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第七章 土曜日
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水浸しのバスローブで包んだ里来を居間のソファに寝かせ、オレはヒュウガの部屋の扉を叩いた。目覚めて着替える途中だったのか彼女は、いつものメイド服に白いエプロンの無い状態で出てきた。
濡れ鼠のオレを見るなり彼女は仰天し、「タオルを」といって走り出そうとする。それを引き止め、オレは事情を話した。
「かしこまりました。水は使用いたしません。缶の牛乳は常温室にありますので、すぐにお持ちします」
厨房の方へ駆けてゆくヒュウガを見送り、オレは伊織の部屋へ走る。彼に朝のシャワーの習慣は無いが、万一、水を大量に飲みでもすれば危険だ。
「伊織、起きてるか」
ノックと共に呼びかける。伊織はすぐに出てきて、
「無人、水道の水が……どうしたの、その恰好……」
彼は既に異変に気づいていたらしく、オレはほっと胸を撫で下ろす。里来の件を話すと彼は沈痛な面持ちになり、部屋の中から毛布を引っ張ってきた。
「躰が冷えてるだろうからね。僕が持ってくから、無人は着替えてきなよ」
気遣う伊織にオレは首を振って答える。
「オレが持ってく。まだ里来さんに牛乳も飲ませてないし」
里来から長時間目を離しているのが心配だった。彼は犯人の魔の手を逃れ、生き長らえてしまったのだ。犯人にとっては予想外の展開。だとしたら、再び狙われる可能性がある。
「ヒュウガかな……」
伊織が密やかな声で、憂えた。オレは首を振る。わからない。確たる証拠が無い。
「僕じゃないよ……?」
「何言ってんだ、当たり前だろ」
「だって僕は、イズミを突き落した容疑が晴れてないもの」
そう言ってオレから視線を逸らし、伊織は俯いた。オレは彼の肩を掴み、鼓舞する。
「親友だろ。オレはお前を信じてる。他の誰が疑っても、最後まで信じ続ける」
「ありがと……無人」
泣きそうな顔で無理に笑おうとする彼の肩をぽんぽんと叩き、「先に行くぞ」と言ってオレは戻ることにした。
居間の扉を開けると、ヒュウガがソファの前でタオルの山を抱えて右往左往していた。裸に濡れたバスローブ一枚の状態の里来にどう対処すべきか迷っていたようだった。テーブルの上には彼女に頼んでおいた牛乳の缶と、マグカップが置かれている。
オレはタオルを受け取り、ヒュウガをいったん居間の外へ出した。
「里来さん、起きてますか」
頬を手のひらで包む。低い体温。けれど唇の色はバスルームで見たときより幾分マシになった気がする。
閉じられた瞼が微かに震え、ゆっくり持ち上がる。
「ナ、イ……」
「いいですよ、喋らないでください。躰拭きますね」
腕を通さず羽織らせていただけのバスローブの前紐をほどき、羽化したての蝶のように弱々しい彼の躰を抱き上げる。L字型のソファのもう片辺に敷いておいたバスタオルの上に彼を横たえ、上から別のバスタオルで覆う。
タオルで丁寧に全身の水分を吸い取っていく。意識のはっきりしてきた彼が嫌がらないよう、できるだけ素手で素肌に触れないように気をつける。
それが終わればバスタオルを取り除き、彼の躰をミノムシのように毛布で包み上げる。
「寒くないですか」
毛布を整えながら問えば、小さく「ん」と聞こえた。
「牛乳、飲んでくださいね」
オレはテーブルの上の缶を掴む。飲み口を自分の服でごしごし拭いた。用意されたマグカップを使う気は無い。毒が塗られている可能性があるから。それをやったのがヒュウガであると決めつけるわけではないが。
カシュッと蓋を開け、念のため一口自分で味見をしてみる。……大丈夫だ。おかしな味はしない。ただの、生温い牛乳。
片腕を背に差し込んで里来の躰を起こし、飲み口を近づける。唇が触れる。ゆっくり缶を傾けると里来の喉がこくこくと鳴る。飲みきれなかった分が口端から伝うので、オレは缶を彼の口から離して指の背で口元をぬぐってやる。
ふぅ、と彼が小さく息をつく。うっすらと開かれた目がオレの方を向く。
「もうちょっと飲めますか?」
再び缶を近づける。飲ませ始めると、すぐに口から溢れ出る。里来は嫌そうに顔を背け、毛布の中で身を捩る。
