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第十三話
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部屋でじっとしているのに耐えられず、ルルススは階下に降りた。
先程窓から外を覗くと雪が小降りになっており、気晴らしに外でも歩こうと思ってのことだった。
「眠れないのか?」
視界の端で明るいものを捉えたのと声をかけられたのは同時だった。手燭を持ったアカートが居間の入り口に立っている。
「眠りたくても眠れません。言葉は眠りませんから」
「……それはつらいな」
沈んだ声音でアカートは返した。
「あなたは……」
ルルススが問おうとすると、アカートは口の前で指を立てて沈黙を促した。そしてその指で居間の暖炉の方を指す。
北国に特有の大きな暖炉には毛布やクッションを置く空間があり、そこにジュラーヴリが寝ているのだろう。
部屋で一人孤独を抱えて眠るよりは、せめて温かさに包まれて眠るほうがいいとルルススは思った。
「やっと寝たところなんだ。書斎に行こう」
アカートが声を潜めて言うと廊下の奥へと歩き出す。
ルルススはその後に続いた。
明るいときは何とも思わなかった短い廊下だが、夜の暗がりでは雰囲気が違って見える。
闇の中に落ちていくようだ。
アカートが書斎のドアを開けて中に入る。
ルルススも入ると音を立てないよう気をつけながらドアを閉める。
書斎机にある燭台に火を灯すと部屋が明るくなった。
昼間も入ったが、改めて見ると壮観であった。
扉に面する壁以外は全て本棚に埋められている。
並んでいるのは本が主だが、いくらかの羊皮紙をまとめて綴っただけのものや巻物が置かれている一画もある。
「これは、あなた個人の蔵書ですか?」
「まあな。暇だったから自分で写したのがほとんどだ」
「暇?」
「時間だけはあったんでな」
時間だけは、と強調してアカートは言った。
その言葉にはどこか自嘲するような響きが含まれていた。
一冊の書写は最低でも数週間、長いものだと数ヶ月の作業となる。
それを本棚を何個も埋め尽くすほどとあらば十年や二十年ではきかないだろう。
アカートは三十代半ばに見え、どうにも何かが食い違っているとルルススは感じた。
アカートは壁際にあった椅子を書斎机の前に置き、ルルススに座るよう促す。
「話をしよう。今度は俺と、お前だ」
言いながらアカートは自分とルルススを指した。
一瞬だけ逡巡してから、ルルススは同意を示すように椅子に座る。
アカートはそれを見ると満足そうに書斎机の椅子に座った。
「話をする前に、お願いがあるのですが」
「何だ?」
ルルススの言葉にアカートは意外そうな顔をしながら答えた。
「あなたは代書屋で、書写もなさるのでしょう。……その、書き損じや捨てる紙などありませんか。文字が書かれていれば何でもいいのです」
「書き損じ?」
アカートは不思議そうにルルススの言葉を繰り返した。
「あとで削ろうと思ってたのはあるにはあるが……」
「それを頂きたいのです。いいえ、頂くというのは変かもしれません。紙はお返しできるのです。今の私にはどうしても必要なものなのです」
「……よくわからねえが、とりあえず持ってくる」
アカートはそう言って席を立つと机の後ろにあった作業台に向かい、床に置かれていた木箱を持って戻ってきた。
机に置かれた蓋のついた木箱は一抱えほどの大きさで、装飾の施されていない簡素なものだ。
蓋を開けると、箱いっぱいに文章が中途半端に書かれている羊皮紙が入っていた。
「こ、こんなに!」
喜びと興奮の混じった声をルルススは上げる。
「こんなもんがいるのか?」
アカートは羊皮紙を一枚取りだし、書き損じを渋い顔で見つめてからルルススに差し出した。
「はい。私には文字が必要なのです。しかし、あなたにも得のある話です」
「得?」
話の見えないアカートはひたすらに首を傾げていた。
そんなアカートをよそにルルススは机の空いた場所に三枚ほどの書き損じを並べ、その上に手を乗せた。かちゃり、と籠手の鉄が触れあう音がする。
