失われた右腕と希望の先に

瑪瑙 鼎

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最終章 愛しています。

294:読んでくれて嬉しかった。

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「おぉ、おぉ!クミコ、何と可愛らしい子だ!これはきっと、ハーデンブルグ一番の美人になるぞ!」

 聖王国の首都、ヴェルツブルグ。

 その南東部にあるディークマイアー家の一室で、聖王国執政官フリッツ・オイゲン・フォン・ディークマイアーは初孫を両手で高々と抱え上げながら、だらしない笑顔を浮かべていた。先月、満1歳を迎えたクミコは初対面のフリッツに怯える事もなく、空中で手足をばたつかせ、キャッキャとはしゃいでいる。傍らに佇むデボラは、日頃目にした事のない義父の緩み切った表情を見て、包容力溢れる柔和な笑みを浮かべた。

「この、すでに私が母親だとわかっていて、『マンマ』と呼ぶようになってくれているんです。お義父様の事も、すぐにお爺様と呼んでくれますわ」

 中原暦6628年ロザリアの第3月。前月に二度目の「交髪の宴」を催すためハーデンブルグを訪れていた美香は、デボラとクミコを伴ってヴェルツブルグへと戻って来た。クミコの祖父に当たるフリッツは執政官という重責を担っており、当分の間ハーデンブルグへは戻れない。その事に思い至った美香は日頃の感謝を籠めてクミコを連れて戻り、フリッツと引き合わせたのである。

 デボラの言葉を聞いたフリッツだったが、クミコを抱え上げたまま下唇を突き出し、不貞腐れた表情を見せる。

「…だが、来月には帰ってしまうのだろう?」
「はい」
「もう少しゆっくりしていけば良いのに」
「マティアス様に3ヶ月も寂しい想いをさせていますから」
「いやいや、きっとアレも今頃ゆっくり羽を伸ばしていると思うぞ?」
「でしたら私は、今のうちに羽の毟り方を学んだ方がよろしいですわね?」

 孫を引き留めるために軽口を叩いたフリッツだったが、デボラのにこやかな笑顔の前に口を噤む。自ら御家断絶の危機を招いた夫の軽挙にアデーレが呆れ、腰に手を当てて窘めた。

「あなた、もう暫く我慢なさって下さい。じきにいつでも、孫に会えるようになるのですから」
「そ、そうだな、すまなかった」

 妻の言葉を聞いて、フリッツは慌ててデボラに頭を下げ、赤子を胸元であやしながら遠い目をする。

「…次も、女の子が良いな」
「あら、今度は男の子が欲しいわ」

 フリッツの言葉に譲れないとばかり、アデーレが腰に手を当てたまま胸を張る。

 そのまま二人は窓から見える中庭に目を向けながら、昔を懐かしんでいた。



 ***

「ごめんねぇ、ミカ。私の方が先に授かっちゃって」
「ううん、気にしないで…レティシアとオズワルドさんの子供かぁ…どっちに似ても美人だろうなぁ…」

 ゆったりとしたソファに身を沈めたレティシアが申し訳なさそうに笑みを浮かべ、美香が肘掛けに頬杖をついたまま首を振る。腹部の膨らみはまだ目立つほどではなかったが、レティシアは愛おしそうに繰り返し腹部を撫でていた。美香は、そのレティシアの腹部と幸福に溢れる横顔を交互に見つめながら、尋ねる。

「私が居ない間、オズワルドさん、ちゃんと面倒見てくれた?」
「うん。彼、誠実だったわよ?私が大丈夫だって言っても、何処にでもついて来るし。まだこんなに小さいから、動き回るのに何の苦労もしていないのにね」

 ロザリアの第1月、ハーデンブルグに出発する直前にレティシアの懐妊が判明すると、美香は勅命まで使ってオズワルドをレティシアの許に留まらせ、二人をヴェルツブルグに残したまま「交髪の宴」へと臨んだ。2ヶ月半ぶりの再会だったが、美香はレティシアに対し申し訳なさそうに詫びる。

「戻って来たばかりで悪いんだけど、来週にはまた出掛けちゃうから。2ヶ月くらい戻らないけれど、またオズワルドさんに残ってもらうから、あなたは赤ちゃんの事だけを考えて、体を労わってね」

 前年の暮れにジャクリーヌと約束した国際会議が来月に迫っており、美香はヴェルツブルグに帰着して僅か1週間で、今度は西方へと出立しようとしていた。美香の寂しげな笑みを目にして、レティシアが眉を下げた。

「いいわよ、ミカ。オズワルドも連れて行って。お父様もヴェルツブルグに残るし、私は一人で大丈夫だから」
「駄ぁ目!こんな時にパートナーが寄り添わなくて、どうするの!?口答えするなら、また勅命出すからね!?」
「仰せのままに、陛下」

