失われた右腕と希望の先に

瑪瑙 鼎

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第2章 ハンター

24:盲目と苦痛と絶望の中で

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「ぎぃぃぃいぃいいいいぃぃっ!いいいいいぃっ!いいいぃぃぃぃぃっ!」

 シモンは、全身を激痛に苛まれ、誰かが発する絶叫に耳を乱打されていた。痛みから逃れようと体を起こそうとするが、何処も動かす事ができない。助けを呼ぼうとしても、声が出なかった。口が開かず、舌は圧迫され痛みが走る。何処か口が切れたのだろうか、口の中に鉄の味が広がり始めた。

「うわぁぁぁぁぁぁぁっ!」
「悪魔だっ!シモンに悪魔が憑いたっ!」
「急げっ!悪魔が孵化する前に、逃げろっ!早く逃げるんだぁっ!」

 何とか助けを求めようとするシモンの耳に、信じられない単語が飛び込んでくる。悪魔憑き?誰が?大変だ、急いで逃げないと。頼む、誰か起こしてくれっ!

 そう思ってシモンは声を張り上げるが、誰にも聞こえなかったようだ。相変わらず耳障りな喚き声が鳴り響き、自分の声がかき消されてしまう。シモンは、固く閉じた口を何とか動かして、相手に呼びかけようとする。

 ジル、起こしてくれっ!ドナっ!コレット、何処だ!…イレーヌ、レオ?…フルールは隣にいたよね?フルール、何処?返事をしてくれ!

 シモンは一人ずつ相手の名を呼び、応えを待つ。喚き声が邪魔で返事が聞こえない。もう一度声を張り上げようとして、舌が引き千切られるような激痛が走る。

 え?何で私、舌を噛んでいるんだ?え、私?悪魔って私の事?

 自分が舌を噛み切ろうとしている事実と、悪魔憑きの言葉が結び付き、シモンは自分の身に起きた事を知る。そして襲い掛かってくる恐怖の正体を知り、絶叫をあげた。

 あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!嫌だああああああああああああああぁぁぁっ!助けて!助けて!誰か!助けて!私は悪魔なんかに身を捧げたくないっ!そんなの嫌だぁっ!

 彼女の心からの慟哭は、しかし声になる事はなく、ただただ喚き声だけが聞こえてくる。そう思う間も、体は彼女の言う事を利かず反り返りがきつくなっていき、背中が軋みをあげていた。何故か後頭部と踵だけに石の感触があり、背中に地面の感触がない。自分が胸を反らして、悪魔に心臓を捧げようとしている事に気付き、何とか悪魔に心臓を持っていかれないように、身を捩ろうと藻掻いた。

 そして突然、彼女は、暗黒と静寂の中に突き落とされた。何も見えず、何も聞こえない。ただ全身を苛む激痛だけが、彼女に寄り添っていた。自分がついに悪魔に身を捧げ、悪魔の体内で報酬を受け取ってしまったと悟った彼女は、悪魔に首を垂れ、泣いて懇願する。

 お願いします。返して下さい。私の心臓を返して下さいっ!言う事を聞くから!何でもするからっ!だから、お願いっ!私の心臓を返してっ!

 すでにその言葉に、男性と見紛うほどの凛々しさはない。彼女の心は折れ、暗黒と静寂の中、動かない体で泣きながら、悪魔に寛恕を求めていた。しかし、悪魔は心臓を返してくれない。そればかりか、更なる供物を要求してくる。

 あ、嫌っ!やめてっ!お願いだから止めてっ!何でもするから、私の舌を持っていかないでっ!お願いっ!お願いだからぁぁぁぁっ!

 悪魔が彼女の口に、堅いゴツゴツとした指を入れ、舌を奪いに来た。彼女は先ほどまで口を開こうと頑張っていたが、今度は何とか舌を奪われまいと、力の限り歯を食いしばる。しかし悪魔の力は強く、彼女の努力も空しく徐々に口が開かれていく。そして、ついに悪魔の指が彼女の舌を掴んだ。舌を引き千切ろうとする悪魔の咆哮が聞こえてくる。

「があああぁああぁぁぁあああああぁぁぁぁぁぁっ、おごぉおおおおぉぉおぉぉぉおおおぉぉぉぉっ!」

 嫌あああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!許して下さいっ!何でもしますっ!何でもしますからぁっ!だから、舌だけは取らないでっ!お願いします!お願い!お願いだからぁっ!

