさせる強要か。
 別れて、もう三年以上。こんな近くで再び顔を合わせる日が来るなど、その目が、未だにこちらに対して熱を帯びた光を返すなど、無いと思っていた。
 だけれども、駄目だ。その手は、取れないのだ。
「……分かっているのだろう。帰れ。そして、もう忘れろ」
「嫌だ」
「セイリオス・プロスパスティア。自らの努力を水泡に帰すつもりか」
「その言葉、そっくり返す。せめて、僕の話を聞いてくれ。……どうして、あそこまで急激な拡張政策を取ったか、とか」
 その語尾に、思わず視線を戻してしまった。先ほどと変わらない眼差しに、次に外すのはもっと困難だと悟る。
「僕達レントゥスはまず何より、あんた達オモルフォと対等になりたかった。今は表面上だけでも。これは国としての総意だ。南方でも有数の大国と対等になれば、箔にもなるからな。後、近隣にも情報が回るようになる。レントゥスは資源も欲しいが、人材も欲しい。あの拡張政策は資源確保が目的である一方で、人材確保の手段の一つだ。そして、一段落した」
「……君達の所の上層部は、そういえば多国籍だったな」
「性格の多様性も凄いよ」
 視界の中、口許に僅かに走っていった笑みは苦さを含んでいる。
「色んな同僚が増えた。その中には、過去に権力者の慰み者だった、なんてのも居る」
 変わらない調子で吐かれた言葉の内容に、思考が強張った。煉られる金属の目に宿る光が、いや増した気がした。
「無言で後宮を後にした先王。幽閉された元王太子。オモルフォ随一の娼館。正体不明の上客」
 端的な単語。密偵を送り込んでいるのはお互い様だ。こちらも相手側の、暴露されてはもみ消しに苦労する程度には、後ろ暗い情報を握っている。しかし。
「乱入者。訪れが途絶えた上客。――現王に、愛人が出来た疑惑」
 確定だ。髪紐を掴む手の腹に爪が食い込む。
「『噂』に過ぎないものを蔓延させるほど、我が王家の子飼いは甘くはないのだが」
 真実ではある、がしかし、繋がる物的な証拠は全て潰し尽くしてある以上、それはあくまで『噂』なのだ。彼は、小さく首を傾げる。
「知ってるけど。僕らが、そんなつまらない事で揺さぶりにかかると思う? これは、もっと単純な話」
「止せ」
 それは、考えないようにしていた方向性。状況はこの上なく語っているのに、それでも往生際悪く知らない振りをしていたかった可能性。
 無慈悲に、目の前の相手は紡ぎ出す。
「知ってるよ。多分ほとんど。それでも僕はあんたの事が、好きなままなんだ」
 そんな柔らかい残酷さは、望んでいなかった。

「本当はね、あんたを見つけた時、自分がどう思うのか直前まで不安だった。一瞬でも躊躇ったならそれこそ、あんたに気付かれないまま帰って、もう会うつもりは無かった」
 それはつまり、そういう事なのだ。少し眉と目尻を下げて、ぎこちなく笑う顔。そんな顔は知らない。そんな痛みを堪えるような表情をさせたくて、突き放したわけではない。
「君以外にも足を開くような堪え性を無くした淫売に、何故そこまで入れ込む」
「例えばそういう自罰的すぎる所とかかな。危なっかしいったら。……というかね、それくらいで迷うくらいならあの時、池に沈んだあんたに手を伸ばしなんてしなかったし、そもそも池に沈んだ事さえ知らないままだったよ」
 一度は断たれた関係を繋ぎ直された時を思い出す。
 穏やかな一年。その心地よい時間を断ち切ったのが自らの見せた隙だった以上、恨む気にもなれない。むしろ知られないまま長じていた場合の方が恐ろしい。
 ――慣れた。あるいは麻痺して、一年が過ぎた頃、学院であの池に落ちた。アストロードはその頃から私と明確に距離を取り始めていたから、一人だった。少し藻掻けば突き破れるような水面に、手を伸ばす気にもなれなかった。自分が死んだ場合の影響は、などといった波及的な事ではなく、己の死そのものと向き合ったのは、あの時が初めてだったかもしれない。
 長くは無かったはずだが永遠のように錯覚した時間から、引き上げられた時の乱暴さに、隠密らしくないな、とぼんやり思った。らしくなくて当然だった。彼だったのだから。
 ずぶ濡れの中、燃えるような瞳が睨んでいた。こちらの腕を掴んだ指が、微かに震えていて。控えていた隠密が声を掛けると、弾かれたように駆け去っていったが。乾いた布と着替えを揃えてきた隠密が一瞬、穏やかに目を細めたのを覚えている。
