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第一章 日曜日
4
「ひゃっほーい。いいね。サイコー」
額の真ん中で分けた前髪が潮風に靡くのを抑えながら、杏子はダイビングボートの船首に片足を上げた。
「邪魔だ、クソ眼鏡」
「残念、今はコンタクトだよー」
里来の運転で船は灰島南東の桟橋から島の周りを西へ進んでいた。風がばさばさと耳を打っていく。相当なスピードだ。
伊織はボートの縁にしがみつき、銀鱗を散らしたような沖合の海を見つめ、感嘆の声を洩らしている。幸一はというと、着慣れないウェットスーツのあちこちをしきりにいじっては具合を確かめ、杏子と里来の仲良さげ――であるようにオレには見える――な言い合いが聞こえてくると、オレに目配せして肩をすくめた。
白いビーチを過ぎ、船は間もなく、島の南西に突き出た岬を越えようとしていた。
「みんな、もう着くよ」
杏子の声が船首の方から、エンジン音に混じって聞こえる。
船は不機嫌な船長のたくみな技術で北へ急転回し、船尾を大きく振った。オレたち三人は前のめりになり、慌てて近くの縁を掴む。船首に立っていた杏子は不意を突かれてひっくり返ったらしい。操縦室越しに、ウェットスーツを着た腕が床を這っているのが見える。
「また始まるぜ」
というのは杏子と里来の言い合いのこと。あきれた様子で幸一が呟いた。
それとほぼ同時、眼前を覆うように高々と断崖絶壁が姿を現した。二〇〇メートルはあろうかという雄姿。あまりの迫力に、オレは幸一に返答しようとしていた言葉を奪われる。
崖は島の西側を真っ直ぐに続いている。焦げ茶と黒の層が何層にも連なり、ティラミス……というには凶悪な断面だった。黒の層はおそらく、火山の噴火で積もった溶岩か灰なのだろう。大樹の年輪に同じくこの島の歴史――それも南国リゾートのうわべに覆われた本当の歴史を凝縮しているように見えた。島の北側の火山と同じにおいの不釣り合いさを感じる。この島はどうやら、生粋のリゾート地ではなさそうだ。
下の水面にはごつごつした岩が突出しており、うちあたった波が白く弾けては飛沫を散らせている。
「すげぇな」
と言って幸一が喉を鳴らし、伊織が頷く。彼らの視線の先……崖上部を見遣り、オレは思わず喉元まで出かかった「死ぬなァ」という言葉をすんでのところで呑み込んだ。
落ちたら最後、岩に激突して無残な死に様を晒すことになる。そこまで考えて、ぞっと背筋が寒くなった。
「さぁて、三人とも準備して」
船首の方から、腰をさすりながら杏子がやって来た。
いつの間にか船の動きは止まっていた。仕事を終えた船長は操縦室から顔を出し、
「とっとと行って、とっとと戻れ」
「わかってるって。よっこらしょっと」
杏子は自分の器材――タンクなど――を背負い、細かな具合を調節する。出来や良しとみると、次は伊織の装備に取り掛かる。
ダイビングは二人一組のバディシステムが基本である。無人が経験者ということで幸一と、泳ぎの苦手な伊織が杏子と組むことになった。
オレはまず自分の装備の装着から始める。というのも、装備は陸上では二十キロもの重さになるため、先に幸一に背負わせた後にこちらの装備を手伝わせるのは酷だからだ。
「おい、しっかり持てよ、幸一」
「うるせぇな、こんな重いと思わねぇだろ」
彼は最近やつれたせいか、非力になったようだった。二十キロの器材を持って、笑えるほどふらついている。
「てめぇ、日が暮れちまうぞ」
その幸一から器材をひったくったのは里来だった。彼は器材を抱え、早くしろと言わんばかりにこちらを睨む。オレは驚きつつも素早くBC――ダイビング用ベスト。これに器材が装着されている――に腕を通し、前屈みになって重みを受け止めた。
「ほら、お前もやってやる」
「は、はい」
里来が眉間に皺を寄せたまま言うので幸一は緊張気味である。
「もっとしっかり立ってろ」
「すみません」
「待て、管を引っかけるな。右からいけ」
口が悪くて怖い。だが、彼の手付きは丁寧で、注意も的確だ。身長差のある幸一の背まで器材を持ち上げるのはきついだろうに、進んで手伝ってくれるところを見ると、この人は実は優しいのではないかと思う。
「そっちは終わった?」
杏子の問いかけに、
「ああ。今まさに、だ。三十分で上がってこい。それ以上なら、置いて帰る」
「はいはい、了解。まぁ、初心者もいるし、それぐらいだね」
いよいよ水へ入るときがやってきた。まずは杏子が手本を見せる。船尾についた階段から、フィンを履いた足を縦に開き、マスクとスノーケルを手で押さえて垂直に飛び込む。
ザブン。二方向に広がるように白い水柱が立ち、数秒ののち船の方を振り返った杏子が後続を促す。次にバディの伊織が恐る恐る、三番目に幸一が着水した。
最後にオレが階段に立つと、背後から「あ」と声があがる。飛び込む直前のポーズで振り向き、声の主を見遣った。
「あれだ、クラゲに気を付けろ。滅多に出ないが、たまに出る。毒性の強いやつが」
「えっ」
と言ったままオレは足を滑らせて、不本意にも、背中から着水するバックロールエントリー(もどき)を披露することとなった。水面に浮き上がり里来を見ると、彼はたいして驚きもせずにひらひらと手を振っている。
