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14:深窓の令嬢
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帝国は大陸の東にある大国で、大陸の中央に向かって楔を打つように西に突出している。北東から南東に掛けては海に面し、南部には多くの小国がひしめいている。ラシュレー家の領する西部突出部は三方を南北二つの強国に挟まれており、以前は覇を競って兵刃を交えていたが、20年前に締結された停戦協定以後は一応の平穏を保っていた。
そして、帝国北部。此処は今もなお、大陸の北に開いた「孔」から無尽蔵に湧き出るアンデッドとの間で、尽きる事のない激烈な戦いが続いていた。
***
陽が沈み、次第に薄暗さを増す森の中で、一隊を率いていた隊長が苦渋の叫びを上げた。
「…畜生っ!下がれ、下がれ!」
彼は大声を上げながら剣を左右に振り回し、押し寄せてくるゾンビを斬り払う。ゾンビの動きは緩慢で、高い技量を持つ彼は複数を相手に互角に渡り合っているが、その剣の切れはいつもより鈍い。彼の顔は悲痛に歪み、振り下ろす剣は相対する敵の中に見知った顔を認めるたびに勢いを失い、彼が身に着けているものと同じ鎧に衝突して虚しく跳ね返されていた。
彼は必死に後退を呼び掛けるが、それに従う騎士はすでに半数を割り込んでいた。彼に従う騎士達の多くが混乱し、中には泣きながら剣を振るう者も居る。彼らは自分の命を守るために振り下ろされた剣を防ぎながら、鍔迫り合いの向こうに見えるかつての同僚達に向かって、必死に訴えた。
「頼むっ!止めてくれ!」
「俺だよっ!何でわからないんだよ!?」
騎士達の懇願にも関わらず、かつての同僚達は虚ろな目を向け、ただただ剣を振り下ろす。その顔色はすでに生者のものとは思えない紫で、明らかに致命傷と思える傷を負っている者も居た。
彼らがかつての仲間達と剣戟を繰り広げる戦場のあちらこちらに、多数の騎士が立ち尽くしていた。その半数は棒立ちしたまま何とか体の自由を取り戻そうと藻掻き、もう半数は陶然とした表情で前方の一点を見つめ、涎を垂らしている。
「畜生っ!動け、動けよ!」
「誰か、助けてくれ!」
「嗚呼…綺麗だ…」
「好い…何て素敵なんだ…」
陶然としたまま涎を垂らす騎士達の視線の先には、一体のアンデッドが浮かんでいた。アンデッドはボロボロのマントを羽織った上半身だけの骸骨で、その体は水晶のように透き通っており、輪郭は水色に輝いている。アンデッドは、まるで舞踏会に出席した令嬢のように躰をしならせながら、奇怪な笑い声を上げていた。
「キャはっ!キャハはハハハはハハハハハははハッ!」
「何ですかっ、あのワイトはっ!?何で聖水が効かないんですかっ!?」
隊長の隣で剣を振るっていた年若い騎士の一人が、半泣きで隊長に訴えた。隊長は、つい一時間前まで自分の部下だったゾンビの腹を蹴り飛ばすと、吐き捨てた。
「あれはワイトなんかじゃないっ!『深窓の令嬢』だ!」
「深窓の令嬢?」
「あぁっ!現在三体しか確認されていない、魂喰らいだ!その瘴気はワイトとは比較にならないほど濃く、噛まれたら即死してゾンビ化する!できるだけ目を見るなっ!レジストに失敗すると、≪魅了≫と≪束縛≫にかかるぞっ!」
「に、逃げましょうよ、隊長っ!」
「ならんっ!」
