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3章 握り過ぎた手
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「まあ、菊池さんがご存じないのも無理はないのかもしれません。何せ、直春君は小児喘息でしたからね。幼い喘息の子供を持つ母親に対し、子供にお酒を飲ませないように指導する医者なんていません。そんなことわざわざ言うまでもなく、子供にはお酒を飲ませるものではありませんからね」
ウロマの口調は冷ややかだった。信子の顔はすっかり真っ青だ。
「菊池さん、あなたは昨日僕に言いましたね。今までいろんなカウンセラーに相談を持ちかけたけれど、誰一人、直春君の喘息について理解してもらえなかった、と。しかし、僕が思うに、本当に直春君の喘息について正しく理解していなかったのは、あなたご自身だったのではないでしょうか」
「な、なにを――」
「いや、正確には、あなたには彼の今の状態や気持ちについて、理解する気などまるでなかったでしょう。あなたはただ、一人息子である彼を、思うままに支配するための口実が欲しかっただけでしょうから。だから、彼の喘息がもうすっかりよくなっているという現実から目を背け続けてきたわけです。そう、あなたは直春君を、一人の自立した人間としてではなく、自分の意のままに操れるペットか何かと勘違いされていたようだ」
「あなたに私たちの何がわかるというんですの!」
「実はね、僕は昨日、フクースナというロシア料理店に行ってきたんですよ」
「え……」
「そこは大変雰囲気のよいお店でした。店内は清潔で、空気も綺麗でした。料理もおいしかったです。店員さんも感じのよさそうな人ばかりでしたよ」
ウロマはにやりと、意地の悪い笑みを浮かべながら言う。
「僕はその店員の一人に、かつてここでホール係として働いていた菊池直春君のことについて尋ねました。店がちょうど暇な時間だったこともあり、店員は親切にも色々教えてくれましたよ。直春君本人の働きは実に無難で、真面目で、特に問題はなかったと。まれに咳き込むことがあるくらいで、勤務中に喘息の発作を起こして倒れることもなかったと。ただ、彼にはとても困った点が一つありました。彼がシフトに入っているときは、彼の母親がつねに店内から彼を監視していたそうなのです。一杯の紅茶で何時間も店に居座る形で」
「監視じゃありませんわ! 私は、息子のことが心配だからずっとそばにいただけです!」
「それを世間では監視というのですよ、菊池さん」
ふふん、と、ウロマは鼻で笑った。
「さらに、その母親は何かにつけ、息子の待遇について店長に文句を言ってきたそうです。息子は喘息持ちだから、あまり無理はさせるな、とか。喘息の彼のために、店にもっといい空調を導入しろ、とか。店長は当然困惑し、直春君に、母親を店に来させないように何度も注意したそうです。しかし、それで母親の来店が終わることはありませんでした。やがて、直春君は店をやめてしまいました。この話を教えてくれた店員が言うには、彼は母親のことで店長との関係が気まずくなり、やめざるを得なかったのだろうということでした。つまり、母親の暴走のせいで、彼は仕事を失ったというわけですね」
「わ、私が悪いとおっしゃりたいの!」
「ええ。それ以外の何があるというのでしょう? ひどい母親もあったものです。表面上はいかにも息子の心配をしているふうですが、実際は彼を自分の意のままにできる所有物と認識しており、常に彼の行動を監視し、彼が就職して独り立ちしようとしたとたん、その職場に乗り込んでいって、全身全霊でそれを妨害する。そうして、彼を母親の自分なしでは生きていけないように仕向ける……。実に典型的な過干渉の事例ですね」
「過干渉?」
「虐待の一種です。ストレートに暴力をふるったり、育児放棄をするタイプではないので、本人も周囲も気づきにくいものですが」
「ば、ばかを言わないで! 私のどこが虐待をしていたというんですか! 私はずっと喘息の直春のために頑張ってきたんですよ!」
「ですが、そのあなたの余計な頑張りのせいで直春君は失業してしまったのですよ」
「あんな店、別にやめたって何も問題ありませんでしたわ! 長い時間働いても、全然お給料を払ってくれないようなところだったんですよ!」
「そうですね。菊池さんは見たところ、かなり余裕のある生活をなさっているようだ。いい歳をした息子さんが働きもせず家でダラダラ過ごしていても何も問題なさそうな?」
ウロマの口調はやはり冷ややかだった。
「ところで、菊池さんは、いったい直春君にどれくらいお小遣いをあげていたのですか?」
「月に一万円は渡していましたわ。虐待する親じゃありませんもの、私」
「息子さんを失業に追い込んでおきながらたったのそれだけですか。話になりませんね。月に一万じゃ、僕の毎月のおやつ代にも満たないじゃないですか」
と、ウロマは白衣のポケットの中からミントの錠菓を出し、掲げた。まさか、あんなものに毎月一万円以上つぎこんでいるとは。もはやおやつではなく主食ではないだろうかと思ってしまう灯美であった。
「あなたのおやつ代なんて知ったことじゃありませんわ! 私はちゃんと直春に、毎日の食事を用意してあげて、服や身の回りのものも全部そろえてあげていたんですよ。だから、毎月一万円もあれば十分に決まってますわ! だいたい、それ以上のお金を渡して、勝手にどこかへ行かれたらどうするって言うんですの!」