「ん?」
アカートは最初見間違いかと思った。紙に書かれた文字が、一瞬水の波紋のように揺らいだような気がしたのだ。しかし、それが見間違いでないとすぐにわかった。
文字は一字一字がひとりでに震えだし、文章ごとに列を作ってルルススの手へと集い、黒鉄の籠手に浮かび上がると消えていった。
やがて紙に書かれた文字は全てルルススの籠手に収まり、何も書かれていない紙だけが残った。
「なるほど。これがお前の食事ってわけだ」
「そうなります」
何が起こったか理解したアカートにルルススは頷く。
「砂時計のようなものですね。今の言葉となった私は上部にある砂、ルルススの一語に還元されながら下部へと落ちていきます。全部の砂が落ちることのないよう、こうして外部から砂、文字を足すことで私は生きながらえています」
「今まではどうしていたんだ?」
「誰かの手放した時祷書が安く売りに出されるでしょう。それを買っていました」
「そうか。時祷書が溢れてる時代で助かったな。印刷機が発明される前は本は貴重品だった。それが今や家庭に一冊時祷書がある時代だからな」
「ええ。かの翁には感謝してもしきれません。もし百年前に同じことになっていたら、私は還元されるのを待つだけだったでしょう」
ルルススはため息をつきながら言った。
「そうだ、紙は」
言いながらアカートは文字の消えた羊皮紙を手に取った。ペンの圧のかかった部分がへこんでいるだけで、インクの染みなど一切残っておらずまるで新品同様だった。
「全部やってくれ。俺は羊皮紙を削るのが苦手なんだ。オレンジの絞り汁を使うにしても、こっちじゃ値段が高すぎる」
「だからこんなに溜めこんでいたんですね。やけにいっぱいあるなとは思ったのですが」
「誰にだって苦手はあるだろう。それはいいから、早く片付けてくれ」
アカートは箱から書き損じを取り出すと、どさりとルルススの前に置いた。
ルルススが全ての書き損じから文字を吸収すると、まっさらになった羊皮紙をアカートはにやにやと見つめていた。
「いやいや助かった。文字を消せないことにはも再利用もできねえもんでな。溜まる一方だったのよ」
「それはよかった。私も助かりましたよ。これで一ヶ月は保ちます」
「……一ヶ月か。それじゃあ文字を調達するのがやっとで、自分の名前なんか探すどころじゃねえんじゃねえのか」
「…………」
アカートの言葉にルルススは悲しげな顔をして黙り込んだ。
「その通りです。私はこうなってからずっと、文字をどう確保するかだけに追われていて……。自分の名前を探すなど、夢のようでした。でも、コスティが……、彼が一緒に名前を探そうと言ってくれました。彼がそう言ってくれなかったら、私はずっとその場しのぎで文字を探しているだけだったでしょう」
「……そうか。あいつがいるから、か」
アカートは少し間を開けて答えた。
そして羊皮紙を木箱に入れて箱を元の場所に戻した。
机の上の塵を払って椅子に座り、ルルススにも促した。
「そういえば、話があると言っていましたね」
「そうだ、話があるんだ。さて、何から話したものかな。山の中に隠棲していて、修道院に通いで仕事をする代書屋で、教会に伝手があって怪しい理由からか? それとも、ジュラーヴリを大事そうにしてそうな割に冷たい理由かな?」
「……随分と、耳がいいのですね」
先程コスティと部屋で話した言葉をアカートに口にされ、ルルススは体を強張らせる。
「そうだな、耳がいいからこんな場所に隠居している」
アカートはそこで一息吐くと言葉を続けた。
「困ったことに、この耳はおよそ人間の話す言葉なら何でも聞こえちまうのさ。遠くにいても、壁を隔てていても、な」
人差し指で自分の耳を指しながらアカートは言う。
「ここから修道院の裏手あたりまでは聞こえるんだ。街の中に住んでると気が狂いそうなんで、人のいない場所に住むしかねえんだ」
「……なるほど」
信じるべきか、虚言と取るべきか。
半信半疑で返事をしたルルススだったが、アカートは腹を立てる様子もなかった。
「まあいいさ。お前らの会話が筒抜けだってことだけわかればな。聞かれたくないことは黙っておくことだ」