 指で舌を掴んだまま動かない悪魔に対し、彼女は土下座し、泣き喚き、懇願する。自分の終焉の扉が開くのを目の当たりにした彼女は、恐怖のあまり失禁した。

 そこには、今までのシモンの姿はなかった。絶対的な恐怖の前に、これまで彼女を支え構成していた全ての要素が、剥ぎ取られていた。A級ハンターの矜持も、銀狼の誇りも、見目麗しい女性の自尊心も、全てが蒸発していた。卵の殻を全て剥ぎ取られ、剥き出しの黄身を曝け出した彼女は、黄身を指で摘まんだ悪魔に対しひたすら首を垂れ、祈り続けた。

 ごめんなさい!ごめんなさい!許して、許してっ!やだあああぁぁぁぁっ!

 すると彼女の祈りが通じたのか、悪魔は舌から指を離し、手を引っ込める。彼女の舌は奪われる事なく、彼女の手元に残った。

 あぁぁ、ありがとうございます!ありがとうございます!ありがとうございます!

 彼女は涙を流し、激痛の中でひれ伏して、悪魔に感謝を述べた。



 ***

 こうして彼女は剥き出しの黄身だけとなった姿で、光も音もない地獄の中、苦痛の揺り籠に身を委ねる事になった。今や彼女は、寒空の下に捨てられた赤ん坊だった。孤独と痛みに身を震わせ、しかし自分では何もできず、新たな里親が自分を見つけてくれる事を祈って、泣き続ける事しかできなかった。そんな彼女を悪魔は思うままに弄び、今度は彼女の左手足に噛み付いて黄身を啜り始めた。彼女は悲鳴をあげ、身を捩って逃れようとする。

 嫌だあああああぁぁっ!痛いよっ!痛いよっ!お願い、止めてよぉっ!誰か助けてよおおぉぉっ!

 彼女の助けを呼ぶ声は、しかし誰も応えてくれない。彼女の悲鳴を余所に悪魔は存分に左手足をしゃぶり、やがて食べ飽きたのか、悪魔はまた去って行った。残された彼女は、それでも揺り籠が齎す痛みに身を震わせ、膝を抱え、刻一刻と小さくなっていく。

 やだよぉぉ…誰か助けてよぉぉ…ここから出してぇ…パパぁ…ママぁ…。



 …そんな彼女を、里親が拾い上げてくれた。



 怯え、震え、小さくなっていた彼女の右腕に、誰かの手が添えられた。それは左手だった。地獄に落ちて初めての、痛くない、温かいものだった。彼女は目も見えず、音も聞こえず、体も動かないまま、誰のものともわからないその左手に縋りつき、助けを求めた。

 お願いっ!助けて!ここから出して!私をここから出して!お願いっ!お願いだから!もぉ痛いのやだああぁぁぁぁぁぁっ!

 男のものと思しきその左手は、しかし彼女の助けに応えてくれず、彼女を地獄から出してくれない。それでも彼以外に救いを求める者がいない彼女は痛みから逃れようと、ただひたすら彼に縋りつき、懇願し続けた。

 お願い、お願いだからぁ…もうやだよぉ…痛いのやだよぉ。私を助けてよぉ…。

 左手は、それでも動かない。しかし…

 あ…。

 痛みが、引いてきた。彼女の反り返っていた背中が徐々に戻り、凝り固まった手足が徐々に動かせるようになる。目と耳は未だに利かないが、苦痛が和らぎ、体が軽くなっていくのを感じる。

 あああぁぁぁぁぁぁぁ…ありがとう…ありがとう、ありがとう、ありがとう!

 痛みからではない、別の感情に満たされた涙を流し、彼女は音もなく嗚咽を立てる。何とかその左手に触れようと腕を動かすが、体はいう事を利かず、強張りが邪魔をする。

 ありがとう、ありがとう、ありがとう…。

 心の中で繰り返し感謝の言葉を述べる彼女は、ついに左手に触れる事ができないまま、泥の様な眠りに落ちて行った。



 その日から、光と音のない世界での、「父」との生活が始まった。



 ***

 彼女は毎日、暗闇と静寂の中、何度も地獄に落とされ、苦痛の揺り籠に入れられた。その都度、体に激痛が走り、背中は反り返り、自分の意に反して心臓を差し出そうとした。そして舌を噛み切って悪魔に捧げようとした。そのたびに彼女は泣き、喚き、懇願し、糞尿をまき散らし、そして「父」に縋りついた。

 パパっ!助けて!嫌だあぁぁぁっ!痛いよぉ、やだよぉ…助けてよぉ…パパぁ…。

「父」は、悪魔に対して無力だった。「父」がいても、悪魔は容赦なく彼女を要求し、いたぶった。しかし、「父」は無力だったが、常に彼女の隣にいた。その左手は必ず彼女の何処かにいて、彼女を温めてくれた。そして、彼女はその左手に縋りつき、しがみついて泣き喚き、悪魔が去るのを待ち続けた。

