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第一章 街に帰る

第10話 まっくろ

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「ハルちゃん、いらっしゃい!」

 夕暮れ時、エプロン姿の夢瑠に笑顔で迎えられて思わずドキッとしてしまう。

「あれ? カイ君も一緒? 」
「これから夜勤だから、遥のこと夢瑠ちゃんに頼んどこうと思って」
「ふふ。相変わらずラブラブだね」
「一人で大丈夫って言ったんだよ? 子供じゃないんだし」
「ひとりで帰るとか言ってるけど、明日の朝必ず迎えに来るから、それまで帰さないでね」
「大丈夫、ちゃんと捕まえとくから安心して」

 海斗は、夢瑠の言葉で安心したように夜勤に出掛けていく。遠ざかる後ろ姿に感じる胸騒ぎ。ロイドの仕事量は思った以上に多くて、最近の海斗は疲れている。

 私より海斗の方が……。

「ハルちゃん、どうかした? 」

 夢瑠の声で我に帰る。

「ううん、なんでもない」
「入って? ご飯すぐ準備するね」

 夢瑠は私をリビングに案内すると、1人キッチンに立って準備し始めた。

「何か出来ることある? 」
「ハルちゃんは座ってて。お客様なんだから、ね? 」

 そう言われた私は、することもないままリビングのソファーに座り、部屋の中をぼんやりと眺める。

 あの後、もう一度ちゃんと話をしたい、そう思っていた所にちょうどお誘いを受けた私は、夢瑠に会いに来た。やっぱり夢瑠もこの家も、雰囲気が変わった気がするのは……兄貴の影響なのかな。


 ん……?


 なんか変な臭いがする……何だろう……?

 ボンッッ!!

 爆発音が聞こえると同時に、いきなり景色が霞むくらいの煙に襲われ、慌てて立ち上がる。

「夢瑠!? 大丈夫? 」

 煙を払いながら急いでキッチンに行くと、真っ黒になった夢瑠が呆然と立ち尽くしていた。

「夢瑠? 夢瑠? 」
「わっ! 」

 急いで窓を開けて煙を逃し、肩を叩きながら何度も呼ぶと、夢瑠はやっと気がついた。

「夢瑠、大丈夫? 火傷してない? 」
「うん……ハルちゃんは? 」
「私は大丈夫だけど、夢瑠真っ黒だよ」

 夢瑠の顔や服に付いた煤をはらおうとするけれど、なかなか取れない。

「お風呂入らないと落ちないかも」
「ハルちゃん、ごめん……お肉が……ハンバーグ作ろうと思ったのに……」

 こんな真っ黒になってハンバーグなんて言ってる場合じゃない。泣きそうな夢瑠にはとりあえずお風呂に入ってもらって、大惨事になっているキッチンの片付けに取り掛かる。

 カウンターやフローリングに薄く積もった煤を拭き上げ、周りをきれいにしたところで爆発の元となったグリルにも取り掛かる。恐らく火力か時間の設定を間違えたようで……ハンバーグになるはずだったものは炭の塊になってしまっていた。

「ハルちゃん……」

 背後から声がして振り返ると夢瑠が立っている。

「お帰り、煤で大変だったでしょ? 」
「お掃除……してくれてるの? 」
「うん、私もよくやるからさ、慣れてるんだよね。もう終わるところ」
「ごめんなさい、夢瑠がやらなきゃいけないのに」

 濡れた髪のまま、炭の塊を片付けようとする夢瑠……。

「夢瑠、先に髪乾かしてきたら? やっとくからさ」

 その言葉に、夢瑠の動きが止まる。

「やっぱり……私は何やってもだめ」
「そんなことないって。料理が出来なくたって夢瑠は他の誰にも出来ない事ができるでしょ? 」
「生きていけなきゃ意味がないの。樹梨ママや……ハルちゃんのお兄ちゃんみたいに、お世話してくれる人がいないと何も出来ない……」
「夢瑠……? 」

 夢瑠がこんな風に話すのは初めて……妙に落ち着いて静かな声は、どこか怒りがこもって聴こえる。

「いつも誰かを振り回してる私がずっと嫌い。今日だってハルちゃんにおもてなししたかったのに、それどころか掃除してもらってるなんて」
「そんなのいいんだよ」
「ごめんね、ハルちゃんにこんな事言うの違うよね。他に何か作らなきゃ」

 材料を確認する仕草をしながらも頭の中では違うことを考えてるのが、なぜだかよくわかる。

 “目を閉じて深く底まで堕ちていく。そこにはまっくろな私が、嘲笑う”

 夢瑠の作品の一節が脳裏に浮かぶ。もしかしたら夢瑠の中には……まだ誰も知らない夢瑠がいるのかもしれない。

「ねぇ、夢瑠? どうしてみんなが夢瑠の側にいるか知ってる? 」
「それは……私が一人で何もできないから……」
「違うよ、それは違う。みんな夢瑠の事が好きで一緒にいるのが楽しいからだよ。私や樹梨亜はもちろん、樹梨ママだって……兄貴も、夢瑠の事が好きだから」

 兄貴、そう言うだけで夢瑠のひとみが揺れる。

「でも私、もう来ないでって……言っちゃった……たぶん、怒らせたと思う」
「大丈夫、兄貴はそんな事で怒らないよ、でも夢瑠はそれでいいの? 」

 黙っている夢瑠、兄貴との事を思い出しているのか……俯いたまま、じっとどこかを見つめている。

「兄貴は何て言ったの? 」
「ハルちゃんとおんなじ。ただ一緒にいたいから、好きだからここに来てるんだって。そう言ってくれた……でもね……それが辛いの。そう言ったら、黙って……帰っていった。ずっと側にいてくれて、私がどんな態度とってもいつも優しくて……」
「そっか……」

