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1巻
1-3
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クリストフの質問に、兵士たちは不思議がりながらも返事をしている。
「とにかく、フェリシアさまの体を休めたい。慎重にお運びしなさい」
「かしこまりました」
追放の身であるというのに、これほど丁重に扱われて戸惑う。
「やっぱり自分で運びま――」
「申し訳ございませんが、そのお言葉は聞かなかったことにします。恩人に対して失礼なことをすれば、私の名誉に傷がつきますから」
名誉に傷がつくとは大げさな。
そう思ったけれど、もしかしたらクリストフは、フェリシアが遠慮しないように気を配ってくれているのかも。
「そうですね。本当にすみません」
恥ずかしくてたまらないけれど、これ以上固辞するのも悪いので、素直に従うことにした。
すると、クリストフは満足そうにうなずいて足を踏み出した。
広い通りの左右に並ぶ家の二階の窓から多くの人たちが顔を覗かせており、興味津々で見ている。それもそうだろう。フェリシアを抱いたクリストフを先頭に、兵士たちが列をなしているのだから。まるで勝利を収めて戦場から戻った騎士団のようだ。
人々を救ったことに間違いはないけれど、まさかこんなことになるとは。
「あの、荷物はお任せするので、せめて自分で歩かせていただけませんか?」
「膝が痛みますよね?」
「あ……」
気づいていたのか。
たしかに小石がいくつも突き刺さった膝が痛い。傷にはなっているかもしれないけれど、歩けないほどでは断じてないのに。
「もうすぐそこですから、どうかこのままで」
「……わかり、ました」
「ひとつ、お聞きしても?」
クリストフはフェリシアを見て、優しく微笑む。
「お答えできることであれば」
聖女であることについては明かしたくないとわかったはず。それ以外なら大丈夫そうだけれど、万が一元王太子妃だと気づかれていたら否定するつもりだ。どうせ今晩だけのお付き合い。余計なことを知る必要はない。
「随分立派な剣ですが、ご自分で扱われるのですか?」
女が大振りの剣を持つことはまずなく、せいぜい鍛冶屋に最初に薦められた護身用の短剣くらいだ。だから不思議に思われてもおかしくない。
「剣術を少々」
「なんと。剣術の心得まであるとは」
興奮したのか、フェリシアを抱くクリストフの手に力がこもり、心臓がドクンと音を立てる。ますます恥ずかしくなり、なんとなく視線をそらした。
この国の騎士団には、けがの治療を請け負う医療班に女性はいるものの、剣士や騎士にはいないと聞いている。この地の騎士団もそうだろう。ちらりと見たところでは、全員男性だし。剣を扱える女性なんて、フェリシアもほかに知らない。
「しゅ、趣味程度ですよ」
襲ってきた刺客の男三人を瞬殺できるくらいの能力はあるが、ごまかしておいた。ますますあやしまれてしまう。
「それでもすごい。あの剣はどなたかから譲り受けられたのですか?」
「えっ……?」
――譲られたとどうして知っているの? 剣に興味があるのであれば、買った店を知りたがるのではないの?
「鍛冶屋の店主が薦めてくれて……」
正確に言うと、フェリシアの腕を見込んだ店主に託されたのだが、腕が立つことはやっぱり隠しておきたい。
「店主が……。そうでしたか。このようなか弱い女性に重い剣を……」
あやしまれていると緊張が走ったものの、クリストフはくすくす笑っている。店主の選択がおかしいと思っているようだ。
「そ、そうですよね。でも気に入っているんです」
「それではいっそう大切に運ばなければ。見えてきました。あれが我が屋敷です」
クリストフは、夕日に照らされてほんのりオレンジ色に染まる、二階建ての立派な白亜の建物に視線を送ってそう言った。
王太子妃なんてお断りします
フェリシアが聖女だとわかったのは、この世に生まれ落ちた直後のことだ。
聖女の力を有する者は、体のどこかに聖女の証である紋章が現れる。聖母マリアの象徴ともいわれる百合の紋章が太ももの内側にあるのを見つけたのは、フェリシアを取り上げたラージュ家の侍女だった。
すぐに気づいて報告すると、両親は尊い娘だと大喜びしたという。
しかし同時に、父は苦い顔もした。この国では聖女が王族の妃となるのが慣例となっており、私利私欲を満たすことしか考えていない無能な王室に嫁がなければならないことを危惧したのだ。
そのため父は、この国の民のために瘴気を浄化できる力を使うべきではあるけれど、自分が聖女であることは隠しておきなさいと、フェリシアに強く伝えた。
フェリシア自身も、きらびやかに着飾り、贅沢三昧できるという王室での生活など少しも興味がなく、それより剣術。強い者にあこがれを抱き、みずからも力をつけたいと手に肉刺ができるほど剣を振り、馬を乗りこなすような女の子だった。
