失われた右腕と希望の先に

瑪瑙 鼎

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第10章 エミリア

186:そして中原へ

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「え?何、セレーネ。それじゃ、この服、トウヤ様から2メルド以上離れると、消えちゃうの?」
「うん。だから今、私、トウヤさんから離れられないのよ」
「うっそだぁ!今だって、こんなにしっかりと手触りが感じられるのにぃ!?」
「さっき森の入口に停めた車だって、今はもう、跡形もないよ」
「「ええぇ!?」」

 自宅に戻ったセレーネは、アンナとララに挟まれ、身に着けた服を弄られながら、二人に説明する。これまでセレーネはサーリアの誓いによって右腕の力を口にする事ができなかったが、柊也自身が口外した事で、話題に乗せる事ができるようになっていた。

 セレーネの説明を聞いたアンナとララは、半信半疑の様子で顔を見合わせる。

「そんな事言われても…ねぇ…?」
「でも、アンナ。コレ、神の御召し物だから、ひょっとしたら、そういう事も…」
「実際に見た事がないと、到底信じられないだろうけどねぇ」
「「…」」

 未だ疑いの目を向ける二人を見て、過去の自分を思い出して苦笑するセレーネ。するとアンナとララはお互いの顔を見て一つ頷くと、セレーネの左右に回って両脇に腕を差し込み、立ち上がった。三人の中で一番小柄なセレーネが、二人の間で宙吊りになる。

「え、何?どうしたの、二人とも?」

 セレーネが宙吊りのまま、左右に首を振り、二人の顔を見上げる。そのセレーネに、アンナとララは、曰くありげな笑みを浮かべる。

「いや、確かに見てみないと信じられないし。実際に見せてもらおうかと思って」
「隣にアンナの家があるし、そこで見せてくれる?」
「え?え?」

 理解が追い付かないセレーネを余所に、二人はセレーネを宙吊りにしたまま、部屋を出て行く。部屋の扉が閉まると、扉の向こうからセレーネの助けを呼ぶ声が聞こえて来た。

「…え、ちょっと待って!?トウヤさん、シモンさん、助けてぇぇぇぇぇ!」
「では、この力を使って、道中の食事を賄っていたと?」
「ええ、その通りです」

 セレーネの悲鳴を聞き流しながら、柊也がグラシアノの問いに答え、テーブルの上に物を並べていく。それを見たグラシアノとナディアの目が点になる。

「…トウヤ様、これ…」
「何と…」

 二人の目の前に並べられる、見た事もない異世界の飲み物。エルフで用いられる素焼きの壺とは違う、透明の瓶が何本も立ち並び、中には様々な色の液体が並々と湛えられていた。その他にも見た事のない料理が小皿に並び、透明に輝くグラスが各人の前に並べられる。

「せっかくですから、向こうのお酒で乾杯と行きましょうか。アルコールなら、私から離れて体内から消えても一向に構わないでしょうし」
「おおっ!これは粋ですなぁ!トウヤ様、シモン殿、今日は大いに飲みましょう!」
「まぁ…トウヤ様、喜んでご相伴に与りますわ」

 柊也、シモン、グラシアノ、ナディアの四人は、思い思いに好きな酒を注ぎ、グラスを掲げる。

「それでは、トウヤ様とシモン殿のご帰還を祝って、乾杯!」
「「「乾杯!」」」



「やだ!?ホントに全部消えちゃった!」
「うわぁ、これはヤッバいわ…、もしこんな事が往来の真ん中で起きちゃったら、私、恥ずかしくて生きていけない…」
「アンナとララの馬鹿ぁぁぁぁぁぁぁぁ!ふぇぇぇぇぇぇん!」

 隣家から流れる姦しい乙女達の騒ぎ声を肴に、四人は次々に杯を重ねていった。



「…よく考えたら、一旦アルコールが体に回っちゃったら、俺から離れても抜けないわな…」

 酒精に侵食され、酩酊する頭でぼんやりと考えながら、柊也は目の前の光景を眺め、缶ビールに口をつける。柊也の視線の先では、グラシアノが焼酎の瓶を抱えたまま、舟を漕いでいた。

 柊也から2メルド離れれば食べた物も消えると聞き、グラシアノは物珍しさも手伝って様々な酒に手を出したが、ビール、ウィスキー、焼酎、日本酒と飲み慣れない酒をちゃんぽんした結果、あえなく轟沈してしまう。セレーネはアンナの家から泣きながら帰って来ると、やけ酒を立て続けに煽り、早々に自室へと引っ込んだ。食卓では、残された三人が、チビチビと酒を酌み交わしている。

「はぁ…これ、凄く美味しい…この小さな杯で飲むのも、風情がありますわね…。トウヤ様、もう一杯いただけません?」
「ええ、どうぞ、ナディアさん」

 頬を桜色に染めたナディアがうっとりとした表情を浮かべて盃を差し出し、柊也が御銚子を傾け日本酒を注いでいく。柊也の隣では、酒に酔って童心に戻ったシモンが、一心不乱にチョコレートパフェを口に運んでいた。