ゾンビに背中を向けかけていた若い騎士は、隊長の一言に驚愕する。隊長は苦悩に顔を歪ませながらかつての部下の首を刎ね、若い騎士に怒鳴った。
「やっと聖女様の前に現れたんだっ!此処で逃げられたら、また何年もイタチごっこが続く!自らを囮にしてでも、聖女様が到着するまで繋ぎ止めるんだ!」
「そんなっ…!?」
隊長の背中から噴き上がる、その悲愴なまでの覚悟に、若い騎士は呆然とする。その若い騎士の耳に、地面を蹴る多数の蹄の音が聞こえて来た。
「聖女様が来たぞっ!」
若い騎士が背後へと目を向けると、10頭ほどの騎馬の一団が到着していた。先頭の馬には大柄な男が跨り、その後ろに一人の女性がしがみ付いている。男女を含む騎士達はすぐに馬から飛び降り、隊長の周囲へと展開して、ゾンビへと襲い掛かった。
「ゾンビはお任せ下さい!カサンドラ様は、一刻も早く深窓の令嬢をっ!」
「はい!」
騎士達が飛び込んで切り開いた空間に、女性が進み出る。カサンドラと呼ばれた女性は、襟や袖に幾何学模様のあしらわれた白のローブを身に着け、赤い髪をなびかせながら、長い錫杖を振り上げた。
「女神よ、孔より這い出た偽りの生を質し給え!≪聖罰≫!」
カサンドラの詠唱と共に深窓の令嬢の真下に大きな魔法陣が現れ、陣の縁から天空に向かって光の帯が立ち昇る。しかし、深窓の令嬢は光の帯が魔法陣を覆い尽くす前に隙間からするりとすり抜け、直後に魔法陣から立ち昇った巨大な光柱を尻目に、カサンドラへと近づいて来た。
「キャはハハッ!キャはっ!」
「くっ…!」
以前から懸念されていた出掛かりの遅さが露呈し、カサンドラの顔が悔し気に歪む。だが、此処に居る騎士達はおろか帝国全土を見渡しても、魂喰らいの瘴気を上回る聖気を扱える人物は、カサンドラを置いて他に居ない。彼女は錫杖を振りかざし、詠唱を繰り返した。
「≪聖罰≫!≪聖罰≫!女神の七徳をもって七邪を討ち祓わん!≪七聖光≫!」
カサンドラへと向かって来る深窓の令嬢の手前に二つの魔法陣が浮かび上がり、天空へと光の筋が立ち上がる。同時に前方へと突き出した錫杖を取り囲むように七つの魔法陣が現れ、深窓の令嬢を取り囲むように幾筋もの光が放射状に広がる。
途端、地上から上空へと二筋の光柱が立ち昇り、森の中を七筋の光が横切った。その一本一本が人一人容易に包み込むほどの太さで、目が眩むほどの輝きを放つ。数体のゾンビが光に囚われ、煙を上げて瞬く間に蒸発していく。
だが、深窓の令嬢は交差する光の帯をすり抜けながら、着実にカサンドラへと詰め寄って来た。まるで夜会で華麗なワルツを踊る令嬢のようにマントを翻し、パートナーと手を繋ぐように光柱の周囲で円を描き、光に囚われた右腕から白煙を上げながら、高らかな笑い声を上げてカサンドラへと襲い掛かる。
「きゃはハハハハハっ!アハハハハハはハハハハハはぁ!」
「バ、≪聖罰≫!きゃああああぁっ!」
「カサンドラ様っ!」
深窓の令嬢が口を開け、カサンドラに噛みつこうとしたその時、横合いから大柄な男が両手を広げ、深窓の令嬢へと飛び掛かった。男は深窓の令嬢を抱き締め、そのまま深窓の令嬢共々地面へと身を投げ打つ。深窓の令嬢が身を捩り、男の右腕に噛みついた。
「ぐあああああぁあああぁっ!」
「ヴァレリー!?」
「わ、私に構わず、早くトドメをっ!」
カサンドラが悲鳴を上げるが、ヴァレリーと呼ばれた男は激痛に顔を歪めながらも深窓の令嬢を放さず、カサンドラを叱咤する。男の怒声にカサンドラは弾かれたように身を正し、錫杖を振り下ろした。
