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第七章 土曜日
1
細かな水の音が遠くで聞こえる。ざあざあと永遠のように、硬いものを打ち続けている。その音の隙間から洩れるように声がする。
心地良く鼓膜を震わすその声。遠いようにも近いようにも思える。自分はどこにいるのだろう。さっきまでは別の場所にいた。とても美しい、色鮮やかな場所。なのに今は真っ暗。まるで涅下に埋もれてしまったかのように、真っ暗で何も見えない。
「無人」
また声がした。暗闇の中に、ぼんやりと影絵のように人の姿が浮かび上がる。それは誰だろうか。男? 女?
手を伸ばす。影絵はゆっくりと、こちらを振り返る。
それは自分だった。鏡のようにそっくりな顔。見慣れた姿。彼がきつい表情で言う。
「起きろよ、無人!」
はっ、と視界がひらける。雪の降る、水色の部屋。耳につく水音。背後を振り向く。里来がいない。水音はシャワーの音だ。
立ち上がってバスルームへ向かう。扉をノックする。
「里来さん? おはようございます」
返事は無い。シャワーの音にも変化が無い。身動きする物音もしない……。
「あのっ、怒ってたりしますか? オレ、寝相が――」
そこでふと黙る。声がした気がする。ごくごく小さな声で、名前を呼ばれたような。
「里来さん?」
もう一度呼びかけて、そろそろと扉を開ける。怒られるだろうか。構いやしない、相手も男だ。
白い陶器の便器。広い洗面台。その奥の浴槽には天井からカーテンが下がっている。水音はなおも変わらず続く。
「ねぇ、返事してくださいよ」
徐々に徐々に近づいてゆき、カーテンの端に手を掛ける。
「里来さん」
ほんの少し引っ張った隙間から片目だけ覗かせて……次の瞬間には思いっきりカーテンを引き開けていた。
裸で浴槽の床に横たわる里来。動かない彼の躰を、熱いシャワーの粒が打ち付ける。
「里来さん!」
血の気の引く思い。シャワーを止め、彼の上半身を抱き寄せる。湯気が立つほど熱い。なのに唇は紫色で、吐いた跡がある。
オレは彼の名を呼びながら躰を揺する。頬に手を当て、ぱちぱちと叩く。すると、彼が小さく呻く。瞼が持ち上がり、濡れた睫毛の下から薄く瞳が覗く。
「さわ……な」
震える彼の手がオレの腕を掴む。力が入っていない。すぐにずるずると下がっていく。
「どうしたんです? どこが痛いんです? 持病ですか? オレはどうすれば……」
パニックになって捲し立てるオレの腕をまた里来が掴む。今度は少し強く。押されているような感覚。
「何……?」
「……る、な」
「えっ」
「み……、に、さ……る……」
里来は躰を捩ってオレの腕を逃れ、下を向き、胃液を吐いた。ぜえぜえと苦しげに呼吸し、オレが引き起こそうとする手を振り払う。
「なんで! オレはどうすれば!」
固形物の無い胃液だけが浴槽の床を流れてゆく。それを見て、ふと思い至る。七行目の歌。
〝白雪姫が毒の林檎を齧れども〟
……そうか、持病じゃない。毒だ。皆を殺した殺人鬼が今度は里来を狙ってる。
どさり。腕の力を失った里来が床に顔をつけて動かなくなる。
「里来さん!」
ぐったりとした彼はもはや抵抗しない。目を瞑り、腕をだらりと下げ、されるがままオレに抱き起された。白く血の気の無くなった頬が、吐いた胃液で濡れている。オレはそれを片手で拭う。
混乱した頭で、彼に水を飲ませることを思いつく。彼の躰を浴槽から抱き上げ、急いでベッドへ運んだ。慎重に躰を横たえ、再びバスルームへ戻る。洗面台の蛇口をひねり、コップに水を汲み、里来のもとへ。
ベッドに乗り上げ、里来の上半身を持ち上げた。動かない唇にコップを押し付ける。
「里来さん、お水です。飲んでください」
しかし里来は口を開かない。意識を失っているのだろうか。軽く頬を叩く。何度も呼びかける。
強引に飲ませることを決めた。オレはコップの水を口に含む。瞬間、違和感を感じてすぐさま床に吐き出した。
「なんだこれ……」
コップの水を凝視する。おかしい。舌がぴりぴり痺れるような、妙な感じ。
――毒? 水の中に?
すぐさまバスルームへ駆けた。シャワーのコックを捻り、お湯を出し、指先を濡らして舐めてみる。舌先の感覚が痺れる。……これだ。水に毒が仕込まれている。里来はそれを全身に浴びたのだ。ならどうする?