 兄貴は夢瑠の事、本気で好きなんだ。そしてたぶん夢瑠も……。

「お肉まだある? 」
「うん……でもちょっと足りないかも……」

 二人で残った材料を確認する。お肉も玉ねぎもまだあるし、小さいのなら作れそう。

「少し小さくなるかもしれないけど、出来るんじゃない? 一緒に作ろっか」
「……うん」

 涙を堪えながら玉ねぎを切り、炒めてから冷ましてお肉と合わせ、夢瑠がお肉を捏ねる間、私はパスタを茹でる。話しながら一緒に料理をしている間に少しずつ、夢瑠の様子も穏やかになって笑顔が戻ってきた。

 やっぱり夢瑠の笑顔、癒やされるな。

「ハルちゃん、このぐらい? もうちょっと焼く? 」
「うん、いいと思うよ、すっごい美味しそう」

 今度はきれいに焼き色もついて、肉汁が溢れ出そうで、いい匂い。ハンバーグが小さい分、パスタとサラダを足して、美味しそうなプレートご飯が出来上がった。

「よし! 食べよっか」
「うん」

 二人で向かい合って、テーブルにつく。

「うん! 美味い! 」
「ほんとだ……美味しい! 」

 ハンバーグを頬張る夢瑠。兄貴はこんな時間を夢瑠と過ごして、好きになって……なんかムカつくけど気持ちはわかる。

「夢瑠は、兄貴のこと好き? 」

 美味しそうに食べている夢瑠の手が止まる。

「誰にも言わない。妹じゃなくて友達として……聞いてもいい? 」
「わかんない、好き……なのかな。居てくれなきゃ生きていけないってわかってるくせに、どうしていいか分からないの」

 居てくれなきゃ生きていけないって、ものすごく大切に思ってるって……ことじゃないのかな。

「ずっとね……避けてきたの。ハルちゃんや樹梨ちゃん以外の人を。だからね、好きだなんて言われてもどうしていいかすらわからなかった。でも……もう終わったことだから。聞いてくれてありがとう、ハルちゃんのパスタおいしいね」

 終わったこと……この間はあんなに仲良さそうだったのに一体何があったんだろう。涙の跡がうっすらついた夢瑠の満面の笑み。

 笑顔なのにすごく、寂しそう。

「美味しいね」

 もう……止めよう、兄貴の話をするのは。夢瑠も辛いかもしれない、言おうと思っていた言葉があったけれど、パスタと一緒に飲み込んだ。

 晩ごはんを食べた後、私達は他愛もない話をしながらリビングで寛ぐ。この間、うまく話せなかったのが嘘のように私達はいつも通り。

「髪、くるくるになっちゃったね」
「うん……やだなぁ、くるくる嫌い」
「ちょっと貸して? 」

 夢瑠の手からストレートブラシを受け取って、後ろに座る。髪を少しずつすくって優しくブラシをあてていくと、きれいにツヤが出て整っていく。夢瑠の髪は、くるくるの天然パーマ。私は昔からふんわりしたこの髪が羨ましかったけど……夢瑠はいつも嫌がって扱いに困っている。

「すごい……ハルちゃん上手」
「そう? 私ね……ずっと妹が欲しくてさ、妹がいたらこんなふうに髪をやってあげたりしたいなってずっと思ってたんだ」
「そうなの? 」
「うん」
「夢瑠はね、ハルちゃんからお兄ちゃんがいるって聞いたとき、兄妹がいるなんていいなって思ってね、樹梨ちゃんとも話してたの」
「そうなの? 兄貴なんて居たって全然良くなんかないんだからね。性格悪くてすぐ人の事バカにするし、口は悪いし……ってごめん」

 つい、いつもの調子で兄貴の悪口を言ってしまった私に、夢瑠は少し笑う。

「いいの、私の方こそ……ごめんね。びっくりさせちゃって。嫌だったよね」
「びっくりしたよ、まさか一緒にいるなんて思わなかったしさ。でもね……嫌じゃなかった」

 私が鈍感だから気づかなかっただけ……島に来たとき、兄貴の事を優しいと笑った夢瑠に……夢瑠を心配して旅について行くと言った兄貴……その頃から二人はもう、お互いを想い合っていたんだ。

「前髪、ちょっと焦げちゃったね。チリチリしてる」
「そうなの? 」
「うん、ちょっとだけ、切ってもいい? 」
「うん、お願いします」

夢瑠がハサミを出してくれて、前に回ると櫛で前髪を整える。

「夢瑠……」
「なあに? 」
「私は、夢瑠の友達だからね、何があってもそれは変わらないと思ってる……たとえ相手が兄貴でもね」
「ハルちゃん……」
「よし! ちょっと短いけどかわいい! 見て見て? 」
「すごい……きれいになってる」
「でしょ? 夢瑠、かわいいよ」

 紅く火照る夢瑠の頬が、可愛さを倍増させる。

「ありがとう……ハルちゃん」
「いえいえ」
「夢瑠ね、ハルちゃんの事が大好き」
「ありがと。私も夢瑠が大好きだよ。だからね、夢瑠が一番幸せな道を選んでほしいな」
「うん……ありがとう、ハルちゃん」

 夢瑠の笑顔は、光の粒が舞うみたいにキラキラで周りまで輝かせていた。
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