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第四話:蟲と蟲間
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「華界について、御耳に入れておきましょう」
森深い道なき道を先導しながら、赤い蝶が言う。真宵は垂れた枝葉を腕で払い、その下を潜り抜けつつ耳を傾ける。
「華界とは、人間の暮らす人界の、上位に存在する場所です」
立羽は淡々と話を続けた。
「華界には、華間と蟲間が暮らしています。華間というのは、花畑から生まれる民のことです。そして蟲間は、蟲として生まれ、華間と主従の契約を結ぶことで華間に等しい知能と肉体を手に入れた者をいいます」
「タテハさんは、蟲間?」
「はい。この姿から既にお察しでしょうが、私は蝶として生まれ、赤国女王――珠沙様と契ることで蟲間となったのです。王や女王に付いた蟲間は、その国の色を冠して呼ばれます。私の場合は、赤蟲間と」
「セキチュウカン……」
「自ら言うことでもございませんが、私は赤国で最も高位の蟲間なのですよ。ですからご安心ください。あなた様を無事に赤国へとお連れしてみせましょう」
「タテハさんって、偉い人だったんですね」
「いいえ、夜華君。私は人ではありませぬ。それに偉くもございませんので、私の名に敬称は不要です。立羽と呼び捨てになされませ」
「でも……」
「夜華君に敬称を添えてお呼びいただくなど身に余ること。赤女王にもお叱りを受けましょうゆえ」
「……わかりました」
木漏れ日の中、草いきれに塗れて進んでいく。整地されていない地面は、真宵の体力を容赦なく削った。
汗ばんできて、頭から被った羽衣が次第に煩わしくなってくる。少しの間ならばいいか、と捲り上げて頭を出した途端、前方を飛ぶ蝶がパッと白く発光して霧散し、女の形に戻った。
立羽は険しい顔つきで距離を詰めてくると、真宵の羽衣を両手で掴み、深々と被せ直す。
「ご自覚なされませ。あなたは夜華君でいらっしゃるのですよ。一瞬たりとも羽衣を脱げば、その芳香が宙に漂い、蟲を惹きつけてしまいます」
「ご、ごめんなさい」
「あなた様は蟲間でないゆえ、おわかりにならないでしょうが、この華界へ降り立って以降、あなた様の芳香は人界にいらしたころとは比にならぬほど強まっております」
ぴしゃりと言われて、真宵は自分の腕を持ち上げ、においを嗅いだ。
「僕って……くさいです?」
「いえ、決して不快な香りではありません。むしろ蟲や蟲間にとっては、堪らなく惹きつけられる……人間で例えるならば、食欲や性欲を掻き立てられるような香りです」
「食欲や性欲……それは、僕を食べたくなるということでしょうか」
「"食べる"とおっしゃるのが、あなた様の血肉を貪る、あるいはあなた様を組み敷き、閨の相手とすることを指すのであれば、そのとおりです」
真宵はぞっと寒気を覚えた。冗談じゃない。蟲も蟲間も、何と恐ろしい生き物なのだ。
「タ、タテハは僕を食べたいと思いますか」
恐る恐る問うてみると、立羽の赤い唇がきょとんと小さく開かれて、それから弓なりに持ち上がる。
「ご安心を。思いませぬ。我が身はすでに赤女王と契約を済ませております。ゆえに、私がこの世で最も惹かれるのは赤女王の香りであって、あなた様ではございません」
「そう……変なこと聞いてごめんなさい」
「構いません。ですが、ご油断召されぬよう。華間と契約済みの蟲間であれど、ほかならぬ夜華君の芳香とあらば気が迷う者もおりましょう。最も警戒すべきは、本能のままに惹かれてくる契約未済の蟲ですが、理性ある蟲間といえどみだりに近づいてはなりませぬ」
「はい。気をつけます」
「暑くお感じでしたら、羽衣の下の衣服をお脱ぎください」
そう言うと、立羽は弧を描くように右手を振り上げた。その指先から煌めく粉が放たれて、真宵の周囲を包み込む。