なんなんだよ、もう。……彼が優しいというのは撤回だ。
額の真ん中で分けた前髪が潮風に靡くのを抑えながら、杏子はダイビングボートの船首に片足を上げた。
「邪魔だ、クソ眼鏡」
「残念、今はコンタクトだよー」
里来の運転で船は灰島南東の桟橋から島の周りを西へ進んでいた。風がばさばさと耳を打っていく。相当なスピードだ。
伊織はボートの縁にしがみつき、銀鱗を散らしたような沖合の海を見つめ、感嘆の声を洩らしている。幸一はというと、着慣れないウェットスーツのあちこちをしきりにいじっては具合を確かめ、杏子と里来の仲良さげ――であるようにオレには見える――な言い合いが聞こえてくると、オレに目配せして肩をすくめた。
白いビーチを過ぎ、船は間もなく、島の南西に突き出た岬を越えようとしていた。
「みんな、もう着くよ」
杏子の声が船首の方から、エンジン音に混じって聞こえる。
船は不機嫌な船長のたくみな技術で北へ急転回し、船尾を大きく振った。オレたち三人は前のめりになり、慌てて近くの縁を掴む。船首に立っていた杏子は不意を突かれてひっくり返ったらしい。操縦室越しに、ウェットスーツを着た腕が床を這っているのが見える。
「また始まるぜ」
というのは杏子と里来の言い合いのこと。あきれた様子で幸一が呟いた。
それとほぼ同時、眼前を覆うように高々と断崖絶壁が姿を現した。二〇〇メートルはあろうかという雄姿。あまりの迫力に、オレは幸一に返答しようとしていた言葉を奪われる。
崖は島の西側を真っ直ぐに続いている。焦げ茶と黒の層が何層にも連なり、ティラミス……というには凶悪な断面だった。黒の層はおそらく、火山の噴火で積もった溶岩か灰なのだろう。大樹の年輪に同じくこの島の歴史――それも南国リゾートのうわべに覆われた本当の歴史を凝縮しているように見えた。島の北側の火山と同じにおいの不釣り合いさを感じる。この島はどうやら、生粋のリゾート地ではなさそうだ。
下の水面にはごつごつした岩が突出しており、うちあたった波が白く弾けては飛沫を散らせている。
「すげぇな」
と言って幸一が喉を鳴らし、伊織が頷く。彼らの視線の先……崖上部を見遣り、オレは思わず喉元まで出かかった「死ぬなァ」という言葉をすんでのところで呑み込んだ。
落ちたら最後、岩に激突して無残な死に様を晒すことになる。そこまで考えて、ぞっと背筋が寒くなった。
「さぁて、三人とも準備して」
船首の方から、腰をさすりながら杏子がやって来た。
いつの間にか船の動きは止まっていた。仕事を終えた船長は操縦室から顔を出し、
「とっとと行って、とっとと戻れ」
「わかってるって。よっこらしょっと」
杏子は自分の器材――タンクなど――を背負い、細かな具合を調節する。出来や良しとみると、次は伊織の装備に取り掛かる。
ダイビングは二人一組のバディシステムが基本である。無人が経験者ということで幸一と、泳ぎの苦手な伊織が杏子と組むことになった。
オレはまず自分の装備の装着から始める。というのも、装備は陸上では二十キロもの重さになるため、先に幸一に背負わせた後にこちらの装備を手伝わせるのは酷だからだ。
「おい、しっかり持てよ、幸一」
「うるせぇな、こんな重いと思わねぇだろ」
彼は最近やつれたせいか、非力になったようだった。二十キロの器材を持って、笑えるほどふらついている。
「てめぇ、日が暮れちまうぞ」
その幸一から器材をひったくったのは里来だった。彼は器材を抱え、早くしろと言わんばかりにこちらを睨む。オレは驚きつつも素早くBC――ダイビング用ベスト。これに器材が装着されている――に腕を通し、前屈みになって重みを受け止めた。
「ほら、お前もやってやる」
「は、はい」
里来が眉間に皺を寄せたまま言うので幸一は緊張気味である。
「もっとしっかり立ってろ」
「すみません」
「待て、管を引っかけるな。右からいけ」
口が悪くて怖い。だが、彼の手付きは丁寧で、注意も的確だ。身長差のある幸一の背まで器材を持ち上げるのはきついだろうに、進んで手伝ってくれるところを見ると、この人は実は優しいのではないかと思う。
「そっちは終わった?」
杏子の問いかけに、
「ああ。今まさに、だ。三十分で上がってこい。それ以上なら、置いて帰る」
「はいはい、了解。まぁ、初心者もいるし、それぐらいだね」
いよいよ水へ入るときがやってきた。まずは杏子が手本を見せる。船尾についた階段から、フィンを履いた足を縦に開き、マスクとスノーケルを手で押さえて垂直に飛び込む。
ザブン。二方向に広がるように白い水柱が立ち、数秒ののち船の方を振り返った杏子が後続を促す。次にバディの伊織が恐る恐る、三番目に幸一が着水した。
最後にオレが階段に立つと、背後から「あ」と声があがる。飛び込む直前のポーズで振り向き、声の主を見遣った。
「あれだ、クラゲに気を付けろ。滅多に出ないが、たまに出る。毒性の強いやつが」
「えっ」
と言ったままオレは足を滑らせて、不本意にも、背中から着水するバックロールエントリー(もどき)を披露することとなった。水面に浮き上がり里来を見ると、彼はたいして驚きもせずにひらひらと手を振っている。
なんなんだよ、もう。……彼が優しいというのは撤回だ。
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