末代までも、××ます。

藤田菜

文字の大きさ
2 / 4

2

しおりを挟む
「──……お帰り」

 家に着いて扉を開けると、思いがけず出迎えの声がした。きっと遅いだろうと思っていたのに、今日は夫が先に帰っている。

「あなた……今日は早かったのね」
「いやまあ……ね」

 夫はいつも帰りが遅い。数日家を空けることもしばしばだ。
 以前は急いで仕事を終わらせて、少しでも早く家に帰ってきてくれていたっけ。夫の仕事中私が一人で寂しくないようにと、花やお菓子もよく贈ってくれた。
 最後にくれたのは、もうだいぶ前のことだけれど。

「今日はその……君に話があって」

 奥の部屋から、ぼそぼそと夫が言う声がする。夫はそのまま姿を現さずに、途絶えがちに言葉を続けた。

「今日も君は、病院へ行って病人の看護をしてきたんだろう?」
「ええ」
「……数ヶ月前……君が突然看病の手伝いに行くなんて言い出した時……正直言うと、僕は嫌だった。窮屈な思いも不自由な暮らしもさせていないのに、いったい何を言い出すのかと。それに、君の身体だって心配だった。どんな病気をもらってくるかわからないだろう?」
「まあ……そんなふうに、思ってらしたの」

 私が診療の手伝いをしようと思ったのは、窮屈さや不自由さからではない。ただ、一人でいる時間がたまらなく寂しくなったからだ。
 そもそもあの頃夫は私にとても冷たくて、私がどこで何をしようが気にも留めていなかったくせに。

 キッチンに置いてある、空の花瓶にそっと触れる。これを贈ってくれたのも夫だった。
 他にも贈ってくれた花瓶がいくつかあったけれど、そのほとんどは割れてしまって、今はこの一つだけ。

「君はよく働いた。流行り病も少しは収まっただろうし、もう充分だろう……? いい加減手伝いなんて辞めて……また……また前のように、僕だけを支えてはくれないだろうか……? だからその……何が言いたいかというと…………悪かった、よ……──長らく君に冷たくあたってしまって、本当に悪かった……」

 私は花瓶から手を離し、夫の部屋の扉を見つめた。

「先だって僕が流行り病に罹った時……君がつきっきりで看病してくれた時、改めてわかったんだ。君がどれだけ、僕にとって大切な存在だったのかを」

 私が礼拝堂の手伝いに行き始めてからほどなく、夫は疫病に罹患した。今はすっかり回復したけれど、一時はかなり重症だったのだ。

 私は手伝いに行くのはしばらくお休みして、数日つききりで夫の看病をした。その間はほとんど寝ることもできなかったけれど、そんなことは全く苦ではなかった。
 ただ、このまま夫が熱に浮かされたまま逝ってしまったらと思うと……それだけが、辛くて苦しくて不安だった。

「熱を測る君の手も、作ってくれた粥も、全てが僕を癒してくれて……君のいなかったら、僕はどうなっていたかわからない。僕一人では、あの高熱と痛みに耐えることはできなかっただろう」

 たしかに疫病に罹って以来、夫の態度は少し変化していた。私の食事に手をつけるようになったし、外泊もなくなった。夫から、久しぶりに求められることもあった。
 私たちが愛し合っていた頃には到底及ばないけれど、およそ夫婦と呼べる程度の仲には戻っていたと思う。

「君の看病のおかげで、僕の心身の病は治ったんだ。心のほうは少し時間がかかってしまったが……少しずつ少しずつ……数ヶ月かけて、僕はようやく完治したんだ」

 そう言いながら、部屋の扉を開けて夫が出てきた。手には立派な花束が握られている。

「今まで、寂しい思いをさせて本当に悪かった。君への愛を、ここに改めて誓わせてくれ」

 差し出された花束は、とても美しかった。

「もう君に、寂しい思いはさせない。この部屋をまた、花でいっぱいにしよう」

 私は胸が詰まって、言葉が出ない。
 その花束を受け取って、そっとぎゅっと抱きしめる。久しぶりにかぐ、花の香り。

 私が花束を受け取ると、夫の緊張は少し緩んだようだった。この話をどう切り出すか、きっとかなり悩んだのだろう。
 照れ臭そうにしながら、花を生ける花瓶を探す。

「花瓶は……これしかないな。他のものは……割れてしまったんだったか。そうだ、次は花瓶を君に贈るよ。花瓶も花も、これからいくらだって君に贈る」

 この大きく美しい花束は、残っている小ぶりの花瓶には不釣り合いだ。
 夫はまた私に向き直って、照れ隠しのように言葉を続けた。

「あー……そういえばこの花束を買った時、何の祝い用かと聞かれたよ。プロポーズか誕生祝いか、それとも出産祝いか何かかって! 君の誕生日には、もっと素晴らしい花束を贈るよ。もちろん出産祝いも……そうだ、その……子供ができたらきっと、君だって寂しくなくなるんじゃないかと思うんだ。君と僕との子は……きっと素晴らしく可愛いだろうな。愛しい君が、可愛い赤子を抱いていて……そして僕は君と子供が待つこの家に、花束を抱えて帰ってくる……──僕はそんな幸福な日々を、これから君と送っていきたいんだ……──」
「……子供?」

