失われた右腕と希望の先に

瑪瑙 鼎

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第8章 引き裂かれた翼

133:王太子剥奪

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 中原暦6625年ロザリアの第6月1日。奇しくもリヒャルトが解放された日に、リヒャルトの廃太子が決定され、クリストフが新たな王太子に任命された。



 リヒャルトが抑留されて半年が経過し、リヒャルトの解放がいつになるか見い出せない中、クリストフの宮中の掌握は着実に進み、これまでリヒャルト寄りであった重臣達も次々とクリストフ派に鞍替えして行った。クリストフも擦り寄ってくる重臣達に少なくとも表面上は歓迎の意向を見せ、過去は水に流すと表明したため、ロザリアの第5月に入ると、その傾向は雪崩を打つようになっていた。そしてロザリアの第5月の下旬には宮中はクリストフ一派で占められ、そうではない者は、一貫して派閥争いに加わらないコルネリウス・フォン・レンバッハ等、数えるほどしかいなかった。

 そもそもリヒャルトが大草原で大敗を喫した事で、廃太子となるのは確定していたと言える。戦争は、先の読めない博打である。元々リヒャルトは、北伐の戦功争いに端を発した一連の戦いに、クリストフの邪魔をするためだけに手を出したわけだが、蓋を開けてみればそれはとんだ貧乏籤であり、リヒャルトは全財産を毟り取られる事になった。そして出先で盛大に自爆し、いつ帰宅するかもわからない兄に対し、留守を預かる弟が黙っているわけがない。家計に大穴を開けた責任を追及し、家から閉め出すのは当然であった。

 ロザリアの第4月にはクリストフの意を酌んだ宰相ゲラルトが病床の国王ヘンリック2世に参内し、クリストフの立太子を勧めている。

「リヒャルト殿下はエルフの下に抑留され、いつ帰還されるか予想もつきませぬ。その上、西誅軍は半数を失うという大敗を被り、国防は危機的状況であります。この様な中で、恐れ多くも陛下に言うべからざる事があれば臣民は動揺し、我が国は大きく傾きかねません。ここは一時の感情に囚われず、新たなお世継ぎを立てられ、我が国は盤石である事を内外に知らしめるべきです。どうかご英断を賜りますよう、老臣、伏してお願い奉ります」
「…」

 ゲラルトの献策に対し、ヘンリックは答えない。元々決断力に乏しいヘンリックであったが、今回の惨劇は彼の精神を削り、この件に対し彼は全くと言って良いほど建設的な考えが浮かばないでいた。以降、ゲラルトが答えを得られずヘンリックの許を辞した後も、彼の許には度々重臣が訪れ、クリストフの立太子を求めていったが、彼は1ヶ月以上に渡って言を左右にし、決断を先送りしていた。

 第5月の下旬になると、ついにクリストフが痺れを切らし、直接ヘンリックに直訴している。

「父上のご心痛は、このクリストフ、察するに余り有ります。しかし同時に、私達王家の者は、いつ如何なる時であっても国を想い、民を想い、守らなければなりません。今や父上は病に斃れ、兄上はいつ戻られるかもわかりませぬ。この様な中で、誰が国を守るというのですか!王を冠する者、現実から目を背けては、なりません。如何に最悪の結論であろうとも、望まぬ結果であろうとも、その中で常に最善を見極め、民を導いていく事が、王の責務であります」
「…」

 クリストフの説得を耳にしても、ヘンリックはクリストフの顔を見据えたまま、口を開こうとしない。この頃になるとヘンリックは言葉を発する事もなくなり、寝台に横たわったまま、周りの者の声に顔を振るだけとなっていた。

 クリストフはそれまでヘンリックに対し、強い調子で言葉を続けていたが、一転して穏やかな口調で語り掛ける。

「父上。父上の治世は、エーデルシュタイン史上稀に見る、穏やかな時代でありました。私は、父上の息子として、この穏やかな時代を受け継ぎ、次代へと繋いでいきたいのです。今、その時代に大きな波が押し寄せ、エーデルシュタインという船が軋みをあげています。父上、どうか私に、親孝行をさせて下さい。あなたが作られたこの船の舵を私が取り、必ずや荒波を乗り越えて見せます。そして、父上も兄上も救い、また再び親子三人で、穏やかな水面をゆっくりと眺める日々を迎えようではありませんか。どうか私に、この国の将来をお預け下さい」