「≪聖罰≫!」
男と深窓の令嬢の周囲に魔法陣が浮かび上がり、幾筋もの光が立ち昇って光柱へと成長する。光柱の中心で男に抱きかかえられながら暴れる深窓の令嬢の体から白煙が上がり、次第に形が崩れていく。
「キャハっ!?キャッきゃっ…キャはハハ…ハ…」
「はぁ、はぁ、はぁ…」
やがてゾンビとは比べ物にならないほど長い時間を掛けて深窓の令嬢が消滅すると、カサンドラは地面に膝をつき、錫杖で体を支えながら荒い息を繰り返した。彼女は呼吸も整わないまま膝立ちで男の許へ近づき、地面に蹲ったまま苦しむ男の右腕を取る。
「はぁ、はぁ…ヴァレリー、右手…を、見せて下さい…」
「ぐぅっ!がぁあああああああああぁっ!?」
「…うっ!?何て酷いっ!誰か、彼の手を押さえてっ!傷口には触らないでっ!」
絶叫を上げる男に構わず、右腕の籠手を外したカサンドラは、傷口を見た途端悲鳴を上げた。男の右腕は手首から前腕に掛けて水色と紫の斑模様に変色し、しかも掌と肘に向かって滲むように広がりを見せている。彼女は周囲の騎士を呼び止めると男の体を押さえさせ、両膝立ちのまま錫杖を手に持ち、その先端を男の右腕へと添えた。
「女神よ、七徳をもって彼の者を蝕む邪を追い祓い給え。≪聖浄≫!」
錫杖の先端に光の玉が浮かび、男の右腕を包み込んだ。右腕の痣は光とせめぎ合うように一進一退を繰り返し、やがて渋々と後退を始める。錫杖を右手に持ち、左手を顔の前に掲げて印を組み瞑想を続けるカサンドラの額に、幾つもの汗の玉が浮かび上がる。
「っぷはぁ!…はぁ、はぁ、はぁ…」
「聖女様っ!?」
「カサンドラ様、しっかりなさって下さい!」
そうして10分近く経過した頃、カサンドラは突然勢いよく息を吐き出した。彼女は錫杖を右手で掴んだまま四つん這いになり、暫くの間苦しそうに肩で息を繰り返す。周囲の騎士達が心配そうに見守る中、彼女は息を荒げながら、やっとの事で顔を上げた。
「はぁ、はぁ、はぁ…ヴァ、ヴァレリーは…?」
カサンドラの視界に、地面に蹲ったまま気絶している男の姿が映し出される。その右腕は陽に灼け野戦に明け暮れた、力強さに満ちた薄茶色に染まり、不吉な水色と紫の痣は微塵も見当たらなかった。その姿を見たカサンドラは、安堵のあまり四つん這いのまま崩れ落ちて地面に蹲った。
「聖女様っ!?」
「お、お願い、ちょっとだけ待って…はぁ、はぁ、はぁ…」
周囲の騎士達の気遣いの言葉に答える余裕もなく、カサンドラは地面に蹲ったまま深呼吸を繰り返す。その白いローブは土と汚れに塗れ、長い髪に沢山の草の葉が絡み付くのも構わず、彼女は体内を駆け巡る達成感と、この先に横たわる途方もない長い戦いを前にして、打ちのめされていた。
「はぁ、はぁ、はぁ…や、やっと一体…」
聖女になって10年。その間、彼女はただひたすら魂喰らいを追い求め、帝国中を駆けずり回った。北に開いた「孔」から這い出た者達の中で、不死王に次いで恐れられる、三体の魂喰らい。帝国を含む大陸北部の至る所に神出鬼没で現れ、周囲に絶望を撒き散らす、死の宣教者。その一体が、10年かけてようやく倒せた。
「聖女様、御手を」
「…ありがとう」
ようやく落ち着きを取り戻したカサンドラは、騎士の手を借りながらゆっくりと立ち上がった。担架で運ばれていく男の姿を眺めながら、物思いに沈む。
