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「──……お帰り」
家に着いて扉を開けると、思いがけず出迎えの声がした。きっと遅いだろうと思っていたのに、今日は夫が先に帰っている。
「あなた……今日は早かったのね」
「いやまあ……ね」
夫はいつも帰りが遅い。数日家を空けることもしばしばだ。
以前は急いで仕事を終わらせて、少しでも早く家に帰ってきてくれていたっけ。夫の仕事中私が一人で寂しくないようにと、花やお菓子もよく贈ってくれた。
最後にくれたのは、もうだいぶ前のことだけれど。
「今日はその……君に話があって」
奥の部屋から、ぼそぼそと夫が言う声がする。夫はそのまま姿を現さずに、途絶えがちに言葉を続けた。
「今日も君は、病院へ行って病人の看護をしてきたんだろう?」
「ええ」
「……数ヶ月前……君が突然看病の手伝いに行くなんて言い出した時……正直言うと、僕は嫌だった。窮屈な思いも不自由な暮らしもさせていないのに、いったい何を言い出すのかと。それに、君の身体だって心配だった。どんな病気をもらってくるかわからないだろう?」
「まあ……そんなふうに、思ってらしたの」
私が診療の手伝いをしようと思ったのは、窮屈さや不自由さからではない。ただ、一人でいる時間がたまらなく寂しくなったからだ。
そもそもあの頃夫は私にとても冷たくて、私がどこで何をしようが気にも留めていなかったくせに。
キッチンに置いてある、空の花瓶にそっと触れる。これを贈ってくれたのも夫だった。
他にも贈ってくれた花瓶がいくつかあったけれど、そのほとんどは割れてしまって、今はこの一つだけ。
「君はよく働いた。流行り病も少しは収まっただろうし、もう充分だろう……? いい加減手伝いなんて辞めて……また……また前のように、僕だけを支えてはくれないだろうか……? だからその……何が言いたいかというと…………悪かった、よ……──長らく君に冷たくあたってしまって、本当に悪かった……」
私は花瓶から手を離し、夫の部屋の扉を見つめた。
「先だって僕が流行り病に罹った時……君がつきっきりで看病してくれた時、改めてわかったんだ。君がどれだけ、僕にとって大切な存在だったのかを」
私が礼拝堂の手伝いに行き始めてからほどなく、夫は疫病に罹患した。今はすっかり回復したけれど、一時はかなり重症だったのだ。
私は手伝いに行くのはしばらくお休みして、数日つききりで夫の看病をした。その間はほとんど寝ることもできなかったけれど、そんなことは全く苦ではなかった。
ただ、このまま夫が熱に浮かされたまま逝ってしまったらと思うと……それだけが、辛くて苦しくて不安だった。
「熱を測る君の手も、作ってくれた粥も、全てが僕を癒してくれて……君のいなかったら、僕はどうなっていたかわからない。僕一人では、あの高熱と痛みに耐えることはできなかっただろう」
たしかに疫病に罹って以来、夫の態度は少し変化していた。私の食事に手をつけるようになったし、外泊もなくなった。夫から、久しぶりに求められることもあった。
私たちが愛し合っていた頃には到底及ばないけれど、およそ夫婦と呼べる程度の仲には戻っていたと思う。
「君の看病のおかげで、僕の心身の病は治ったんだ。心のほうは少し時間がかかってしまったが……少しずつ少しずつ……数ヶ月かけて、僕はようやく完治したんだ」
そう言いながら、部屋の扉を開けて夫が出てきた。手には立派な花束が握られている。
「今まで、寂しい思いをさせて本当に悪かった。君への愛を、ここに改めて誓わせてくれ」
差し出された花束は、とても美しかった。
「もう君に、寂しい思いはさせない。この部屋をまた、花でいっぱいにしよう」
私は胸が詰まって、言葉が出ない。