 そう言い募ったクリストフは寝台の脇に膝をつき、ヘンリックの手を両手で包むと、俯いたまま体を震わせた。

「…わかった」

 ヘンリックは暫くの間クリストフの頭を眺めていたが、やがて上を向いて小さく呟く。

「…来月の1日をもってリヒャルトの太子の座を廃し、新たにお前を太子に立てよう」
「ご英断、誠にありがとうございます」

 神妙な面持ちで顔を上げるクリストフに対し、ヘンリックが再び顔を向ける。

「クリストフ、リヒャルトを頼むぞ」
「ご安心下さい、父上。何と言っても兄上は、私と血を分けたたった一人の兄弟です。無事に帰参された暁には、兄上と二人で、この国を盛り立てて参ります」
「頼むぞ、クリストフ…」
「はい」

 ヘンリックはクリストフの顔を見ながら、クリストフの両手に包まれた手に力を入れる。クリストフは、そんなヘンリックの想いに応えるべく、穏やかな笑みを浮かべていた。



 ヘンリックの許を辞したクリストフは、洗練された足取りで自室へと向かう。その秀麗な顔は引き締まり、すでに為政者のものへと変化していた。

「ふぅ…」

 まったく。やっと折れてくれたか。クリストフは、内心で父王の優柔不断さに溜息をついた。だが、何とか「期限」までに王太子になれる。最大の懸念事項が解決できる目途が立ち、クリストフはようやく一息つく事ができた。

 エルフが予告したリヒャルトの解放が来月に迫り、クリストフは焦れていた。本人の解放は来月であっても、その予告がそれより前に来る事は十分にあり得る。その予告が来る前に、王太子になっておく必要があった。同じ敗戦の罪を負っていても、王太子を引き摺り落とすのと、王太子の権限をもって一王族を処罰するのでは、難易度が天と地ほどにも違った。

 すでに宮中はほぼ掌握し、政務も父王から取り上げてある。これで王太子の地位も奪えば、リヒャルトは詰む。



 ――― リヒャルトに将棋盤をひっくり返されなければ。



 軍を掻き集めなければ。

 西誅軍は未だにサンタ・デ・ロマハから動いておらず、動静が読めない。そっくりそのままエーデルシュタインに攻めてくると考えて動いた方が良い。心理面では大きなアドバンテージを持ったクリストフだったが、軍事面ではむしろ後れを取っている。すでに軍の招集に手を回していたが、より一層力を入れる事を考えながら、クリストフは足早に自室へと向かっていった。



 ***

 ガリエルの第1月25日。リヒャルト率いる西誅軍は、ラモアの街を過ぎ、カラディナへ入国した。

 サンタ・デ・ロマハを出立した際は34,000を数えていた西誅軍だったが、途中アラセナ、ラモアに駐留する守備隊を吸収し、カラディナ国境に到達した時には40,000を数えていた。なお、同じセント=ヌーヴェルに駐留するアスコーのカラディナ軍3,000は招集せず、留め置いている。これは、アスコーの占拠が西誅の結果ではなくカラディナ政府の意向であるため、カラディナ政府を無視して招集すると、後のカラディナとの関係が悪化するからである。カラディナとは、少なくともエーデルシュタインに入国するまでは、事を荒げたくない。

 リヒャルト達エーデルシュタイン西誅軍は、ダニエル率いるカラディナ西誅軍に護衛される形で、カラディナへと入国した。そのダニエルの許には、カラディナ政府からの召還命令が繰り返し届いていたが、ダニエルはこう述べて追い返している。

