失われた右腕と希望の先に

瑪瑙 鼎

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第6章 束の間の平穏

101:マティアスの結婚

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「…あ、お尻がきつくなってる」
「え、ホントに?」

 スカートを上げていた美香が呟き、それを聞いたレティシアが、美香のお尻を覗き込んだ。

「これ、去年も借りたスカートだよね?ほら…ん…、よっと」
「ホントだ。でも、腰回りは変わってなさそうね。上はどう?」
「上は…、あ、こっちも少しきつくなってるわ」
「どれどれ?」

 そう疑問の声を上げたレティシアは、美香の後ろに回ると、脇の下から両手を差し込んで、美香の胸の上に手を回す。

「あ、ちょっと、こら!何やってるの、あなた」
「あ、ミカ、ちょっと動かないでよ」

 慌てて脇を絞める美香をレティシアは声で制し、美香の胸に手を当てたまま、動かなくなる。そんなレティシアに美香は釈然としないものを感じながらも、レティシアが手を抜いてくれないと着替えが進まないので、暫くの間二人とも動きを止めた。

 やがて、美香の胸から手を離したレティシアは、両手をそのままの形で自分の胸に当てて、呟いた。

「…ホントだ。私より1セルドくらい大きくなってる」
「ちょっと、あなた、なんつー測り方してるのよ」
「だって、これが一番、微妙な標高差がわかるのよ?」
「標高言うな」

 自分の胸に手を当てながらきょとんとした顔で返事をするレティシアに、美香はツッコミを入れ、そして下を向いて考え込む。

「でも、変だな。こっちに召喚されるまでは、ほとんど成長が止まっていたはずなんだけど…」
「…もしかして、ゲルダのおかげ?」
「え、嘘!?ちょっと待って!」
「だって、大きくなったの、胸とお尻だけでしょ?」
「…」

 口を開けたまま動かなくなった美香を見て、レティシアが提案する。

「…お礼でも言っておく?」
「いや、駄目だから!お礼言ったら、レベルアップするから!貞操の危機だから!」



 二人が半裸で漫才をする羽目になったのは、その日、レティシアの兄マティアスの結婚式が行われるからだった。マティアスは、美香が召喚された頃と同時期に、デボラとの婚約を発表していた。そして、それから1年半を経た今日、ようやく式を迎える事ができた次第である。

「申し訳ありません、お母様。遅くなりました」

 漫才のおかげで着替えに時間がかかったレティシアは、美香の手を引き、アデーレの下へと向かう。レティシアの声を聞いたアデーレは振り向き、目を細めた。

「あら、二人とも煌びやかになったわね。ミカさん、似合ってるわよ」
「あ、アデーレ様、ありがとうございます」

 アデーレは美香の許に近づくと、手を伸ばして美香の胸元を整える。そのアデーレの愛情の篭った手つきを見て、美香は母親に世話されている様な感覚を覚え、頬を染めた。

 その日の美香とレティシアは、お揃いのエーデルシュタインの伝統衣装に身を包んでいた。前開きの、胸元まで襟が深く開けた袖なしの胴衣を背中のラインに沿って絞め、同色で膝丈までの高さのスカートが、まるでスズランの花の様にふっくらと広がっている。胴衣の内側は、同じく胸の開いた白の半袖のブラウスで身を包み、スカートの前には鮮やかなエプロンが華を添えていた。そんなお揃いの二人の姿は、まるで鮮やかな2輪挿しの花の様だった。

 現在、エーデルシュタインの貴族階級ではヴェルツブルグの流行に乗った煌びやかな最新の衣装が好まれており、ヴェルツブルグで開催される舞踏会や結婚式は、皆派手で豪勢な衣装に身を包んでいる。しかし、ここディークマイアー辺境伯領では、当主であるフリッツもアデーレも、領民と同じ素朴な伝統衣装に身を包み、式に臨もうとしていた。北辺の武の要であるディークマイアー家は、華美な儀典を良しとせず、長子の結婚を領民とともに祝おうとしていた。

 フリッツの計らいでハーデンブルグにはいくつもの露店が立ち並び、ディークマイアー家からの恩賞によって住民達に多くの料理や酒が振る舞われた。また、雑技団による催し物も開催され、ハーデンブルグの住民は、今年限りの季節外れのお祭りに酔いしれていた。

「デボラ」
「レティシア様、ミカ様」

 レティシアが美香と手を繋ぎ、花嫁の下へと歩み寄って声をかける。何人もの女中に身を整えられていたデボラが、レティシアの声を聞き、ゆっくりと振り返った。

 デボラはディークマイアー家に代々仕える重臣の娘で、一時期、フリッツの長子マティアスに侍女として仕えていた。ダークブラウンのウェーブのかかった髪を持ち、レティシアや美香には及ばないものの、十分に美しい顔立ちをしている。物静かで大人しく、一歩引いて相手を立てる気配りができ、アデーレとレティシアという女傑に囲まれて成長したマティアスは、デボラの海の様な包容力に惹かれ、生涯の伴侶に選んだのである。

