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2章 イノセント・ノイズ
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その翌日の朝、鉄男はさっそくウロマにもらった薬を試してみた。ちょうど幼稚園から子供たちの声が聞こえてきたころを見計らって薬を飲み、言われたとおり、その子供たちの声に意識を集中したのだ。消えろ、消えろ、と。
効果はすぐに現れた。窓の外から響いてくる子供たちの声は瞬く間に聞こえなくなった。そう、わずらわしいその音だけが。テレビの音や、時計の針の音はちゃんと聞こえるのにも関わらず、だ。
「これはすごい!」
鉄男は思わず叫んだ。
「あら、どうしたの、あなた?」
妻がそんな鉄男に不思議そうに尋ねてきたが、鉄男はあわてて「なんでもない」とごまかした。あの男の話によると、この薬は確か、闇の市場でしか出回ってないもののはずだ。長年連れ添った妻とはいえ、うかつに話すのはまずいだろう。もしかしたら、法律に触れるような、危険な成分が入っているかもしれないし。
「おい、お前、今日はガキどもの声はどんな具合だ?」
さらに鉄男は、妻に尋ねた。念のためだ。
「どうって、いつもどおりよ。今日はみんな、幼稚園の庭で楽しく遊んでるみたいねえ」
「そうか、あいつら、遊んでやがるのか」
妻には聞こえているらしいその声は、自分には聞こえない。薬の効果は確かなようだ。鉄男は再びにやりと笑った。三年もの間、悩まされていた騒音からついに解放されたのだ。これが喜ばずにはいられようか。
その日から、鉄男の生活は実に快適になった。薬を飲んでも、子供たちの声以外の音はまったく問題なく聞こえた。また、薬の効果は三時間ほどで消えたが、たいていは一粒飲めば、その一日は子供たちの声を聞かずにすんだ。いくら幼稚園が近くにあるとはいえ、子供たちがずっと歌ったり騒いだりしているわけではないのだから、まあ、当然だった。
そして、そんな日々の中、鉄男の心にも少しばかり余裕が生まれ、変化が生じた。以前は道端や商店で幼い子供の姿を見るだけでも不快に感じたものだったが、それがなくなった。むしろ、ちょっぴりやさしい気持ちすらわいてきた。鉄男はそんな自分の変化に満足した。人間として、さらなる上のステージに到達したような気持ちになった。齢七十六歳にして、である。
唯一の心配は、薬がいつかは尽きてしまうことだった。闇のルートでしか手に入らないものらしいのだ。次にもらいに行ったときには、もうないものかもしれない。この瓶に入っているぶんで、終わりなのかもしれない。鉄男はそれを考えると、とても不安になった。だが、不思議なことに、瓶の中の薬は飲んでも飲んでも、一向に減る気配がなかった。まるで、鉄男が飲む都度に、瓶の中でひそかに補充されているようだった。そんなはずはないが、何せこれは闇の薬だ。そういう特別な仕掛けがあっても、おかしくないのかもしれない……。鉄男はとりあえず、そのへんは深く考えないことにした。考えてもよくわからないし、めんどくさいし。
しかしやがて、そんな鉄男の騒音ストレスフリーな生活も終わりを迎えることになった。今度の騒音の主は、彼の妻だった。そう、ある日から、彼女は家でカラオケの練習を始めたのである。カラオケセットをどこからか入手してきて。
「おい、バカ! なんで家の中で歌うんだよ! やめろ!」
鉄男は当然、妻に抗議したが、
「最近、ご近所さんたちの間でカラオケが流行ってるのよ。だから私も練習しないと。なんでも、認知症予防にいいらしいのよねー」
と、妻はカエルのツラに小便といったふうで、鉄男の文句を受け流し、ひねもす延々歌い続けた。うるさい。歌が上手ならまだマシだが、普通に素人レベルで、しかも声だけは無駄にでかくて、うるさい。耳栓しててもまだうるさい。というか、耳栓すると、自分の脈の音が耳の中で響いて余計にうるさい。テレビの音などは聞こえなくなるし。鉄男のいらいらはどんどん高ぶっていった。
くそ、こうなったら……。
ある日、鉄男はついに決心した。ウロマからもらった薬を、妻の歌声に対して使おうと。飲んで消えて欲しい音に意識を集中すればいいだけなのだから、それに対しても有効だろうと。鉄男にとってもはや、幼稚園からの子供たちの声より、妻の歌声のほうがよっぽど有害だった。
薬の効果は、やはりてきめんだった。飲んですぐに妻の歌声は聞こえなくなった。同じ家の中で、カラオケの練習をしているはずなのに、だ。鉄男はしてやったりとほくそ笑んだ。消したい音を好きに選べるなんて、実に便利な薬だと思った。もっと早く、使い分けを覚えるべきだったとも。
だが、鉄男はすっかり忘れていた。薬をもらうとき、ウロマに警告されたことを。
そう、彼は言っていた。決して子供たちの声に対して以外には薬を使ってはいけないと。使い方を間違えるとひどい副作用が出ると。
