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盲目の騎士〜第四章〜
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「あの頃の自分に戻れるとしたらなにがしたい?」
ああ、またこの夢か。
美智香は思った。
最近、繰り返し同じ夢を見る。
お人形のように小さな女の子がマイクを持って美智香にそう尋ねてくる。美智香が何を言ってもこの子は同じ質問を繰り返す。しかし、この日は続きがあった。
「後悔しない?」
そう言われて美智香は目を覚ました。
ドイツ支局に赴任して早3年が経つ。もうじき日本に帰れる、そんないつも通りの朝だった。
出勤すると向坂が相変わらずピリピリとした雰囲気で部下を叱っていた。
美智香はそうっとデスクに向かった。
「青柳…おはようございますは?」
向坂は礼儀にもうるさかった。
「ぐ、グーテンモルゲン…。」
「違う!上司の俺に挨拶はないのかという意味だ!」
「お取り込み中だったので…。」
「日本人は真面目で礼儀正しい、時間を守る、それしか売りはないんだぞ!!」
「奥さんと喧嘩したんですよ。」
隣の席の羽多野がぼそっと話した。
「日本人なら日本人同士くっつけばいいのにドイツ人の奥さんなんて貰うから、食事やら作法やらが違って喧嘩になるんですよ。」
美智香は苦笑いした。
「あーでももうじき青柳さんともお別れかぁ…。」
「俺、次はスイス辺りに飛ばされそうなんすよね。」
「俺も日本帰りてぇー。日本の吉野家行きてぇー。」
そう言って皆は笑った。
美智香は自分は恵まれているなぁと常々思った。
その時だった。
職場のテレビ画面が一斉に緊急報道の場面に切り替わった。
それはドイツ最大の工業地帯、ルールの工場火災だった。リポーターは爆発と火災が続く現場周辺でヘルメットを被りマイクを持って実況中継をしていた。
「うわぁ…これは酷い…。」
その規模を示すようにドローンでの空撮も公開された。向坂は慌てて現地取材班を組んだ。
「後は青柳、行けるか?」
「はい。行きます!」
その時青柳から貰ったネックレスのチェーンが切れた。美智香は深く考えることもなく、ネックレスをカバンにしまった。
今度、修理に出そう、そんな事を思いながら会社を後にした。
日本では青柳に異変が起きていた。
「聖人…最近、作品のクオリティが落ちてきてると思うんだが…。」
高真は言った。
青柳はゼーゼーと息をしていた。
「しばらく休みでも取るか?」
「まだ描ける…。」
そう言って青柳はキャンバスに向かった。頭がフラフラして息をするのも辛い。だが、美智香が帰ってきたらしばらく一緒にいたい。そう思って力を振り絞った。
しかし高真はその様子を見て、
「だめだ、聖人。休憩だ。」
と言った。
南が事務所からお茶を用意して出てきた。しかし青柳はその場に崩れ落ちた。
「救急車呼んで木内君。」
高真は青柳の保険証を用意して救急車が来るのにそなえた。
「高真、描かせてくれ…。」
「起きれないんだろう?無理だな。」
「いつものことだ…。」
「ちゃんと食事は取ってたのか?」
高真は自分のジャケットを青柳にかけた。
「山本さんがいないからって食事抜いてたんじゃないだろうな?」
「最近、食べても戻すんだ…。」
青柳は力なく語った。
「水分は取れてたんだよな?」
「分からない…。」
「5分ほどで到着するそうです。」
木内が事務所から出てきた。
「青柳先生、大丈夫ですか?」
南が青柳を起こして水分を取らせた。しかしそれも吐いてしまった。
「聖人…まだだ。お前はまだ描かなきゃいけないんだ。」
そうして救急車が到着した。
「30歳男性、持病ありです。心肺脈拍共に低下しています。受け入れできますか?南大病院受け入れ可能とのことです。」
到着した救急隊員は素早く対応していく。
「南くん、鍵預けるから終業時刻になったら帰って。俺はスペアキーがあるから。聖人の容態が安定したら戻るよ。販売に関しては一時、休業期間にでもしておいて。」
高真は救急隊員から渡されたカルテのようなものに詳細を記入した。
「高真さん。」
「青柳先生…。」
木内も南も不安げな表情を浮かべた。
「いつものことだから、さ、スケベな青柳先生が帰ってくるまで奥さんデッサン集でも見ときなよ。」
そう言って3人は笑った。
ルール工業地帯の火災は鎮火に向けて日本で言うところの消防隊が出動していた。
建物からは黒煙が上がり続けていた。依然として火の勢いはおさまらない。
ドーンという音がして建物が一部崩落した。
皆、ピリピリしながらも現地の写真を取り続けた。
「史上最悪の工場火災ってところかぁ?」
「現地の人に話を…。」
そう言って、美智香は車を降りようとした。
「だめだよ、ダメダメ。ガスマスクとかつけないと肺からやられるよ。工業地帯なんだから。」
羽多野が止めた。
「では、何をしたら良いですか?」
「たぶん怪我人が出てると思うから、病院でその人達に話を聞いて。永山は発火原因の会社を特定して連絡取って。写真は使えるようなの撮れればそれで大丈夫だからさ。」
そう言って羽多野はカメラを構えた。
「ここもそろそろ危ないな…。車出して。」
羽多野がそう言うと車付近まで火の手が迫っていた。
皆がピリピリするなか、美智香はプロとして1番の大舞台に立てていることに感激していた。青柳先生にこれで少しは並べる、そう思った。そうして現地取材班は撤収した。
病院についた高真は青柳の病状について説明を受けた。肺と心臓を取り巻く血管が正常に動いていない。眼球のときと同じ症状だ。
「たぶんもう自宅で療養するのは不可能だと思います。」
医師はMRIを見ながら考え込んだ。
「ここ数年、病気の進行は比較的、遅かったんです。急に来たのはやはり無理を重ねたせいでしょうか?」
高真は話した。
「いえ、年齢的なものもあると思います。」
「彼は画家なんです。描けなければ生きていけないんです。」
「命と絵画、どっちが大事なんですか?」
医師はため息をついた。
「じゃあ貴方は命が助かれば医師を辞められるんですか?」
高真はスラスラと話す。
「この世で与えられた役割をこなせないなら生きている意味が無いでしょう?そこにいるだけ、それなら人形にでも出来ることだ。」
「とにかく、治療に専念してください。」
そうして高真は病室へと向かった。