「私の鱗粉です。吸い込んでもお身体に害はございませんが、できる限りお吸いにならぬよう。さあ、粉の舞い落ちぬうちにお着替えを」
どうやら立羽の鱗粉は、夜華間たる真宵の芳香を封じ込める力を持つようだ。真宵は言われたとおり、羽衣の下のブレザーを脱ぎ、ネクタイを取る。
「そちらは私がお運びいたします」
立羽は真宵の手から衣服をもらい受けると、羽衣の袖の中に仕舞った。そしてまた、赤い蝶の姿に変わる。
真宵も今度こそ、朱色の羽衣を目深に被った。
そしてまた、森の中を進んでいく。
一時間は歩いただろうか。不意に、赤い蝶が中空で静止した。真宵はその小さな身体にぶつかりそうになり、慌てて足を止める。
「どうしたんですか」
「この先、五十五間(約百メートル)も行けば森を抜け、荒地に出ます。いよいよ国境が近いということです。しかしそれだけに、危険性は増します」
「危険って、どれくらい……」
「まず、身を隠せるものがなくなります。遠目に見つかりやすくなるのです。髪と肌を、十分お隠しください。次に、森が切れるということは、その先は植物の容易に育たぬ土地だということ。赤国と橙国との国境は、炎河なのです」
「エンガ?」
「炎の河と書きます。地表を流れる熔流の大河です。幅は、狭いところでも三十間(約五十五メートル)はあります」
「どうやって向こう側へ行くんです?」
「橙国側の把握していない溶――」
そこで会話は途切れた。赤い蝶が光り、女の姿に戻る。
立羽は進行方向の左手へ身を返した。
「お気をつけください。蟲が一匹来ます」
「えっ?」
「先ほど羽衣を外された時の、一瞬の香りを感知したのでしょう」
「ぼ、僕はどうすれば?」
「羽衣を深く被り、私の背を離れぬよう」
奥のほうから草鳴りが近づいてくる。それは蟲というには大きく、例えば猪でも駆けてくるかのような勢いだ。
真宵の心臓が、緊張でどくどくと脈打つ。
「そうご心配召されますな。私は赤国一の蟲間だと、申し上げたでしょう」
次の瞬間、手前の長草が揺れ動き、凶悪な顎を持つ巨大な蟲が飛び出してきた。
森深い道なき道を先導しながら、赤い蝶が言う。真宵は垂れた枝葉を腕で払い、その下を潜り抜けつつ耳を傾ける。
「華界とは、人間の暮らす人界の、上位に存在する場所です」
立羽は淡々と話を続けた。
「華界には、華間と蟲間が暮らしています。華間というのは、花畑から生まれる民のことです。そして蟲間は、蟲として生まれ、華間と主従の契約を結ぶことで華間に等しい知能と肉体を手に入れた者をいいます」
「タテハさんは、蟲間?」
「はい。この姿から既にお察しでしょうが、私は蝶として生まれ、赤国女王――珠沙様と契ることで蟲間となったのです。王や女王に付いた蟲間は、その国の色を冠して呼ばれます。私の場合は、赤蟲間と」
「セキチュウカン……」
「自ら言うことでもございませんが、私は赤国で最も高位の蟲間なのですよ。ですからご安心ください。あなた様を無事に赤国へとお連れしてみせましょう」
「タテハさんって、偉い人だったんですね」
「いいえ、夜華君。私は人ではありませぬ。それに偉くもございませんので、私の名に敬称は不要です。立羽と呼び捨てになされませ」
「でも……」
「夜華君に敬称を添えてお呼びいただくなど身に余ること。赤女王にもお叱りを受けましょうゆえ」
「……わかりました」
木漏れ日の中、草いきれに塗れて進んでいく。整地されていない地面は、真宵の体力を容赦なく削った。
汗ばんできて、頭から被った羽衣が次第に煩わしくなってくる。少しの間ならばいいか、と捲り上げて頭を出した途端、前方を飛ぶ蝶がパッと白く発光して霧散し、女の形に戻った。
立羽は険しい顔つきで距離を詰めてくると、真宵の羽衣を両手で掴み、深々と被せ直す。