そのため、狭い世界に閉じ込められるのはごめんだと、聖女の力はこっそりしか使わなかった。
そんなフェリシアがキルタンス王国の王太子妃となったのは、十八歳になったばかりの頃。
聖女の力をひた隠して育ってきた自分には無縁の話だと思っていたのに。
――あの日、までは。
「フェリシア。ケーラおばあちゃんのところにお使いを頼む」
大きな窯の前で汗をかきながらパンを焼いていたフェリシアに声をかけてきたのは、このパン屋の主人で三十五歳のロセターさんだ。
王都から馬車で約一時間。のんびりとした空気が漂うこの街にはおいしい食べ物がたくさんある。そのひとつがここ、ロセター夫妻が経営するパン屋だ。
特に干しぶどうを練り込んだパンが大好評で、これを目当てに遠くから足を運ぶ客までいる。
とある子爵家の当主も気に入っているらしく、使用人が毎日のように買いに来る。決まった農家からぶどうを取り寄せて天日干しするところからロセター夫妻の手作りで、貴族の厨房を預かるコックでも同じ味はなかなか出せないのだとか。
もちろんフェリアも大好物で、ぶどうの選び方から干し加減まで、教えてもらいながら勉強している最中だ。
ほかには様々な種類のジャムもあり、こちらも大好評。フェリシアも作るのを手伝っている。
「はーい。すぐに」
フェリシアは焼きあがった白パンを窯から取り出して、店頭に出ていった。
「白パン、ちょうど焼けましたよ」
「おお、ありがとう。フェリシアが来てくれてから、本当に助かってるよ。おばあちゃんのところに届けたら、少し休憩していいから」
「はい、それでは行ってきます」
ロセター夫人が用意してくれた大きなライ麦パンが三つ入った籠を持ち、パン屋を飛び出した。
今日は天気がよく、青い空が広がっている。フェリシアは目を細めて空を見上げ、すーっと大きく息を吸い込んだ。
「春のにおいがする」
花の甘い香りだとか、草の少し青くさいにおいだとか……この時季独特のいい香りが鼻をくすぐる。
足を踏み出したそのとき、不意に吹いてきた心地よい風が、ほどよく波打つフェリシアの自慢の長い髪を揺らした。
艶のあるブロンドの髪は、父譲りだ。ちなみにぱっちりとしたグレーの目は、母にそっくりだとよく言われた。
寒い冬を乗り越えた人々の表情は明るく、街には活気があふれている。
パンの届け先のケーラおばあちゃんは、昨年のこの時季まではみずからパンを買いに来ていた。けれど足腰が弱り、最近はこうしてフェリシアが届けに行くことが多い。
おばあちゃんの家には小走りで十分もあれば到着するのだが、道端の花を眺めながらの道中はよい息抜きになるので、この時間はわりと好きだ。
ただ……三日前に通ったときはきれいに咲いていた花壇の花が軒並み枯れていて、首を傾げた。
――天気もよかったのに、なんで急に枯れたんだろう。
雨が降りすぎると根が腐り枯れることはあると聞くが、この三日は一滴も降っていない。
だとしたら、水のやり忘れだろうか。それにしては見事な枯れっぷりで驚くほどだった。
「ケーラおばあちゃん、パン屋です」
おばあちゃんの家の扉をノックしながら声をかけると、しばらくしておばあちゃんが顔を出した。
「まあまあフェリシアは元気だね。いつもありがとう」
杖をついたおばあちゃんは、目尻のしわをいっそう深くして笑う。
「ライ麦パン、硬くない?」
「そうだけど、ねえ……」
おばあちゃんが言葉を濁すのは、小麦粉で作った白パンのほうが少々高いからだ。
キルタンス王国は税が高く、若い頃に懸命に働いても十分なお金は貯まらない。年老いたら切り詰めた生活になってしまう。
「そうだよね……。今度白パンが余ったら持ってくるね」
「ありがとね。あなたみたいな気立てのいい娘は、そろそろ結婚の声がかかるんじゃないの?」
思わぬことを言われて、きょとんとする。
「結婚? そんなこと考えたこともないよ。生きているだけで精いっぱいだもん」
フェリシアはラージュ公爵家の令嬢として生まれたものの、両親や兄を亡くして修道院で数年過ごした。修道院では貧しい人に配るためのパンを作っており、その焼き方の指導に訪れていたロセター夫妻が、勤勉に働いていたフェリシアを気に入り店に招いてくれた。今はパン屋の二階にあるロセター家の屋根裏が、フェリシアの寝床だ。
パン屋の仕事を得てから、がむしゃらに働いてきた。そのおかげでロセター夫妻からは信頼を得て、発酵から焼きの作業までなんでも任せられるようになったし、お客さんからも慕ってもらえる。今の生活が楽しくて、嫁に行くなんて考えたこともない。
「もったいないわね。こんな働き者、滅多にいないのに」
「おばあちゃん、ありがと。でも私、パン屋の仕事に向いてるみたい。生地をこねる時間なんて、最高に楽しいの」
それは嘘ではない。焼き上がりを想像しながら生地をこねる時間は、至福のときだ。小麦粉や酵母の香りが漂ってくるあの厨房は、大好きな場所なのだ。