 この日のデボラは、純白の伝統衣装に身を包み、美しく波打つ髪に鮮やかな花冠が華を添えていた。大小様々な花に彩られたブーケを持ち、レティシアの方を向いて、柔らかい、全てを受け入れるかの様な微笑みを浮かべるデボラの姿に、レティシアはほぉっと息をつき、口を開く。

「素敵よ、とっても似合っているわ、デボラ。…いえ、これからは、お義姉様とお呼びすべきね。よろしくお願いしますね、デボラお義姉様」

 レティシアの発言に、デボラは頬を染める。

「そんな、レティシア様。私の事はこれまで通り、デボラとお呼び下さい」
「そうはいかないわよ。これからのあなたは、ディークマイアー辺境伯次期当主の妻なのよ?威厳を保つためにも、その呼ばれ方に慣れないと。しっかりと妻としての務めを果たさなきゃ。…まあ、慣れないのは私も同じよ。お互い、1年くらいかけて馴染んでいきましょう。お兄様をよろしく頼みます」
「…はい、ありがとうございます、レティシア様。マティアス様は、私の一生を懸けて支えて参ります」

 レティシアの言葉にデボラは頷き、柔らかい笑みを浮かべる。その笑みはまるで姉の様な慈しみに溢れており、マティアスがデボラの何処に惹かれたのかを、存分に表していた。

 美香はその笑みに魅せられ、暫くの間黙っていたが、デボラの視線が美香に向いた事に気づくと、慌てて口を開く。

「デボラさん、ご結婚、おめでとうございます。花嫁姿、とても素敵です。マティアス様とともに、末永くお幸せになって下さい」

 美香の祝いの言葉に、デボラは変わらず慈しみ溢れる笑みを浮かべ、礼を述べた。

「ありがとうございます、ミカ様。こちらこそ、ミカ様には私からお願いさせて下さい。レティシア様をよろしくお願いします。義妹を幸せにしてあげて下さい」
「え、それってどういう…?」
「もちろん、ミカ様のお考えの通りですわ」

 突然の奇襲に狼狽える美香を前に、デボラは変わらない笑みを浮かべる。言葉が続かなくなった美香に代わって、レティシアが口を開いた。

「ありがとう、お義姉様。私達もお義姉様に負けない、幸せな家庭を作るわ」
「ええ、レティシア様、ミカ様、お二方こそ末永くお幸せになって下さい」
「え、ちょっと待って、発言逆になってない!?」

 場を考えず思わずツッコミを入れてしまう美香に対し、デボラは動じず、柔らかく受け止めてしまう。流石は、海の様な包容力を持つ女。略して海の女。海面が波立っていないだけで、許容量やら物事に動じない様は、アデーレに通ずるものがあるようだ。というか、デボラさん、あなたは何故それを知ってるの?

「デボラ」

 目の前でわたわたする美香を妹の様に眺めていたデボラは、名前を呼ばれると満面の笑みを浮かべて振り返る。

「マティアス様!」

 何処までも穏やかに、しかし溢れんばかりの愛情を込めて、デボラが夫の名を呼ぶ。まるで、海の底から湧き出た気泡が海面に近づくにつれ大きくなり、やがて海面を大きく波立たせるかのように。飛沫とともにはじけ飛んだ感情が、マティアスに惜しみなく降り注いだ。

 デボラの愛を一身に受けたマティアスは、花嫁の許へ近づくと、右手をデボラの後頭部へと差し伸べ、形が崩れないよう注意深く触れる。

「デボラ、見違えるほど美しくなったね。綺麗だよ」
「ああ、マティアス様こそ、凛々しいお姿になられて。このデボラ、今日という日を迎える事ができ、三国一の幸せ者でございます」

 式の前から早々に二人の世界に入ってしまったマティアスとデボラを見て、美香は内心で羨望を覚えながら、マティアスにお祝いの言葉を述べた。

「マティアス様、ご結婚おめでとうございます。二人とも美しく、とてもお似合いです。これから、デボラさんと末永くお幸せになって下さい」
「ありがとう、ミカ殿。あなたのおかげで、当家の者達のほとんどが無事に北伐の地から戻って来る事ができた。今日という日を迎える事ができたのも、ミカ殿のおかげだ。ミカ殿こそ、この世界で幸せを掴み取ってほしい。そのために、当家は助力を惜しまないつもりだ。レティシアをよろしく頼む」
「え、マティアス様まで、それ言っちゃうの?」

 思わず素の返事をしてしまう美香を見て、マティアスが首を傾げる。

「ん?もしかして、レティシアが何か粗相をしたか?レティシアはミカ殿に心を許しているから、これからも仲良くして欲しいのだが…」
「え?…あ!あああああああああああ、します!勿論、しますよ!レティシアは、私にとって大事なです!これからも勿論、仲良くさせていただきます!」
「私は、心以外も許すつもりなんだけど」
「あなたは黙ってる!」

 美香は顔を真っ赤にして両手を振り、マティアスの誤解を解くとともに、レティシアに釘を刺す。そんな慌てふためく美香を、マティアスは要領を得ない表情で、デボラは柔らかく微笑み、レティシアは半眼で笑みを浮かべ、見守っている。

 雲一つない青天の中、二人の結婚式が始まろうとしていた。
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