ガラスの中の心

Kamiya Reishin

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停留所と停留所のあいだで

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戻ってこない記憶もある。 ただ、もう一度通り過ぎるだけ。



バスに乗った。 まるで、足のほうが私よりも道を覚えているみたいに。

車内は、ほとんど空っぽだった。 後ろの席に二人。 窓際で眠っているおばあさんが一人。

あとは、静けさと冷たいネオンの光だけ。

私はいつものように、真ん中あたりの窓側に座った。 肩を窓に預けると、ひんやりしていた。

イヤホンを耳に差し込む。 でも、音楽は流れていない。

エンジンの音か、 それとも後ろから聞こえるかすかな囁きか—— どちらでもよかった。

ただ、世界を少しだけ遠ざけたかった。

外の景色が、静かに、ゆっくりと流れていく。 眠そうな街。 急がない夜。。

深く息を吸った。 冬の空気は重たかった。

「今だったら… 彼は、抱きしめてくれるかな。」

そんなことを、ふと考えてしまった。 声には出していない。 ただ、骨まで冷えるときに浮かぶ、あの思考。

一瞬だけ、彼の腕が背中に回る感覚を思い出した。 私が寝たふりをしていたとき、 彼はそっと、優しく触れてくれ
た。

彼の匂いは、忘れられない。 言葉では説明できないけど、 お気に入りの服のどこかに、まだ残っている気がする。
そして、ふとした瞬間に、現れる。



バスがゆっくりとカーブを曲がった。 エンジンの音が一瞬だけ高くなり、また静かに沈んでいく。 まるで、バス自
身がため息をついたみたいだった。

前の席で誰かが体勢を変えた。 シートがきしむ音がして、私は窓に映る自分の姿に目を向けた。

そこにいたのは、 色のない顔。 静かすぎる私。

家に帰っているはずなのに、 ただ「戻っている」だけのように感じた。

疲れていたわけじゃない。 もっと別の何か。

胸の奥にある、音のない沈黙。 でも、それはどんな音よりも重かった。

彼が言っていたことを思い出した。 「君の沈黙は、美しいね。」

嘘だ。 ただ、どう扱えばいいのか分からなかっただけ。

本当は、誰も分からない。 人は、理解できないものを、 どうにかして言葉にしようとする。

私は視線を落とした。 手のひらの上に、細い跡がまだ残っていた。 もう外した指輪の跡。

その部分の肌は、 前よりもきれいに見えた。 それとも、むき出しになっただけかもしれない。

どちらの方が怖いのか、分からなかった。

バスが、どこかの角で止まった。 ゆっくりと乗ってきたのは、ベレー帽をかぶった年配の男性。

彼は私の顔を一瞬だけ見た。 知っている人かどうか、思い出そうとしているような目。

でも、知らない人だった。

私は少しだけ背筋を伸ばした。 窓の冷たさが背中にまで届いてきていた。

席を変えようかと思った。 でも、やめた。

もし動いたら、 彼の記憶が、私の中から逃げてしまいそうで。

まだ、手放したくなかった。

座席がゆっくりと揺れる。 そのリズムは、彼の記憶と同じだった。

形のない記憶。 ただ、彼の「存在」だけが、そこに漂っていた。

彼がコーヒーカップを持つときの仕草—— 取っ手を使わず、 両手で包み込むように持っていた。

こぼすのが怖かったのか、 それとも、温もりの方が大事だったのか。

彼は黙ったまま、窓の外を見ながら飲んでいた。

私は、その姿を、 少し離れた場所から見るのが好きだった。

まるで、彼自身も気づいていない何かがそこにあって、 私だけが、それを感じ取っていたような気がした。

時々、彼に聞いてみたくなった。 「今、何を考えてるの?」って。

でも、聞けなかった。 その瞬間を壊したくなかったし、 答えが怖かったのかもしれない。

彼は、あまり話す人じゃなかった。 私もそうだった。

私たちは、沈黙でできていた。 それが、しばらくの間は美しかった。

——しばらくの間は。

私は目をぎゅっと閉じて、 ゆっくりと息を吐いた。

それが疲れなのか、ただの癖なのか、分からなかった。

まだ彼のことが好きなのかもしれない。 もう好きじゃないって、思うときもある。

でも、そのどちらでもない時間の中で、 「もう終わったんだ」と自分に言い聞かせている。

だけど、こんな夜になると——

服の隙間から冷気が入り込んでくる夜。 街の音が、決して止まらない夜。

私は、思い出す。

彼のすべてじゃない。 痛みの少ない部分だけ。

通りの景色が、少しずつ見覚えのあるものに変わっていく。

あの角のコンビニ。 ちらつく看板は、まだそのままだった。