答えは一つ。
オレはタオルハンガーに掛かっていたバスローブを引っ掴んで里来に駆け寄った。バスローブで彼の躰を包み、横抱きに抱き上げる。そのまま一目散に扉を出て廊下を走った。階段を駆け上がり地下一階へ。そしてその先の地上へ。
エントランスを飛び出る。早朝の薄暗い島。ビーチへ続く小道を全速力で駆け下りる。
向こうに広がる海はまだ深い群青。夜の残滓。その水面に、東の水平線から昇ったばかりの太陽が、黄色い光を反射させる。
夜風に温くなった砂浜。深い場所で足を取られそうになるも、砂を蹴って走る。やがて波打ち際。静かに打ち寄せる白い波の中に足跡を残して駆け込む。
じゃぶじゃぶと腰まで浸かる。里来のバスローブを剥ぎ、あらわになった躰を海水の中でこする。腹、背、腕、脚。首まで浸けて、顔も綺麗に洗い流し、頭髪の中までごしごし洗う。
海水をつけた指で閉じられた唇を無理矢理こじ開ける。舌を撫で、頬の内側を撫で、いったん指を海水で洗ってから今度は上顎、歯列、喉奥。
がはっ、げほっ、と酷く咽て里来が意識を取り戻した。いやいやと首が振られ、力の入っていない手がオレの手を掴んで止める。
「里来さん、口ゆすいで。海水飲んでぜんぶ吐いてください!」
片手で彼の躰を支えながら、もう片方の手で海水を掬って彼の口に近づける。手の横が唇に触れ、少しずつ海水が流し込まれる。
「う……っぐ……」
里来は苦しそうに飲み込む。毒で弱った躰にしょっぱさは苦行だ。だが今は、安全な水がこれしか思いつかない。
何度か飲ませたあと、今度は前屈みになるよう里来の躰を支え、指を三本揃えて唇を割る。
「ごめんなさい、里来さん」
何事かと彼が顔を背けるところへ指を押し込んで喉の奥をぐっと刺激する。途端に彼がもがき、飲み込んだ海水をばしゃばしゃと吐き出す。
彼がオレを引き剥がそうとするのを押さえつけ、心の中で謝罪しながら何度もそれを繰り返した。彼が疲れて吐けなくなってくると、オレはもう一度彼の躰を隅々まで洗った。際どい部分にまで手を差し入れ、シャワーを被ってそうなところ全部を痛いくらいこすり上げた。彼は抵抗する気力もなくぐったりとしていた。
里来の中に入り込んだ毒を、中からも外からも排除しようと必死だった。絶対に死なせない。
「大丈夫です、里来さん。あとは牛乳を飲んで、ゆっくり休んで、そうすれば大丈夫です。大丈夫……」
薄目を開けてぼうっとしている彼の躰を、気づけば胸に抱いていた。しょっぱい水の中びしょ濡れで、手を離したら沈んでいってしまいそうな彼が、たとえ、人形だとしても……オレは彼を、
「絶対に死なせない……!」
心地良く鼓膜を震わすその声。遠いようにも近いようにも思える。自分はどこにいるのだろう。さっきまでは別の場所にいた。とても美しい、色鮮やかな場所。なのに今は真っ暗。まるで涅下に埋もれてしまったかのように、真っ暗で何も見えない。
「無人」
また声がした。暗闇の中に、ぼんやりと影絵のように人の姿が浮かび上がる。それは誰だろうか。男? 女?
手を伸ばす。影絵はゆっくりと、こちらを振り返る。
それは自分だった。鏡のようにそっくりな顔。見慣れた姿。彼がきつい表情で言う。
「起きろよ、無人!」
はっ、と視界がひらける。雪の降る、水色の部屋。耳につく水音。背後を振り向く。里来がいない。水音はシャワーの音だ。
立ち上がってバスルームへ向かう。扉をノックする。
「里来さん? おはようございます」
返事は無い。シャワーの音にも変化が無い。身動きする物音もしない……。
「あのっ、怒ってたりしますか? オレ、寝相が――」
そこでふと黙る。声がした気がする。ごくごく小さな声で、名前を呼ばれたような。
「里来さん?」
もう一度呼びかけて、そろそろと扉を開ける。怒られるだろうか。構いやしない、相手も男だ。
白い陶器の便器。広い洗面台。その奥の浴槽には天井からカーテンが下がっている。水音はなおも変わらず続く。
「ねぇ、返事してくださいよ」
徐々に徐々に近づいてゆき、カーテンの端に手を掛ける。
「里来さん」
ほんの少し引っ張った隙間から片目だけ覗かせて……次の瞬間には思いっきりカーテンを引き開けていた。
裸で浴槽の床に横たわる里来。動かない彼の躰を、熱いシャワーの粒が打ち付ける。
「里来さん!」
血の気の引く思い。シャワーを止め、彼の上半身を抱き寄せる。湯気が立つほど熱い。なのに唇は紫色で、吐いた跡がある。
オレは彼の名を呼びながら躰を揺する。頬に手を当て、ぱちぱちと叩く。すると、彼が小さく呻く。瞼が持ち上がり、濡れた睫毛の下から薄く瞳が覗く。
