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第一話:赤き蝶
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家の鍵を持って出るのを忘れた。
そのことに気づいたのは、二時限目の途中だった。午前十時。共働きの両親は、とっくに出勤して仕事を始めている。
だから黒瀬真宵は帰りのホームルームのあと、荷物をまとめて図書室へ向かった。放課後、クラスの教室には暇を持て余したリア充たちがたむろするため、長居はできない。
真宵には、誘い合ってショッピングセンターやファミレスに行くような友だちはいなかった。部活にも所属していない。
放課後は真っ直ぐ家に帰り、自室にこもって日が落ちるまで眠る。それが、高校二年の男子らしからぬ、華のない、真宵の日常。
いつからだったか。真宵は朝起きるのが堪らなく辛くなった。なんとか起きても、昼過ぎまでは頭がぼんやりとして、身体がだるかった。
しかしそれは、どういうわけか、夕方にはマシになる。そして日が沈んで夜になると、頭の中は雨上がりの空のように晴れ渡り、身体は羽でも生えたかのように軽くなった。
一度だけ医者にかかったことがあるけれど、規則正しい生活をしましょうだとか、夜に携帯を見るのはやめましょうだとか言われるだけで、大して役に立たなかった。だから真宵は、自分の不可思議な体調を受け入れることにした。
昼間は眠るか、眠ったように生きる。やりたいことや、やらなければいけないことはみんな、夜やればいい。
眠ったように過ごす真宵は、次第にクラスで孤立していった。無視されたり、いじめられたりしたわけではない。ただ、真宵に話しかける人間がいなくなっただけ。話しかけられなければ、真宵は誰とも話さない。
誰とも話さないことが楽だと気づいてしまった。人間関係というのは、作れば作るほど複雑になり、悩みの種となる。それがごっそり取り払われた真宵の中には、揺るぎない平穏が残った。
真宵のクラスは、真宵がいても、いなくても、変わらず日々を営んでいく。
真宵もまた、ただひとり、誰にも揺るがされない学校生活を、眠ったように生きていく。
それがずっと続くはずだったのだ。この夜までは。
「んんっ……」
図書室の机に突っ伏していた真宵は目を開けて、ハッと上体を起こした。辺りは真っ暗だった。しかし、暗順応でよく見える。視覚だけじゃない。昼間に比べて五感が鋭くなっている。見ると、壁の掛け時計は午後七時過ぎを差していた。
窓の外は豪雨だった。先ほどから聞こえていたバチバチという音は、雨粒が窓ガラスを叩く音だ。だが、今日の予報は夜まで晴れではなかったか。これは最近よく聞くゲリラ豪雨というやつか。
いや、そんなことより、今のこの状況だ。まだ真宵がいるというのに、図書室は消灯されている。教師も生徒も誰も、気づいてくれなかったのか。あるいは気づいていながら放置されたのか。こんなところで眠っているほうが悪いのは百も承知だが、酷いなと思ってしまう。
けれど嘆いたって仕方がない。真宵は席を立ち、床に置いていたスクールバッグを取り上げて肩にかけた。無人の室内を最短距離で横切り、出入り口の引き戸に手を掛ける。
戸は沈黙していた。
「……開かない」
取っ手の下には鍵穴があった。外側からだけでなく内側からも、鍵が無ければ開錠できない構造。恐らく、生徒が鍵をかけて閉じこもったりしないように。
真宵の心臓が久々に跳ねた。どうしよう。携帯で電話をしようか。誰に? 学校の先生の連絡先など、ひとつも知らない。
それなら両親に? 午後七時半なら母は帰宅しているはず。
真宵はスクールバッグから携帯を取り出した。その時だった。背中側でカッと白い光が炸裂した。それとほぼ同時。
バリィィッ!!
割れるような爆発音が鼓膜を突き刺した。痛みすら感じる轟音に、思わず両耳を塞ぐ。携帯が絨毯の上に転がる。
真宵は耳を守ったまま背後を振り向いた。すると窓の外、おそらくすぐ下の場所から、白い光が立ち上って見えた。図書室は校舎の二階だ。真宵は、一階で何かが燃えているのではと思った。
駆け寄っていき、窓を開けて下を覗き込んだ。そして絶句した。燃えていたのは花壇だった。
白い炎――のように見えた。降りしきる雨の中、勢い衰えず燃え盛る。真宵は思った。稲妻のせいだ。稲妻で点いた炎は赤やオレンジではなく白なのだ。
途端に恐怖が湧き上がった。この炎はいずれ二階まで上がってくる。何故か確信のようにそう思った。逃げなければ。
しかし真宵は白い炎から目が離せなかった。炎は揺らめき、ひと際大きく膨らんだかと思うと、真宵のこぶし大の飛び火を放った。それはたちまち蝶の形となり、意思を持つかのようにひらひらと舞い上ってくる。
「わっ……」
真宵は飛び退った。白い炎の蝶は、真宵が開け放った窓から入り込むと、中空で静止した。
直後――蝶は粒子のように広がり、ひとりの人の形となった。かと思うと、その粒子をヴェールのように脱ぎ捨てて、中から全身赤づくめの天女のような格好の女が現れる。
歳は二十ほど。赤く波打つ長髪に赤い唇、赤銅の瞳、白い肌。凛とした眉と鼻。まるで古の山水画から飛び出してきたかのような美女。
背はすらりと高く、一六九センチの真宵を悠々と見下ろすほどだ。
「ようやくお見つけいたしました、夜華君」