その花束を受け取って、そっとぎゅっと抱きしめる。久しぶりにかぐ、花の香り。
私が花束を受け取ると、夫の緊張は少し緩んだようだった。この話をどう切り出すか、きっとかなり悩んだのだろう。
照れ臭そうにしながら、花を生ける花瓶を探す。
「花瓶は……これしかないな。他のものは……割れてしまったんだったか。そうだ、次は花瓶を君に贈るよ。花瓶も花も、これからいくらだって君に贈る」
この大きく美しい花束は、残っている小ぶりの花瓶には不釣り合いだ。
夫はまた私に向き直って、照れ隠しのように言葉を続けた。
「あー……そういえばこの花束を買った時、何の祝い用かと聞かれたよ。プロポーズか誕生祝いか、それとも出産祝いか何かかって! 君の誕生日には、もっと素晴らしい花束を贈るよ。もちろん出産祝いも……そうだ、その……子供ができたらきっと、君だって寂しくなくなるんじゃないかと思うんだ。君と僕との子は……きっと素晴らしく可愛いだろうな。愛しい君が、可愛い赤子を抱いていて……そして僕は君と子供が待つこの家に、花束を抱えて帰ってくる……──僕はそんな幸福な日々を、これから君と送っていきたいんだ……──」
「……子供?」
愛し合っていた頃は二人の時間を優先したいと、夫は子を作ることに乗り気ではなかった。
「……僕はまた、君と家族をやり直したい。今まで、僕のわがままで我慢させてすまなかった。でももう、君に寂しい思いはさせたくないんだ。僕だって子供は大好きだし、いつかは欲しいと思っていたしね。二人で、君と僕との子を抱きしめよう。花いっぱいのこの我が家で……──」
夫は微笑んで、私を抱き寄せようと手を広げた。
昔もよく、そうやって私を抱きしめてくれたっけ……──私はこぼれ落ちそうな涙をぬぐって、そして夫にこう告げた。
「……──残念だけど、それは無理なのよ」
全てはもう、遅すぎる。
家に着いて扉を開けると、思いがけず出迎えの声がした。きっと遅いだろうと思っていたのに、今日は夫が先に帰っている。
「あなた……今日は早かったのね」
「いやまあ……ね」
夫はいつも帰りが遅い。数日家を空けることもしばしばだ。
以前は急いで仕事を終わらせて、少しでも早く家に帰ってきてくれていたっけ。夫の仕事中私が一人で寂しくないようにと、花やお菓子もよく贈ってくれた。
最後にくれたのは、もうだいぶ前のことだけれど。
「今日はその……君に話があって」
奥の部屋から、ぼそぼそと夫が言う声がする。夫はそのまま姿を現さずに、途絶えがちに言葉を続けた。
「今日も君は、病院へ行って病人の看護をしてきたんだろう?」
「ええ」
「……数ヶ月前……君が突然看病の手伝いに行くなんて言い出した時……正直言うと、僕は嫌だった。窮屈な思いも不自由な暮らしもさせていないのに、いったい何を言い出すのかと。それに、君の身体だって心配だった。どんな病気をもらってくるかわからないだろう?」
「まあ……そんなふうに、思ってらしたの」
私が診療の手伝いをしようと思ったのは、窮屈さや不自由さからではない。ただ、一人でいる時間がたまらなく寂しくなったからだ。
そもそもあの頃夫は私にとても冷たくて、私がどこで何をしようが気にも留めていなかったくせに。
キッチンに置いてある、空の花瓶にそっと触れる。これを贈ってくれたのも夫だった。
他にも贈ってくれた花瓶がいくつかあったけれど、そのほとんどは割れてしまって、今はこの一つだけ。
「君はよく働いた。流行り病も少しは収まっただろうし、もう充分だろう……? いい加減手伝いなんて辞めて……また……また前のように、僕だけを支えてはくれないだろうか……? だからその……何が言いたいかというと…………悪かった、よ……──長らく君に冷たくあたってしまって、本当に悪かった……」