5階北病棟の個室に青柳は入院した。高真が、病室に入ると青柳は眠っていた。
「美智香…。」
青柳の寝言だ。
青柳は言っていた。自分の人生の責任なんて誰も負ってない。それなら美智香の人生の責任は俺が取るから側にいて欲しかった。でも美智香はそうしないだろうね。と。
翌日、高真はクロッキー帳と木炭、練り消しゴムを青柳に届けた。
「高真ありがとなー。」
そう言って、青柳はそれらを受け取ろうとした。カシャンと音がしてそれらは床に落ちた。
「ああ見えてないから落としたんだな。」
そう言って高真が拾おうとすると青柳が真っ青な顔をしていた。
「力が入らない…。」
「は?」
高真は状況が分からなかった。
「高真、俺にペン持たせてくれ。」
「こうか?」
青柳が広げた手のひらに高真はボールペンを乗せた。しかし青柳がそれで書こうとするとするりとペンが抜け落ちた。
「もう1回。もう1回だけ…。」
「大丈夫だ、聖人。きっと薬が効いてるんだ。そのうちにまた持てるようになるさ。」
そう言って高真は笑った。
だが、青柳はもう自分の寿命は長くない、そう感じていた。そうして青柳は食事介助が必要となった。
ルール工業地帯の工場火災は一週間に渡って続いた。羽多野とふたり、鎮火された建物を写真に撮った。広島の原爆ドームを思い出す。美智香はそう思った。倒壊しかけている建物内で、羽多野と美智香は神経を尖らせて写真を撮り続けた。
「ヒルフェ(助けて)!!ヒルフェ(助けて)!!」
子供の声だ。隣の建物を美智香は覗き込んだ。
瓦礫に足を挟まれている子どもが居た。大人の力なら少し押せば動くような気がする。
「おい、青柳、余計なことするなよ。救助に任せとけばいいんだよ。クラッシュ症候群とかあるだろ。」
「じゃあ私はここにいます。救助を呼んでください。」
そう言って美智香は隣の建物に移った。ふっと風が吹くような感じがした。そして次の瞬間、建物が倒壊した。そして美智香はその下敷きになった。
「青柳ぃぃぃ!!」
羽多野は叫んだ。
日本ではドイツの工場火災と青柳聖人の入院がトップニュースとして上がっていた。高真は南大病院の青柳の病室でマスコミに流す原稿を作った。
「ドイツかぁ…美智香さん。大丈夫かなぁ。」
「山本さんの実力じゃあ現場には出てないんじゃないか?」
「そうだと良いんだけどねぇ…。」
青柳はサングラスを取ってあくびをした。肺がズキンとする。
「高真、俺多分死ぬよ。いつもと違うもん。」
「それは…。」
「死ぬなら遺作が描きたいF120くらいの。」
「そんなでかいと買い手がつかないだろ。」
「元々、売るために描いてる作品はないからなぁ…。」
青柳は遠くを見るように背筋を伸ばした。
「高真がいてくれて良かったよ。高校時代からだから15年位一緒にいるんだっけ?本当にありがとな。」
「止めろって、まだお前は死なないよ。」
しかし、青柳は続けた。
「美智香の事をよろしく頼む。」
そう言うと青柳は咳き込んだ。
「大丈夫か?聖人?」
「俺は一度死んだんだ。もう悔いはない。」
「聖人…。」
その時、高真の携帯が鳴った。
「はい。高真です。え?神林さんが来てる?」
高真は青柳の方を見た。
「独占取材の件だったら、応相談だって話つけてくれないか?…え?山本さんが?」
「青柳先生に代わってくださいぃぃ、お願いしますぅぅ!!」
南の携帯を奪って神林は泣きながら叫んだ。
「それは…。」
「高真!今の美智香の話だろ、代わってくれ!」
「意識不明だって…。」
「どういうことだよ?!」
「ドイツの大規模火災に巻き込まれたらしい。」
青柳は呆然とした。
「美智香…。美智香、美智香…。嘘だ嘘だ嘘だ。」
青柳はパニックを起こしながらベッドにうずくまった。
運命を紐解く。本当にそれが出来るならもっと私は器用に生きていた。そんな事をぼんやりと考えていた。うっすら目を開けると光が眩しい。
「青柳さん、起きましたよー。」
羽多野がいた。医師と看護士が呼ばれバイタルチェックをした。身体に力が入らない。
「両足と肋骨にヒビが入ってます。無理に動こうとしないでくださいよ。」
羽多野はそういった。
「あの子どもは?」
「無事でしたよ。それもかすり傷程度で。」
「良かった。」
美智香は笑った。
「何が良かっただ?」
向坂がカツカツと病室に入ってきた。
「立ち入り禁止区域内で写真撮ってたんだと?」
「え、そうなんですか。」
美智香は尋ねた。羽多野が苦い顔をしている。
「厳重注意で済んだから良かったものの、命より大事なものは無いんだぞ。青柳!日本に帰ったら青柳先生が待ってるんだろう?それなのにこんな大怪我したらすぐには帰国出来ないぞ。」
「それは、その…。」
「家族も日本にしかいないんだろう?着替えはどうする?」
「岩崎夫妻にお願いします。」
「岩崎夫妻?」
「私のカバンあります?」
「持ってきてるけど、携帯がバンバン鳴るから電源落としたんだ。」
「え?」
そう言って美智香が携帯の電源を入れると青柳から70件以上の着信があった。
「青柳先生…。」
美智香は泣いた。今になって恐怖が襲ってきた。
「青柳先生、倒れたって日本のニュースで流れてたけど、嘘だったのか?」
羽多野は食いついた。
美智香は看護士に車椅子に乗せてもらい、電話が出来る場所へと移った。
ワンコール鳴らすと高真がでた。
「山本さん、今聖人に代わりますね。」
高真の声のトーンがいつもより低い。
「美智香さん、意識不明だって神林さんが…。身体痛い?怪我は?」
青柳は矢継ぎ早に話す。
「両足と肋骨にヒビが入っただけです。すぐに退院できます。」
そう言って美智香は泣いた。
「意識を失う前、今死んだら青柳先生に会えない。それは絶対嫌だ、そう強く思いました。だから私はこうして生きているんだと思います。」
「美智香…。」
「それよりも青柳先生が倒れたって言うニュースが流れてるんですけど…。」
「それはその、進行する病気だから年と共に…。」
そこまで言うと青柳は泣いた。
「ごめん。やっぱり、美智香さんを騙したくはない。俺は多分もう長くない。自分のことだ。自分が1番わかってる。肺も、心臓も身体の中から取り出して運んでるように重たい。今すぐにでも会いに行きたい。」
「青柳先生はすぐに死ぬ死ぬって言うじゃないですか?でも助かってる、多分大丈夫ですよ。」
美智香はそういった。
