29 / 68
3章 握り過ぎた手
3 - 7
しおりを挟む
「せ、先生……今朝、直春が警察に逮捕されてしまったのですが」
翌日、灯美がいつものように虚間鷹彦カウンセリングルームに入ったところで、こんな会話が聞こえてきた。灯美はぎょっとした。逮捕とはいったい何事だろう。
「ああ、菊池さん、息子さんのことは、今日のニュースでもやっていましたね。お気の毒です」
と、ウロマはしれっと答えた。顔面蒼白な信子とは対照的に平静そのものである。
ニュースでやっていたって、どういうことだろう? 灯美はあわててスマホをポケットから取り出し、ポータルサイトから今日のニュースをチェックしてみた。するとサイトのトップに、
『違法アップロードの「フラゲ神」自首。逮捕』
という見出しがあり、菊池直春という男が、著作権法違反で逮捕されたとあった。なんでも、公式発売日前の雑誌の内容を常習的にネットにアップロードしていて、それで広告収入を荒稼ぎしていたらしい……。
「先生! なんで直春が逮捕されないといけないんですの! 意味がわかりませんわ!」
「そりゃあ、直春君が違法なことをしていたからでしょう」
「そうじゃありませんわ! 直春は自首したんですよ! わざわざ自分から警察に捕まりに行ったんですよ! そんなことしなければ、逮捕されることはなかったのに!」
「そうですね。きっと、直春君は罪の意識に耐えられなくなったのでしょう。何か急に心変わりするようなきっかけでもあったんでしょうかねえ?」
「あったも何もないですわ! 先生のくれたあの変な角砂糖のせいでしょう! あれを口にしたせいで、直春は――」
「きれいな直春君に生まれ変わったんでしょうかね。そのおかげで自分の罪を悔い改めることになった、と……。なるほど、それはめでたいことですね。菊池さん」
はっはっはと、ウロマは楽しげに笑った。「ふざけないで!」と、そんな彼を信子は顔を真っ赤にしてにらんだ。
「何がめでたいんですか! 自分の息子が逮捕されて喜ぶ母親なんていません!」
「そうでしょうか。あなたは昨日、言っていたじゃないですか。息子の暴力に悩んでいると。その息子さんが、しばらくは警察にお世話になるという形で、家からいなくなったのです。つまり、あなたは当分、彼からの暴力に悩まされることはありません。実におめでたい話じゃないですか」
「バカを言わないで!」
信子はもはや涙目だった。
「あの子は重い喘息持ちで、一人では生きていけないんです! だから、母親の私が、ずっとそばにいてあげないとダメなんです! それなのに、離れ離れになるなんて……」
「まだそんなことを言っているのですか、菊池さん」
ふと、ウロマの濁った目が冷たく光った。
「昨日、あなたからの話を伺う限り、彼が一人では生きていけないほどの重い喘息持ちだとはとうてい思えませんでしたけれどね」
「何をおっしゃってますの? 私、ちゃんとそう説明したでしょう」
「ええ。あなたは言っていましたね。彼は子供のころから喘息を患っていると。それはつまり小児喘息を患っていたということではないでしょうか」
「え……ええまあ……」
「実は、小児喘息というものは、大人になると治ることが多いのですよ」
「そ、そんなの知りませんわ!」
「まあ、そうですね。大人になっても、治らずに引きずるケースも多いです。しかし、あなたはさらに、彼が二種類の薬を服用していることを僕に話しました。それは、実に奇妙な説明でした。あなたの口からは、なぜか飲み薬の名前しか出てこなかったのですから。どうして、一人で生きられないほどの重い喘息患者が使っている薬がそれだけなのでしょう? 普通はまっさきに気管支拡張剤やステロイドなどの吸入薬の名前が出てくるものではないでしょうか? それらは喘息の患者にとって絶対に欠かせないものですからね」
「あ……」
信子はそのウロマの言葉にはっとしたようだった。
「きゅ、吸入薬なら昔は使っていましたわ! 最近はそんなに使っていないので言い忘れていただけです!」
「そうですか。では、直春君の具合は、昔に比べてずいぶんよくなっているのですね。吸入薬がなくても生活に支障がないくらいに」
「そんなことはありませんわ! 直春は今も重い喘息なんです!」
「しかし、実は、その後のあなたの発言も大変おかしかったのですよ」
「その後の発言?」
「その後、あなたはこう言いましたね。直春君は、時々お酒を飲むことがあると。実は、これは、一人では生きていけないような重い喘息をもっている人なら考えられないことです。多くの場合、アルコールは喘息を悪化させます。少しばかり喘息のケがある人ならともかく、重症の喘息患者なら、まず主治医から止められるはずです。絶対にお酒は飲むな、と」
「そ、そうなんですの……」
それは信子には初耳の話のようだった。
翌日、灯美がいつものように虚間鷹彦カウンセリングルームに入ったところで、こんな会話が聞こえてきた。灯美はぎょっとした。逮捕とはいったい何事だろう。
「ああ、菊池さん、息子さんのことは、今日のニュースでもやっていましたね。お気の毒です」
と、ウロマはしれっと答えた。顔面蒼白な信子とは対照的に平静そのものである。
ニュースでやっていたって、どういうことだろう? 灯美はあわててスマホをポケットから取り出し、ポータルサイトから今日のニュースをチェックしてみた。するとサイトのトップに、
『違法アップロードの「フラゲ神」自首。逮捕』
という見出しがあり、菊池直春という男が、著作権法違反で逮捕されたとあった。なんでも、公式発売日前の雑誌の内容を常習的にネットにアップロードしていて、それで広告収入を荒稼ぎしていたらしい……。
「先生! なんで直春が逮捕されないといけないんですの! 意味がわかりませんわ!」