アカートはそう言って軽く笑うと息を吐くと話を進める。
「教会に伝手があるのは昔なじみの知り合いがいる以上のことはないし、人が多くいる場所が苦手だから通いで仕事をするしかねえってわけだ。本当に関係ないから言わなかっただけさ」
「……その言葉を信じます」
「それはよかった」
茶化したような調子でアカートが言うと、今度はルルススから話を振った。
「今回の件について、あなたは静観する理由があるのですか?」
「……あるといえば、ある」
痛いところを突かれたようにアカートは視線を反らす。
困った様子で少し考えてから、観念したようにため息をついて喋りだした。
「率直に言うと、俺はもうこの世にいるべき人間じゃない。だから何にも関わらないと決めている」
「この世にいるべき人間ではない、とは?」
ルルススが問うと、アカートは蝋燭の炎を見つめて言う。
決まりきったことを確認するだけの独り言のように。
「俺はこう見えて年寄りでね、三百年は生きてる。ガリアで有名な聖堂騎士団が、王の命令で異端として捕らえられた事件があったろ。俺が生まれたのはその頃だ。生まれはボヘミアだがね」
「確かに、そのような事件はありましたが……。三百年とは、一体どういう……」
ルルススが言葉を探しているとアカートがそれを遮った。
「いいぜ、ゆっくり話そう。夜は長いからな」
アカートは自嘲するように笑って言った。
「悪魔憑きなんだ、俺は」
「悪魔憑き?」
ルルススが鸚鵡返しに問い返すと、アカートは頷いた。
「さっき、オリョールのような異教の存在を指す悪魔というのと、人に害を及ぼすことでしか人と関われない悪魔がいると言ったろう。俺に憑いてるのは後者だ。十の頃に悪魔に唆されて契約をし、村の全員を殺した」
オリョールの過去を話したときのように、淡々とアカートは口にする。
「その後も何十年と同じことをして、教会に捕まって悪魔祓いを受けた。とはいえ悪魔が気まぐれに封印されてやっただけで、俺から出ていったわけではないんだがな。まったく、拷問され損、殺され損だ。とにかく悪魔憑きの後遺症だな。人に近付いても警戒されないよう、子供の姿で成長を止められてたんだ。その名残で、今でも俺は十年間に一年分しか体の時間が進まない。耳がいいというのも、悪魔が獲物を探すのに使ってたのが残ってるという話でな」
それだけ言うと席を立ち、アカートは書斎机の後にある作業台に向かった。
作業台の上をよく見れば、作業台には写本に必要な道具一式が揃えられていた。
「誰にだって他人に必要とされる瞬間はある。だが、三百年も前の人間が必要とされる瞬間なんてない。俺はとうの昔に死ぬべき人間だったんだ。それが未だに生きてるんなら、何もしないのが今に対するせめてものけじめってやつだろ。言われたことだけやってりゃいい」
作業台の上から何も書かれていない羊皮紙を一枚手に取り、アカートは再び書斎机に戻ってきた。
「それが、あなたが何もしない理由ですか」
「そうだ」
ルルススが問うと、アカートは頷く。
そこに諦めの色が濃く見えるのは気のせいだろうか。
「二年前、突然オリョールとジュラーヴリがこの家に転がり込んできた。まだ名前のなかったジュラーヴリに名前をつけてやって、家族の真似事をした。それからオリョールが消えて、ジュラーヴリはあの様子だ」
言ってアカートは壁の向こう、ジュラーヴリが寝ている居間の方を見やった。
「俺はどうするべきかわからなかった。何もしない、自然の成り行きに任せることが最善だと思っていたが、ジュラーヴリを見ていると助けになりたいと思っちまう」
言ってアカートはルルススを指した。
「お前らが来たときは戸惑ったが、お前が光の鳥の正体を言い当てたとき、観念するしかねえんだと思った。あいつには誰にも関わるなと言ってきたが、やりたいようにやらせるべきだ。せめて後悔はしないように」
そう言うと、アカートは自分の話すべきことは話したと示すように黙りこんだ。
「何故、そのことを私に言うつもりになったのですか?」
ルルススが問うと、アカートはあっけらかんとした様子で答えた。
