広くて狭いQの上で

白川ちさと

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第一章 学園転入編

第二十話 親の愛

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 倉野さんの声は相変わらず暗い。

「わたしの祖父、一年ぐらい前に大きな病気をして、車いすの生活になった。それから」

 どんな病気かは分からないし、どれほど動けないかも分からない。
けれど、年老いた老人がぽろぽろと歯が抜けていくかのように記憶が抜け落ちていくさまは想像に難くなかった。

「わたし、祖父とずっと一緒に暮らしていた。祖父はよく留学していた当時のことを話してくれた」

 少しだけ倉野さんの口元に優しい笑みが浮かぶ。

「今はわたしとほんの数人だけだけど、従慈学園は、昔はもっと留学生を受け入れていて、いろんな国の生徒たちと話をした。すごく活気づいていて、楽しい時間だったって。どこを歩いていても、いつでも議論が飛び交っているような」

 いまの学園は別に特別活気がないわけではない。ただ空き教室も多く、すごく大人しい雰囲気だ。高校生の割に妙に大人びているとも言える。

「祖父はわたしのことを忘れて、昔の学園の話をよくするようになった。そうしたら、聞いたことのないことも話し始めた」

「聞いたことのない?」

 倉野さんはこくりと頷く。

「学園に眠る世界の宝の話。それが、どうしてももう一度見たいと祖父は何度も、何度も言う」

「そうか。じゃあ、倉野さんは……」

 倉野さんは大好きなおじいさんの願いを叶えにこの学園にやって来たのだ。

「絶対、見つけ出す。祖父が私のことどころか、宝のことさえ忘れてしまう前に」

 意思は固い。倉野さんは、いつもの力のある眼に戻っていた。

「……僕も協力するよ。その絵画を見つけて、おじいさんに見せたい」

 水上くんが唐突に宣言する。倉野さんも不思議に思ったのだろう。

「どうした、深志」

 訝しく思うのも当り前だ。ほんの数分前まで衝突し合っていた仲なのだから。

「僕はさ。この学園に来たの、本当は不満だったんだ」

「不満?」

 水上くんは確かにトレジャーハンター部に入る前は、部活には入っていなかったし、クラスメイトとも特別仲良くしていなかった。

 けれど、学園のことを不満とまで思っていたとは――

「うん。こんな山奥の学校じゃ、買い物にもいけないし、ネットで良さそうなお店を見つけても、行くことなんて出来ないし」

 買い物とか、お店とか。たぶん、食べ物のことだろう。

 そこまで、美味しいものには目がないけれど、グルメ通だとは思わなかった。

「……僕は以前、フィギュアが好きだったんだ」

「ん? 部屋には一つもないけれど」

「人形の方じゃなくて、スケートのフィギュア」

「「えっ!」」

 これには僕だけじゃなくて、倉野さんも驚いた。フィギュアスケートといえば、繊細な動きに華麗なジャンプを思い浮かべる。

 だけど、水上くんの身体はどちらかというと、ふくよかな体型で、動きも大雑把だ。

 水上くんは心得ているかのように、息を吐く。

「昔は瘦せていたんだよ。どちらかというと、ダイナミックなジャンプに定評があったし」

「なるほど」

 さっきの涙が嘘のように、倉野さんは水上くんの話に聞き入って頷いている。

「けど、調子に乗っていたのかな。他の人にぶつかって転倒、骨折。……骨折自体は、割とすぐに治ったのだけどさ」

 また怪我をすることが怖くなったのだろうか。それとも危険な行為をしたから、スケートリンクから追い出されたのだろうか。

 水上くんの答えは、そのどれでもなかった。

「……母さんが続けることを反対したんだ」

「お母さんが」

「元々、親ばかって言うか。僕が運動出来るからって、フィギュアも母さんの勧めで始めたんだ。意外と向いていたみたいで、楽しかったよ。頑張れば頑張るほど、出来るジャンプが増えてさ。苦手なステップだって、どうやって攻略すればいいだろうって授業中も考えていた」

 本当に好きだったのだろう。

 フィギュアの話をする水上くんは、優しい顔をしていた。

「……でも、事故があってから、母さんがもう危険だからやめろって。フィギュアで表彰されるより、オリンピックに行くより、僕の身体の方が大事だからって」

「そんなの! 親の反対なんて押し切って、続ければいい!」

 倉野さんが立ちあがって叫ぶ。でも、僕にはそれは出来ないとすぐに分かった。

「そりゃ、リンクが家の近くにあればね。車で二時間。ほぼ毎日のように、送り迎えをしてもらっていた母さんに、そう言われちゃ辞めるしか選択肢はないんだよ」

「……そう、なの」

 途端に倉野さんはしゅんとしてしまう。

 フィギュアスケートを本格的に習えるリンクは全国でも少ないはずだ。それでも、熱心な親は遠方でも通わせていると聞いたことがある。

「母さんだって怪我があることぐらい分かっていたはずだよ。それでも、実際に見るのと聞いた話は違うからね。母さんが苦しんでいる。そう分かったから、僕は食べ物に逃げたんだ」

「食べ物に?」

「子供だから厳しい減量とまではないけれど、甘いものやカロリーが高いものはなるべく食べないようにしていたからね。フィギュアを辞めて、美味しいものを食べられてすごく嬉しいって、母さんにも言っていたんだ。実際、美味しいものを見つけるのは楽しいし」

 どうやら水上くんはどこに行っても、何でも楽しめる性格のようだ。

 トレジャーハンター部だって、文句を言ったり、倉野さんと衝突したりしても、積極的に謎を解こうとしているように見える。

「でもさぁ」

 懐かしそうにしていた水上くんが、ため息をつくように渋面をつくる。

「そしたら、母さんが太りすぎを気にしだしちゃって」

「あ、ああ。だから」

 だから、この全寮制の学園に入れられたのだ。ここでなら、食べられる量もある程度制限される。水上くんはブツブツと文句を連ねる。

「まぁ、学園自体は嫌いじゃないし、干渉しすぎる親から離れられて、それはいいんだけどね」

 まるで干渉してこない僕の家とは正反対だ。親子愛というのも、良し悪しだな。

「家族って、色々ある」

 倉野さんも、苦笑いして頷いた。


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