死痕

安眠にどね

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 ――きゃああ!
 摩耶さんの悲鳴が、どこか遠くに聞こえた。耳鳴りがうるさくて、現実感がなくて、わたしは動けずにいた。パンッ、という、あの弾ける音が、ずっと頭の中で繰り返されているような気がする。
 それでも、摩耶さんの悲鳴を皮きりに、皆が騒ぎ出したのが分かった。
 弾ける音と、悲鳴と、わたしの頬に付着した、何かの液体。
 ゆっくりと、今この状況を作り上げているパーツの処理が、脳で行われていく。だんだんと、何が起こってしまったのか、察しがついていく。

 見ては駄目だ、と思うのに、体は意思と反対のことをする。

 目を塞ぐ手が動かない。
 視線がゆっくりと床に向かう。
 倒れ込む、おじさん。

 まるで現実味のない、塗料を高い場所から落としてしまったかのような、派手に飛び散る赤色。
 頭の方は、廊下の外側に向かっていて、うつぶせで体が倒れたらしい。

 ――直接見えなくてよかった。

 そう、無意識に思ってしまって、状況を完全に理解してしまって、わたしはこみあげる吐き気に、思わず口で手を塞いでいた。
 鉄臭さの中に、ほんのりと焦げ臭さを感じる。

「う、うぅ」

 なんとか吐き気を押さえるように、何度も唾を飲み込んだ。
 おじさんに、大丈夫かと声をかける勇気がなかった。返事がこないのは、一目瞭然だ。それでも、現実逃避がしたくて、おじさんの反応がなかったら現実を受け止めないといけないような気がして、わたしは声をかけられない。

 ――そのとき。
 ぴく、と、おじさんの体が動いた。

「――っ!」

 そんなわけない、と思いながら、生きているかもしれない、という希望を捨てきれなかったわたしは、おじさんに近付こうとして、立ち上がれずにバランスを崩して再び尻もちをついた。下半身に力が入らない。腰が抜ける、ってやつだろうか。
 医療の知識も、応急手当の経験もなくて、おじさんのところへ行ったとしても、彼を助けられる自信がない。いたずらに苦しめるだけだと分かっている。
 彼を見殺しにし、楽にしてあげる勇気が、わたしにはないのだ。

「――りっちゃん、上! ダメ、戻ってきて!」

 依鶴の鋭い、悲鳴のような声が聞こえてきた。
 上。上って、天井?
 何か落ちてくるのかと、天井を見上げても、特別目立つ物はない。もしかして、さっきから見えたり見えなかったりする、謎の影のように、タイミングがあわないと見えないのか、と目を凝らしてみても何もない。
 何もない、と依鶴に言おうとして、少し顔を下げると、ばちり、と『何か』と目があった。
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