「さあ。誰でもいいから話を聞いてもらいたかったのかもな。信用してほしい、というのもあるが」
「信用?」
「そう、信用」
言いながらアカートは机の上の羽ペンを手に取るとインク壺に浸し、手元の羊皮紙に何かを書き込んでいく。
さらさらと流れるように書かれる細く斜めに傾いた書体は、金銭のやり取りをする上で手早く書けるように作られた、契約書によく使われるものであった。
ルルススの方からは逆さまになっているので内容はわからない。
「俺の書いた契約書には、契約を強制させる力がある。アカートという名前のせいだ」
「名前が?」
ルルススが鸚鵡返しに尋ねると、書く手を止めずにアカートは頷いた。
「アカートとは、俺の生まれたボヘミアの言葉でアカシアの木のことだ。教会の教えでは契約と関係が深いものとされている。それに悪魔の因果を操る力が混ざってこうなった。代書屋として儲かったのはこの力のお陰だ。それをどこで聞きつけたか、教会が書類の作成なんてのを依頼してきた。こっちとしては教会に関わるのなんざごめんだったが、下手なことをして睨まれる訳にもいかない。渋々と引き受けたってわけだ」
他人事のようにアカートは言う。
「それとは別に、教会は俺の素性を知るともう一つ仕事を依頼した。それは俺一人じゃ手に負えない。俺向きではあるんだがね」
口を動かしながらもペンは止まることはない。
それほど書くことは息をするのも同然の行いなのだろうか。
ルルススは本棚に並べられている本を見やる。
一冊だけでも気の遠くなるような作業を、何冊も、何冊も。
人にはあまりに長い時間を字を書くことで過ごしてきたアカートは、何を思いながら古の知識を書き写してきたのだろう。
「その仕事、とは」
ルルススが問うと、アカートは手を止めてまっすぐにルルススを見据えて言った。
「統一言語を探している」
告げられた言葉にルルススは目を見開いた。
先程窓から外を覗くと雪が小降りになっており、気晴らしに外でも歩こうと思ってのことだった。
「眠れないのか?」
視界の端で明るいものを捉えたのと声をかけられたのは同時だった。手燭を持ったアカートが居間の入り口に立っている。
「眠りたくても眠れません。言葉は眠りませんから」
「……それはつらいな」
沈んだ声音でアカートは返した。
「あなたは……」
ルルススが問おうとすると、アカートは口の前で指を立てて沈黙を促した。そしてその指で居間の暖炉の方を指す。
北国に特有の大きな暖炉には毛布やクッションを置く空間があり、そこにジュラーヴリが寝ているのだろう。
部屋で一人孤独を抱えて眠るよりは、せめて温かさに包まれて眠るほうがいいとルルススは思った。
「やっと寝たところなんだ。書斎に行こう」
アカートが声を潜めて言うと廊下の奥へと歩き出す。
ルルススはその後に続いた。
明るいときは何とも思わなかった短い廊下だが、夜の暗がりでは雰囲気が違って見える。
闇の中に落ちていくようだ。
アカートが書斎のドアを開けて中に入る。
ルルススも入ると音を立てないよう気をつけながらドアを閉める。
書斎机にある燭台に火を灯すと部屋が明るくなった。
昼間も入ったが、改めて見ると壮観であった。
扉に面する壁以外は全て本棚に埋められている。
並んでいるのは本が主だが、いくらかの羊皮紙をまとめて綴っただけのものや巻物が置かれている一画もある。
「これは、あなた個人の蔵書ですか?」
「まあな。暇だったから自分で写したのがほとんどだ」
「暇?」
「時間だけはあったんでな」
時間だけは、と強調してアカートは言った。
その言葉にはどこか自嘲するような響きが含まれていた。
一冊の書写は最低でも数週間、長いものだと数ヶ月の作業となる。
それを本棚を何個も埋め尽くすほどとあらば十年や二十年ではきかないだろう。
アカートは三十代半ばに見え、どうにも何かが食い違っているとルルススは感じた。
アカートは壁際にあった椅子を書斎机の前に置き、ルルススに座るよう促す。
「話をしよう。今度は俺と、お前だ」
言いながらアカートは自分とルルススを指した。
