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第1話 泣きっ面にブルース

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 借りたものは、返せ。

 安堂あんどう家に伝わる家訓を初めて聞いたのは、伊知郎いちろうがクラスメイトに集団で暴行を受けたその日の夕方であった。
 家に辿り着き泣きじゃくって玄関を開けると、伊知郎の泣き声に駆けつけた父親が仁王立ちでそう言い放った。
 身体中傷だらけで服をボロボロにしながら泣いてる息子を心配するという事など一切なく、泣き続ける息子を怒鳴りつけた。
 ただでさえ身長の高い父親がその日はまさに大きな壁に感じ、伊知郎は怖さのあまり泣くのを我慢した。
 身体中の傷は呼吸する度に痛みが走る程で、堪えきれずに涙が溢れだしそうであったがそれ以上に父親が怖く、これ以上泣けば家の中に入る事すらままならないだろう。

 泣き止んだ伊知郎に父親は玄関にあった木製のバットを手渡した。
 家訓に従おうとすると、それが手渡された意味がどういうものか。
 伊知郎は首を横に振り拒否したが、父親は木製バットを伊知郎にしっかりと握りしめさせた。
 閉め出す様に伊知郎の肩を押す父親。
 なすがままにされる伊知郎はそれでも抗議の声をあげようとしたが、目の前で玄関の戸は閉められ聞く耳を持ってはくれないのだと理解した。

 夕陽は沈みかけていて、数少ない街灯の光では暗闇を照らしきれずにいた。
 夕陽が完全に沈んでしまえば辺りは真っ暗となり、空き地で集まっているであろうクラスメイト達も帰宅してしまうだろう。
 そうなってしまった場合でも、空き地に向かったが誰もいなかった、と言い訳する事で物事が終わるわけではない事ぐらい伊知郎にも理解できた。
 クラスメイト達が帰宅していた場合は、各々の自宅に向かってでも借りを返さねば父親は納得しないだろう。

 伊知郎は祈る思いで空き地へと駆けた。
 帰宅しないでいてくれと、逃げないでいてくれと、今までの人生で出した事もない速さで走った。
 空き地に辿り着くと人影がいくつか。
 灯りが無いのでわかりづらかったが、人影の方が伊知郎に気づき声を上げた。
 集団に殴られて逃げ出した伊知郎が戻ってきた事に訝しげな様子だ。
 伊知郎は人影の数を数えた。
 一人、二人――大丈夫、全員いる。

 深呼吸をする。
 父親の顔が頭に浮かび。
 父親の声が耳に響いた。

 借りたものは、返せ。

 夕陽は沈み辺りは暗くなり、空き地に蠢く複数の人影。
 泣きじゃくり逃げるクラスメイト達と、泣きじゃくり追う伊知郎。
 近所の住民がその異常さに気づき止めに来るまで暫くの時間を有した。

 クラスメイト達は忘れないだろう、木製バットを振り回す鬼の様な伊知郎の事を。
 伊知郎は忘れないだろう、逃げまどうクラスメイト達を追いかける際に抱いた不快感を。
 そしてこの際に忘れられた、伊知郎がクラスメイト達に暴力を振るわれた理由。

 近所の住民の怒鳴り声で事は終わりを迎え、クラスメイト達は飛び出す様に逃げていき残された伊知郎はその住民、中年男性に散々説教された後家に帰された。

 玄関の戸を開けると変わらず父親が仁王立ちで待ち構えていた。
 殴って汚れた木製バット。
 事が終わり泣き止んでいる伊知郎の表情。
 父親は納得した様に、おかえり、と一言だけ告げて居間へと向かった。
 伊知郎は安堵にぎこちない笑みを浮かべて、父親についていく。

 明くる日、伊知郎は父親と共に学校の教師に説教された。
 父親は何かと反論していたが、喧嘩両成敗と教師は譲らなかった。
 そして帰宅すると、今度は母親に説教された。
 今度は父親は何も言い返さなかった。

 伊知郎が小学生の頃の話で、もう四十年程昔の話だ。


 妻と娘が出ていって数ヶ月。

 音の少なくなった家の掃除をしている時にそれを見つけた。
 でこぼこになった木製のバット。
 四十年前、伊知郎自身はもちろん父親も二つ上の兄も誰も野球をやらなかったのに買ってあったバット。
 確か、一緒にグローブとボールもあったはずだ。
 いつか母親に聞いた話によると父親が息子二人とキャッチボールをしたいが為に買ったらしい。
 だが、一式で買った為にグローブは一つだけで結局誰も野球道具としては使用せずに押入れに埃を被って保管されていた様だ。

 暫く見なかったのは押入れの奥に押し込まれてたからか。
 てっきり兄が持っていったものかと、伊知郎は思っていた。
 バットを見て思い出すのは暴力沙汰になってしまったあの時の事ぐらいだ。

 そのバットの側に置いてある物に伊知郎は手を伸ばす。
 それもまた埃まみれだったのではたいた。
 案の定、埃が口と鼻に入りむせかえる。
 それは、スーパーファミコンのカートリッジだった。
 伊知郎はTVゲームというものをやった事が無いので、そのカートリッジのゲームがどんな内容だかはわからない。
 裏にでかでかと梅吉と名前が書いてあった。
 
 息子が借りた物の様だ、二十年も前の話だろう。
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