「ご自覚なされませ。あなたは夜華君でいらっしゃるのですよ。一瞬たりとも羽衣を脱げば、その芳香が宙に漂い、蟲を惹きつけてしまいます」
「ご、ごめんなさい」
「あなた様は蟲間でないゆえ、おわかりにならないでしょうが、この華界へ降り立って以降、あなた様の芳香は人界にいらしたころとは比にならぬほど強まっております」
ぴしゃりと言われて、真宵は自分の腕を持ち上げ、においを嗅いだ。
「僕って……くさいです?」
「いえ、決して不快な香りではありません。むしろ蟲や蟲間にとっては、堪らなく惹きつけられる……人間で例えるならば、食欲や性欲を掻き立てられるような香りです」
「食欲や性欲……それは、僕を食べたくなるということでしょうか」
「"食べる"とおっしゃるのが、あなた様の血肉を貪る、あるいはあなた様を組み敷き、閨の相手とすることを指すのであれば、そのとおりです」
真宵はぞっと寒気を覚えた。冗談じゃない。蟲も蟲間も、何と恐ろしい生き物なのだ。
「タ、タテハは僕を食べたいと思いますか」
恐る恐る問うてみると、立羽の赤い唇がきょとんと小さく開かれて、それから弓なりに持ち上がる。
「ご安心を。思いませぬ。我が身はすでに赤女王と契約を済ませております。ゆえに、私がこの世で最も惹かれるのは赤女王の香りであって、あなた様ではございません」
「そう……変なこと聞いてごめんなさい」
「構いません。ですが、ご油断召されぬよう。華間と契約済みの蟲間であれど、ほかならぬ夜華君の芳香とあらば気が迷う者もおりましょう。最も警戒すべきは、本能のままに惹かれてくる契約未済の蟲ですが、理性ある蟲間といえどみだりに近づいてはなりませぬ」
「はい。気をつけます」
「暑くお感じでしたら、羽衣の下の衣服をお脱ぎください」
そう言うと、立羽は弧を描くように右手を振り上げた。その指先から煌めく粉が放たれて、真宵の周囲を包み込む。
「私の鱗粉です。吸い込んでもお身体に害はございませんが、できる限りお吸いにならぬよう。さあ、粉の舞い落ちぬうちにお着替えを」
どうやら立羽の鱗粉は、夜華間たる真宵の芳香を封じ込める力を持つようだ。真宵は言われたとおり、羽衣の下のブレザーを脱ぎ、ネクタイを取る。
「そちらは私がお運びいたします」
立羽は真宵の手から衣服をもらい受けると、羽衣の袖の中に仕舞った。そしてまた、赤い蝶の姿に変わる。
真宵も今度こそ、朱色の羽衣を目深に被った。
そしてまた、森の中を進んでいく。
一時間は歩いただろうか。不意に、赤い蝶が中空で静止した。真宵はその小さな身体にぶつかりそうになり、慌てて足を止める。
「どうしたんですか」
「この先、五十五間(約百メートル)も行けば森を抜け、荒地に出ます。いよいよ国境が近いということです。しかしそれだけに、危険性は増します」
「危険って、どれくらい……」
「まず、身を隠せるものがなくなります。遠目に見つかりやすくなるのです。髪と肌を、十分お隠しください。次に、森が切れるということは、その先は植物の容易に育たぬ土地だということ。赤国と橙国との国境は、炎河なのです」
「エンガ?」
「炎の河と書きます。地表を流れる熔流の大河です。幅は、狭いところでも三十間(約五十五メートル)はあります」
「どうやって向こう側へ行くんです?」
「橙国側の把握していない溶――」
そこで会話は途切れた。赤い蝶が光り、女の姿に戻る。
立羽は進行方向の左手へ身を返した。
「お気をつけください。蟲が一匹来ます」
「えっ?」
「先ほど羽衣を外された時の、一瞬の香りを感知したのでしょう」
「ぼ、僕はどうすれば?」
「羽衣を深く被り、私の背を離れぬよう」
奥のほうから草鳴りが近づいてくる。それは蟲というには大きく、例えば猪でも駆けてくるかのような勢いだ。
真宵の心臓が、緊張でどくどくと脈打つ。
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