「さわ……な」
震える彼の手がオレの腕を掴む。力が入っていない。すぐにずるずると下がっていく。
「どうしたんです? どこが痛いんです? 持病ですか? オレはどうすれば……」
パニックになって捲し立てるオレの腕をまた里来が掴む。今度は少し強く。押されているような感覚。
「何……?」
「……る、な」
「えっ」
「み……、に、さ……る……」
里来は躰を捩ってオレの腕を逃れ、下を向き、胃液を吐いた。ぜえぜえと苦しげに呼吸し、オレが引き起こそうとする手を振り払う。
「なんで! オレはどうすれば!」
固形物の無い胃液だけが浴槽の床を流れてゆく。それを見て、ふと思い至る。七行目の歌。
〝白雪姫が毒の林檎を齧れども〟
……そうか、持病じゃない。毒だ。皆を殺した殺人鬼が今度は里来を狙ってる。
どさり。腕の力を失った里来が床に顔をつけて動かなくなる。
「里来さん!」
ぐったりとした彼はもはや抵抗しない。目を瞑り、腕をだらりと下げ、されるがままオレに抱き起された。白く血の気の無くなった頬が、吐いた胃液で濡れている。オレはそれを片手で拭う。
混乱した頭で、彼に水を飲ませることを思いつく。彼の躰を浴槽から抱き上げ、急いでベッドへ運んだ。慎重に躰を横たえ、再びバスルームへ戻る。洗面台の蛇口をひねり、コップに水を汲み、里来のもとへ。
ベッドに乗り上げ、里来の上半身を持ち上げた。動かない唇にコップを押し付ける。
「里来さん、お水です。飲んでください」
しかし里来は口を開かない。意識を失っているのだろうか。軽く頬を叩く。何度も呼びかける。
強引に飲ませることを決めた。オレはコップの水を口に含む。瞬間、違和感を感じてすぐさま床に吐き出した。
「なんだこれ……」
コップの水を凝視する。おかしい。舌がぴりぴり痺れるような、妙な感じ。
――毒? 水の中に?
すぐさまバスルームへ駆けた。シャワーのコックを捻り、お湯を出し、指先を濡らして舐めてみる。舌先の感覚が痺れる。……これだ。水に毒が仕込まれている。里来はそれを全身に浴びたのだ。ならどうする?
答えは一つ。
オレはタオルハンガーに掛かっていたバスローブを引っ掴んで里来に駆け寄った。バスローブで彼の躰を包み、横抱きに抱き上げる。そのまま一目散に扉を出て廊下を走った。階段を駆け上がり地下一階へ。そしてその先の地上へ。
エントランスを飛び出る。早朝の薄暗い島。ビーチへ続く小道を全速力で駆け下りる。
向こうに広がる海はまだ深い群青。夜の残滓。その水面に、東の水平線から昇ったばかりの太陽が、黄色い光を反射させる。
夜風に温くなった砂浜。深い場所で足を取られそうになるも、砂を蹴って走る。やがて波打ち際。静かに打ち寄せる白い波の中に足跡を残して駆け込む。
じゃぶじゃぶと腰まで浸かる。里来のバスローブを剥ぎ、あらわになった躰を海水の中でこする。腹、背、腕、脚。首まで浸けて、顔も綺麗に洗い流し、頭髪の中までごしごし洗う。
海水をつけた指で閉じられた唇を無理矢理こじ開ける。舌を撫で、頬の内側を撫で、いったん指を海水で洗ってから今度は上顎、歯列、喉奥。
がはっ、げほっ、と酷く咽て里来が意識を取り戻した。いやいやと首が振られ、力の入っていない手がオレの手を掴んで止める。
「里来さん、口ゆすいで。海水飲んでぜんぶ吐いてください!」
片手で彼の躰を支えながら、もう片方の手で海水を掬って彼の口に近づける。手の横が唇に触れ、少しずつ海水が流し込まれる。
「う……っぐ……」
里来は苦しそうに飲み込む。毒で弱った躰にしょっぱさは苦行だ。だが今は、安全な水がこれしか思いつかない。
何度か飲ませたあと、今度は前屈みになるよう里来の躰を支え、指を三本揃えて唇を割る。
「ごめんなさい、里来さん」
何事かと彼が顔を背けるところへ指を押し込んで喉の奥をぐっと刺激する。途端に彼がもがき、飲み込んだ海水をばしゃばしゃと吐き出す。
彼がオレを引き剥がそうとするのを押さえつけ、心の中で謝罪しながら何度もそれを繰り返した。彼が疲れて吐けなくなってくると、オレはもう一度彼の躰を隅々まで洗った。際どい部分にまで手を差し入れ、シャワーを被ってそうなところ全部を痛いくらいこすり上げた。彼は抵抗する気力もなくぐったりとしていた。
里来の中に入り込んだ毒を、中からも外からも排除しようと必死だった。絶対に死なせない。
「大丈夫です、里来さん。あとは牛乳を飲んで、ゆっくり休んで、そうすれば大丈夫です。大丈夫……」
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