「リヒャルト殿下は此度の西誅の盟主であり、セント=ヌーヴェルをガリエルの魔の手から救い、エルフとの融和の懸け橋となった功労者である。我々はそんな殿下に感謝し、殿下を無事にヴェルツブルグまで送り届ける責務があると考えている。もしカラディナで我々が軍を解散し、その後、国内で殿下にもしもの事があれば、貴官はその責任を取れるのか?先の北伐軍司令、ルイス・サムエル・デ・メンドーサの暴走にもある通り、何処で何が起きるのかわからんのだ。セント=ヌーヴェルでの醜聞も、元凶であるドミニク・ミュレーを捕らえ、裁きにかけてある。首脳部には、我々がヴェルツブルグに殿下を送り届け、その後吉報をお持ちするまで、お待ちいただこう」

 大草原での大敗を遠くの棚に放り投げ、全てドミニクに押し付けたダニエルは、白々しく言を並べ、政府からの使者を追い返す。すでにダニエルには、ヴェルツブルグの政変に協力してリヒャルトを即位させ、その威光でカラディナ政府に圧力をかける以外に、活路が見いだせなかった。表面上は政府に敵対せず、もっともらしい理由を並べ立てて、軍威をもって堂々とカラディナを通過する。カラディナ政府も予備兵力がなく、ましてや少なくとも明確に敵対を表明したわけではない友軍に対し自ら敵対するわけにもいかず、西誅軍の通過を黙認する他になかった。カラディナ軍兵士達についても、ヴェルツブルグに無事に送り届けた暁にはエーデルシュタイン王家から恩賞を与えるという、リヒャルトの気前良い発言に乗せられ、脱落者はおらず、むしろ若干増える有様だった。



 ***

 ガリエルの第2月1日。リヒャルト達はついに決定的な情報を耳にする事になった。

「クリストフが、王太子になったか…」

 その日の野営地に張られた天幕の中で、リヒャルトは静かに呟く。この日、サンタ・デ・ロマハに向かう使者と鉢合わせしたリヒャルト達は、使者を拘束し、手紙を押収していた。

 リヒャルトの声は暗く沈んでいたが、決して悲観し、自らを嘆いたものではなかった。リヒャルトは、抑留された時点で、いつかこの日が来る事を覚悟していた。むしろ、今日まで良くもったというべきである。リヒャルトを取り囲む面々も同じ考えを持っており、リヒャルトの呟きにダニエルが答える。

「我々カラディナ軍は、この後も変わりません。現時点では、未だ殿下は罪に問われておりません。であれば、これまで通り殿下を貴人として扱い、護衛を継続するだけです」

 ダニエルの答えに、バルトルトが補強する。

「この手紙では即座に軍を解散するように記載されていますが、帰る方向が同じである以上、何の意味もありません。カラディナ政府も下手に口を出して自国内で暴れられたら藪蛇ですから、わざわざ火中の栗を拾うような真似はしないでしょう。国境に大軍が張り付いているとも思えませんし、抵抗線を作るとすれば、オストラとヴェルブルグの中間付近でしょうか」

 バルトルトの意見にギュンターが首肯し、後を引き継ぐ。

「であれば、我々は態度を明確にせず、このまま国境を越えるべきですな。そして国境を越えたところで、殿下に対する理不尽な仕打ちを訴えて兵の義憤を掻き立て、留守を預かるクリストフの陰謀を暴き、簒奪の阻止を表明する。それにダニエル殿が支持を表明する事で、国際世論を割るのがよろしいでしょうな」
「カラディナはおそらく向こうにつくだろうが、兵は出さんだろうからな」

 リヒャルトは頷き、一同を見渡す。

「ギュンター、ダニエル、バルトルト。我々は一蓮托生だ。この至難を乗り越えた暁には、末端の兵に至るまで、必ずや恩に報いる事を約束しよう。ロザリア様の御加護は、きっと我々の許にある。皆、力を貸してくれ」
「「「はい」」」



 ガリエルの第2月30日、リヒャルト率いる西誅軍40,000は、ついにエーデルシュタイン国境を越える。後世、「オストラの戦い」と称される戦いが、10日後に迫っていた。
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