女は片膝をつき、恭しく頭を垂れた。
ただの高校生だった真宵の日常が、一変した瞬間だった。
そのことに気づいたのは、二時限目の途中だった。午前十時。共働きの両親は、とっくに出勤して仕事を始めている。
だから黒瀬真宵は帰りのホームルームのあと、荷物をまとめて図書室へ向かった。放課後、クラスの教室には暇を持て余したリア充たちがたむろするため、長居はできない。
真宵には、誘い合ってショッピングセンターやファミレスに行くような友だちはいなかった。部活にも所属していない。
放課後は真っ直ぐ家に帰り、自室にこもって日が落ちるまで眠る。それが、高校二年の男子らしからぬ、華のない、真宵の日常。
いつからだったか。真宵は朝起きるのが堪らなく辛くなった。なんとか起きても、昼過ぎまでは頭がぼんやりとして、身体がだるかった。
しかしそれは、どういうわけか、夕方にはマシになる。そして日が沈んで夜になると、頭の中は雨上がりの空のように晴れ渡り、身体は羽でも生えたかのように軽くなった。
一度だけ医者にかかったことがあるけれど、規則正しい生活をしましょうだとか、夜に携帯を見るのはやめましょうだとか言われるだけで、大して役に立たなかった。だから真宵は、自分の不可思議な体調を受け入れることにした。
昼間は眠るか、眠ったように生きる。やりたいことや、やらなければいけないことはみんな、夜やればいい。
眠ったように過ごす真宵は、次第にクラスで孤立していった。無視されたり、いじめられたりしたわけではない。ただ、真宵に話しかける人間がいなくなっただけ。話しかけられなければ、真宵は誰とも話さない。
誰とも話さないことが楽だと気づいてしまった。人間関係というのは、作れば作るほど複雑になり、悩みの種となる。それがごっそり取り払われた真宵の中には、揺るぎない平穏が残った。
真宵のクラスは、真宵がいても、いなくても、変わらず日々を営んでいく。
真宵もまた、ただひとり、誰にも揺るがされない学校生活を、眠ったように生きていく。
それがずっと続くはずだったのだ。この夜までは。
「んんっ……」
図書室の机に突っ伏していた真宵は目を開けて、ハッと上体を起こした。辺りは真っ暗だった。しかし、暗順応でよく見える。視覚だけじゃない。昼間に比べて五感が鋭くなっている。見ると、壁の掛け時計は午後七時過ぎを差していた。
窓の外は豪雨だった。先ほどから聞こえていたバチバチという音は、雨粒が窓ガラスを叩く音だ。だが、今日の予報は夜まで晴れではなかったか。これは最近よく聞くゲリラ豪雨というやつか。
いや、そんなことより、今のこの状況だ。まだ真宵がいるというのに、図書室は消灯されている。教師も生徒も誰も、気づいてくれなかったのか。あるいは気づいていながら放置されたのか。こんなところで眠っているほうが悪いのは百も承知だが、酷いなと思ってしまう。
けれど嘆いたって仕方がない。真宵は席を立ち、床に置いていたスクールバッグを取り上げて肩にかけた。無人の室内を最短距離で横切り、出入り口の引き戸に手を掛ける。
戸は沈黙していた。
「……開かない」
取っ手の下には鍵穴があった。外側からだけでなく内側からも、鍵が無ければ開錠できない構造。恐らく、生徒が鍵をかけて閉じこもったりしないように。
真宵の心臓が久々に跳ねた。どうしよう。携帯で電話をしようか。誰に? 学校の先生の連絡先など、ひとつも知らない。
それなら両親に? 午後七時半なら母は帰宅しているはず。
真宵はスクールバッグから携帯を取り出した。その時だった。背中側でカッと白い光が炸裂した。それとほぼ同時。
バリィィッ!!
割れるような爆発音が鼓膜を突き刺した。痛みすら感じる轟音に、思わず両耳を塞ぐ。携帯が絨毯の上に転がる。
真宵は耳を守ったまま背後を振り向いた。すると窓の外、おそらくすぐ下の場所から、白い光が立ち上って見えた。図書室は校舎の二階だ。真宵は、一階で何かが燃えているのではと思った。
駆け寄っていき、窓を開けて下を覗き込んだ。そして絶句した。燃えていたのは花壇だった。
白い炎――のように見えた。降りしきる雨の中、勢い衰えず燃え盛る。真宵は思った。稲妻のせいだ。稲妻で点いた炎は赤やオレンジではなく白なのだ。
途端に恐怖が湧き上がった。この炎はいずれ二階まで上がってくる。何故か確信のようにそう思った。逃げなければ。
しかし真宵は白い炎から目が離せなかった。炎は揺らめき、ひと際大きく膨らんだかと思うと、真宵のこぶし大の飛び火を放った。それはたちまち蝶の形となり、意思を持つかのようにひらひらと舞い上ってくる。
「わっ……」
真宵は飛び退った。白い炎の蝶は、真宵が開け放った窓から入り込むと、中空で静止した。
直後――蝶は粒子のように広がり、ひとりの人の形となった。かと思うと、その粒子をヴェールのように脱ぎ捨てて、中から全身赤づくめの天女のような格好の女が現れる。
歳は二十ほど。赤く波打つ長髪に赤い唇、赤銅の瞳、白い肌。凛とした眉と鼻。まるで古の山水画から飛び出してきたかのような美女。
背はすらりと高く、一六九センチの真宵を悠々と見下ろすほどだ。
「ようやくお見つけいたしました、夜華君」
女は片膝をつき、恭しく頭を垂れた。
ただの高校生だった真宵の日常が、一変した瞬間だった。
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