「そりゃあ、直春君が違法なことをしていたからでしょう」
「そうじゃありませんわ! 直春は自首したんですよ! わざわざ自分から警察に捕まりに行ったんですよ! そんなことしなければ、逮捕されることはなかったのに!」
「そうですね。きっと、直春君は罪の意識に耐えられなくなったのでしょう。何か急に心変わりするようなきっかけでもあったんでしょうかねえ?」
「あったも何もないですわ! 先生のくれたあの変な角砂糖のせいでしょう! あれを口にしたせいで、直春は――」
「きれいな直春君に生まれ変わったんでしょうかね。そのおかげで自分の罪を悔い改めることになった、と……。なるほど、それはめでたいことですね。菊池さん」
はっはっはと、ウロマは楽しげに笑った。「ふざけないで!」と、そんな彼を信子は顔を真っ赤にしてにらんだ。
「何がめでたいんですか! 自分の息子が逮捕されて喜ぶ母親なんていません!」
「そうでしょうか。あなたは昨日、言っていたじゃないですか。息子の暴力に悩んでいると。その息子さんが、しばらくは警察にお世話になるという形で、家からいなくなったのです。つまり、あなたは当分、彼からの暴力に悩まされることはありません。実におめでたい話じゃないですか」
「バカを言わないで!」
信子はもはや涙目だった。
「あの子は重い喘息持ちで、一人では生きていけないんです! だから、母親の私が、ずっとそばにいてあげないとダメなんです! それなのに、離れ離れになるなんて……」
「まだそんなことを言っているのですか、菊池さん」
ふと、ウロマの濁った目が冷たく光った。
「昨日、あなたからの話を伺う限り、彼が一人では生きていけないほどの重い喘息持ちだとはとうてい思えませんでしたけれどね」
「何をおっしゃってますの? 私、ちゃんとそう説明したでしょう」
「ええ。あなたは言っていましたね。彼は子供のころから喘息を患っていると。それはつまり小児喘息を患っていたということではないでしょうか」
「え……ええまあ……」
「実は、小児喘息というものは、大人になると治ることが多いのですよ」
「そ、そんなの知りませんわ!」
「まあ、そうですね。大人になっても、治らずに引きずるケースも多いです。しかし、あなたはさらに、彼が二種類の薬を服用していることを僕に話しました。それは、実に奇妙な説明でした。あなたの口からは、なぜか飲み薬の名前しか出てこなかったのですから。どうして、一人で生きられないほどの重い喘息患者が使っている薬がそれだけなのでしょう? 普通はまっさきに気管支拡張剤やステロイドなどの吸入薬の名前が出てくるものではないでしょうか? それらは喘息の患者にとって絶対に欠かせないものですからね」
「あ……」
信子はそのウロマの言葉にはっとしたようだった。
「きゅ、吸入薬なら昔は使っていましたわ! 最近はそんなに使っていないので言い忘れていただけです!」
「そうですか。では、直春君の具合は、昔に比べてずいぶんよくなっているのですね。吸入薬がなくても生活に支障がないくらいに」
「そんなことはありませんわ! 直春は今も重い喘息なんです!」
「しかし、実は、その後のあなたの発言も大変おかしかったのですよ」
「その後の発言?」
「その後、あなたはこう言いましたね。直春君は、時々お酒を飲むことがあると。実は、これは、一人では生きていけないような重い喘息をもっている人なら考えられないことです。多くの場合、アルコールは喘息を悪化させます。少しばかり喘息のケがある人ならともかく、重症の喘息患者なら、まず主治医から止められるはずです。絶対にお酒は飲むな、と」
「そ、そうなんですの……」
それは信子には初耳の話のようだった。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
還暦の性 若い彼との恋愛模様
MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。
そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。
その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。
全7話
剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末
松風勇水(松 勇)
歴史・時代
旧題:剣客居酒屋 草間の陰
第9回歴史・時代小説大賞「読めばお腹がすく江戸グルメ賞」受賞作。
本作は『剣客居酒屋 草間の陰』から『剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末』と改題いたしました。
2025年11月28書籍刊行。
なお、レンタル部分は修正した書籍と同様のものとなっておりますが、一部の描写が割愛されたため、後続の話とは繋がりが悪くなっております。ご了承ください。
酒と肴と剣と闇
江戸情緒を添えて
江戸は本所にある居酒屋『草間』。
美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。
自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。
多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。
その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。
店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる