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第十七話:芳香で戦う
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「網玲」
「はぁい、一匹出します!」
立羽の呼びかけに女児の声が答えて、次の瞬間、林間から巨大な赤い繭のようなものが放り込まれる。
繭は何度か跳ねて地面を転がったかと思うと、突如硬度を失い、全体が柔らかな糸束のようにたわんだ。糸と糸との間から、蟲がもがき出てくる。
全長一.七間(約三メートル)の蝸牛。背中の殻だけでも直径〇.八間(約一.五メートル)はあり、迫力だ。
「最初は動きの遅いのにしてみましたぁ。夜華様、ファイトです!」
姿の見えない網玲の声は明るい。真宵はその声に背中を押されるような気持ちで、蝸牛の正面に立った。
先ほど金蚉と対峙したときほどの恐怖心はない。それは戦い方を知ったおかげだろうか。それとも単に、動きののろい蟲が相手だからだろうか。
蝸牛は腹足を波打つように蠕動させて地面を這う。頭の上側についた長い触角二本と下側についた短い触角二本をそれぞれ空中に伸ばして、真宵の気配を察したのか、ゆっくりと右へ舵を切った。
真宵は選ばなければならない。刺して倒すか、命じて無力化するか。
しかし、考えるまでもなかった。この蝸牛は生きている。こちらが害を受けたわけでもないのに、修行のために命を奪うなどあってはならない。
方向転換していく蝸牛を見つめ、真宵は額のサークレットを上へとずらした。瞬間、蝸牛の四本の触角がぐるんと背後の真宵へ向く。その触角を追うように顔が向けられて、続いて身体全体が真宵に正対する。
夜華の芳香の力だ。その抗いがたい魅力と、敵から逃げなければという防衛本能とが蝸牛の中でせめぎ合い、前者が勝った。
にじり寄ってくる蝸牛を前に、真宵は額に芳香を集める。そして紗を開くように、身体の前に芳香を広げていく。
蝸牛の腹足の蠕動が激しくなる。真宵が意識的に芳香を展開しているせいで、それに当てられたのだ。両者の距離が急速に狭まっていく。
真宵は芳香の紗を飛ばして正面から蝸牛を捕えた。長く伸びていた上側二本の触角が、恐れおののくように一瞬で引っ込む。前進は止まったが、腹足はその場で蠢き続けていた。しかしその動きもすぐに鈍くなり、やがては停止した。
次は睨だ。目を合わせる必要がある。蝸牛の目とは、どこにあるのか。
「上側の触角の先端です」
立羽が真宵の思考を読んだかのように助け舟を出す。そうか、あの先端が目になっているのか。
真宵は縮こまって半分頭に埋まっている先端を凝視した。
するとどうだろう。緩やかに波打っていた軟体が、みるみるうちに渦巻き型の殻の中へと逃げ込んでいく。
『あっ……』
声は出せないものの、思わず口が驚きの形を作った。
コトリ
殻が、出入り口部分を下にして伏せられ、沈黙した。真宵はその姿を眺めつつ頭を悩ませる。どうしようか。目を合わせられなければ睨ができない。
助言を求めて立羽を見ると、彼女はあからさまに顔を逸らした。何も言わない、自分で考えろということだ。
真宵は渦巻き型の殻に目を向けて、頭をひねる。睨なしで催示をすると、どうなるだろうか。もしかしたら、それでも成功するかもしれない。
真宵は心中で唱える。
この平地から出ていって。
そうだ。修行としてはそれでいい。危険な蟲を遠ざけることができたならば、それは成果だ。なにも殺す必要はない。
けれど、殻にこもった蝸牛は微動だにしなかった。催示が効いていないのか。やはり睨をしていないのが原因か。
もう一度、と思い同じ命令を下す。
この平地から出ていって。
蝸牛の殻に数歩近づく。
この平地から出ていって。
この平地から出ていって。
何度か繰り返し命じてみたが、蝸牛が動く気配はない。いっそのこと殻を持ち上げて中を覗いてみようかとも考えたが、手を触れるのはさすがに怖かった。それに、持ち上げるにしても二百キロはあるように見える。
そこで、ごめんと思いつつ、殻の側面を蹴って横向きに転がそうと思い至った。片足の靴底を当てて、力いっぱい蹴りやる。
ゴウンゴウン
低い音を立てて殻は横倒しになった。出入り口が露わになり、真宵は少し離れた位置からそこを覗き見る。
奥のほうに、軟体の一部が見えた。そこが頭なのか首なのか、はたまた腹なのかはわからない。
真宵は殻全体を包む芳香の紗を動かして、出入り口から侵入させようと試みた。催示を有効に行うには、命令を媒介する芳香が対象の脳に届いている必要がある。先ほどからの催示が上手く機能しないのは、殻の中に縮こまった蝸牛が、その鼻腔から芳香を吸い込んでいないせいではないかと思ったのだ。
穴の中に僅かに見える軟体に、芳香の紗を押しつける。蝸牛の身体の仕組みは知らないが、もしかすると皮膚呼吸などでも芳香を吸い込むかもしれない。
しばらくそうやってから、また命令を下す。
この平地から出ていって。
この平地から出ていって。
この平地から出ていって。
けれどもやはり、蝸牛は動き出さない。
しびれを切らしたらしい立羽が、ここでようやく口を開いた。
「夜華君、よくお考えください。今の状態で催示が効かないとあらば、取るべき手段はひとつです」
言われなくともわかっている、と真宵は反感を覚えたけれど、口には出さなかった。立羽の言うのはつまり、無力化ではなく駆逐に切り替えろということ。
しかし、真宵という華間を恐れて隠れているだけの蝸牛を葬ることは、決して正義ではないと真宵には思えた。
無益な殺生をするな。それは人間ならば誰しも幼いころから刷り込まれる教えだ。真宵も例外ではない。この巨大な蝸牛を殺すことは、道を歩いていてうっかり蟻を踏み潰してしまうこととは違う。
真宵は意を決して蝸牛のそばにしゃがみ込み、至近距離で出入り口の穴を覗いた。
今のままの芳香では届かないというのなら、もっと濃くすればいい。
サークレットを頭から外す。途端に耳の裏が燃えるように熱を持った。その熱を、額の中心へと集めて穴の中へ放つ。形は極めてまろやかに、アメーバのように。
御しきれなかった一部の熱が身体のあちこちから発散されていく。だが気にしている余裕はない。
熱くなった頭の奥で叫ぶ。
この平地から出ていって!
「何を馬鹿なことを!」
真宵の身体は突如、背後から羽交い絞めにされた。立羽だった。
立羽は真宵が片手に持ったサークレットを奪い取ると、真宵の頭に乱暴につけ直す。
「絶対に取るなと申し上げたはずです。何故言うことを聞かないのですか」
声には怒りと焦燥が入り混じっていた。
間を置かず、林間から網玲と蜻迅衛が飛び出てくる。どういうわけか二人とも足元が覚束ない。
「ふえぇ、痺れた……」
弱々しい声を上げて、網玲が地面にぺたりと座り込む。その背後で蜻迅衛は、俯いて両手で自身の腕を抱いていた。小刻みに震えているのは、恐れではなく何かに耐えているようだ。
「蜻迅衛、落ち着け。私の声が聞こえているか」
立羽が言い、真宵を解放して今度は蜻迅衛へと駆けていく。そしてその両腕で蜻迅衛を抱き込むと、赤髪のおかっぱ頭を優しく撫でた。
「収まるか? 収まらなければ、私の腕を噛んでいい」
瞬間、蜻迅衛は嫌々をするように首を振り、立羽を突き放した。自身を抱き締めて地面にへたり込む。
「だい、じょ……ぶです。おさ、めま……すッ」
苦しげに呟く蜻迅衛はとても大丈夫とは思えなかったが、真宵にはどうすることもできなかった。網玲も地面に座ったまま息を荒くしている。一体彼らに何が起きたのか。
困惑する真宵の視界の端で、うずくまっていたはずの蝸牛が、殻からその軟体を露わにしていた。
「はぁい、一匹出します!」
立羽の呼びかけに女児の声が答えて、次の瞬間、林間から巨大な赤い繭のようなものが放り込まれる。
繭は何度か跳ねて地面を転がったかと思うと、突如硬度を失い、全体が柔らかな糸束のようにたわんだ。糸と糸との間から、蟲がもがき出てくる。
全長一.七間(約三メートル)の蝸牛。背中の殻だけでも直径〇.八間(約一.五メートル)はあり、迫力だ。
「最初は動きの遅いのにしてみましたぁ。夜華様、ファイトです!」
姿の見えない網玲の声は明るい。真宵はその声に背中を押されるような気持ちで、蝸牛の正面に立った。
先ほど金蚉と対峙したときほどの恐怖心はない。それは戦い方を知ったおかげだろうか。それとも単に、動きののろい蟲が相手だからだろうか。
蝸牛は腹足を波打つように蠕動させて地面を這う。頭の上側についた長い触角二本と下側についた短い触角二本をそれぞれ空中に伸ばして、真宵の気配を察したのか、ゆっくりと右へ舵を切った。
真宵は選ばなければならない。刺して倒すか、命じて無力化するか。
しかし、考えるまでもなかった。この蝸牛は生きている。こちらが害を受けたわけでもないのに、修行のために命を奪うなどあってはならない。
方向転換していく蝸牛を見つめ、真宵は額のサークレットを上へとずらした。瞬間、蝸牛の四本の触角がぐるんと背後の真宵へ向く。その触角を追うように顔が向けられて、続いて身体全体が真宵に正対する。
夜華の芳香の力だ。その抗いがたい魅力と、敵から逃げなければという防衛本能とが蝸牛の中でせめぎ合い、前者が勝った。
にじり寄ってくる蝸牛を前に、真宵は額に芳香を集める。そして紗を開くように、身体の前に芳香を広げていく。
蝸牛の腹足の蠕動が激しくなる。真宵が意識的に芳香を展開しているせいで、それに当てられたのだ。両者の距離が急速に狭まっていく。
真宵は芳香の紗を飛ばして正面から蝸牛を捕えた。長く伸びていた上側二本の触角が、恐れおののくように一瞬で引っ込む。前進は止まったが、腹足はその場で蠢き続けていた。しかしその動きもすぐに鈍くなり、やがては停止した。
次は睨だ。目を合わせる必要がある。蝸牛の目とは、どこにあるのか。
「上側の触角の先端です」
立羽が真宵の思考を読んだかのように助け舟を出す。そうか、あの先端が目になっているのか。
真宵は縮こまって半分頭に埋まっている先端を凝視した。
するとどうだろう。緩やかに波打っていた軟体が、みるみるうちに渦巻き型の殻の中へと逃げ込んでいく。
『あっ……』
声は出せないものの、思わず口が驚きの形を作った。
コトリ
殻が、出入り口部分を下にして伏せられ、沈黙した。真宵はその姿を眺めつつ頭を悩ませる。どうしようか。目を合わせられなければ睨ができない。
助言を求めて立羽を見ると、彼女はあからさまに顔を逸らした。何も言わない、自分で考えろということだ。
真宵は渦巻き型の殻に目を向けて、頭をひねる。睨なしで催示をすると、どうなるだろうか。もしかしたら、それでも成功するかもしれない。
真宵は心中で唱える。
この平地から出ていって。
そうだ。修行としてはそれでいい。危険な蟲を遠ざけることができたならば、それは成果だ。なにも殺す必要はない。
けれど、殻にこもった蝸牛は微動だにしなかった。催示が効いていないのか。やはり睨をしていないのが原因か。
もう一度、と思い同じ命令を下す。
この平地から出ていって。
蝸牛の殻に数歩近づく。
この平地から出ていって。
この平地から出ていって。
何度か繰り返し命じてみたが、蝸牛が動く気配はない。いっそのこと殻を持ち上げて中を覗いてみようかとも考えたが、手を触れるのはさすがに怖かった。それに、持ち上げるにしても二百キロはあるように見える。