「勝手にどこかへ行かれたら? はは、ついに本音が出ましたね、菊池さん。五歳かそこらの子供に対してならともかく、二十五歳の息子に対して言う台詞ではないですね、それは」
ウロマは実に楽しげに笑う。
ウロマの口調は冷ややかだった。信子の顔はすっかり真っ青だ。
「菊池さん、あなたは昨日僕に言いましたね。今までいろんなカウンセラーに相談を持ちかけたけれど、誰一人、直春君の喘息について理解してもらえなかった、と。しかし、僕が思うに、本当に直春君の喘息について正しく理解していなかったのは、あなたご自身だったのではないでしょうか」
「な、なにを――」
「いや、正確には、あなたには彼の今の状態や気持ちについて、理解する気などまるでなかったでしょう。あなたはただ、一人息子である彼を、思うままに支配するための口実が欲しかっただけでしょうから。だから、彼の喘息がもうすっかりよくなっているという現実から目を背け続けてきたわけです。そう、あなたは直春君を、一人の自立した人間としてではなく、自分の意のままに操れるペットか何かと勘違いされていたようだ」
「あなたに私たちの何がわかるというんですの!」
「実はね、僕は昨日、フクースナというロシア料理店に行ってきたんですよ」
「え……」
「そこは大変雰囲気のよいお店でした。店内は清潔で、空気も綺麗でした。料理もおいしかったです。店員さんも感じのよさそうな人ばかりでしたよ」
ウロマはにやりと、意地の悪い笑みを浮かべながら言う。
「僕はその店員の一人に、かつてここでホール係として働いていた菊池直春君のことについて尋ねました。店がちょうど暇な時間だったこともあり、店員は親切にも色々教えてくれましたよ。直春君本人の働きは実に無難で、真面目で、特に問題はなかったと。まれに咳き込むことがあるくらいで、勤務中に喘息の発作を起こして倒れることもなかったと。ただ、彼にはとても困った点が一つありました。彼がシフトに入っているときは、彼の母親がつねに店内から彼を監視していたそうなのです。一杯の紅茶で何時間も店に居座る形で」
「監視じゃありませんわ! 私は、息子のことが心配だからずっとそばにいただけです!」
「それを世間では監視というのですよ、菊池さん」
ふふん、と、ウロマは鼻で笑った。
「さらに、その母親は何かにつけ、息子の待遇について店長に文句を言ってきたそうです。息子は喘息持ちだから、あまり無理はさせるな、とか。喘息の彼のために、店にもっといい空調を導入しろ、とか。店長は当然困惑し、直春君に、母親を店に来させないように何度も注意したそうです。しかし、それで母親の来店が終わることはありませんでした。やがて、直春君は店をやめてしまいました。この話を教えてくれた店員が言うには、彼は母親のことで店長との関係が気まずくなり、やめざるを得なかったのだろうということでした。つまり、母親の暴走のせいで、彼は仕事を失ったというわけですね」
「わ、私が悪いとおっしゃりたいの!」
「ええ。それ以外の何があるというのでしょう? ひどい母親もあったものです。表面上はいかにも息子の心配をしているふうですが、実際は彼を自分の意のままにできる所有物と認識しており、常に彼の行動を監視し、彼が就職して独り立ちしようとしたとたん、その職場に乗り込んでいって、全身全霊でそれを妨害する。そうして、彼を母親の自分なしでは生きていけないように仕向ける……。実に典型的な過干渉の事例ですね」
「過干渉?」
「虐待の一種です。ストレートに暴力をふるったり、育児放棄をするタイプではないので、本人も周囲も気づきにくいものですが」
「ば、ばかを言わないで! 私のどこが虐待をしていたというんですか! 私はずっと喘息の直春のために頑張ってきたんですよ!」
「ですが、そのあなたの余計な頑張りのせいで直春君は失業してしまったのですよ」
「あんな店、別にやめたって何も問題ありませんでしたわ! 長い時間働いても、全然お給料を払ってくれないようなところだったんですよ!」
「そうですね。菊池さんは見たところ、かなり余裕のある生活をなさっているようだ。いい歳をした息子さんが働きもせず家でダラダラ過ごしていても何も問題なさそうな?」
ウロマの口調はやはり冷ややかだった。
「ところで、菊池さんは、いったい直春君にどれくらいお小遣いをあげていたのですか?」
「月に一万円は渡していましたわ。虐待する親じゃありませんもの、私」
「息子さんを失業に追い込んでおきながらたったのそれだけですか。話になりませんね。月に一万じゃ、僕の毎月のおやつ代にも満たないじゃないですか」
と、ウロマは白衣のポケットの中からミントの錠菓を出し、掲げた。まさか、あんなものに毎月一万円以上つぎこんでいるとは。もはやおやつではなく主食ではないだろうかと思ってしまう灯美であった。
「あなたのおやつ代なんて知ったことじゃありませんわ! 私はちゃんと直春に、毎日の食事を用意してあげて、服や身の回りのものも全部そろえてあげていたんですよ。だから、毎月一万円もあれば十分に決まってますわ! だいたい、それ以上のお金を渡して、勝手にどこかへ行かれたらどうするって言うんですの!」
「勝手にどこかへ行かれたら? はは、ついに本音が出ましたね、菊池さん。五歳かそこらの子供に対してならともかく、二十五歳の息子に対して言う台詞ではないですね、それは」
ウロマは実に楽しげに笑う。
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