その言葉の意味は、すぐに鉄男の知るところとなった。妻の歌声に対し薬を使った日から、徐々に鉄男の聴覚に異変が生じ始めたのである。
効果はすぐに現れた。窓の外から響いてくる子供たちの声は瞬く間に聞こえなくなった。そう、わずらわしいその音だけが。テレビの音や、時計の針の音はちゃんと聞こえるのにも関わらず、だ。
「これはすごい!」
鉄男は思わず叫んだ。
「あら、どうしたの、あなた?」
妻がそんな鉄男に不思議そうに尋ねてきたが、鉄男はあわてて「なんでもない」とごまかした。あの男の話によると、この薬は確か、闇の市場でしか出回ってないもののはずだ。長年連れ添った妻とはいえ、うかつに話すのはまずいだろう。もしかしたら、法律に触れるような、危険な成分が入っているかもしれないし。
「おい、お前、今日はガキどもの声はどんな具合だ?」
さらに鉄男は、妻に尋ねた。念のためだ。
「どうって、いつもどおりよ。今日はみんな、幼稚園の庭で楽しく遊んでるみたいねえ」
「そうか、あいつら、遊んでやがるのか」
妻には聞こえているらしいその声は、自分には聞こえない。薬の効果は確かなようだ。鉄男は再びにやりと笑った。三年もの間、悩まされていた騒音からついに解放されたのだ。これが喜ばずにはいられようか。
その日から、鉄男の生活は実に快適になった。薬を飲んでも、子供たちの声以外の音はまったく問題なく聞こえた。また、薬の効果は三時間ほどで消えたが、たいていは一粒飲めば、その一日は子供たちの声を聞かずにすんだ。いくら幼稚園が近くにあるとはいえ、子供たちがずっと歌ったり騒いだりしているわけではないのだから、まあ、当然だった。
そして、そんな日々の中、鉄男の心にも少しばかり余裕が生まれ、変化が生じた。以前は道端や商店で幼い子供の姿を見るだけでも不快に感じたものだったが、それがなくなった。むしろ、ちょっぴりやさしい気持ちすらわいてきた。鉄男はそんな自分の変化に満足した。人間として、さらなる上のステージに到達したような気持ちになった。齢七十六歳にして、である。
唯一の心配は、薬がいつかは尽きてしまうことだった。闇のルートでしか手に入らないものらしいのだ。次にもらいに行ったときには、もうないものかもしれない。この瓶に入っているぶんで、終わりなのかもしれない。鉄男はそれを考えると、とても不安になった。だが、不思議なことに、瓶の中の薬は飲んでも飲んでも、一向に減る気配がなかった。まるで、鉄男が飲む都度に、瓶の中でひそかに補充されているようだった。そんなはずはないが、何せこれは闇の薬だ。そういう特別な仕掛けがあっても、おかしくないのかもしれない……。鉄男はとりあえず、そのへんは深く考えないことにした。考えてもよくわからないし、めんどくさいし。
しかしやがて、そんな鉄男の騒音ストレスフリーな生活も終わりを迎えることになった。今度の騒音の主は、彼の妻だった。そう、ある日から、彼女は家でカラオケの練習を始めたのである。カラオケセットをどこからか入手してきて。
「おい、バカ! なんで家の中で歌うんだよ! やめろ!」
鉄男は当然、妻に抗議したが、
「最近、ご近所さんたちの間でカラオケが流行ってるのよ。だから私も練習しないと。なんでも、認知症予防にいいらしいのよねー」
と、妻はカエルのツラに小便といったふうで、鉄男の文句を受け流し、ひねもす延々歌い続けた。うるさい。歌が上手ならまだマシだが、普通に素人レベルで、しかも声だけは無駄にでかくて、うるさい。耳栓しててもまだうるさい。というか、耳栓すると、自分の脈の音が耳の中で響いて余計にうるさい。テレビの音などは聞こえなくなるし。鉄男のいらいらはどんどん高ぶっていった。
くそ、こうなったら……。
ある日、鉄男はついに決心した。ウロマからもらった薬を、妻の歌声に対して使おうと。飲んで消えて欲しい音に意識を集中すればいいだけなのだから、それに対しても有効だろうと。鉄男にとってもはや、幼稚園からの子供たちの声より、妻の歌声のほうがよっぽど有害だった。
薬の効果は、やはりてきめんだった。飲んですぐに妻の歌声は聞こえなくなった。同じ家の中で、カラオケの練習をしているはずなのに、だ。鉄男はしてやったりとほくそ笑んだ。消したい音を好きに選べるなんて、実に便利な薬だと思った。もっと早く、使い分けを覚えるべきだったとも。
だが、鉄男はすっかり忘れていた。薬をもらうとき、ウロマに警告されたことを。
そう、彼は言っていた。決して子供たちの声に対して以外には薬を使ってはいけないと。使い方を間違えるとひどい副作用が出ると。
その言葉の意味は、すぐに鉄男の知るところとなった。妻の歌声に対し薬を使った日から、徐々に鉄男の聴覚に異変が生じ始めたのである。
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