嚥下するのに疲れた様子だった。強引に海水を飲ませ、吐かせ続けたためだろうか。彼は目を閉じて、眠ってしまいそうだった。苦しそうでないのはいいのだが、もう少し牛乳を飲んでほしい。目を閉じたまま彼が冷たくなっていきそうで怖い。
「せめて一缶くらいはがんばってください」
缶を持ったままの指先で唇をつついてみる。里来は二、三回口をもごもごと動かすだけだった。
牛乳で濡れ、てらてらと光って見える唇を見ているうちに、オレは少しおかしくなっていたのかもしれない。衝動に駆られた、悪いこと……。
自分の口に牛乳を含み、缶を置き、空いた手で里来の顎をぐっと掴む。彼の背に回した腕にも無意識に力が入る。逃がさないように自分の胸に引き寄せ、唇を重ねた。
力の抜けた歯列を割るのは簡単だ。舌を差し込み、それを伝わせて牛乳を少しずつ流し込む。途端に里来は覚醒し、びくりと躰を強張らせた。じたばたと暴れ始める。
里来の口内は温かかった。どこか安心する温もり。オレの舌を押し返そうとする彼のそれは柔らかく、舌の裏を掠められると堪らなく心地良い。
こくり、こくりと躊躇いがちに彼の喉が上下する。毛布から這い出た彼の手がオレの腕にぎりぎりと爪を立てているのを感じ、はっとしてオレは唇を離した。
「あ、その、すみませんオレっ……こんなこと……」
苦しげに涙を滲ませた目で睨み上げてくる里来を見て、急激に頭が冷えてゆくのを感じた。頭は冷えるのに、顔が熱くて堪らない。自分のしでかしたことがひどく恥ずかしい。
里来は手の甲で唇をぬぐっている。その行為にいささかショックを受けながらも罪悪感の方が勝る。いくら毒の中和のためとはいえ、口移しで無理に飲まされれば気分も悪いだろう。
「ごめんなさい、里来さん……」
オレは彼の上半身をソファに下ろし、捲れ上がった毛布を整えて離れた。居間の、彼から一番遠い端に膝を立てて腰を下ろし、じっと黙る。たとえ、出て行けと言われてもこれは譲れない。彼から目を離すことは絶対にしたくなかった。なのでせめて、彼の視界に入らないように端っこへ。
そのまましばらく里来を見ていた。彼は最初こそ毛布の中でもぞもぞと体勢を変えていたが、やがて芋虫のように体を丸めると、静かになった。
濡れ鼠のオレを見るなり彼女は仰天し、「タオルを」といって走り出そうとする。それを引き止め、オレは事情を話した。
「かしこまりました。水は使用いたしません。缶の牛乳は常温室にありますので、すぐにお持ちします」
厨房の方へ駆けてゆくヒュウガを見送り、オレは伊織の部屋へ走る。彼に朝のシャワーの習慣は無いが、万一、水を大量に飲みでもすれば危険だ。
「伊織、起きてるか」
ノックと共に呼びかける。伊織はすぐに出てきて、
「無人、水道の水が……どうしたの、その恰好……」
彼は既に異変に気づいていたらしく、オレはほっと胸を撫で下ろす。里来の件を話すと彼は沈痛な面持ちになり、部屋の中から毛布を引っ張ってきた。
「躰が冷えてるだろうからね。僕が持ってくから、無人は着替えてきなよ」
気遣う伊織にオレは首を振って答える。
「オレが持ってく。まだ里来さんに牛乳も飲ませてないし」
里来から長時間目を離しているのが心配だった。彼は犯人の魔の手を逃れ、生き長らえてしまったのだ。犯人にとっては予想外の展開。だとしたら、再び狙われる可能性がある。
「ヒュウガかな……」
伊織が密やかな声で、憂えた。オレは首を振る。わからない。確たる証拠が無い。
「僕じゃないよ……?」
「何言ってんだ、当たり前だろ」
「だって僕は、イズミを突き落した容疑が晴れてないもの」
そう言ってオレから視線を逸らし、伊織は俯いた。オレは彼の肩を掴み、鼓舞する。
「親友だろ。オレはお前を信じてる。他の誰が疑っても、最後まで信じ続ける」
「ありがと……無人」
泣きそうな顔で無理に笑おうとする彼の肩をぽんぽんと叩き、「先に行くぞ」と言ってオレは戻ることにした。
居間の扉を開けると、ヒュウガがソファの前でタオルの山を抱えて右往左往していた。裸に濡れたバスローブ一枚の状態の里来にどう対処すべきか迷っていたようだった。テーブルの上には彼女に頼んでおいた牛乳の缶と、マグカップが置かれている。