同じ電球が、同じように点滅している。 外でタバコを吸っている、あの年配の男性も。

バスはゆっくりと通り過ぎた。

心臓が早くなることはなかったけど、 どこかで一歩、踏み外したような感覚があった。

記憶が、近づいてくるのが分かった。

少し先に、閉まったままのカフェが見えた。 黒板のメニューには、まだチョークの文字が残っていた。

私たちは、たまにそこに行っていた。

コーヒーが美味しかったわけじゃない。 むしろ、そうでもなかった。

でも、窓際の席の近くにコンセントがあった。

彼は、そこでよく文章を書いていた。

私は、本を読んでいるふりをして、 ただ彼のことを見ていた。

それが、私の一番好きな沈黙だった。

景色が通り過ぎた。 私は目を閉じた。

——遅すぎた。

思い出してしまった。 全部。

カップから立ちのぼる湯気。 窓を流れる細い雨。

喧嘩にはならなかった会話。 でも、話すたびに少しずつ遠ざかっていった、あの距離。

それ以上は、思い出さないようにした。

そんな記憶は、暗闇に散らばったガラスの破片みたいで—— 手探りすればするほど、痛みが増す。

私は顔を窓から離した。 揺れる車内の奥を見つめる。

そこにあるのは、私自身の反射だけ。 誰かに愛されたことがあるようには見えなかった。

もしかしたら、本当に愛されてなかったのかもしれない。 私だけが、二人分、愛していただけかもしれない。

窓に映る私は、ただの影だった。

彼が見ていた私でもなく、 私がなりたかった私でもない。

ただ、夜の真ん中に立ち尽くす誰か。 自分の皮膚の奥を見ようとしているような、遠い目をした誰か。

手放したはずのものを、 まだ恋しく思うのは不思議だった。

心だけが、 頭が受け入れたくない秘密を知っているような気がした。

彼が緊張したときに髪を触る癖が好きだった。 小さくて、ほとんど気づかれない仕草。

でも、私にとっては、 二人だけの秘密のサインみたいだった。

そんな彼が、私は好きだった。 全部、好きだった。

でも、手放した。

簡単じゃなかった。 でも、手放した。

痛くなかったわけじゃない。 むしろ、痛すぎたから。

だからこそ、 時には、音に溺れないために、 沈黙を選ばなきゃいけないこともある。

バスがゆっくりと減速する。 次の停留所が近づいてくる。

冷気が、さらに深く刺さってくる。

私は、準備ができていた。 ——少なくとも、そう思いたかった。

私は、そっと目を閉じた。 この夜が、特別であってほしいわけじゃなかった。 変わってほしいとも思っていなかっ
た。

ただ、ここにいたかった。

バスはゆっくりと減速していく。 まるで、これから起こることを知っているかのように、 どこか敬意を払うような
動きだった。

車内の灯りがちらつき、 空いた座席に長い影を落とす。

濡れたアスファルトを走るタイヤの音が、 いつもよりもはっきりと響いていた。 まるで、時間の一歩一歩が、私の
中に反響しているようだった。

冷気が指先から腕へと染み込んでくる。 コート一枚では、とても足りない気がした。

私は、前方のドアを見つめた。 もうすぐ、そこが開く。

体が自然と動いた。 願いと恐れが混ざったような力に引かれて。

ゆっくりと立ち上がり、 冷たい手すりを握る。 心臓の音は静かだけど、無視できないほど速かった。

外には、街灯の黄色い光が濡れた歩道を照らしていた。 小さな水たまりが、消えかけた星のように光っていた。

そして、私は見た。

彼が、そこにいた。

動かずに立っていた。 まるで、消えたくない記憶のように。

重そうなコートが、広い肩にかかっている。 ポケットに手を入れたまま、 少しだけうつむいていた。 まるで、世界
の重さを静かに背負っているかのように。

彼の視線が、私と重なった。

言葉のないまま交わされた視線。 語られなかった物語が、そこにあった。

喉が渇いた。 胸が締めつけられた。

言いたかった。 全部、伝えたかった。 謝りたかった。 そばにいたかった。

でも、時間さえも息を止めているようだった。

そして——

「チーーーーーン」

停留所を知らせるベルの鋭い音が、 現実へと私を強く引き戻した。

目を開けると、 そこには、同じ街灯の黄色い光。 同じ濡れた歩道。

でも、彼がいるはずだった場所は、空っぽだった。

誰も待っていなかった。 そこにいたのは、私だけ。

バスを降りた。 冷たい空気が体を包み込む。

私は数歩、前に進んだ。 振り返らずに。

——振り返らなかった。

― 終 ―
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