 愛し合っていた頃は二人の時間を優先したいと、夫は子を作ることに乗り気ではなかった。

「……僕はまた、君と家族をやり直したい。今まで、僕のわがままで我慢させてすまなかった。でももう、君に寂しい思いはさせたくないんだ。僕だって子供は大好きだし、いつかは欲しいと思っていたしね。二人で、君と僕との子を抱きしめよう。花いっぱいのこの我が家で……──」

 夫は微笑んで、私を抱き寄せようと手を広げた。

 昔もよく、そうやって私を抱きしめてくれたっけ……──私はこぼれ落ちそうな涙をぬぐって、そして夫にこう告げた。

「……──残念だけど、それは無理なのよ」

 全てはもう、遅すぎる。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

豪華客船での結婚式一時間前、婚約者が金目当てだと知った令嬢は

常野夏子
恋愛
豪華客船≪オーシャン・グレイス≫での結婚式を控えたセレーナ。 彼女が気分転換に船内を散歩していると、ガラス張りの回廊に二つの影が揺れているのが見えた。 そこには、婚約者ベリッシマと赤いドレスの女がキスする姿。 そして、ベリッシマの目的が自分の資産であることを知る。

【完結】ロザリンダ嬢の憂鬱~手紙も来ない 婚約者 vs シスコン 熾烈な争い

buchi
恋愛
後ろ盾となる両親の死後、婚約者が冷たい……ロザリンダは婚約者の王太子殿下フィリップの変容に悩んでいた。手紙もプレゼントも来ない上、夜会に出れば、他の令嬢たちに取り囲まれている。弟からはもう、婚約など止めてはどうかと助言され…… 視点が話ごとに変わります。タイトルに誰の視点なのか入っています(入ってない場合もある)。話ごとの文字数が違うのは、場面が変わるから(言い訳)

好きな人と結婚出来ない俺に、姉が言った

しがついつか
恋愛
グレイキャット伯爵家の嫡男ジョージには、平民の恋人がいた。 彼女を妻にしたいと訴えるも、身分の差を理由に両親から反対される。 両親は彼の婚約者を選定中であった。 伯爵家を継ぐのだ。 伴侶が貴族の作法を知らない者では話にならない。 平民は諦めろ。 貴族らしく政略結婚を受け入れろ。 好きな人と結ばれない現実に憤る彼に、姉は言った。 「――で、彼女と結婚するために貴方はこれから何をするつもりなの?」 待ってるだけでは何も手に入らないのだから。

もう散々泣いて悔やんだから、過去に戻ったら絶対に間違えない

もーりんもも
恋愛
セラフィネは一目惚れで結婚した夫に裏切られ、満足な食事も与えられず自宅に軟禁されていた。 ……私が馬鹿だった。それは分かっているけど悔しい。夫と出会う前からやり直したい。 そのチャンスを手に入れたセラフィネは復讐を誓う――。

どうしてか、知っていて?

碧水 遥
恋愛
どうして高位貴族令嬢だけが婚約者となるのか……知っていて?

お姫様は死に、魔女様は目覚めた

悠十
恋愛
 とある大国に、小さいけれど豊かな国の姫君が側妃として嫁いだ。  しかし、離宮に案内されるも、離宮には侍女も衛兵も居ない。ベルを鳴らしても、人を呼んでも誰も来ず、姫君は長旅の疲れから眠り込んでしまう。  そして、深夜、姫君は目覚め、体の不調を感じた。そのまま気を失い、三度目覚め、三度気を失い、そして…… 「あ、あれ? えっ、なんで私、前の体に戻ってるわけ?」  姫君だった少女は、前世の魔女の体に魂が戻ってきていた。 「えっ、まさか、あのまま死んだ⁉」  魔女は慌てて遠見の水晶を覗き込む。自分の――姫君の体は、嫁いだ大国はいったいどうなっているのか知るために……

【完結】悪役令嬢の薔薇

ここ
恋愛
公爵令嬢レオナン・シュタインはいわゆる悪役令嬢だ。だが、とんでもなく優秀だ。その上、王太子に溺愛されている。ヒロインが霞んでしまうほどに‥。

愛しの第一王子殿下

みつまめ つぼみ
恋愛
 公爵令嬢アリシアは15歳。三年前に魔王討伐に出かけたゴルテンファル王国の第一王子クラウス一行の帰りを待ちわびていた。  そして帰ってきたクラウス王子は、仲間の訃報を口にし、それと同時に同行していた聖女との婚姻を告げる。  クラウスとの婚約を破棄されたアリシアは、言い寄ってくる第二王子マティアスの手から逃れようと、国外脱出を図るのだった。  そんなアリシアを手助けするフードを目深に被った旅の戦士エドガー。彼とアリシアの逃避行が、今始まる。

処理中です...