 それきりかと思われた再会は、彼の側から繋げられた。それは次にサダルスードを訪れた時。何やら弟と話し込んでいた彼がこちらに一礼して退室した後、私も用を済ませて部屋を出たら、すぐ外で待っていた彼と鉢合わせた。ずっと、あからさまにこちらを避けてきていた彼が、視線は逸らしたままだったが大丈夫だったかと、問うてくれた。肯定したら、頷かれた。それが、断ち切られたと思われていた関係が、再び繋ぎ合わされた瞬間。
 そうして回数を重ね、ようやく面と面を合わせられるようになった時、あの穏やかな一年を断ち切られた時のことを、彼が謝って来た。当時感じたままを私が返せば、怒ったような泣きそうな、何とも言えない顔をしていたけれど。

 こんなにも、鮮やかに思い出す。思い出してしまう。手のひらに食い込んだ爪が、鋭く痛みさえもたらした。
「私の、意思は?」
「あんたがもう僕の事を好きじゃなかったら師匠もリデルさんも、今回の取っ掛かりさえくれなかったよ」
「そうではなく」
 言葉に詰まった。彼は今、公人ではなく私人として対峙していると感じるのに、自分も同じく私人として、誠実に返せるのか。途方に暮れた。考えてみれば、公私の区別とは、何を以てするのだろう。――そんな風に思うのはきっと、この三年で公人としての立ち居振る舞いがすっかり身に着いた彼を、垣間見て来たからだ。別れを告げた頃はまだ、初々しさが残る風体であったのに。
 そして、王となった弟が、いつの間にか鮮やかに切り替えてみせるようになったのも、どこかで、引っ掛かっていたのだろう。では、自分は? と。
 黙り込んでいる私に、彼が相変わらず視線を逸らさないまま、僅かに目を細めた。
「あんたは、互いに会わないまま思い出にした方が良いと思ってたんだろう? 私、もそう思うよ。今だって馬鹿やってるとは思うし。だけど僕はやっぱり、あんたを思い出にして生きたくなかった。……ねえ、あんたも。少しくらいはそう思っていると、自惚れたいんだけど」
 熾火のように穏やかな表面の奥で、劫火のように燃えている烈しさがあった。これは、もう変えようがない。経験則で知っている。けれど、せめて。
「君の永遠を、縛るつもりはない」
 辛うじて零した言葉。足りないにも程があるその内容を、彼はしかし完全に汲み取った。
「じゃあ、これまでの三年を含めた、十年が欲しい。後七年であんたに届かないなら、僕は諦める。ま、お互い好きじゃなくなったら、その時も断念は有効って事で。……ああ、口だけの訣別は利かないから。あと七年なら、まだ巻き返しも利くだろう? お互いに」
 個人的には長すぎるくらいだが、かといってこれ以上彼は譲りはしないのだろう。
「何か、考えているのかい」
「あんたが国を見捨てられないのなんて知ってるし、その方向性でまあ、国策ついでに色々と。こんな風に取っ掛かりが出来るなんて思わなかったけど、手回しはしとくもんだね。過去の気まぐれに感謝しないと」
 そういえばごく内々で、互いに大使を常駐させる話があったと記憶から目星をつける。まだ内定の段階でさえないが、あるいはそこか。
「まあ、あいつが肯かないなら、その理由が真っ当なら。それでも僕は諦めるよ。それはこちらの力不足だから。……だけど、その理由が禄でもなければ」
 一挙に氷を張ったように、冷えた色合いが眼差しへ宿る。
「最後の手段も、あるいは考える」
「その手段に至った理由、状況如何によっては、私は君を永遠に許さない」
 その言葉は、考えるより早く唇から滑りだした。最後の手段――即ち、侵攻ないし戦争。それに驚きを見せるでもなく、彼は氷結を融解させて苦笑する。
「あんたが許さないなんて、少なくとも今生きてる人間の中では僕だけだろう? それもちょっと捨て難いな」
「笑い事ではないつもりだけれど」
「そうだね。あんたが許さないというなら、それは生涯続くものだろう。そんなの不健全だ。……あんたには、喜怒哀楽の全てを意のままにして欲しい。そういう姿こそ、僕は一番見たい」
 だから、と彼は繋いだ。
「またあんたに届くなら。それがあいつやオモルフォにとって望ましいと思ったなら。今度は諦めて、僕の手を取って欲しい」
