遠い日に見た 世界の隙間で

清泪─せいな

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消え敢ふ色に 何が溶けた

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 始まりの息吹に、色彩が宿っていた。

 校庭を渡る風はまだ冷たさを残しながらも、頬に触れるたびにやわらかな陽の匂いを連れてきた。桜はすでに満開で、枝の上に密集する淡い花びらは、ひとつひとつが小さな笑みを浮かべているかのようだった。

 新しい制服の生地は硬く、肩にかけた重さがやけに意識される。それでも、そのぎこちなさはむしろ嬉しい。見慣れぬ装いが、自分の内側で眠っていた何かを呼び起こす。――これからは違うのだ、と。

 教室に入り、名簿の順に並んだ机に腰かける。緊張で喉が乾ききっていたが、ふと隣から差し伸べられた声が、それを忘れさせた。

「これから、よろしくね」

 その一言に、胸の奥がじんわりと熱を帯びていく。あたかも桜の花びらが心臓の奥に降り積もり、そこから光を放ち始めるようだった。

 窓際の机の上では、春風がプリントをめくって遊んでいる。白い紙がめくられるたびに、未来の頁が自分のために開かれているように思えた。

 十代の春。まだ世界の残酷も、不条理も知らない。ただ、無垢な喜びが空気に混ざり、自分の体に溶け込んでいく。
 それだけで、人生はこれから何度でも咲き直せるのだと信じられた。


 彩雲が見える空から降り注ぐ燃える陽射し。

 昼下がりのオフィスは、冷房の音ばかりが機械的に響いていた。
 窓の外では、真夏の太陽が容赦なくビルの壁面を照りつけ、ガラス越しに白々しい光を投げ込んでくる。その強すぎる光に、机の上の書類は眩しさを増し、紙の白がやけに苛立たしく映った。

 彼女はボールペンを握りしめる指先に力を込める。書類に押しつけたペン先が小さく滲む。心の奥底から押し上げられるものを、わずかに吸い込む息で押さえ込もうとするが、堰き止められるほど軽い感情ではなかった。

 ――どうして私ばかりに、これほどの負担が降りかかるのだろう。
 誰もが当たり前のように押しつけてくる雑務。責任だけが積み重なり、労いの言葉は風のようにすり抜けていく。

 机の端に置いた紙コップの水は、ぬるくなって口をつける気にもなれなかった。外の蝉の鳴き声が、二重窓を震わせながら届いてくる。あの一斉に鳴き立てる声は、耳をつんざくだけで意味を持たない。それはまるで、この場にあふれる同僚たちの言葉と変わらないように思えた。

 怒りは、火山の噴き口を覆う岩のように心を塞いでいた。表面はまだ微動だにしないが、内側には赤々とした熱が脈打っている。いつ崩れて噴き出すのか、自分でもわからなかった。

 夏の光はなおも机を白く照らしている。
 その光は祝福ではなく、容赦のない尋問のように彼女を焼きつけていた。


 落葉の影を迷彩にして忍び寄る。

 夕暮れの公園を、ゆるやかな風が渡っていった。
 枯れかけた銀杏の葉が、ひとひら、またひとひらと地面へ落ちていく。その黄色は鮮やかでありながら、土の上に触れた瞬間、色を失っていく。

 ベンチに腰を下ろした彼女は、膝の上で組んだ両手をただ見つめていた。指の節は思いがけず硬く、皺の刻まれた手の甲は、もう若い頃のそれではなかった。
 ――いつの間に、こんなにも遠くまで来てしまったのだろう。

 子どもは成長し、巣立ち、家の中は静かさばかりが残っている。夫とは会話らしい会話も減り、互いに声をかけるのは必要な用件のときだけ。かつてあれほど賑やかだった日々は、思い出のなかでのみ音を立てている。

 風に混じって、小さな子どもの笑い声が聞こえた。振り返ると、若い母親が手を引いて歩いている。笑いながら、時折つまずきそうになる子を支えている姿に、胸の奥で何かが揺れた。
 ――ああ、自分もあの頃は、同じように小さな手を握っていたのだ。
 その手の温もりはいま、もう確かめることもできない。

 銀杏の葉はさらに舞い降り、ベンチの足元を覆っていく。秋の黄昏は、美しさと寂しさを同じ速度で積み重ねていた。

 彼女の瞳は遠くを見ている。だがその視線の先にあるのは未来ではなく、決して戻らない日々の影であった。


 静かな光のなかに生彩を帯びていた。

 冬の朝、庭に薄く積もった雪が陽に照らされ、きらきらと細やかな光を放っていた。
 窓辺に腰かけた彼女は、湯気の立つ茶碗を両手で包みながら、その光景を眺めていた。白い息がふわりと上がり、静けさのなかに溶けていく。

 手足は冷えるけれど、心は不思議と穏やかだった。
 若いころには、この静けさを退屈と呼んでいた。中年のころには、この余白を孤独と呼んでいた。だがいま、七十年を経た身には、すべてが柔らかな楽しさとして胸に降り積もっている。

 孫の声が奥の部屋から聞こえてきた。駆けまわる小さな足音、転んで笑い転げる声。それに応えるように、台所では娘の明るい声が響く。自分の血を継いだ者たちが日常の温もりを紡いでいることが、これほど心を満たすとは若いころには想像もしなかった。

 雪は相変わらず、静かに庭を白く染め続けている。
 それは終わりを告げる色ではなく、すべてを包みなおす色だった。

 茶碗を置き、彼女は小さく微笑んだ。


 ――ああ、いろづいた。
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