「そうかい?」
「うんうん。おばあちゃん、体に気をつけてね。ちょっと病気が流行ってるみたい」
「そうみたいだね。しばらく家に閉じこもっておくよ。野菜も持ってきてもらえたからね」
「そうして。またパンを持ってくるね」
この街の人たちは心が温かくて、困っている人がいると放っておけない。足腰が弱くなったおばあちゃんのことも街ぐるみで守っている。
フェリシアはこの街が気に入っていて、ずっとここでパン屋をしていられたら……と考えているが、どうなることやら。
そこそこ波乱万丈な人生を送っている自覚はあるので、明日がどうなるかなんてわからないと知っている。だから今を目いっぱい楽しみたい。
おばあちゃんの家をあとにしたフェリシアは、少し寄り道をして休憩することにした。
街の中心は様々な商店が並んでいて、いつもうるさいほどの声が飛びかっている……はずなのに、今日は静かだ。いくつかの商店は閉まっており、フェリシアの大好物で修道院でも育てていたりんごを売っている果物店も同様だった。
「お休みなのか……」
「パン屋さんじゃない。ここに用でも?」
「りんごが欲しくて」
パン屋の常連の女性に声をかけられて答えると、彼女は眉をひそめた。
「それがね、このあたりで急激に伝染病が流行りだしたみたいで、多分ここの店主もやられてしまったのよ。あなたも気をつけなさい」
噂には聞いていたけれど、病が思った以上に蔓延しているようだ。彼女が口元にハンカチを巻いているのも、感染を防ぐためだろう。
「ありがとうございます。そうします」
「でもねぇ、いつもの伝染病とは少し違うみたいなのよ」
「どういうことですか?」
彼女が意味ありげに語るので尋ねた。
「普通はさ、こうやって話したりすると病気が移るじゃない? でも、それがまったくないって皆が口をそろえるの。一応ハンカチで予防はしてるけど、あんまり意味がないのかも」
「それじゃあ、どうやって移るんでしょう?」
街に広がっているのであれば、伝染するなんらかの理由があるはずだ。
「それがわかればね……。ただ、その家でひとりでも患者が出ると、家族ごと全滅するみたい。まあ、ほかの伝染病でもそうなんだけど、ひとりくらいは移らずに済む人がいたりするでしょ? でも今回は違うの。本当に全滅。それも全員同時期に。吐き気と熱でつらいんだって。パン屋さんが閉じると困るから、気をつけて」
「はい」
といっても、原因がわからないのではどうしようもない。
女性と別れたフェリシアは、閑散とした商店街を尻目に、店に戻ることにした。
「家族ごと全滅って……」
以前、ロセター夫妻がひどい熱で店を休んだときも、別の部屋で寝起きしていたフェリシアだけは病にかからずに済んだ。
どの家庭も、もれなく全員、しかも順番に伝染していくのではなく同時期に倒れるのは少々不思議だ。
「ただいま戻りました」
店の裏口から帰ると、ロセター夫人が驚いた顔をしている。
「休憩してくればよかったのに」
「りんごでも食べようと思ったんですけど、商店街が――」
先ほど聞いた話を伝えると、苦々しい顔をしている。
「うちも時間の問題かしら。怖いわね。でも、店を閉めると困る人がたくさんいるし……」
このあたりでパン屋はここだけだ。ここを閉めてしまうと、歩いて三十分ほどかかるところにしかパン屋はない。
「そうですね。気をつけます。あっ、そろそろ水がなくなりますね。井戸に行ってきます」
「助かる。よろしくね」
三、四日に一度補充する、厨房の片隅にある大きな水甕の水が尽きかけているのを見つけて、再び店を飛び出した。
街の人なら誰でも使える井戸は、店から歩いて五分。小さめの甕をいくつか載せた手押し車を引いて向かう。重い水を運ぶのは重労働だ。
近づいていくと、井戸の向こう側に男性が倒れていることに気がついて駆け寄った。傍らに桶が転がっている。
「大丈夫ですか? どうしたんですか?」
真っ青な顔をした男性は、苦しげに呼吸を荒くしてかすかに口を動かし始める。
「ちか……づくな」
「えっ?」
「……水」
ハッとして井戸を見ると、かすかに黒い靄が立ち上っている。これは瘴気だ。瘴気は水に溶けると色をなくすが、溶けきれないほど発生しているのだろう。
「これ……瘴気を吸ったんですか?」
問うと、男性は小さくうなずく。彼はこの瘴気をまともに吸ってしまったようだ。
ほかにも桶を持って近づいてくる女性が見えたので、フェリシアは慌てた。
街の人々が寝込んでいるのは流行病のせいではなく、瘴気に侵されたこの水を飲んだからだと気づいたのだ。花壇の花が枯れていたのも、この水をかけたからではないだろうか。
これまでは、靄が立ち上るほど増殖しておらず水に溶けていたため、誰も気づかなかったに違いない。
「近づかないで! 瘴気が……」
「ほ、ほんとだ」
フェリシアの忠告に目を丸くした女性は、桶を放り出して井戸から離れる。
「その人は?」
「瘴気を吸ってしまったみたいです。すぐに助けますから大丈夫。街の人たちに水を口にしないでと伝えてください」
フェリシアは倒れた男性を引きずって井戸から離れながら伝えた。
いくら聖女でも、濃い瘴気をまともに吸ってしまっては命が危うい。
「わかった」
うなずいた女性は走り去っていく。
この街で自分が聖女だと明かしたことはないし、知られたくはないけれど、目の前に倒れている人がいるのに見ない振りはできない。
その場に跪いたフェリシアは、倒れている男性に向かって心の中で唱える。
『この方にどうか命の恵みを』
直後、真っ青だった男性の唇の色がみるみるよくなっていく。きっとこれで回復していくはずだ。
次は……
「間に合わないわね」
井戸のほうに向き直ったフェリシアは、井戸の水だけ浄化しようとした。しかし、先ほどの女性の伝達が届く前に家に持ち帰った水を口にする人がいるかもしれないと思い直し、浄化の力が街全体に行きわたるように念じ始めた。
『天に与えられしみなぎる力よ。邪悪な存在を排除し、我らに幸福を』
心の中で唱えると、体の奥からすさまじい力が湧いてきてポカポカと温まり、フェリシアの体から放たれた淡い光が四方八方へと飛んでいく。この光はフェリシア以外には見えないため、誰にも気づかれない。
静かに目を開くと、井戸から立ち上っていた黒い靄が消えていた。
「これで大丈夫かな」
「お前さん、もしかして聖女なのか?」
すっかり元気を取り戻した男性が、目を見開いている。
「いえ、そういうわけじゃ……」
「だって、瘴気が消えたじゃないか」
「そ、そうですか?」
つい先ほどまでぐったりとしていた男性は、信じられないといった様子で自分の体を見ている。
「俺も……死ぬかと思ったのに、こんな……」
ごまかしてみたものの、男性は完全にフェリシアが聖女だと確信したようだ。いきなりフェリシアの手を握り、深々と頭を下げた。
「聖女さま、ありがとうございます。もう家族に会えないのかと……」
瘴気を吸ってしまい、不安のどん底にいたのだろう。
「噂には聞いていましたが、聖女さまの浄化の力がこんなにすごいとは……。本当にありがとうございます」
彼に使ったのは、浄化ではなく再生だ。瘴気によって壊された大地や、瘴気に蝕まれた体を元に戻す力で、聖女の中でも力の強い者にしか行えない。
しかしもちろん黙っておく。余計なことを知られると、フェリシアを利用してひと儲けしようとする輩が寄ってくるからだ。それに、王族に嫁ぐのだけは避けたい。
「いえ、聖女なんかじゃありませんから。たまたまできちゃったんですよねー。それでは」
苦し紛れの言い訳を口にしたフェリシアは、逃げるように男性の前から走り去った。
ロセター夫妻のパン屋は、厨房の片隅にある大きな水甕に四日前に汲んでおいた水を沸かして使っていたため、瘴気の影響は受けずに済んだようだ。
五年前に亡くなったキルタンス王国の前王妃は聖女で、王都付近の瘴気を浄化していた。この街もその範囲に含まれており、瘴気による被害は少なかったようだ。
しかし、王妃が亡くなってから聖女がいなくなり、現在の王妃はその力を持たない。そのため、こうして街が混乱に陥ることがまれにある。
とはいえ、瘴気が生じやすい場所とそうでない場所があるらしく、フェリシアが四年前にこの街に来てから、これほど甚大な被害を被ったことはなかった。
もっとも、街のはずれの小麦畑に瘴気が湧いているのを見かけて、こっそり浄化しておいたことはある。
念のため、倒れていた男性が去るのを確認してから再び井戸に近づき、水を汲み上げてみたけれど、透き通っておりいつも通りだ。
フェリシアは甕に水をたっぷりと汲んで、パン屋に戻った。
そんなパン屋での楽しい日常が終わりを迎えたのは、翌日の早朝のこと。
二階の住居にある食堂で、ロセター夫人がこしらえてくれた豆のスープにパンを浸して食べていると、店の入口のドアをドンドンと叩く音がする。
「こんなに早く、誰かしら?」
夫人が腰を上げると、ロセターさんが手で制する。
「俺が見てくるよ」
夫人を気遣う優しいロセターさんは、白パンをごくんと飲み込んでから一階の店に下りていった。
「どちらさまで?」
何事か気になって仕方がないフェリシアは、再びスープを口にしながら耳を傾ける。
「フェリシア・ルブランはいるかね?」
――ゴホッ。
すると、突然自分の名が出たので驚き、スープを噴き出しそうになった。
「私?」
誰かが自分を訪ねてくるなんて初めてで首をひねると、夫人も不思議そうにしている。
「いるけど、あなたは?」
「私は王宮の者だ。聖女、フェリシア・ルブランを王太子殿下の妃として迎えたい」
少し高めの男の声に、血の気が引いた。
フェリシアは、聖女であることをロセター夫妻にすら明かしたことがない。それはひとえに王族の妃にはなりたくないからだ。
フェリシアより五つ年上の王太子は、道楽息子で威張り散らすことしか能がないという。
「とにかく、フェリシアさまの体を休めたい。慎重にお運びしなさい」
「かしこまりました」
追放の身であるというのに、これほど丁重に扱われて戸惑う。
「やっぱり自分で運びま――」
「申し訳ございませんが、そのお言葉は聞かなかったことにします。恩人に対して失礼なことをすれば、私の名誉に傷がつきますから」
名誉に傷がつくとは大げさな。
そう思ったけれど、もしかしたらクリストフは、フェリシアが遠慮しないように気を配ってくれているのかも。
「そうですね。本当にすみません」
恥ずかしくてたまらないけれど、これ以上固辞するのも悪いので、素直に従うことにした。
すると、クリストフは満足そうにうなずいて足を踏み出した。
広い通りの左右に並ぶ家の二階の窓から多くの人たちが顔を覗かせており、興味津々で見ている。それもそうだろう。フェリシアを抱いたクリストフを先頭に、兵士たちが列をなしているのだから。まるで勝利を収めて戦場から戻った騎士団のようだ。
人々を救ったことに間違いはないけれど、まさかこんなことになるとは。
「あの、荷物はお任せするので、せめて自分で歩かせていただけませんか?」
「膝が痛みますよね?」
「あ……」
気づいていたのか。
たしかに小石がいくつも突き刺さった膝が痛い。傷にはなっているかもしれないけれど、歩けないほどでは断じてないのに。
「もうすぐそこですから、どうかこのままで」
「……わかり、ました」
「ひとつ、お聞きしても?」
クリストフはフェリシアを見て、優しく微笑む。
「お答えできることであれば」
聖女であることについては明かしたくないとわかったはず。それ以外なら大丈夫そうだけれど、万が一元王太子妃だと気づかれていたら否定するつもりだ。どうせ今晩だけのお付き合い。余計なことを知る必要はない。
「随分立派な剣ですが、ご自分で扱われるのですか?」
女が大振りの剣を持つことはまずなく、せいぜい鍛冶屋に最初に薦められた護身用の短剣くらいだ。だから不思議に思われてもおかしくない。
「剣術を少々」
「なんと。剣術の心得まであるとは」
興奮したのか、フェリシアを抱くクリストフの手に力がこもり、心臓がドクンと音を立てる。ますます恥ずかしくなり、なんとなく視線をそらした。
この国の騎士団には、けがの治療を請け負う医療班に女性はいるものの、剣士や騎士にはいないと聞いている。この地の騎士団もそうだろう。ちらりと見たところでは、全員男性だし。剣を扱える女性なんて、フェリシアもほかに知らない。
「しゅ、趣味程度ですよ」
襲ってきた刺客の男三人を瞬殺できるくらいの能力はあるが、ごまかしておいた。ますますあやしまれてしまう。
「それでもすごい。あの剣はどなたかから譲り受けられたのですか?」
「えっ……?」
――譲られたとどうして知っているの? 剣に興味があるのであれば、買った店を知りたがるのではないの?
「鍛冶屋の店主が薦めてくれて……」
正確に言うと、フェリシアの腕を見込んだ店主に託されたのだが、腕が立つことはやっぱり隠しておきたい。
「店主が……。そうでしたか。このようなか弱い女性に重い剣を……」
あやしまれていると緊張が走ったものの、クリストフはくすくす笑っている。店主の選択がおかしいと思っているようだ。
「そ、そうですよね。でも気に入っているんです」
「それではいっそう大切に運ばなければ。見えてきました。あれが我が屋敷です」
クリストフは、夕日に照らされてほんのりオレンジ色に染まる、二階建ての立派な白亜の建物に視線を送ってそう言った。
王太子妃なんてお断りします
フェリシアが聖女だとわかったのは、この世に生まれ落ちた直後のことだ。
聖女の力を有する者は、体のどこかに聖女の証である紋章が現れる。聖母マリアの象徴ともいわれる百合の紋章が太ももの内側にあるのを見つけたのは、フェリシアを取り上げたラージュ家の侍女だった。
すぐに気づいて報告すると、両親は尊い娘だと大喜びしたという。
しかし同時に、父は苦い顔もした。この国では聖女が王族の妃となるのが慣例となっており、私利私欲を満たすことしか考えていない無能な王室に嫁がなければならないことを危惧したのだ。
そのため父は、この国の民のために瘴気を浄化できる力を使うべきではあるけれど、自分が聖女であることは隠しておきなさいと、フェリシアに強く伝えた。
フェリシア自身も、きらびやかに着飾り、贅沢三昧できるという王室での生活など少しも興味がなく、それより剣術。強い者にあこがれを抱き、みずからも力をつけたいと手に肉刺ができるほど剣を振り、馬を乗りこなすような女の子だった。
そのため、狭い世界に閉じ込められるのはごめんだと、聖女の力はこっそりしか使わなかった。
そんなフェリシアがキルタンス王国の王太子妃となったのは、十八歳になったばかりの頃。
聖女の力をひた隠して育ってきた自分には無縁の話だと思っていたのに。
――あの日、までは。
「フェリシア。ケーラおばあちゃんのところにお使いを頼む」
大きな窯の前で汗をかきながらパンを焼いていたフェリシアに声をかけてきたのは、このパン屋の主人で三十五歳のロセターさんだ。
王都から馬車で約一時間。のんびりとした空気が漂うこの街にはおいしい食べ物がたくさんある。そのひとつがここ、ロセター夫妻が経営するパン屋だ。
特に干しぶどうを練り込んだパンが大好評で、これを目当てに遠くから足を運ぶ客までいる。
とある子爵家の当主も気に入っているらしく、使用人が毎日のように買いに来る。決まった農家からぶどうを取り寄せて天日干しするところからロセター夫妻の手作りで、貴族の厨房を預かるコックでも同じ味はなかなか出せないのだとか。
もちろんフェリアも大好物で、ぶどうの選び方から干し加減まで、教えてもらいながら勉強している最中だ。
ほかには様々な種類のジャムもあり、こちらも大好評。フェリシアも作るのを手伝っている。
「はーい。すぐに」
フェリシアは焼きあがった白パンを窯から取り出して、店頭に出ていった。
「白パン、ちょうど焼けましたよ」
「おお、ありがとう。フェリシアが来てくれてから、本当に助かってるよ。おばあちゃんのところに届けたら、少し休憩していいから」
「はい、それでは行ってきます」
ロセター夫人が用意してくれた大きなライ麦パンが三つ入った籠を持ち、パン屋を飛び出した。
今日は天気がよく、青い空が広がっている。フェリシアは目を細めて空を見上げ、すーっと大きく息を吸い込んだ。
「春のにおいがする」
花の甘い香りだとか、草の少し青くさいにおいだとか……この時季独特のいい香りが鼻をくすぐる。
足を踏み出したそのとき、不意に吹いてきた心地よい風が、ほどよく波打つフェリシアの自慢の長い髪を揺らした。
艶のあるブロンドの髪は、父譲りだ。ちなみにぱっちりとしたグレーの目は、母にそっくりだとよく言われた。
寒い冬を乗り越えた人々の表情は明るく、街には活気があふれている。
パンの届け先のケーラおばあちゃんは、昨年のこの時季まではみずからパンを買いに来ていた。けれど足腰が弱り、最近はこうしてフェリシアが届けに行くことが多い。
おばあちゃんの家には小走りで十分もあれば到着するのだが、道端の花を眺めながらの道中はよい息抜きになるので、この時間はわりと好きだ。
ただ……三日前に通ったときはきれいに咲いていた花壇の花が軒並み枯れていて、首を傾げた。
――天気もよかったのに、なんで急に枯れたんだろう。
雨が降りすぎると根が腐り枯れることはあると聞くが、この三日は一滴も降っていない。
だとしたら、水のやり忘れだろうか。それにしては見事な枯れっぷりで驚くほどだった。
「ケーラおばあちゃん、パン屋です」
おばあちゃんの家の扉をノックしながら声をかけると、しばらくしておばあちゃんが顔を出した。
「まあまあフェリシアは元気だね。いつもありがとう」
杖をついたおばあちゃんは、目尻のしわをいっそう深くして笑う。
「ライ麦パン、硬くない?」
「そうだけど、ねえ……」
おばあちゃんが言葉を濁すのは、小麦粉で作った白パンのほうが少々高いからだ。
キルタンス王国は税が高く、若い頃に懸命に働いても十分なお金は貯まらない。年老いたら切り詰めた生活になってしまう。
「そうだよね……。今度白パンが余ったら持ってくるね」
「ありがとね。あなたみたいな気立てのいい娘は、そろそろ結婚の声がかかるんじゃないの?」
思わぬことを言われて、きょとんとする。
「結婚? そんなこと考えたこともないよ。生きているだけで精いっぱいだもん」
フェリシアはラージュ公爵家の令嬢として生まれたものの、両親や兄を亡くして修道院で数年過ごした。修道院では貧しい人に配るためのパンを作っており、その焼き方の指導に訪れていたロセター夫妻が、勤勉に働いていたフェリシアを気に入り店に招いてくれた。今はパン屋の二階にあるロセター家の屋根裏が、フェリシアの寝床だ。
パン屋の仕事を得てから、がむしゃらに働いてきた。そのおかげでロセター夫妻からは信頼を得て、発酵から焼きの作業までなんでも任せられるようになったし、お客さんからも慕ってもらえる。今の生活が楽しくて、嫁に行くなんて考えたこともない。
「もったいないわね。こんな働き者、滅多にいないのに」
「おばあちゃん、ありがと。でも私、パン屋の仕事に向いてるみたい。生地をこねる時間なんて、最高に楽しいの」
それは嘘ではない。焼き上がりを想像しながら生地をこねる時間は、至福のときだ。小麦粉や酵母の香りが漂ってくるあの厨房は、大好きな場所なのだ。
「そうかい?」
「うんうん。おばあちゃん、体に気をつけてね。ちょっと病気が流行ってるみたい」
「そうみたいだね。しばらく家に閉じこもっておくよ。野菜も持ってきてもらえたからね」
「そうして。またパンを持ってくるね」
この街の人たちは心が温かくて、困っている人がいると放っておけない。足腰が弱くなったおばあちゃんのことも街ぐるみで守っている。
フェリシアはこの街が気に入っていて、ずっとここでパン屋をしていられたら……と考えているが、どうなることやら。
そこそこ波乱万丈な人生を送っている自覚はあるので、明日がどうなるかなんてわからないと知っている。だから今を目いっぱい楽しみたい。
おばあちゃんの家をあとにしたフェリシアは、少し寄り道をして休憩することにした。
街の中心は様々な商店が並んでいて、いつもうるさいほどの声が飛びかっている……はずなのに、今日は静かだ。いくつかの商店は閉まっており、フェリシアの大好物で修道院でも育てていたりんごを売っている果物店も同様だった。
「お休みなのか……」
「パン屋さんじゃない。ここに用でも?」
「りんごが欲しくて」
パン屋の常連の女性に声をかけられて答えると、彼女は眉をひそめた。
「それがね、このあたりで急激に伝染病が流行りだしたみたいで、多分ここの店主もやられてしまったのよ。あなたも気をつけなさい」
噂には聞いていたけれど、病が思った以上に蔓延しているようだ。彼女が口元にハンカチを巻いているのも、感染を防ぐためだろう。
「ありがとうございます。そうします」
「でもねぇ、いつもの伝染病とは少し違うみたいなのよ」
「どういうことですか?」
彼女が意味ありげに語るので尋ねた。
「普通はさ、こうやって話したりすると病気が移るじゃない? でも、それがまったくないって皆が口をそろえるの。一応ハンカチで予防はしてるけど、あんまり意味がないのかも」
「それじゃあ、どうやって移るんでしょう?」
街に広がっているのであれば、伝染するなんらかの理由があるはずだ。
「それがわかればね……。ただ、その家でひとりでも患者が出ると、家族ごと全滅するみたい。まあ、ほかの伝染病でもそうなんだけど、ひとりくらいは移らずに済む人がいたりするでしょ? でも今回は違うの。本当に全滅。それも全員同時期に。吐き気と熱でつらいんだって。パン屋さんが閉じると困るから、気をつけて」
「はい」
といっても、原因がわからないのではどうしようもない。
女性と別れたフェリシアは、閑散とした商店街を尻目に、店に戻ることにした。
「家族ごと全滅って……」
以前、ロセター夫妻がひどい熱で店を休んだときも、別の部屋で寝起きしていたフェリシアだけは病にかからずに済んだ。
どの家庭も、もれなく全員、しかも順番に伝染していくのではなく同時期に倒れるのは少々不思議だ。
「ただいま戻りました」
店の裏口から帰ると、ロセター夫人が驚いた顔をしている。
「休憩してくればよかったのに」
「りんごでも食べようと思ったんですけど、商店街が――」
先ほど聞いた話を伝えると、苦々しい顔をしている。
「うちも時間の問題かしら。怖いわね。でも、店を閉めると困る人がたくさんいるし……」
このあたりでパン屋はここだけだ。ここを閉めてしまうと、歩いて三十分ほどかかるところにしかパン屋はない。
「そうですね。気をつけます。あっ、そろそろ水がなくなりますね。井戸に行ってきます」
「助かる。よろしくね」
三、四日に一度補充する、厨房の片隅にある大きな水甕の水が尽きかけているのを見つけて、再び店を飛び出した。
街の人なら誰でも使える井戸は、店から歩いて五分。小さめの甕をいくつか載せた手押し車を引いて向かう。重い水を運ぶのは重労働だ。
近づいていくと、井戸の向こう側に男性が倒れていることに気がついて駆け寄った。傍らに桶が転がっている。
「大丈夫ですか? どうしたんですか?」
真っ青な顔をした男性は、苦しげに呼吸を荒くしてかすかに口を動かし始める。
「ちか……づくな」
「えっ?」
「……水」
ハッとして井戸を見ると、かすかに黒い靄が立ち上っている。これは瘴気だ。瘴気は水に溶けると色をなくすが、溶けきれないほど発生しているのだろう。
「これ……瘴気を吸ったんですか?」
問うと、男性は小さくうなずく。彼はこの瘴気をまともに吸ってしまったようだ。
ほかにも桶を持って近づいてくる女性が見えたので、フェリシアは慌てた。
街の人々が寝込んでいるのは流行病のせいではなく、瘴気に侵されたこの水を飲んだからだと気づいたのだ。花壇の花が枯れていたのも、この水をかけたからではないだろうか。
これまでは、靄が立ち上るほど増殖しておらず水に溶けていたため、誰も気づかなかったに違いない。
「近づかないで! 瘴気が……」
「ほ、ほんとだ」
フェリシアの忠告に目を丸くした女性は、桶を放り出して井戸から離れる。
「その人は?」
「瘴気を吸ってしまったみたいです。すぐに助けますから大丈夫。街の人たちに水を口にしないでと伝えてください」
フェリシアは倒れた男性を引きずって井戸から離れながら伝えた。
いくら聖女でも、濃い瘴気をまともに吸ってしまっては命が危うい。
「わかった」
うなずいた女性は走り去っていく。
この街で自分が聖女だと明かしたことはないし、知られたくはないけれど、目の前に倒れている人がいるのに見ない振りはできない。
その場に跪いたフェリシアは、倒れている男性に向かって心の中で唱える。
『この方にどうか命の恵みを』
直後、真っ青だった男性の唇の色がみるみるよくなっていく。きっとこれで回復していくはずだ。
次は……
「間に合わないわね」
井戸のほうに向き直ったフェリシアは、井戸の水だけ浄化しようとした。しかし、先ほどの女性の伝達が届く前に家に持ち帰った水を口にする人がいるかもしれないと思い直し、浄化の力が街全体に行きわたるように念じ始めた。
『天に与えられしみなぎる力よ。邪悪な存在を排除し、我らに幸福を』
心の中で唱えると、体の奥からすさまじい力が湧いてきてポカポカと温まり、フェリシアの体から放たれた淡い光が四方八方へと飛んでいく。この光はフェリシア以外には見えないため、誰にも気づかれない。
静かに目を開くと、井戸から立ち上っていた黒い靄が消えていた。
「これで大丈夫かな」
「お前さん、もしかして聖女なのか?」
すっかり元気を取り戻した男性が、目を見開いている。
「いえ、そういうわけじゃ……」
「だって、瘴気が消えたじゃないか」
「そ、そうですか?」
つい先ほどまでぐったりとしていた男性は、信じられないといった様子で自分の体を見ている。
「俺も……死ぬかと思ったのに、こんな……」
ごまかしてみたものの、男性は完全にフェリシアが聖女だと確信したようだ。いきなりフェリシアの手を握り、深々と頭を下げた。
「聖女さま、ありがとうございます。もう家族に会えないのかと……」
瘴気を吸ってしまい、不安のどん底にいたのだろう。
「噂には聞いていましたが、聖女さまの浄化の力がこんなにすごいとは……。本当にありがとうございます」
彼に使ったのは、浄化ではなく再生だ。瘴気によって壊された大地や、瘴気に蝕まれた体を元に戻す力で、聖女の中でも力の強い者にしか行えない。
しかしもちろん黙っておく。余計なことを知られると、フェリシアを利用してひと儲けしようとする輩が寄ってくるからだ。それに、王族に嫁ぐのだけは避けたい。
「いえ、聖女なんかじゃありませんから。たまたまできちゃったんですよねー。それでは」
苦し紛れの言い訳を口にしたフェリシアは、逃げるように男性の前から走り去った。
ロセター夫妻のパン屋は、厨房の片隅にある大きな水甕に四日前に汲んでおいた水を沸かして使っていたため、瘴気の影響は受けずに済んだようだ。
五年前に亡くなったキルタンス王国の前王妃は聖女で、王都付近の瘴気を浄化していた。この街もその範囲に含まれており、瘴気による被害は少なかったようだ。
しかし、王妃が亡くなってから聖女がいなくなり、現在の王妃はその力を持たない。そのため、こうして街が混乱に陥ることがまれにある。
とはいえ、瘴気が生じやすい場所とそうでない場所があるらしく、フェリシアが四年前にこの街に来てから、これほど甚大な被害を被ったことはなかった。
もっとも、街のはずれの小麦畑に瘴気が湧いているのを見かけて、こっそり浄化しておいたことはある。
念のため、倒れていた男性が去るのを確認してから再び井戸に近づき、水を汲み上げてみたけれど、透き通っておりいつも通りだ。
フェリシアは甕に水をたっぷりと汲んで、パン屋に戻った。
そんなパン屋での楽しい日常が終わりを迎えたのは、翌日の早朝のこと。
二階の住居にある食堂で、ロセター夫人がこしらえてくれた豆のスープにパンを浸して食べていると、店の入口のドアをドンドンと叩く音がする。
「こんなに早く、誰かしら?」
夫人が腰を上げると、ロセターさんが手で制する。
「俺が見てくるよ」
夫人を気遣う優しいロセターさんは、白パンをごくんと飲み込んでから一階の店に下りていった。
「どちらさまで?」
何事か気になって仕方がないフェリシアは、再びスープを口にしながら耳を傾ける。
「フェリシア・ルブランはいるかね?」
――ゴホッ。
すると、突然自分の名が出たので驚き、スープを噴き出しそうになった。
「私?」
誰かが自分を訪ねてくるなんて初めてで首をひねると、夫人も不思議そうにしている。
「いるけど、あなたは?」
「私は王宮の者だ。聖女、フェリシア・ルブランを王太子殿下の妃として迎えたい」
少し高めの男の声に、血の気が引いた。
フェリシアは、聖女であることをロセター夫妻にすら明かしたことがない。それはひとえに王族の妃にはなりたくないからだ。
フェリシアより五つ年上の王太子は、道楽息子で威張り散らすことしか能がないという。
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