「しかしナディアさん、お酒、強いですね。グラシアノ殿より強くないですか?」
「そんな事はありませんわ。妻として、夫とお酒の扱いが上手くなっただけです」

 ナディアは柊也の問いに淑やかに微笑むと、盃に両手を添え、くいっと呷る。その優美な所作に柊也が思わず見惚れていると、隣に座るシモンが席を立った。

「どうした、シモン?」
「…ダイエットしてくる…」
「ああ、行ってらっしゃい」

 胃の中の物を消すため、シモンが柊也の許を離れフラフラと自室へと向かう。そのシモンのうなじを眺めながら缶ビールに口をつける柊也に、ナディアが声をかけた。

「あの、トウヤ様…」
「何ですか?ナディアさん」
「よろしければ、天上ではどの様な御召し物が流行しているのか、教えていただけません?」
「ああ…、ちょっと待ってくださいね」

 頬を染め酒精と色香に塗れたナディアが肘をついてテーブルに身を乗り出し、胸元から顔を覗かせる谷間に柊也の目が釘付けになる。柊也は慌てて目を引き剥がすと、ファッション雑誌を取り出し、ナディアの前に並べた。

「口で言うより、見た方が早いでしょうから。私の世界には、見たものをそのまま絵の様に紙に残す技術があるんです」
「まぁ…」

 目の前に並べられたファッション雑誌にナディアは目を瞠り、うっとりとした表情で次々にページを捲っていく。時折諦めにも似た艶のある溜息をつき、その都度柊也の酒が進んでいたが、とあるページでナディアの手が止まり、溜息とともに呟きが漏れる。

「はぁ…なんて素敵…まるで白く輝く昼と漆黒の夜を身に纏っているよう…こんな服を、一生に一度でも身に着ける事ができたら…」

 この雑誌に、そんな高級ブランドなんて載ってたっけ?

 ありきたりのファッション雑誌にナディアがあまりにも大げさな感動を示し、興味を持った柊也が対面から覗き込む。

 ナディアの視線の先には、20代と思しき女性が佇んでいた。彼女は真っ白なブラウスに身を包み、膝上までのタイトスカートを履いている。彼女の胸元は白のフリルが幾重にも重なり、まるで花弁のように飾り立てている。そしてタイトスカートは背徳的な黒一色で、女性の美しい腰元のラインを強調するかの様に鮮やかな曲線を描いていた。スカートから伸びたすらりとした足は濃茶から薄茶へと変化する妖しいグラデーションを帯び、ハイヒールが足元を黒く引き立てる。そして彼女は、眼鏡の細いフレームにしなやかな指を添え、カメラの方を向いて理知的な笑みを浮かべていた。

 よりにもよって、女教師モノですとぉぉぉっ!

「ナナナナディアさん、よよよ良かったら出しましゅか!?」
「え!?本当ですか、トウヤ様!?」

 琴線を何本もまとめて薙ぎ払われた柊也が舌を噛みながら口走り、ナディアが喜びを露わにする。柊也はコクコクと頷き、残っていたビールを流し込みながら、テーブルの上に服を並べていく。

「素敵…トウヤ様、ありがとうございます」
「いいい、いえいえ、どうぞどうぞ!」
「では、早速…」

 テーブルの上に並べられた衣装を見て、ナディアは満面の笑みを浮かべて席を立ち、柊也の隣へと移動する。そして柊也の目の前で上着に手をかけ、脱ぎ始めた。

「ナナナナディアさん!?自室で着替えた方が…!?」
「え?でも、トウヤ様から2メルド離れると、消えてしまうのでは?」

 5分以内なら大丈夫ですよ。

「あああ、そうでしたね!うっかりしていました!」
「トウヤ様ったら…申し訳ありませんが、少しの間、目を閉じていただけません?」
「あああ、そうですね!失礼いたしました!」

 心の中に巣食う悪魔が喉元で真実の言葉を堰き止め、柊也は椅子に座ったまま目を閉じる。暗転した視界の中で、しゅっしゅっという衣擦れの音とナディアの甘い匂い、そして自分の喉の鳴る音がこだまする。

「…あら?トウヤ様、コレはどうやって着ればよろしいんですの?」
「え?」

 暗黒の世界にナディアの困惑の声が響き、柊也が恐る恐る目を開く。

 ナディアは白のブラウスと黒のタイトスカートを身に纏い、柊也に体を向け、椅子に片膝を立てて座っていた。タイトスカートから柔らかくしなやかな脚が伸び、爪先が柊也の眉間を指差している。そしてナディアはその爪先にストッキングを引っかけ、どこまでも伸びる素材に悪戦苦闘していた。ストッキングは伝線し、妖しい濃茶の海の中で真っ白な素肌が島のように浮かび上がっている。