一瞬だけ逡巡してから、ルルススは同意を示すように椅子に座る。
アカートはそれを見ると満足そうに書斎机の椅子に座った。
「話をする前に、お願いがあるのですが」
「何だ?」
ルルススの言葉にアカートは意外そうな顔をしながら答えた。
「あなたは代書屋で、書写もなさるのでしょう。……その、書き損じや捨てる紙などありませんか。文字が書かれていれば何でもいいのです」
「書き損じ?」
アカートは不思議そうにルルススの言葉を繰り返した。
「あとで削ろうと思ってたのはあるにはあるが……」
「それを頂きたいのです。いいえ、頂くというのは変かもしれません。紙はお返しできるのです。今の私にはどうしても必要なものなのです」
「……よくわからねえが、とりあえず持ってくる」
アカートはそう言って席を立つと机の後ろにあった作業台に向かい、床に置かれていた木箱を持って戻ってきた。
机に置かれた蓋のついた木箱は一抱えほどの大きさで、装飾の施されていない簡素なものだ。
蓋を開けると、箱いっぱいに文章が中途半端に書かれている羊皮紙が入っていた。
「こ、こんなに!」
喜びと興奮の混じった声をルルススは上げる。
「こんなもんがいるのか?」
アカートは羊皮紙を一枚取りだし、書き損じを渋い顔で見つめてからルルススに差し出した。
「はい。私には文字が必要なのです。しかし、あなたにも得のある話です」
「得?」
話の見えないアカートはひたすらに首を傾げていた。
そんなアカートをよそにルルススは机の空いた場所に三枚ほどの書き損じを並べ、その上に手を乗せた。かちゃり、と籠手の鉄が触れあう音がする。
「ん?」
アカートは最初見間違いかと思った。紙に書かれた文字が、一瞬水の波紋のように揺らいだような気がしたのだ。しかし、それが見間違いでないとすぐにわかった。
文字は一字一字がひとりでに震えだし、文章ごとに列を作ってルルススの手へと集い、黒鉄の籠手に浮かび上がると消えていった。
やがて紙に書かれた文字は全てルルススの籠手に収まり、何も書かれていない紙だけが残った。
「なるほど。これがお前の食事ってわけだ」
「そうなります」
何が起こったか理解したアカートにルルススは頷く。
「砂時計のようなものですね。今の言葉となった私は上部にある砂、ルルススの一語に還元されながら下部へと落ちていきます。全部の砂が落ちることのないよう、こうして外部から砂、文字を足すことで私は生きながらえています」
「今まではどうしていたんだ?」
「誰かの手放した時祷書が安く売りに出されるでしょう。それを買っていました」
「そうか。時祷書が溢れてる時代で助かったな。印刷機が発明される前は本は貴重品だった。それが今や家庭に一冊時祷書がある時代だからな」
「ええ。かの翁には感謝してもしきれません。もし百年前に同じことになっていたら、私は還元されるのを待つだけだったでしょう」
ルルススはため息をつきながら言った。
「そうだ、紙は」
言いながらアカートは文字の消えた羊皮紙を手に取った。ペンの圧のかかった部分がへこんでいるだけで、インクの染みなど一切残っておらずまるで新品同様だった。
「全部やってくれ。俺は羊皮紙を削るのが苦手なんだ。オレンジの絞り汁を使うにしても、こっちじゃ値段が高すぎる」
「だからこんなに溜めこんでいたんですね。やけにいっぱいあるなとは思ったのですが」
「誰にだって苦手はあるだろう。それはいいから、早く片付けてくれ」
アカートは箱から書き損じを取り出すと、どさりとルルススの前に置いた。
ルルススが全ての書き損じから文字を吸収すると、まっさらになった羊皮紙をアカートはにやにやと見つめていた。
「いやいや助かった。文字を消せないことにはも再利用もできねえもんでな。溜まる一方だったのよ」
「それはよかった。私も助かりましたよ。これで一ヶ月は保ちます」
「……一ヶ月か。それじゃあ文字を調達するのがやっとで、自分の名前なんか探すどころじゃねえんじゃねえのか」
「…………」
アカートの言葉にルルススは悲しげな顔をして黙り込んだ。