 人差し指を立てて詰め寄る美香に、レティシアが茶化すように答える。長期に渡ってオズワルドと会えず、美香も内心で寂しさを募らせていたが、一方で初めて出産を迎えようとするレティシアの不安は如何ばかりかと思う。自分がそうなった時の事を想像し、美香はそんな時こそオズワルドに寄り添って欲しいと願っていた。美香の気遣いにレティシアは感謝しながら顔を上げ、美香の耳元に顔を寄せて囁いた。

「…それより、今のうちにオズワルドの相手、頼むわよ。私、悪阻が酷くて全然相手できなかったし、彼も気を使って言ってこなくって、相当要求不満になっているから。一人でアレの相手をするのは大変だろうけど、出発までの1週間、頑張ってね」
「え!?ちょっと、マジで!?」



 後に、レティシアとオズワルドの間に生まれた子供はアイヒベルガー姓を名乗って「忠義の一族」と呼ばれ、美香とオズワルドの間に生まれたコジョウ一族を末代まで支えていくことになる。



 ***

 ヴェルツブルグの南部に乱立しつつも、時を経ることに次第に壮麗さと秩序を備え変化していく、官庁群。その一角に大勢の高官と騎士達が立ち並び、己の主君が姿を現すのを待ち続けていた。周囲には多くの市民が押し寄せ、「聖母」の姿を待ち侘びている。

 やがて官庁の一つから複数の人々が姿を現し、両脇に連なる騎士達が一斉に胸に右拳を当てて深く頭を下げる。一行の先頭を歩く美香は艶やかな黒い髪をなびかせ、市民達の歓呼の声ににこやかに手を振りながら、4頭立ての煌びやかな馬車へと足を運んだ。

 美香が馬車の前で足を止めると、一人の騎士が歩み出て馬車の扉を開ける。しかし美香はすぐには馬車に乗ろうとせず、ほっそりとした指を顎に当てて少しの間何かを考えていたが、振り返って近くで畏まっている矮躯な男の名を呼んだ。

「…セドリック様、一つご相談があるのですが…」
「はっ!陛下、何なりと!」

 名を呼ばれたセドリックは弾かれるように駆け出し、美香の前で片膝をつく。まるで己の主君にまみえるかのように傅くセドリックに、美香が申し訳なさそうに頼みごとを口にした。

「セドリック様、大変不躾なお願いで恐縮ではございますが、よろしければ本日、御一緒いたしませんか?」
「っ!?本当でありますか、陛下!?」
「ええ」

 勢い良く頭を上げ喜色を露わにするセドリックに、美香が頷く。彼女は、背後に従うアデーレ達が驚きの表情を浮かべるのも構わず、セドリックに向けてはにかんだ。

「お恥ずかしい事に、わたくしはこの国から一度も出た事がなく、西方諸国の事を何も存じ上げておりません。皆様とお会いするに当たり、少しでも皆様の国の事を知りたくて…。セドリック様は各国の大使を歴任され、諸国を見聞けんぶんされたと伺いました。ご迷惑でなければ、道中、わたくしに各国のお話をお聞かせ願いませんでしょうか?」
「…えぇ、えぇ!このセドリック、陛下のためであれば、喜んで!」

 至近距離から眩い笑顔を向けられたセドリックは頬を染め、感激に身を震わせる。彼が勢い良く立ち上がって歓喜に震える右手を差し出すと、美香はにこやかにその手を取り、彼にエスコートされて馬車へと乗り込んだ。その二人の後ろ姿を眺めていたテオドールが、唖然とした表情のまま呟いた。

「…いや、ウチの娘、凄いわ。あのセドリックを手玉に取りやがった」
「そうか…セドリックは、そう攻略するのか…」

 テオドールの呟きに呼応するかのように、コルネリウスが感嘆の声を上げ、重々しい頷きを繰り返した。



「…んっ…」

 セドリックが美香に続いて馬車に乗り込むと、先に腰を下ろした美香が身じろぎ、一瞬苦悶の表情を浮かべる。彼は美香の向かいの席に腰掛けながら、気遣わし気に尋ねた。

「…陛下、何処かお体が悪いのですか?」
「え?ええ…このところ少し腰の調子が思わしくなくて…」

 そうセドリックの質問に答えた美香は顔を赤らめ、申し訳なさそうに身を縮める。

 こんな華奢な御身体に鞭を打ち、これから1ヶ月もの間、馬車に揺られなければならないとは。

 セドリックは我が事のように心を痛め、向かいに座る無垢な乙女の一日も早い快気を願い、神妙な面持ちを浮かべ胸元で印を切った。
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