 ひたむきに眼差しと共に告げられたその言葉は、懇願の形をした宣告だ。嘆息が漏れた。
「下出に見せて、とんだ傲慢だ」
「あんたが、僕をまだ愛してくれている事は分かったからね」
 僅かに躊躇って、戒めていた感情の綱を緩める。それが、彼に今示せる自分の最大限の誠意だと。
「後から思っていたものと違ったと思っても、冷めても、遅いぞ。私が、私の血が、一度得たものを逃がす事は無い。寿命以外で私の感情から逃げるのならば、あらゆる手段で縛りつける。そうでなければ、殺す」
 我ながら醜悪だと思った発露に彼は、晴れやかに笑った。
「じゃあ僕も、もしもの時は手段を選ばなくて良いんだね。クー」
 最後に添えられた、彼以外呼ぶ者のない愛称に、頭のどこかが痺れるようだ。その目に映る自分が、ひどく情けない顔をしているのが分かる。
 上げた左手を、視線を遮るように翳した。忘れかけていた空気の冷たさを改めて思い出す。
 唐突に、その腕を取られた。髪紐を握りしめたままの手に、夜気以外が触れる。湿って、どちらの方が血の気が通っているのかさえ悩むほどに、冷たくなった互いの手。その中でそこだけ熱を帯びている爪跡に障らないよう、掬われた指使いの柔らかさ。
「見ないでくれ」
「やだよ。あんたをもう少し間近で見ていたい。またしばらくはお預けなんだから」
「セリー」
「聞かない」
 言い切って、その通りとっくりと眺めてくる彼に気恥ずかしさが募る。心なしか、体温も上がったのではなかろうか。沈黙が辛くなってきたところで、相手から再び口火が切られた。
「髪、伸びたね」
「お互いにな。何か意味でも?」
「んー。特には無いかな。そっちは?」
「そうだな……強いて言うなら、罪滅ぼしか」
「あの父親に?」
「それもある」
「ふぅん?」
 こちらを見据えていた彼が、不意に片方の眉だけ器用に跳ね上げる。その視線の先は、首筋。
「嫌味な奴」
「こんな事態を、あれも想定していたとは思えないけれど」
「されてたら困る」
 ぴしゃりと言い捨てて、深々と息を吐いた。そうして引き結ばれた唇が、私の手の甲に触れる。あの日のように。わずか数秒が、ひどく長く思われた。
 惜しむように一度力を強めた指が振り切るように、けれど静かにほどかれる。少し寒い。
「そろそろ戻る。舞踏会も一段落する頃だから」
「そうか」
「今度は、式典にも顔出してよ」
「……考えておく」
「じゃ、またね」
「ああ」
 そうして彼は、一思いに踵を返した。一度も振り返らずに去っていく背中と、そこへ闇から這い出したように侍従の盛装を纏った一人分の影が寄り添ったのを見送る。あの首領の報告で、今夜の事はアストロードも知るところとなるだろう。どの程度伝えるかまでは彼の判断に依るが、全く伝えないという事は有り得ない。

 途中からほとんど存在を失念していた木剣を見下ろして脇に抱え、髪をまとめようとしたところで、やっと気付く。髪紐が無い。地面に目も凝らしたが、落ちている様子もない。今夜は特に風も無かったから飛んで行ったという事もないだろう。となれば、答えは一つ。彼――セイリオスが持って行ったのだ。
 こちらは別に替えもあるし、一本無くなったところで特別困りもしないのだが、強いて言うなら上等な革である以外、飾り気も素っ気もない物をわざわざ持って行く必要も無いだろうに。
 仕様がないので軽く手櫛で整えるに留め、ふと彼に言った言葉を思い出す。罪滅ぼし。父王が目にする機会は無かった伸びた髪を、閨においてアストロードがふと撫で梳いたり顔を埋めてくる事があった。恐らく習慣というか、癖に近いのだろう。髪、あるいは肩に顔を埋めるのは、まだ自分が彼が抱えられるほど幼い頃から、見られた行動ではあったので。幼い頃に限るが、引っ張られた事も何度かある。
 ルクレンティスに赴いた最後の夜。フレスノと軽く庭園を散策していた時、持ち込みを禁じられている武器を隠し持って侵入してきた者達に襲われた。一人はいつだったか、怒鳴りこんできて取り押さえられた顔だ。他の面々も、どことなく記憶にあるのでそれなりの貴族か、有力者の子弟だろう――国内随一とも称される娼館となれば、娼妓と遊ぶにも相応に金は掛かるだろうから、そうならざるを得ないか――。どうも全員フレスノに袖にされ、一人二人は出入り禁止にもされたようで、腹に据えかねているものがあったらしい。ルクレンティスにおいて高位の娼妓には、客を選り好みする権利さえあるのだ。