「違うんだ。筆が握れないんだ。血管の病気だから末端の毛細血管がだめになってきてる。」
「もう描かなくてもいいんですよ、って神様が言ってるのかもしれませんね。」
「美智香…。」
「怪我が治る頃には任期も終えます。そうしたらまた一緒に日本で暮らしましょう。」
「あぁ。そうしよう。」
「愛してますよ、青柳先生。」
そうしてふたりの電話は切れた。
その日の夜、美智香は夢を見た。青柳が隣りにいた。
青柳は美智香の方に近寄って頭を撫でた。帰りたい、そう思うことはいっぱいあった。それでも私は記者だ、プロのライターだ。意地を張ってる部分もあった。
「青柳先生…。」
夢の中で美智香は泣いた。日本から離れること、青柳先生に会えないこと、全てが苦しい日々だった。
「もうすぐ会えますね。」
そう言って美智香が笑うと、青柳は手を振って離れていった。
「青柳先生、青柳先生!!」
そう言って美智香は目を覚ました。カバンから携帯を取り出した。高真からの着信は無い。大声を出したからか、看護士が部屋に来た。私は3年間ドイツ語を話してきたんだなぁ。そう思いながら、看護士に返事をした。
それからの青柳はとにかくリハビリをこなした。食事も少しずつだが取れるようになった。美智香が帰ってくるまでには自宅に戻りたい。そう話した。高真はマスコミに原稿を流した。ギャラリーアオヤナギに残った南と木内は毎日集まったマスコミをかき分けて職場に到着していた。
「青柳先生の奥様もドイツで入院中だと伺いましたが?」
「退院の見通しはたっているんですか?」
「青柳先生はどう言っているんですか?」
そんな質問が飛び交った。
「皆様の質問に関しては社長の高真からお伝えします。どうぞお引取りください。」
南はそう言って木内をギャラリーアオヤナギに押し込んだ。
南は中に入ると鍵をかけてクローズの札を出した。
「なんかすっごいんですね。僕、昨日だけでフェイスブックの友達申請五千人超えましたよ。」
木内は浮ついた。
「迂闊なこと書くなよ。」
南はピリピリとした。
「青柳先生が描けなくなったらここはどうなるんですかね?」
「高真さんが若手の作品も取り扱うようになったからその子達がどれだけ売れるかだよ。まあ、絵なんて売り買いするものじゃないからな。」
「売り買いするものじゃないって?」
「神に捧げる祈りさ。」
南はそう言うと仕事に取り掛かった。
絵が描きたい…。絵が描きたい…。
青柳は念じるように木炭を持とうとしてするりと落とす。
「リハビリすれば持てるようになるから…。な!」
「止めてくれ、本当はもう持てないんだろう。どれだけやっても変わらない。」
「はーい、青柳さん、リハビリですよー。」
大岡という女性の看護士だ。
「リハビリしたくないからって自分に酔わないでくださいね~。」
そう言って青柳を車椅子に乗せるとリハビリ室へと運んでいった。
高真は悩んだ。青柳が描けなくなれば会社はたたむしか無いだろう。
南と木内の再就職先を探さないと。
問題は山積みだった。
南から着信があった。
「今、大丈夫ですか?」
「ああ、いいよ。どうしたの?」
高真は平静を装った。
「青柳先生が死ぬんじゃないかって噂が流れて作品が法外な値段であちこちで取引されてるんです。」
「こっちでも確認してみるよ。情報ありがとう。マスコミはどう?落ち着いた?」
「それが木内のアホがマスコミに捕まって要らない事言ったみたいで…。」
「ははは。木内君ならそんなにうちのことに詳しくないから大丈夫だよ。」
「高真さん、無理してませんか?高真さんはうちの屋台骨です。高真さんが倒れることがあったら青柳先生もおしまいです。良く休んでください。って言っても僕がそんな事心配する立場でも無いんですけどね。」
そう言って電話は切れた。
ルール工業地帯の大規模火災は死者156名、軽傷者231名を出す凄惨な結果となった。
旭ヶ丘出版では羽多野が記事を書き、美智香の写真が採用された。
病院で美智香は記事を何度も読み返した。自分の写真が使われている。それが何より嬉しかった。見舞いに来ていた羽多野がため息をついた。
「スクープ取るのに命がけっていつの時代だよ。」
「でも羽多野さんの記事凄いですね。臨場感があると言うか現地から見てるみたいです。」
「それは、現地で見てるからな…。ギプスはいつ取れるんだ?」
「ギプスそのものは4週間から6週間で、完全に治るのは2、3ヶ月かかるそうです。」
「来てもらえよ。」
「え?」
「青柳先生にドイツに来てもらえって。」
「青柳先生は本当に盲目なんです。補助をしている高真さんだって家庭があります。そんなだいそれたことお願いできません。」
「お前は運が良かった。後数センチズレていたら脳みそぶちまけてたって救助隊の人が言ってたぞ。」
「脳みそって…。」
「俺は離婚してるからさ。」
「え?」
羽多野は語った。
「自分の記事が誌面に出るとさ、高揚感っていうか何物にも代え難い喜びがあるんだよ。そしてそういうものを追いかけていくうちに自分の大事なものを犠牲にするんだ。」
「それは…。」
「どうせ青柳先生とライターなんて一緒に過ごせる時間なんてほとんど無かったんだろう?日本じゃなくてドイツに来れば良い。ドイツならそこまで青柳先生の知名度は高くない。どうだ?悪い話ではないだろう。」
「少し考えてみます…。」
「あおやなぎせんせいですか?」
リハビリ中の青柳に小さな子が話しかけてきた。
「君は誰かな?」
「ぼくはタオカタカヒコといいます。」
「タカヒコ君かぁ、いい名前だね。」
「びょういんのエントランスにせんせいのさくひんがかざられているんです。」
「教えてくれてありがとう。今は入院中で描いていないんだけどね。」
そう言うとふたりは笑った。
「かんごしさんがあおやなぎせんせいはおとななのにリハビリをがんばらないといってました。」
「ははは。その通りだね。」
「からだがいたいんですか?」
「そんなことないよ。大丈夫さ。」
「ぼくはたいいんしたらサッカーがしたいんです。おとうさんがむかし、サッカーでぜんこくたいかいにでてるんです。」
「へーそれは優秀なんだね。君もきっと大活躍するよ。」
「でも、ぼくはびょうきだからなかなかびょういんからでれないんです。」
「大丈夫。人生はいつもスタートラインだ。」
「どういういみですか?」
「毎日が始まりと言うことだよ。」
「わかりました。がんばります。」
そう言うとタカヒコくんはニコニコと笑った。
「頑張るのは青柳さんですよ~。」
看護士の大岡が迎えに来た。
「今日もありがとうございましたー。」
そう言って青柳はリハビリ室を後にした。姿を見たことはないが大岡は絶対、恰幅のいい女性だ…青柳は密かに怯えた。
「すみません、こんなことお願いして。」
ガサゴソと乃々佳が美智香の病室で荷物の整理をしていた。
「驚きましたよ。急な話でしたから。」
そう言って乃々佳は笑った。
「自宅から着替えを持ってきて欲しいって、そんなに信頼してくださって有難うございます。」
「数日後には神林という同僚もくるので、それまでお願いしても良いですか?」
「もちろんですよ。」
乃々佳は微笑んだ。
「記事読みましたよ。写真が採用されたんですね。」
「はい。有難うございます。」
「私の勤務してる病院だったらもっと話は早かったんですけどね。日本人医師も多いし。ちょっと換気しますか?」
乃々佳は病室の窓を開けた。
風がそよそよと入ってくる。
「ギプスしてもそんな細い脚なんですね…。」
乃々佳は笑った。
「いや、そんな事は…。」
「夫も来るってうるさかったんですよ。自分が美人だってお忘れなく。」
美智香は苦笑いした。
「きれいな顔が無事で青柳先生も安心するでしょうね。」
それを言うなら乃々佳さんも相当美人だ、美智香はそう思った。
「あの、まだお時間ありますか?」
「今日ならまだ空いてます。」
美智香はどこから話していいか悩んだ。
「ドイツ移住ってどうなんですか?」
「どうって?」
「住むところとか、学校とか、仕事とか…。まあ仕事は変わらないんですけど。」
「今、こちらに住まわれてるわけでしょう?そのままの生活が続くと言ったところですね。」
「青柳先生をドイツに連れてきて良いのか悩んでいるんですよね。」
「あー、それはどうでしょうね?」
美智香はため息をついた。
「やっぱり、そんな簡単なことじゃないんですよね…。」
「青柳先生が海外に事業を展開すると言うことですか?」
「違うんです。私の仕事に付き合わせて海外に来て欲しいと思ってるんです。」
「お子さんはいらっしゃらないんでしたよね。」
乃々佳は黙って考え込んだ。そして口を開いた。
「人生とはなんだと思いますか?」
「え?」
「私はドイツが好きなんです。ストレスが嫌いで良いものを長く使うエコな精神。日本人のように流行に流されたりしない。子供の頃、父と毎年旅行するうちに住みたいと思うようになったんです。」
乃々佳はカーテンを閉めた。
「一度しか無い人生です。悔いなく生きたいじゃないですか?」
「…。」
「では今日はこれで失礼します。またご連絡くださいね。」
乃々佳は笑顔で病室を後にした。
美智香は悩んだ。確かに青柳先生は日本では有名すぎてどこへ出かけるのも大変だった。
ならば、この機会にほんの少しの物だけ持って日本を出ても良いんじゃないか…?そんな気がした。朝の9時、日本は夕方ごろの時間、美智香は勇気を出して高真に電話した。
「ああ、山本さん。これは僕の携帯ですよ。聖人にかけようとしたんですよね。こちらから折り返しますよ。」
「違うんです。高真さんにお話があるんです。」
「?僕にですか?」
「ギャラリーアオヤナギをドイツに移転してほしいんです。」
「それは、その…日本よりドイツが好きになったとかそういう事ですか?」
「そういうことじゃないんです。日本では青柳先生が有名過ぎてどこに行くにも大変でした。ドイツでは一部のコアなファンはいるものの日本ほど有名ではないんです。」
「それで?」
「私は仕事を辞めません。高真さんがいないと青柳先生は絵が描けない。だからお願いします。青柳先生と人生を共にしてください。」
「ははは。」
「え?何で笑うんです?」
「僕もそんな気がしてたんです。」
「では…。」
「木内君は大学生なので無理ですがうちの南なら付いてきてくれると思いますよ。」
声の調子から高真の本心だと思った。
「語学は山本さん、貴女に任せますよ。」
「ありがとうございます。」
美智香は高真にも乃々佳にも心から感謝した。
「ここをこうしてこうすると~。」
「ほうほう。」
青柳の病室には木内がガムテープを持ってきていた。病院の売店に行っていた高真が帰ってきた。青柳の右手には一本の筆がガムテープでぐるぐる巻に固定されていた。
「何してるの、木内君?」
高真は尋ねた。
「青柳先生が筆を握れないって言うから固定してみたらどうかなぁって…?あ、だめ…ですか?」
高真は飲み物を出して並べた。
「木内君好きなの飲んでいいよ。全部お茶だけど…。」
「水彩絵具も持ってきてるんですけど…。」
木内は恐る恐るカバンから絵具を出した。
それを見ていた高真は爆笑した。
「うちの人間は芸術馬鹿ばっかりだよ。ははは。」
「え?え?え?」
木内は戸惑った。
「ギャラリーアオヤナギはたたむよ。そうしてドイツにリニューアルオープンする。」
「高真…。」
「お前は死ぬまで絵を描くんだろう。聖人、一緒に行こう。」
「高真、嫁さんは…?」
「納得させてくるよ。木内君は大学卒業したらうちにおいで。」
その日の夜、高真はギャラリーアオヤナギへと顔を出した。南が帳簿の整理をしていた。
「南君、ギャラリーアオヤナギに人生を捧げてくれないか?」
「と、言いますと?」
「一緒にドイツに来て欲しい。」
「え?」
「ギャラリーアオヤナギはドイツでリニューアルオープンする。そこのスタッフとして人生をともにして欲しい。」
南はカタカタと震えた。
「喜んでついていきます!!」
「決まりだね。」
翌日、高真は医師とコンコンと話をした。
薬による治療、手術、様々な可能性はまだ残されていた。
「自宅療養に切り替えた場合、毎月診察を必ず受けてください。それでも後、5年持つかどうか…。」
そう言われて高真は吹き出した。
「高校時代も医師からそう言われたんです。」
そうして笑った。
3か月後、高真と青柳は小さな貸しギャラリーを訪れた。
「俺たちここから始まったんだよな。」
「聖人はお客さんと喧嘩もしたよな。」
「あの頃はまだうっすら見えていたからなぁ…。」
青柳と高真は握手した。
「思えば俺たち握手したこともなかったんだな。」
そう言うと高真は青柳を抱きしめた。
「生きててくれてありがとう。」
「お互いに、だろう。」
「行くか?」
「ああ。」
そうしてふたりは日本を後にした。ギャラリーアオヤナギはその後、業界最大手の企業へと成長を遂げる。
しかし、その躍進を彼らはまだ知らない。
ああ、またこの夢か。
美智香は思った。
最近、繰り返し同じ夢を見る。
お人形のように小さな女の子がマイクを持って美智香にそう尋ねてくる。美智香が何を言ってもこの子は同じ質問を繰り返す。しかし、この日は続きがあった。
「後悔しない?」
そう言われて美智香は目を覚ました。
ドイツ支局に赴任して早3年が経つ。もうじき日本に帰れる、そんないつも通りの朝だった。
出勤すると向坂が相変わらずピリピリとした雰囲気で部下を叱っていた。
美智香はそうっとデスクに向かった。
「青柳…おはようございますは?」
向坂は礼儀にもうるさかった。
「ぐ、グーテンモルゲン…。」
「違う!上司の俺に挨拶はないのかという意味だ!」
「お取り込み中だったので…。」
「日本人は真面目で礼儀正しい、時間を守る、それしか売りはないんだぞ!!」
「奥さんと喧嘩したんですよ。」
隣の席の羽多野がぼそっと話した。
「日本人なら日本人同士くっつけばいいのにドイツ人の奥さんなんて貰うから、食事やら作法やらが違って喧嘩になるんですよ。」
美智香は苦笑いした。
「あーでももうじき青柳さんともお別れかぁ…。」
「俺、次はスイス辺りに飛ばされそうなんすよね。」
「俺も日本帰りてぇー。日本の吉野家行きてぇー。」
そう言って皆は笑った。
美智香は自分は恵まれているなぁと常々思った。
その時だった。
職場のテレビ画面が一斉に緊急報道の場面に切り替わった。
それはドイツ最大の工業地帯、ルールの工場火災だった。リポーターは爆発と火災が続く現場周辺でヘルメットを被りマイクを持って実況中継をしていた。
「うわぁ…これは酷い…。」
その規模を示すようにドローンでの空撮も公開された。向坂は慌てて現地取材班を組んだ。
「後は青柳、行けるか?」
「はい。行きます!」
その時青柳から貰ったネックレスのチェーンが切れた。美智香は深く考えることもなく、ネックレスをカバンにしまった。
今度、修理に出そう、そんな事を思いながら会社を後にした。
日本では青柳に異変が起きていた。
「聖人…最近、作品のクオリティが落ちてきてると思うんだが…。」
高真は言った。
青柳はゼーゼーと息をしていた。
「しばらく休みでも取るか?」
「まだ描ける…。」
そう言って青柳はキャンバスに向かった。頭がフラフラして息をするのも辛い。だが、美智香が帰ってきたらしばらく一緒にいたい。そう思って力を振り絞った。
しかし高真はその様子を見て、
「だめだ、聖人。休憩だ。」
と言った。
南が事務所からお茶を用意して出てきた。しかし青柳はその場に崩れ落ちた。
「救急車呼んで木内君。」
高真は青柳の保険証を用意して救急車が来るのにそなえた。
「高真、描かせてくれ…。」
「起きれないんだろう?無理だな。」
「いつものことだ…。」
「ちゃんと食事は取ってたのか?」
高真は自分のジャケットを青柳にかけた。
「山本さんがいないからって食事抜いてたんじゃないだろうな?」
「最近、食べても戻すんだ…。」
青柳は力なく語った。
「水分は取れてたんだよな?」
「分からない…。」
「5分ほどで到着するそうです。」
木内が事務所から出てきた。
「青柳先生、大丈夫ですか?」
南が青柳を起こして水分を取らせた。しかしそれも吐いてしまった。
「聖人…まだだ。お前はまだ描かなきゃいけないんだ。」
そうして救急車が到着した。
「30歳男性、持病ありです。心肺脈拍共に低下しています。受け入れできますか?南大病院受け入れ可能とのことです。」
到着した救急隊員は素早く対応していく。
「南くん、鍵預けるから終業時刻になったら帰って。俺はスペアキーがあるから。聖人の容態が安定したら戻るよ。販売に関しては一時、休業期間にでもしておいて。」
高真は救急隊員から渡されたカルテのようなものに詳細を記入した。
「高真さん。」
「青柳先生…。」
木内も南も不安げな表情を浮かべた。
「いつものことだから、さ、スケベな青柳先生が帰ってくるまで奥さんデッサン集でも見ときなよ。」
そう言って3人は笑った。
ルール工業地帯の火災は鎮火に向けて日本で言うところの消防隊が出動していた。
建物からは黒煙が上がり続けていた。依然として火の勢いはおさまらない。
ドーンという音がして建物が一部崩落した。
皆、ピリピリしながらも現地の写真を取り続けた。
「史上最悪の工場火災ってところかぁ?」
「現地の人に話を…。」
そう言って、美智香は車を降りようとした。
「だめだよ、ダメダメ。ガスマスクとかつけないと肺からやられるよ。工業地帯なんだから。」
羽多野が止めた。
「では、何をしたら良いですか?」
「たぶん怪我人が出てると思うから、病院でその人達に話を聞いて。永山は発火原因の会社を特定して連絡取って。写真は使えるようなの撮れればそれで大丈夫だからさ。」
そう言って羽多野はカメラを構えた。
「ここもそろそろ危ないな…。車出して。」
羽多野がそう言うと車付近まで火の手が迫っていた。
皆がピリピリするなか、美智香はプロとして1番の大舞台に立てていることに感激していた。青柳先生にこれで少しは並べる、そう思った。そうして現地取材班は撤収した。
病院についた高真は青柳の病状について説明を受けた。肺と心臓を取り巻く血管が正常に動いていない。眼球のときと同じ症状だ。
「たぶんもう自宅で療養するのは不可能だと思います。」
医師はMRIを見ながら考え込んだ。
「ここ数年、病気の進行は比較的、遅かったんです。急に来たのはやはり無理を重ねたせいでしょうか?」
高真は話した。
「いえ、年齢的なものもあると思います。」
「彼は画家なんです。描けなければ生きていけないんです。」
「命と絵画、どっちが大事なんですか?」
医師はため息をついた。
「じゃあ貴方は命が助かれば医師を辞められるんですか?」
高真はスラスラと話す。
「この世で与えられた役割をこなせないなら生きている意味が無いでしょう?そこにいるだけ、それなら人形にでも出来ることだ。」
「とにかく、治療に専念してください。」
そうして高真は病室へと向かった。
5階北病棟の個室に青柳は入院した。高真が、病室に入ると青柳は眠っていた。
「美智香…。」
青柳の寝言だ。
青柳は言っていた。自分の人生の責任なんて誰も負ってない。それなら美智香の人生の責任は俺が取るから側にいて欲しかった。でも美智香はそうしないだろうね。と。
翌日、高真はクロッキー帳と木炭、練り消しゴムを青柳に届けた。
「高真ありがとなー。」
そう言って、青柳はそれらを受け取ろうとした。カシャンと音がしてそれらは床に落ちた。
「ああ見えてないから落としたんだな。」
そう言って高真が拾おうとすると青柳が真っ青な顔をしていた。
「力が入らない…。」
「は?」
高真は状況が分からなかった。
「高真、俺にペン持たせてくれ。」
「こうか?」
青柳が広げた手のひらに高真はボールペンを乗せた。しかし青柳がそれで書こうとするとするりとペンが抜け落ちた。
「もう1回。もう1回だけ…。」
「大丈夫だ、聖人。きっと薬が効いてるんだ。そのうちにまた持てるようになるさ。」
そう言って高真は笑った。
だが、青柳はもう自分の寿命は長くない、そう感じていた。そうして青柳は食事介助が必要となった。
ルール工業地帯の工場火災は一週間に渡って続いた。羽多野とふたり、鎮火された建物を写真に撮った。広島の原爆ドームを思い出す。美智香はそう思った。倒壊しかけている建物内で、羽多野と美智香は神経を尖らせて写真を撮り続けた。
「ヒルフェ(助けて)!!ヒルフェ(助けて)!!」
子供の声だ。隣の建物を美智香は覗き込んだ。
瓦礫に足を挟まれている子どもが居た。大人の力なら少し押せば動くような気がする。
「おい、青柳、余計なことするなよ。救助に任せとけばいいんだよ。クラッシュ症候群とかあるだろ。」
「じゃあ私はここにいます。救助を呼んでください。」
そう言って美智香は隣の建物に移った。ふっと風が吹くような感じがした。そして次の瞬間、建物が倒壊した。そして美智香はその下敷きになった。
「青柳ぃぃぃ!!」
羽多野は叫んだ。
日本ではドイツの工場火災と青柳聖人の入院がトップニュースとして上がっていた。高真は南大病院の青柳の病室でマスコミに流す原稿を作った。
「ドイツかぁ…美智香さん。大丈夫かなぁ。」
「山本さんの実力じゃあ現場には出てないんじゃないか?」
「そうだと良いんだけどねぇ…。」
青柳はサングラスを取ってあくびをした。肺がズキンとする。
「高真、俺多分死ぬよ。いつもと違うもん。」
「それは…。」
「死ぬなら遺作が描きたいF120くらいの。」
「そんなでかいと買い手がつかないだろ。」
「元々、売るために描いてる作品はないからなぁ…。」
青柳は遠くを見るように背筋を伸ばした。
「高真がいてくれて良かったよ。高校時代からだから15年位一緒にいるんだっけ?本当にありがとな。」
「止めろって、まだお前は死なないよ。」
しかし、青柳は続けた。
「美智香の事をよろしく頼む。」
そう言うと青柳は咳き込んだ。
「大丈夫か?聖人?」
「俺は一度死んだんだ。もう悔いはない。」
「聖人…。」
その時、高真の携帯が鳴った。
「はい。高真です。え?神林さんが来てる?」
高真は青柳の方を見た。
「独占取材の件だったら、応相談だって話つけてくれないか?…え?山本さんが?」
「青柳先生に代わってくださいぃぃ、お願いしますぅぅ!!」
南の携帯を奪って神林は泣きながら叫んだ。
「それは…。」
「高真!今の美智香の話だろ、代わってくれ!」
「意識不明だって…。」
「どういうことだよ?!」
「ドイツの大規模火災に巻き込まれたらしい。」
青柳は呆然とした。
「美智香…。美智香、美智香…。嘘だ嘘だ嘘だ。」
青柳はパニックを起こしながらベッドにうずくまった。
運命を紐解く。本当にそれが出来るならもっと私は器用に生きていた。そんな事をぼんやりと考えていた。うっすら目を開けると光が眩しい。
「青柳さん、起きましたよー。」
羽多野がいた。医師と看護士が呼ばれバイタルチェックをした。身体に力が入らない。
「両足と肋骨にヒビが入ってます。無理に動こうとしないでくださいよ。」
羽多野はそういった。
「あの子どもは?」
「無事でしたよ。それもかすり傷程度で。」
「良かった。」
美智香は笑った。
「何が良かっただ?」
向坂がカツカツと病室に入ってきた。
「立ち入り禁止区域内で写真撮ってたんだと?」
「え、そうなんですか。」
美智香は尋ねた。羽多野が苦い顔をしている。
「厳重注意で済んだから良かったものの、命より大事なものは無いんだぞ。青柳!日本に帰ったら青柳先生が待ってるんだろう?それなのにこんな大怪我したらすぐには帰国出来ないぞ。」
「それは、その…。」
「家族も日本にしかいないんだろう?着替えはどうする?」
「岩崎夫妻にお願いします。」
「岩崎夫妻?」
「私のカバンあります?」
「持ってきてるけど、携帯がバンバン鳴るから電源落としたんだ。」
「え?」
そう言って美智香が携帯の電源を入れると青柳から70件以上の着信があった。
「青柳先生…。」
美智香は泣いた。今になって恐怖が襲ってきた。
「青柳先生、倒れたって日本のニュースで流れてたけど、嘘だったのか?」
羽多野は食いついた。
美智香は看護士に車椅子に乗せてもらい、電話が出来る場所へと移った。
ワンコール鳴らすと高真がでた。
「山本さん、今聖人に代わりますね。」
高真の声のトーンがいつもより低い。
「美智香さん、意識不明だって神林さんが…。身体痛い?怪我は?」
青柳は矢継ぎ早に話す。
「両足と肋骨にヒビが入っただけです。すぐに退院できます。」
そう言って美智香は泣いた。
「意識を失う前、今死んだら青柳先生に会えない。それは絶対嫌だ、そう強く思いました。だから私はこうして生きているんだと思います。」
「美智香…。」
「それよりも青柳先生が倒れたって言うニュースが流れてるんですけど…。」
「それはその、進行する病気だから年と共に…。」
そこまで言うと青柳は泣いた。
「ごめん。やっぱり、美智香さんを騙したくはない。俺は多分もう長くない。自分のことだ。自分が1番わかってる。肺も、心臓も身体の中から取り出して運んでるように重たい。今すぐにでも会いに行きたい。」
「青柳先生はすぐに死ぬ死ぬって言うじゃないですか?でも助かってる、多分大丈夫ですよ。」
美智香はそういった。
「違うんだ。筆が握れないんだ。血管の病気だから末端の毛細血管がだめになってきてる。」
「もう描かなくてもいいんですよ、って神様が言ってるのかもしれませんね。」
「美智香…。」
「怪我が治る頃には任期も終えます。そうしたらまた一緒に日本で暮らしましょう。」
「あぁ。そうしよう。」
「愛してますよ、青柳先生。」
そうしてふたりの電話は切れた。
その日の夜、美智香は夢を見た。青柳が隣りにいた。
青柳は美智香の方に近寄って頭を撫でた。帰りたい、そう思うことはいっぱいあった。それでも私は記者だ、プロのライターだ。意地を張ってる部分もあった。
「青柳先生…。」
夢の中で美智香は泣いた。日本から離れること、青柳先生に会えないこと、全てが苦しい日々だった。
「もうすぐ会えますね。」
そう言って美智香が笑うと、青柳は手を振って離れていった。
「青柳先生、青柳先生!!」
そう言って美智香は目を覚ました。カバンから携帯を取り出した。高真からの着信は無い。大声を出したからか、看護士が部屋に来た。私は3年間ドイツ語を話してきたんだなぁ。そう思いながら、看護士に返事をした。
それからの青柳はとにかくリハビリをこなした。食事も少しずつだが取れるようになった。美智香が帰ってくるまでには自宅に戻りたい。そう話した。高真はマスコミに原稿を流した。ギャラリーアオヤナギに残った南と木内は毎日集まったマスコミをかき分けて職場に到着していた。
「青柳先生の奥様もドイツで入院中だと伺いましたが?」
「退院の見通しはたっているんですか?」
「青柳先生はどう言っているんですか?」
そんな質問が飛び交った。
「皆様の質問に関しては社長の高真からお伝えします。どうぞお引取りください。」
南はそう言って木内をギャラリーアオヤナギに押し込んだ。
南は中に入ると鍵をかけてクローズの札を出した。
「なんかすっごいんですね。僕、昨日だけでフェイスブックの友達申請五千人超えましたよ。」
木内は浮ついた。
「迂闊なこと書くなよ。」
南はピリピリとした。
「青柳先生が描けなくなったらここはどうなるんですかね?」
「高真さんが若手の作品も取り扱うようになったからその子達がどれだけ売れるかだよ。まあ、絵なんて売り買いするものじゃないからな。」
「売り買いするものじゃないって?」
「神に捧げる祈りさ。」
南はそう言うと仕事に取り掛かった。
絵が描きたい…。絵が描きたい…。
青柳は念じるように木炭を持とうとしてするりと落とす。
「リハビリすれば持てるようになるから…。な!」
「止めてくれ、本当はもう持てないんだろう。どれだけやっても変わらない。」
「はーい、青柳さん、リハビリですよー。」
大岡という女性の看護士だ。
「リハビリしたくないからって自分に酔わないでくださいね~。」
そう言って青柳を車椅子に乗せるとリハビリ室へと運んでいった。
高真は悩んだ。青柳が描けなくなれば会社はたたむしか無いだろう。
南と木内の再就職先を探さないと。
問題は山積みだった。
南から着信があった。
「今、大丈夫ですか?」
「ああ、いいよ。どうしたの?」
高真は平静を装った。
「青柳先生が死ぬんじゃないかって噂が流れて作品が法外な値段であちこちで取引されてるんです。」
「こっちでも確認してみるよ。情報ありがとう。マスコミはどう?落ち着いた?」
「それが木内のアホがマスコミに捕まって要らない事言ったみたいで…。」
「ははは。木内君ならそんなにうちのことに詳しくないから大丈夫だよ。」
「高真さん、無理してませんか?高真さんはうちの屋台骨です。高真さんが倒れることがあったら青柳先生もおしまいです。良く休んでください。って言っても僕がそんな事心配する立場でも無いんですけどね。」
そう言って電話は切れた。
ルール工業地帯の大規模火災は死者156名、軽傷者231名を出す凄惨な結果となった。
旭ヶ丘出版では羽多野が記事を書き、美智香の写真が採用された。
病院で美智香は記事を何度も読み返した。自分の写真が使われている。それが何より嬉しかった。見舞いに来ていた羽多野がため息をついた。
「スクープ取るのに命がけっていつの時代だよ。」
「でも羽多野さんの記事凄いですね。臨場感があると言うか現地から見てるみたいです。」
「それは、現地で見てるからな…。ギプスはいつ取れるんだ?」
「ギプスそのものは4週間から6週間で、完全に治るのは2、3ヶ月かかるそうです。」
「来てもらえよ。」
「え?」
「青柳先生にドイツに来てもらえって。」
「青柳先生は本当に盲目なんです。補助をしている高真さんだって家庭があります。そんなだいそれたことお願いできません。」
「お前は運が良かった。後数センチズレていたら脳みそぶちまけてたって救助隊の人が言ってたぞ。」
「脳みそって…。」
「俺は離婚してるからさ。」
「え?」
羽多野は語った。
「自分の記事が誌面に出るとさ、高揚感っていうか何物にも代え難い喜びがあるんだよ。そしてそういうものを追いかけていくうちに自分の大事なものを犠牲にするんだ。」
「それは…。」
「どうせ青柳先生とライターなんて一緒に過ごせる時間なんてほとんど無かったんだろう?日本じゃなくてドイツに来れば良い。ドイツならそこまで青柳先生の知名度は高くない。どうだ?悪い話ではないだろう。」
「少し考えてみます…。」
「あおやなぎせんせいですか?」
リハビリ中の青柳に小さな子が話しかけてきた。
「君は誰かな?」
「ぼくはタオカタカヒコといいます。」
「タカヒコ君かぁ、いい名前だね。」
「びょういんのエントランスにせんせいのさくひんがかざられているんです。」
「教えてくれてありがとう。今は入院中で描いていないんだけどね。」
そう言うとふたりは笑った。
「かんごしさんがあおやなぎせんせいはおとななのにリハビリをがんばらないといってました。」
「ははは。その通りだね。」
「からだがいたいんですか?」
「そんなことないよ。大丈夫さ。」
「ぼくはたいいんしたらサッカーがしたいんです。おとうさんがむかし、サッカーでぜんこくたいかいにでてるんです。」
「へーそれは優秀なんだね。君もきっと大活躍するよ。」
「でも、ぼくはびょうきだからなかなかびょういんからでれないんです。」
「大丈夫。人生はいつもスタートラインだ。」
「どういういみですか?」
「毎日が始まりと言うことだよ。」
「わかりました。がんばります。」
そう言うとタカヒコくんはニコニコと笑った。
「頑張るのは青柳さんですよ~。」
看護士の大岡が迎えに来た。
「今日もありがとうございましたー。」
そう言って青柳はリハビリ室を後にした。姿を見たことはないが大岡は絶対、恰幅のいい女性だ…青柳は密かに怯えた。
「すみません、こんなことお願いして。」
ガサゴソと乃々佳が美智香の病室で荷物の整理をしていた。
「驚きましたよ。急な話でしたから。」
そう言って乃々佳は笑った。
「自宅から着替えを持ってきて欲しいって、そんなに信頼してくださって有難うございます。」
「数日後には神林という同僚もくるので、それまでお願いしても良いですか?」
「もちろんですよ。」
乃々佳は微笑んだ。
「記事読みましたよ。写真が採用されたんですね。」
「はい。有難うございます。」
「私の勤務してる病院だったらもっと話は早かったんですけどね。日本人医師も多いし。ちょっと換気しますか?」
乃々佳は病室の窓を開けた。
風がそよそよと入ってくる。
「ギプスしてもそんな細い脚なんですね…。」
乃々佳は笑った。
「いや、そんな事は…。」
「夫も来るってうるさかったんですよ。自分が美人だってお忘れなく。」
美智香は苦笑いした。
「きれいな顔が無事で青柳先生も安心するでしょうね。」
それを言うなら乃々佳さんも相当美人だ、美智香はそう思った。
「あの、まだお時間ありますか?」
「今日ならまだ空いてます。」
美智香はどこから話していいか悩んだ。
「ドイツ移住ってどうなんですか?」
「どうって?」
「住むところとか、学校とか、仕事とか…。まあ仕事は変わらないんですけど。」
「今、こちらに住まわれてるわけでしょう?そのままの生活が続くと言ったところですね。」
「青柳先生をドイツに連れてきて良いのか悩んでいるんですよね。」
「あー、それはどうでしょうね?」
美智香はため息をついた。
「やっぱり、そんな簡単なことじゃないんですよね…。」
「青柳先生が海外に事業を展開すると言うことですか?」
「違うんです。私の仕事に付き合わせて海外に来て欲しいと思ってるんです。」
「お子さんはいらっしゃらないんでしたよね。」
乃々佳は黙って考え込んだ。そして口を開いた。
「人生とはなんだと思いますか?」
「え?」
「私はドイツが好きなんです。ストレスが嫌いで良いものを長く使うエコな精神。日本人のように流行に流されたりしない。子供の頃、父と毎年旅行するうちに住みたいと思うようになったんです。」
乃々佳はカーテンを閉めた。
「一度しか無い人生です。悔いなく生きたいじゃないですか?」
「…。」
「では今日はこれで失礼します。またご連絡くださいね。」
乃々佳は笑顔で病室を後にした。
美智香は悩んだ。確かに青柳先生は日本では有名すぎてどこへ出かけるのも大変だった。
ならば、この機会にほんの少しの物だけ持って日本を出ても良いんじゃないか…?そんな気がした。朝の9時、日本は夕方ごろの時間、美智香は勇気を出して高真に電話した。
「ああ、山本さん。これは僕の携帯ですよ。聖人にかけようとしたんですよね。こちらから折り返しますよ。」
「違うんです。高真さんにお話があるんです。」
「?僕にですか?」
「ギャラリーアオヤナギをドイツに移転してほしいんです。」
「それは、その…日本よりドイツが好きになったとかそういう事ですか?」
「そういうことじゃないんです。日本では青柳先生が有名過ぎてどこに行くにも大変でした。ドイツでは一部のコアなファンはいるものの日本ほど有名ではないんです。」
「それで?」
「私は仕事を辞めません。高真さんがいないと青柳先生は絵が描けない。だからお願いします。青柳先生と人生を共にしてください。」
「ははは。」
「え?何で笑うんです?」
「僕もそんな気がしてたんです。」
「では…。」
「木内君は大学生なので無理ですがうちの南なら付いてきてくれると思いますよ。」
声の調子から高真の本心だと思った。
「語学は山本さん、貴女に任せますよ。」
「ありがとうございます。」
美智香は高真にも乃々佳にも心から感謝した。
「ここをこうしてこうすると~。」
「ほうほう。」
青柳の病室には木内がガムテープを持ってきていた。病院の売店に行っていた高真が帰ってきた。青柳の右手には一本の筆がガムテープでぐるぐる巻に固定されていた。
「何してるの、木内君?」
高真は尋ねた。
「青柳先生が筆を握れないって言うから固定してみたらどうかなぁって…?あ、だめ…ですか?」
高真は飲み物を出して並べた。
「木内君好きなの飲んでいいよ。全部お茶だけど…。」
「水彩絵具も持ってきてるんですけど…。」
木内は恐る恐るカバンから絵具を出した。
それを見ていた高真は爆笑した。
「うちの人間は芸術馬鹿ばっかりだよ。ははは。」
「え?え?え?」
木内は戸惑った。
「ギャラリーアオヤナギはたたむよ。そうしてドイツにリニューアルオープンする。」
「高真…。」
「お前は死ぬまで絵を描くんだろう。聖人、一緒に行こう。」
「高真、嫁さんは…?」
「納得させてくるよ。木内君は大学卒業したらうちにおいで。」
その日の夜、高真はギャラリーアオヤナギへと顔を出した。南が帳簿の整理をしていた。
「南君、ギャラリーアオヤナギに人生を捧げてくれないか?」
「と、言いますと?」
「一緒にドイツに来て欲しい。」
「え?」
「ギャラリーアオヤナギはドイツでリニューアルオープンする。そこのスタッフとして人生をともにして欲しい。」
南はカタカタと震えた。
「喜んでついていきます!!」
「決まりだね。」
翌日、高真は医師とコンコンと話をした。
薬による治療、手術、様々な可能性はまだ残されていた。
「自宅療養に切り替えた場合、毎月診察を必ず受けてください。それでも後、5年持つかどうか…。」
そう言われて高真は吹き出した。
「高校時代も医師からそう言われたんです。」
そうして笑った。
3か月後、高真と青柳は小さな貸しギャラリーを訪れた。
「俺たちここから始まったんだよな。」
「聖人はお客さんと喧嘩もしたよな。」
「あの頃はまだうっすら見えていたからなぁ…。」
青柳と高真は握手した。
「思えば俺たち握手したこともなかったんだな。」
そう言うと高真は青柳を抱きしめた。
「生きててくれてありがとう。」
「お互いに、だろう。」
「行くか?」
「ああ。」
そうしてふたりは日本を後にした。ギャラリーアオヤナギはその後、業界最大手の企業へと成長を遂げる。
しかし、その躍進を彼らはまだ知らない。
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