オレはタオルを受け取り、ヒュウガをいったん居間の外へ出した。
「里来さん、起きてますか」
頬を手のひらで包む。低い体温。けれど唇の色はバスルームで見たときより幾分マシになった気がする。
閉じられた瞼が微かに震え、ゆっくり持ち上がる。
「ナ、イ……」
「いいですよ、喋らないでください。躰拭きますね」
腕を通さず羽織らせていただけのバスローブの前紐をほどき、羽化したての蝶のように弱々しい彼の躰を抱き上げる。L字型のソファのもう片辺に敷いておいたバスタオルの上に彼を横たえ、上から別のバスタオルで覆う。
タオルで丁寧に全身の水分を吸い取っていく。意識のはっきりしてきた彼が嫌がらないよう、できるだけ素手で素肌に触れないように気をつける。
それが終わればバスタオルを取り除き、彼の躰をミノムシのように毛布で包み上げる。
「寒くないですか」
毛布を整えながら問えば、小さく「ん」と聞こえた。
「牛乳、飲んでくださいね」
オレはテーブルの上の缶を掴む。飲み口を自分の服でごしごし拭いた。用意されたマグカップを使う気は無い。毒が塗られている可能性があるから。それをやったのがヒュウガであると決めつけるわけではないが。
カシュッと蓋を開け、念のため一口自分で味見をしてみる。……大丈夫だ。おかしな味はしない。ただの、生温い牛乳。
片腕を背に差し込んで里来の躰を起こし、飲み口を近づける。唇が触れる。ゆっくり缶を傾けると里来の喉がこくこくと鳴る。飲みきれなかった分が口端から伝うので、オレは缶を彼の口から離して指の背で口元をぬぐってやる。
ふぅ、と彼が小さく息をつく。うっすらと開かれた目がオレの方を向く。
「もうちょっと飲めますか?」
再び缶を近づける。飲ませ始めると、すぐに口から溢れ出る。里来は嫌そうに顔を背け、毛布の中で身を捩る。
嚥下するのに疲れた様子だった。強引に海水を飲ませ、吐かせ続けたためだろうか。彼は目を閉じて、眠ってしまいそうだった。苦しそうでないのはいいのだが、もう少し牛乳を飲んでほしい。目を閉じたまま彼が冷たくなっていきそうで怖い。
「せめて一缶くらいはがんばってください」
缶を持ったままの指先で唇をつついてみる。里来は二、三回口をもごもごと動かすだけだった。
牛乳で濡れ、てらてらと光って見える唇を見ているうちに、オレは少しおかしくなっていたのかもしれない。衝動に駆られた、悪いこと……。
自分の口に牛乳を含み、缶を置き、空いた手で里来の顎をぐっと掴む。彼の背に回した腕にも無意識に力が入る。逃がさないように自分の胸に引き寄せ、唇を重ねた。
力の抜けた歯列を割るのは簡単だ。舌を差し込み、それを伝わせて牛乳を少しずつ流し込む。途端に里来は覚醒し、びくりと躰を強張らせた。じたばたと暴れ始める。
里来の口内は温かかった。どこか安心する温もり。オレの舌を押し返そうとする彼のそれは柔らかく、舌の裏を掠められると堪らなく心地良い。
こくり、こくりと躊躇いがちに彼の喉が上下する。毛布から這い出た彼の手がオレの腕にぎりぎりと爪を立てているのを感じ、はっとしてオレは唇を離した。
「あ、その、すみませんオレっ……こんなこと……」
苦しげに涙を滲ませた目で睨み上げてくる里来を見て、急激に頭が冷えてゆくのを感じた。頭は冷えるのに、顔が熱くて堪らない。自分のしでかしたことがひどく恥ずかしい。
里来は手の甲で唇をぬぐっている。その行為にいささかショックを受けながらも罪悪感の方が勝る。いくら毒の中和のためとはいえ、口移しで無理に飲まされれば気分も悪いだろう。
「ごめんなさい、里来さん……」
オレは彼の上半身をソファに下ろし、捲れ上がった毛布を整えて離れた。居間の、彼から一番遠い端に膝を立てて腰を下ろし、じっと黙る。たとえ、出て行けと言われてもこれは譲れない。彼から目を離すことは絶対にしたくなかった。なのでせめて、彼の視界に入らないように端っこへ。
そのまましばらく里来を見ていた。彼は最初こそ毛布の中でもぞもぞと体勢を変えていたが、やがて芋虫のように体を丸めると、静かになった。
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