「その通りです。私はこうなってからずっと、文字をどう確保するかだけに追われていて……。自分の名前を探すなど、夢のようでした。でも、コスティが……、彼が一緒に名前を探そうと言ってくれました。彼がそう言ってくれなかったら、私はずっとその場しのぎで文字を探しているだけだったでしょう」
「……そうか。あいつがいるから、か」
アカートは少し間を開けて答えた。
そして羊皮紙を木箱に入れて箱を元の場所に戻した。
机の上の塵を払って椅子に座り、ルルススにも促した。
「そういえば、話があると言っていましたね」
「そうだ、話があるんだ。さて、何から話したものかな。山の中に隠棲していて、修道院に通いで仕事をする代書屋で、教会に伝手があって怪しい理由からか? それとも、ジュラーヴリを大事そうにしてそうな割に冷たい理由かな?」
「……随分と、耳がいいのですね」
先程コスティと部屋で話した言葉をアカートに口にされ、ルルススは体を強張らせる。
「そうだな、耳がいいからこんな場所に隠居している」
アカートはそこで一息吐くと言葉を続けた。
「困ったことに、この耳はおよそ人間の話す言葉なら何でも聞こえちまうのさ。遠くにいても、壁を隔てていても、な」
人差し指で自分の耳を指しながらアカートは言う。
「ここから修道院の裏手あたりまでは聞こえるんだ。街の中に住んでると気が狂いそうなんで、人のいない場所に住むしかねえんだ」
「……なるほど」
信じるべきか、虚言と取るべきか。
半信半疑で返事をしたルルススだったが、アカートは腹を立てる様子もなかった。
「まあいいさ。お前らの会話が筒抜けだってことだけわかればな。聞かれたくないことは黙っておくことだ」
アカートはそう言って軽く笑うと息を吐くと話を進める。
「教会に伝手があるのは昔なじみの知り合いがいる以上のことはないし、人が多くいる場所が苦手だから通いで仕事をするしかねえってわけだ。本当に関係ないから言わなかっただけさ」
「……その言葉を信じます」
「それはよかった」
茶化したような調子でアカートが言うと、今度はルルススから話を振った。
「今回の件について、あなたは静観する理由があるのですか?」
「……あるといえば、ある」
痛いところを突かれたようにアカートは視線を反らす。
困った様子で少し考えてから、観念したようにため息をついて喋りだした。
「率直に言うと、俺はもうこの世にいるべき人間じゃない。だから何にも関わらないと決めている」
「この世にいるべき人間ではない、とは?」
ルルススが問うと、アカートは蝋燭の炎を見つめて言う。
決まりきったことを確認するだけの独り言のように。
「俺はこう見えて年寄りでね、三百年は生きてる。ガリアで有名な聖堂騎士団が、王の命令で異端として捕らえられた事件があったろ。俺が生まれたのはその頃だ。生まれはボヘミアだがね」
「確かに、そのような事件はありましたが……。三百年とは、一体どういう……」
ルルススが言葉を探しているとアカートがそれを遮った。
「いいぜ、ゆっくり話そう。夜は長いからな」
アカートは自嘲するように笑って言った。
「悪魔憑きなんだ、俺は」
「悪魔憑き?」
ルルススが鸚鵡返しに問い返すと、アカートは頷いた。
「さっき、オリョールのような異教の存在を指す悪魔というのと、人に害を及ぼすことでしか人と関われない悪魔がいると言ったろう。俺に憑いてるのは後者だ。十の頃に悪魔に唆されて契約をし、村の全員を殺した」
オリョールの過去を話したときのように、淡々とアカートは口にする。
「その後も何十年と同じことをして、教会に捕まって悪魔祓いを受けた。とはいえ悪魔が気まぐれに封印されてやっただけで、俺から出ていったわけではないんだがな。まったく、拷問され損、殺され損だ。とにかく悪魔憑きの後遺症だな。人に近付いても警戒されないよう、子供の姿で成長を止められてたんだ。その名残で、今でも俺は十年間に一年分しか体の時間が進まない。耳がいいというのも、悪魔が獲物を探すのに使ってたのが残ってるという話でな」
それだけ言うと席を立ち、アカートは書斎机の後にある作業台に向かった。
作業台の上をよく見れば、作業台には写本に必要な道具一式が揃えられていた。