帝国には自分を含め二名の聖女が居るが、妹分のフランシーヌは回復特化で、浄化力に劣る。他の国の聖女が討伐したとの声も、聞こえてこない。自分が前線に居られるのも、せいぜいあと10年。それまでにあと二体、自分一人で倒さなければならない。カサンドラはこれからも続く気の遠くなるような戦いを前に、己を奮い立たせるかのように低く呟いた。
「…あと、二体。黄金色に輝き全てをひれ伏させる『女帝』と、――― 暗闇に舞い恐怖と混乱を撒き散らす、『黒衣の未亡人』」
そして、帝国北部。此処は今もなお、大陸の北に開いた「孔」から無尽蔵に湧き出るアンデッドとの間で、尽きる事のない激烈な戦いが続いていた。
***
陽が沈み、次第に薄暗さを増す森の中で、一隊を率いていた隊長が苦渋の叫びを上げた。
「…畜生っ!下がれ、下がれ!」
彼は大声を上げながら剣を左右に振り回し、押し寄せてくるゾンビを斬り払う。ゾンビの動きは緩慢で、高い技量を持つ彼は複数を相手に互角に渡り合っているが、その剣の切れはいつもより鈍い。彼の顔は悲痛に歪み、振り下ろす剣は相対する敵の中に見知った顔を認めるたびに勢いを失い、彼が身に着けているものと同じ鎧に衝突して虚しく跳ね返されていた。
彼は必死に後退を呼び掛けるが、それに従う騎士はすでに半数を割り込んでいた。彼に従う騎士達の多くが混乱し、中には泣きながら剣を振るう者も居る。彼らは自分の命を守るために振り下ろされた剣を防ぎながら、鍔迫り合いの向こうに見えるかつての同僚達に向かって、必死に訴えた。
「頼むっ!止めてくれ!」
「俺だよっ!何でわからないんだよ!?」
騎士達の懇願にも関わらず、かつての同僚達は虚ろな目を向け、ただただ剣を振り下ろす。その顔色はすでに生者のものとは思えない紫で、明らかに致命傷と思える傷を負っている者も居た。
彼らがかつての仲間達と剣戟を繰り広げる戦場のあちらこちらに、多数の騎士が立ち尽くしていた。その半数は棒立ちしたまま何とか体の自由を取り戻そうと藻掻き、もう半数は陶然とした表情で前方の一点を見つめ、涎を垂らしている。
「畜生っ!動け、動けよ!」
「誰か、助けてくれ!」
「嗚呼…綺麗だ…」
「好い…何て素敵なんだ…」
陶然としたまま涎を垂らす騎士達の視線の先には、一体のアンデッドが浮かんでいた。アンデッドはボロボロのマントを羽織った上半身だけの骸骨で、その体は水晶のように透き通っており、輪郭は水色に輝いている。アンデッドは、まるで舞踏会に出席した令嬢のように躰をしならせながら、奇怪な笑い声を上げていた。
「キャはっ!キャハはハハハはハハハハハははハッ!」
「何ですかっ、あのワイトはっ!?何で聖水が効かないんですかっ!?」
隊長の隣で剣を振るっていた年若い騎士の一人が、半泣きで隊長に訴えた。隊長は、つい一時間前まで自分の部下だったゾンビの腹を蹴り飛ばすと、吐き捨てた。
「あれはワイトなんかじゃないっ!『深窓の令嬢』だ!」
「深窓の令嬢?」
「あぁっ!現在三体しか確認されていない、魂喰らいだ!その瘴気はワイトとは比較にならないほど濃く、噛まれたら即死してゾンビ化する!できるだけ目を見るなっ!レジストに失敗すると、≪魅了≫と≪束縛≫にかかるぞっ!」
「に、逃げましょうよ、隊長っ!」
「ならんっ!」
ゾンビに背中を向けかけていた若い騎士は、隊長の一言に驚愕する。隊長は苦悩に顔を歪ませながらかつての部下の首を刎ね、若い騎士に怒鳴った。