私は花瓶から手を離し、夫の部屋の扉を見つめた。
「先だって僕が流行り病に罹った時……君がつきっきりで看病してくれた時、改めてわかったんだ。君がどれだけ、僕にとって大切な存在だったのかを」
私が礼拝堂の手伝いに行き始めてからほどなく、夫は疫病に罹患した。今はすっかり回復したけれど、一時はかなり重症だったのだ。
私は手伝いに行くのはしばらくお休みして、数日つききりで夫の看病をした。その間はほとんど寝ることもできなかったけれど、そんなことは全く苦ではなかった。
ただ、このまま夫が熱に浮かされたまま逝ってしまったらと思うと……それだけが、辛くて苦しくて不安だった。
「熱を測る君の手も、作ってくれた粥も、全てが僕を癒してくれて……君のいなかったら、僕はどうなっていたかわからない。僕一人では、あの高熱と痛みに耐えることはできなかっただろう」
たしかに疫病に罹って以来、夫の態度は少し変化していた。私の食事に手をつけるようになったし、外泊もなくなった。夫から、久しぶりに求められることもあった。
私たちが愛し合っていた頃には到底及ばないけれど、およそ夫婦と呼べる程度の仲には戻っていたと思う。
「君の看病のおかげで、僕の心身の病は治ったんだ。心のほうは少し時間がかかってしまったが……少しずつ少しずつ……数ヶ月かけて、僕はようやく完治したんだ」
そう言いながら、部屋の扉を開けて夫が出てきた。手には立派な花束が握られている。
「今まで、寂しい思いをさせて本当に悪かった。君への愛を、ここに改めて誓わせてくれ」
差し出された花束は、とても美しかった。
「もう君に、寂しい思いはさせない。この部屋をまた、花でいっぱいにしよう」
私は胸が詰まって、言葉が出ない。
その花束を受け取って、そっとぎゅっと抱きしめる。久しぶりにかぐ、花の香り。
私が花束を受け取ると、夫の緊張は少し緩んだようだった。この話をどう切り出すか、きっとかなり悩んだのだろう。
照れ臭そうにしながら、花を生ける花瓶を探す。
「花瓶は……これしかないな。他のものは……割れてしまったんだったか。そうだ、次は花瓶を君に贈るよ。花瓶も花も、これからいくらだって君に贈る」
この大きく美しい花束は、残っている小ぶりの花瓶には不釣り合いだ。
夫はまた私に向き直って、照れ隠しのように言葉を続けた。
「あー……そういえばこの花束を買った時、何の祝い用かと聞かれたよ。プロポーズか誕生祝いか、それとも出産祝いか何かかって! 君の誕生日には、もっと素晴らしい花束を贈るよ。もちろん出産祝いも……そうだ、その……子供ができたらきっと、君だって寂しくなくなるんじゃないかと思うんだ。君と僕との子は……きっと素晴らしく可愛いだろうな。愛しい君が、可愛い赤子を抱いていて……そして僕は君と子供が待つこの家に、花束を抱えて帰ってくる……──僕はそんな幸福な日々を、これから君と送っていきたいんだ……──」
「……子供?」
愛し合っていた頃は二人の時間を優先したいと、夫は子を作ることに乗り気ではなかった。
「……僕はまた、君と家族をやり直したい。今まで、僕のわがままで我慢させてすまなかった。でももう、君に寂しい思いはさせたくないんだ。僕だって子供は大好きだし、いつかは欲しいと思っていたしね。二人で、君と僕との子を抱きしめよう。花いっぱいのこの我が家で……──」
夫は微笑んで、私を抱き寄せようと手を広げた。
昔もよく、そうやって私を抱きしめてくれたっけ……──私はこぼれ落ちそうな涙をぬぐって、そして夫にこう告げた。
「……──残念だけど、それは無理なのよ」
全てはもう、遅すぎる。
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