「誰にだって他人に必要とされる瞬間はある。だが、三百年も前の人間が必要とされる瞬間なんてない。俺はとうの昔に死ぬべき人間だったんだ。それが未だに生きてるんなら、何もしないのが今に対するせめてものけじめってやつだろ。言われたことだけやってりゃいい」
作業台の上から何も書かれていない羊皮紙を一枚手に取り、アカートは再び書斎机に戻ってきた。
「それが、あなたが何もしない理由ですか」
「そうだ」
ルルススが問うと、アカートは頷く。
そこに諦めの色が濃く見えるのは気のせいだろうか。
「二年前、突然オリョールとジュラーヴリがこの家に転がり込んできた。まだ名前のなかったジュラーヴリに名前をつけてやって、家族の真似事をした。それからオリョールが消えて、ジュラーヴリはあの様子だ」
言ってアカートは壁の向こう、ジュラーヴリが寝ている居間の方を見やった。
「俺はどうするべきかわからなかった。何もしない、自然の成り行きに任せることが最善だと思っていたが、ジュラーヴリを見ていると助けになりたいと思っちまう」
言ってアカートはルルススを指した。
「お前らが来たときは戸惑ったが、お前が光の鳥の正体を言い当てたとき、観念するしかねえんだと思った。あいつには誰にも関わるなと言ってきたが、やりたいようにやらせるべきだ。せめて後悔はしないように」
そう言うと、アカートは自分の話すべきことは話したと示すように黙りこんだ。
「何故、そのことを私に言うつもりになったのですか?」
ルルススが問うと、アカートはあっけらかんとした様子で答えた。
「さあ。誰でもいいから話を聞いてもらいたかったのかもな。信用してほしい、というのもあるが」
「信用?」
「そう、信用」
言いながらアカートは机の上の羽ペンを手に取るとインク壺に浸し、手元の羊皮紙に何かを書き込んでいく。
さらさらと流れるように書かれる細く斜めに傾いた書体は、金銭のやり取りをする上で手早く書けるように作られた、契約書によく使われるものであった。
ルルススの方からは逆さまになっているので内容はわからない。
「俺の書いた契約書には、契約を強制させる力がある。アカートという名前のせいだ」
「名前が?」
ルルススが鸚鵡返しに尋ねると、書く手を止めずにアカートは頷いた。
「アカートとは、俺の生まれたボヘミアの言葉でアカシアの木のことだ。教会の教えでは契約と関係が深いものとされている。それに悪魔の因果を操る力が混ざってこうなった。代書屋として儲かったのはこの力のお陰だ。それをどこで聞きつけたか、教会が書類の作成なんてのを依頼してきた。こっちとしては教会に関わるのなんざごめんだったが、下手なことをして睨まれる訳にもいかない。渋々と引き受けたってわけだ」
他人事のようにアカートは言う。
「それとは別に、教会は俺の素性を知るともう一つ仕事を依頼した。それは俺一人じゃ手に負えない。俺向きではあるんだがね」
口を動かしながらもペンは止まることはない。
それほど書くことは息をするのも同然の行いなのだろうか。
ルルススは本棚に並べられている本を見やる。
一冊だけでも気の遠くなるような作業を、何冊も、何冊も。
人にはあまりに長い時間を字を書くことで過ごしてきたアカートは、何を思いながら古の知識を書き写してきたのだろう。
「その仕事、とは」
ルルススが問うと、アカートは手を止めてまっすぐにルルススを見据えて言った。
「統一言語を探している」
告げられた言葉にルルススは目を見開いた。
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有無を言わさず騎士団に連れ去られたルカの、無能と蔑まれた力。それは、戦場で瘴気に蝕まれる騎士たちにとって、そして孤独な鬼神の心を救う唯一の光となる奇跡だった。
追放された役立たず神官が、最強騎士団長の独占欲と溺愛に包まれ、かけがえのない居場所を見つける異世界BLファンタジー!
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