「ナナナナディアさん!ストッキングは一度爪先まで丸めてから足を通して…!」

 柊也は慌てて腰を浮かし、まるで猫じゃらしに飛びつく猫の様に、目の前で左右に揺れるナディアの爪先へと手を伸ばす。そして、



「…パぁパ。何やってるの?」

 背後から伸びた手に肩を掴まれ、動けなくなった。



「…シ、シモン…」

 柊也の首が軋みを上げて後ろを向くと、目の座ったシモンの顔が半分だけ見えた。柊也はシモンに背中を向けたまま、血の気が引いて呂律の回らない口で釈明する。

「シモン、誤解だ。俺は別に、やましい事をしようとしたわけじゃない。ただ純粋に日本の服の着方を教えようと…あ痛ててて!」

 少しの間柊也の釈明を聞いていたシモンは、肩に置いた手に力を入れて柊也を引き寄せると、腰を屈めて空いた方の手を柊也の足に添える。そして、柊也の背中に頭を添え、柊也を仰向けにして肩に担ぎ上げた。シモンの肩の上で、柊也の体が弓形にしなる。

「シ、シモン、タンマ!背骨がミシミシ言ってる!ミシミシ言ってる!」
「…ナディア殿。あまり悪戯が過ぎると、怒りますよ?」

 柊也に綺麗なアルゼンチン・バックブリーカーを極めたまま、シモンはナディアの方を向き、冷たい声で言い放つ。そのシモンに、ナディアは椅子に座ったまま、上目遣いで鮮やかな舌を出した。

「大丈夫ですよ、シモン様。トウヤ様は自己を律する事のできる、節度ある御方です。私がいくら甘言を弄しようと耳を傾ける事なく、あなたとセレーネの二人だけを大切にするでしょう。ですからシモン様、もう少しトウヤ様の事を信じてあげて下さい」
「…」
「…シモン!ギブ、ギブ!」

 ナディアの言葉を聞いたシモンは、しかし口を窄め、黙ってナディアを見つめている。やがて、自分よりも柊也を知っているような口ぶりにシモンは釈然としないものを感じながらナディアに背を向け、柊也を担いだまま自室へと向かった。そのシモンの背中を見ながら、ナディアが小さく微笑む。

 …だから私は安心して、ちょっかいを出せるのですよ。

 そしてナディアは席を立ち、泥酔する夫の介抱を始めた。



 ***

「…コレットさん。短命種の恋愛って、激しいんですね…」
「いやいやいや、エルフの愛も大概ヤバいって。この調子じゃ、私の身が持たない」
「ですからお姉様、私とだけ愛を育めば、楽になれますって」
「…激しい相手を持つと、大変ですね…」
「…ああ。お互い、頑張ろうな…」

 セレーネとコレットの二人が並んで下草に腰を下ろし、膝を抱え遠くを見つめながら力なく呟く。コレットの腕にはリアナがしがみ付き、コレットの豊かな胸に頬を摺り寄せていた。三人の背後から、柊也とミゲルの会話が聞こえて来る。

「そうか、西誅軍がサンタ・デ・ロマハから撤退したか」
「ああ。ただ、どうも平和裏に、と言うわけではなく、まるでもう一度戦争に行く様相だったらしい。その辺の事情は、正直俺達には良く分からない」
「そうか…」

 ミゲルの言葉を聞き、柊也は頭に手を当て掻きまわす。エルフの気持ち良いほど一本気すぎる性格では、中原で湧き上がった権力争いが想像できないのも、止むを得なかった。

 柊也達がティグリの森で羽を休めている間にグラシアノが気を利かせ、ミゲルをティグリの森に呼び寄せていた。柊也はミゲルやコレットからサンタ・デ・ロマハの近況を聞き、中原の動向を推察する。

 こりゃ、やっぱり、三国内を横切るのは無理だな。

「ありがとう、ミゲル殿。中原の様子がわかって、助かったよ」
「トウヤ殿、中原に戻るのか?」

 頭を下げた柊也に、ミゲルが尋ねる。柊也は頷き、言葉を続ける。

「ああ。サーリアやエミリアと同様、ロザリアとも誼を結んでおきたいからな」
「…大草原にはもう、戻って来ないのか?」

 ミゲルの精悍な顔に浮かぶ、捨てられた子犬のような表情に、柊也は思わず頬を綻ばせる。

「…戻って来るよ。此処はとても心地良い。全てが終わったら、此処でゆっくりと余生を過ごさせてもらうさ」
「必ず戻って来てくれ。俺達は、ずっとあんたの事を待っている。それと俺の剣が必要になったら、何時でも呼んでくれ。中原でも何処でも、馳せ参じよう」
「ありがとう、ミゲル殿」



 こうして中原暦6626年ガリエルの第6月、柊也達三人は1ヶ月半に渡る休暇を経てティグリの森を出発し、中原へと向かう。西誅に端を発した戦禍の炎が、間もなく中原を覆い尽くそうとしていた。
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