「やっと聖女様の前に現れたんだっ!此処で逃げられたら、また何年もイタチごっこが続く!自らを囮にしてでも、聖女様が到着するまで繋ぎ止めるんだ!」
「そんなっ…!?」
隊長の背中から噴き上がる、その悲愴なまでの覚悟に、若い騎士は呆然とする。その若い騎士の耳に、地面を蹴る多数の蹄の音が聞こえて来た。
「聖女様が来たぞっ!」
若い騎士が背後へと目を向けると、10頭ほどの騎馬の一団が到着していた。先頭の馬には大柄な男が跨り、その後ろに一人の女性がしがみ付いている。男女を含む騎士達はすぐに馬から飛び降り、隊長の周囲へと展開して、ゾンビへと襲い掛かった。
「ゾンビはお任せ下さい!カサンドラ様は、一刻も早く深窓の令嬢をっ!」
「はい!」
騎士達が飛び込んで切り開いた空間に、女性が進み出る。カサンドラと呼ばれた女性は、襟や袖に幾何学模様のあしらわれた白のローブを身に着け、赤い髪をなびかせながら、長い錫杖を振り上げた。
「女神よ、孔より這い出た偽りの生を質し給え!≪聖罰≫!」
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「キャはハハッ!キャはっ!」
「くっ…!」
以前から懸念されていた出掛かりの遅さが露呈し、カサンドラの顔が悔し気に歪む。だが、此処に居る騎士達はおろか帝国全土を見渡しても、魂喰らいの瘴気を上回る聖気を扱える人物は、カサンドラを置いて他に居ない。彼女は錫杖を振りかざし、詠唱を繰り返した。
「≪聖罰≫!≪聖罰≫!女神の七徳をもって七邪を討ち祓わん!≪七聖光≫!」
カサンドラへと向かって来る深窓の令嬢の手前に二つの魔法陣が浮かび上がり、天空へと光の筋が立ち上がる。同時に前方へと突き出した錫杖を取り囲むように七つの魔法陣が現れ、深窓の令嬢を取り囲むように幾筋もの光が放射状に広がる。
途端、地上から上空へと二筋の光柱が立ち昇り、森の中を七筋の光が横切った。その一本一本が人一人容易に包み込むほどの太さで、目が眩むほどの輝きを放つ。数体のゾンビが光に囚われ、煙を上げて瞬く間に蒸発していく。
だが、深窓の令嬢は交差する光の帯をすり抜けながら、着実にカサンドラへと詰め寄って来た。まるで夜会で華麗なワルツを踊る令嬢のようにマントを翻し、パートナーと手を繋ぐように光柱の周囲で円を描き、光に囚われた右腕から白煙を上げながら、高らかな笑い声を上げてカサンドラへと襲い掛かる。
「きゃはハハハハハっ!アハハハハハはハハハハハはぁ!」
「バ、≪聖罰≫!きゃああああぁっ!」
「カサンドラ様っ!」
深窓の令嬢が口を開け、カサンドラに噛みつこうとしたその時、横合いから大柄な男が両手を広げ、深窓の令嬢へと飛び掛かった。男は深窓の令嬢を抱き締め、そのまま深窓の令嬢共々地面へと身を投げ打つ。深窓の令嬢が身を捩り、男の右腕に噛みついた。
「ぐあああああぁあああぁっ!」
「ヴァレリー!?」
「わ、私に構わず、早くトドメをっ!」
カサンドラが悲鳴を上げるが、ヴァレリーと呼ばれた男は激痛に顔を歪めながらも深窓の令嬢を放さず、カサンドラを叱咤する。男の怒声にカサンドラは弾かれたように身を正し、錫杖を振り下ろした。
「≪聖罰≫!」
男と深窓の令嬢の周囲に魔法陣が浮かび上がり、幾筋もの光が立ち昇って光柱へと成長する。光柱の中心で男に抱きかかえられながら暴れる深窓の令嬢の体から白煙が上がり、次第に形が崩れていく。