 幸い、フレスノが即座に隠し持っていた鈴を鳴らし声を上げて警備隊を呼び、退却に徹した事と、ローブを羽織っていたので体格が掴みづらかったのだろう、打ち身がいくらかと二の腕を切りつけられる程度で済んだが、その後が事だった。
 初めの日に通された館主の部屋で手当を受け、一息ついたところへ顔を隠してやって来たアストロードが……有り体に言うならば、威嚇したのだ。館主とフレスノは顔色一つ変えなかったが、コーディは明らかに青ざめ震えていたので、可哀想な事をした。
 その際弟は、座っていた私の少し前に立ち、そう、あの時も髪を撫でた。完全に牽制と独占欲の発露だ。そのままルクレンティスに通い続ける事も出来たが、あるいはあの弟が何をするか分からなかった。それほどの危うさと激情だった。
 だから、もう迷惑はかけられないと、自分から別れを告げ、それきりだ。
 以来、あちらは変わらぬ営業を続けているらしい。――個人的な話は、聞いていない。

 ともあれこういう事態になった以上、アストロードとの関係はもう続けるわけにはいかない。これはあの二人に対して、自分が示せるせめてもの対応。結果がどう転ぶとしても、どれほど熱が欲しくても、もうあの弟に、セイリオス以外の誰かに身を委ねる事を自分に許せない。それは、彼らに対しての不義理だ。遅すぎる判断だと、どこかで嘲笑する声が聞こえる。それでも残された時間の中で、今が一番早いのならば。
 アストロードが王として決断を下すのならば、それが恐らく国として一番望ましい結果だろう。しかし、私情に走った場合は。父王と似た狂気に落ちたら。
 脇に抱えた木剣が、いやに重く感じられる。
 あの弟は私が殺しにかかった時、どういう顔をするのだろうか。末期の父王のように穏やかに息絶えるのか、それとも。
 ただ。一つ決意がある。返す手で自らの命を掻き切るのを、再び止める相手は出さない。もう、二度と。
 それは、譲れなかった。残される者を悲しませると、責任の放棄だと知っていても。だからせめて、国に与える影響は最低限になるよう努めるつもりではある。
 父王の後を追ってやれなかった、王になった弟に寄り添っては生きてはいけない。だから狂った先とはいえ望んだように髪を伸ばすし、もしかつてと同じような事態を招いた場合はせめて、死を共にするという身勝手さの現れである。――人間一人が国に及ぼせる影響などたかが知れているというのに思い上がった、自分への戒めも含めた。
 故にそれも含めた、手前勝手な罪滅ぼし。そして自戒なのだ。その時点で大概なのに、彼と共に生きたいという願掛けまで重ねようとするのは、傲慢に過ぎる。……と、自分に言い聞かせている時点で、既に願ってしまっているのだ。今までのものとは決して相容れない、新たな望みを。どう転んでも何かしら後悔を残す、そんな選択肢を。

 笑って、後ろに髪を払った。
「お前も災難だったね、こんな状況に出くわすなど」
 どこかに控えているであろう隠密に告げる。彼、あるいは彼女にとって裏切りだ。間違いなく。主君である王の愛人が、それ以外の相手に対しての慕情を露わにするなど。
 すっかり体温が移って温くなった壁から身を離して歩き出したところで、ふと横に添う気配があった。視線を流せば、個性を抑えた下働きのお仕着せ。
「木剣を、お預かりします」
 性差も定かではない声。子供では無さそうだが、知らないものだった。
「そうか、では頼もうか。有難う。この後はいつも通り、宿舎へ帰宅する」
「はい」
 抱えていたそれを差し出せば、一礼して姿を消す。その、一連の動作。僅かに見えた探りの色と動揺の中に、しかし害意や反意は無く。
 緩やかに、歩を再開する。
 私に、そこまでの価値は無いのだが。声にしないまま散らした吐息の言葉は、誰に届くことも無い。
 どちらにせよ、これで事態は確実に動く。それは、少なくとも今の停滞よりは、きっと健全なはずだ。……それを自分では為しえなかった事に対する引っ掛かりは些細なもので、自らに対する傲慢である。

 私は今、どんな顔をしているのだろう――。
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