そこで、ごめんと思いつつ、殻の側面を蹴って横向きに転がそうと思い至った。片足の靴底を当てて、力いっぱい蹴りやる。
ゴウンゴウン
低い音を立てて殻は横倒しになった。出入り口が露わになり、真宵は少し離れた位置からそこを覗き見る。
奥のほうに、軟体の一部が見えた。そこが頭なのか首なのか、はたまた腹なのかはわからない。
真宵は殻全体を包む芳香の紗を動かして、出入り口から侵入させようと試みた。催示を有効に行うには、命令を媒介する芳香が対象の脳に届いている必要がある。先ほどからの催示が上手く機能しないのは、殻の中に縮こまった蝸牛が、その鼻腔から芳香を吸い込んでいないせいではないかと思ったのだ。
穴の中に僅かに見える軟体に、芳香の紗を押しつける。蝸牛の身体の仕組みは知らないが、もしかすると皮膚呼吸などでも芳香を吸い込むかもしれない。
しばらくそうやってから、また命令を下す。
この平地から出ていって。
この平地から出ていって。
この平地から出ていって。
けれどもやはり、蝸牛は動き出さない。
しびれを切らしたらしい立羽が、ここでようやく口を開いた。
「夜華君、よくお考えください。今の状態で催示が効かないとあらば、取るべき手段はひとつです」
言われなくともわかっている、と真宵は反感を覚えたけれど、口には出さなかった。立羽の言うのはつまり、無力化ではなく駆逐に切り替えろということ。
しかし、真宵という華間を恐れて隠れているだけの蝸牛を葬ることは、決して正義ではないと真宵には思えた。
無益な殺生をするな。それは人間ならば誰しも幼いころから刷り込まれる教えだ。真宵も例外ではない。この巨大な蝸牛を殺すことは、道を歩いていてうっかり蟻を踏み潰してしまうこととは違う。
真宵は意を決して蝸牛のそばにしゃがみ込み、至近距離で出入り口の穴を覗いた。
今のままの芳香では届かないというのなら、もっと濃くすればいい。
サークレットを頭から外す。途端に耳の裏が燃えるように熱を持った。その熱を、額の中心へと集めて穴の中へ放つ。形は極めてまろやかに、アメーバのように。
御しきれなかった一部の熱が身体のあちこちから発散されていく。だが気にしている余裕はない。
熱くなった頭の奥で叫ぶ。
この平地から出ていって!
「何を馬鹿なことを!」
真宵の身体は突如、背後から羽交い絞めにされた。立羽だった。
立羽は真宵が片手に持ったサークレットを奪い取ると、真宵の頭に乱暴につけ直す。
「絶対に取るなと申し上げたはずです。何故言うことを聞かないのですか」
声には怒りと焦燥が入り混じっていた。
間を置かず、林間から網玲と蜻迅衛が飛び出てくる。どういうわけか二人とも足元が覚束ない。
「ふえぇ、痺れた……」
弱々しい声を上げて、網玲が地面にぺたりと座り込む。その背後で蜻迅衛は、俯いて両手で自身の腕を抱いていた。小刻みに震えているのは、恐れではなく何かに耐えているようだ。
「蜻迅衛、落ち着け。私の声が聞こえているか」
立羽が言い、真宵を解放して今度は蜻迅衛へと駆けていく。そしてその両腕で蜻迅衛を抱き込むと、赤髪のおかっぱ頭を優しく撫でた。
「収まるか? 収まらなければ、私の腕を噛んでいい」
瞬間、蜻迅衛は嫌々をするように首を振り、立羽を突き放した。自身を抱き締めて地面にへたり込む。
「だい、じょ……ぶです。おさ、めま……すッ」
苦しげに呟く蜻迅衛はとても大丈夫とは思えなかったが、真宵にはどうすることもできなかった。網玲も地面に座ったまま息を荒くしている。一体彼らに何が起きたのか。
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