「キャハっ!?キャッきゃっ…キャはハハ…ハ…」
「はぁ、はぁ、はぁ…」
やがてゾンビとは比べ物にならないほど長い時間を掛けて深窓の令嬢が消滅すると、カサンドラは地面に膝をつき、錫杖で体を支えながら荒い息を繰り返した。彼女は呼吸も整わないまま膝立ちで男の許へ近づき、地面に蹲ったまま苦しむ男の右腕を取る。
「はぁ、はぁ…ヴァレリー、右手…を、見せて下さい…」
「ぐぅっ!がぁあああああああああぁっ!?」
「…うっ!?何て酷いっ!誰か、彼の手を押さえてっ!傷口には触らないでっ!」
絶叫を上げる男に構わず、右腕の籠手を外したカサンドラは、傷口を見た途端悲鳴を上げた。男の右腕は手首から前腕に掛けて水色と紫の斑模様に変色し、しかも掌と肘に向かって滲むように広がりを見せている。彼女は周囲の騎士を呼び止めると男の体を押さえさせ、両膝立ちのまま錫杖を手に持ち、その先端を男の右腕へと添えた。
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「っぷはぁ!…はぁ、はぁ、はぁ…」
「聖女様っ!?」
「カサンドラ様、しっかりなさって下さい!」
そうして10分近く経過した頃、カサンドラは突然勢いよく息を吐き出した。彼女は錫杖を右手で掴んだまま四つん這いになり、暫くの間苦しそうに肩で息を繰り返す。周囲の騎士達が心配そうに見守る中、彼女は息を荒げながら、やっとの事で顔を上げた。
「はぁ、はぁ、はぁ…ヴァ、ヴァレリーは…?」
カサンドラの視界に、地面に蹲ったまま気絶している男の姿が映し出される。その右腕は陽に灼け野戦に明け暮れた、力強さに満ちた薄茶色に染まり、不吉な水色と紫の痣は微塵も見当たらなかった。その姿を見たカサンドラは、安堵のあまり四つん這いのまま崩れ落ちて地面に蹲った。
「聖女様っ!?」
「お、お願い、ちょっとだけ待って…はぁ、はぁ、はぁ…」
周囲の騎士達の気遣いの言葉に答える余裕もなく、カサンドラは地面に蹲ったまま深呼吸を繰り返す。その白いローブは土と汚れに塗れ、長い髪に沢山の草の葉が絡み付くのも構わず、彼女は体内を駆け巡る達成感と、この先に横たわる途方もない長い戦いを前にして、打ちのめされていた。
「はぁ、はぁ、はぁ…や、やっと一体…」
聖女になって10年。その間、彼女はただひたすら魂喰らいを追い求め、帝国中を駆けずり回った。北に開いた「孔」から這い出た者達の中で、不死王に次いで恐れられる、三体の魂喰らい。帝国を含む大陸北部の至る所に神出鬼没で現れ、周囲に絶望を撒き散らす、死の宣教者。その一体が、10年かけてようやく倒せた。
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「…ありがとう」
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帝国には自分を含め二名の聖女が居るが、妹分のフランシーヌは回復特化で、浄化力に劣る。他の国の聖女が討伐したとの声も、聞こえてこない。自分が前線に居られるのも、せいぜいあと10年。それまでにあと二体、自分一人で倒さなければならない。カサンドラはこれからも続く気の遠くなるような戦いを前に、己を奮い立たせるかのように低く呟いた。
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