 彼女が激痛に悶え、舌を噛み切ろうとした時、幾度となく彼女の口の中に、何かが無理矢理入ってきた。彼女は最初、舌を奪い取ろうとする悪魔の指だと思い、必死に抵抗していたが、その指はしばらく彼女の舌を押さえると、必ず指を引っ込めた。そして、その後必ず痛みが引いた。やがて、その指が「父」の左手であり、彼女の舌を悪魔から守っているのだと知ると彼女は歓喜し、以後彼女は舌を「父」の手に委ね、悪魔から舌を守ってもらった。

 悪魔が去ると、「父」は彼女の体に付いた汚物を拭い取り、彼女を綺麗にしてくれた。彼女は彼の優しさに感謝し、綺麗になれた事を無邪気に喜んだ。彼は不器用で、彼女の体を拭うその動きはいつまでたってもぎこちないものだったが、その感触は目も耳も体も動かない彼女にとって安らぎとなり、彼女は体を拭われるたびに、その感触を楽しんだ。

 悪魔に襲われていない時には、「父」の手は、だいたい彼女の右腕に据え置かれていた。彼女はその手の温かさに安らぎを覚えると、すぐにうつらうつらとしてしまった。時々彼の左手がいなくなると、彼女は自分が置き去りにされていないか不安になり、目と耳が利かない中、手探りで彼を探しまわった。



 悪魔が、だんだん来なくなった。



 ある日、「父」が「話しかけて」きた。

 ゴ、ハ、ン、タ、ベ、ル、?

 彼女の右腕に、彼の指が走った。

 ご飯?そう言えば、長い間食事をしていなかった。彼女は地獄に落ちてから食事をしていない事を思い出し、自分の胃を意識する。おなかが空いていた。何でも良いから食べたかった。

 彼女はコクリと頷く。すると、また彼の指が走る。

 マ、テ

 言われるがままに暫く待つと、半身を起こされ、今度は右頬を指で突かれる。思わず口を開けると、中にスプーンが入ってきた。

 おかゆだった。

 彼女は、おかゆをゆっくりと噛みしめ、味わった。美味しかった。今までに食べた事もないような美味しさだった。彼女は涙を流し、おかゆを味わった。一口食べ終わって彼女が口を開けると、またスプーンが口の中に入ってきた。彼女は雛鳥のように、「父」から餌を与えられ、ゆっくりとおかゆを食べた。

 おかゆを食べて少し寝ていると、彼女はトイレに行きたくなった。彼女は彼の左手に人差し指を立て、指を這わせる。

 ト、イ、レ

 すると彼はごそごそと動き出すと、彼女を立たせて手を引き、数歩歩いたところで座らせようとする。そこには便座があった。

 彼は、彼女が便座に座るとその場から離れようとしたが、彼女は彼の左手を掴んで離さない。何も見えないまま彼の方を向き、声が出ないまま、泣いて彼に懇願する。

 やだっ!行っちゃやだぁ!お願い、ここにいてぇ!

 彼が諦めて、その場に佇んでくれているのを知った彼女は、手を繋いだまま、安心して用を足した。



 悪魔があまり来なくなると、彼は、彼女の粗相の時だけではなく、全身も洗ってくれるようになった。彼は最初、お湯に濡れたタオルを彼女に渡してくれたが、彼女の手が強張って上手く動かせない事を知ると、彼女の服を脱がせ、全身を拭いてくれた。彼女の尖った耳も長い髪も、汚れてしまった尻尾も、彼が持ってきた手桶のお湯で、綺麗に流してくれた。彼女は彼が髪や尻尾を梳かす感覚を楽しみ、梳かしている間、鼻歌を歌っていた。



 ***

 5日間、悪魔が来なかった。

 彼女の体はだいぶ強張りが取れ、自由が利くようになっていた。そうすると彼女は暇を持て余し、「父」の手を追い回して遊ぶようになっていた。手探りで「父」の手を探し、見つけると両手で捕まえようとするが、すでに「父」の手は何処かに行っていなくなっていた。彼女は布団にかかる重みを頼りに逃げた先のアタリをつけ、手を伸ばして追い掛け回した。

 彼女が何度目かの「父」の手を捕らえた時、彼は彼女の手を振りほどき、彼女の腕に指を走らせた。



 オ、ト、キ、カ、セ、ル

 彼女はその意味を知り、動けなくなった。

 彼女が、揺り籠から出る日が来た。
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