月夜の蛍

清泪─せいな

文字の大きさ
1 / 1

夜の中に溶ける

しおりを挟む
 終電を逃した夜、会社から駅までの道を歩いていた。

 真夏だというのに風は涼しく、ワイシャツ一枚では少し肌寒い。ネクタイを緩めながら橋を渡ると、川沿いの遊歩道にちらちらと光るものが見えた。

「……蛍?」

 そんなはずはない、と思いながらも川辺へ下りてみる。人工的な光のない暗がりに、たしかに小さな灯りが舞っていた。

「こんな都心で見られるなんて、奇跡みたいですね」

 後ろから、声がした。

 振り返ると、見覚えのある横顔。肩まで伸びた髪を束ね、薄手のカーディガンを羽織っている。

「君……高梨さん?」

「ご無沙汰してます。覚えていてくれて、嬉しいです」

 高梨沙織――前の部署で一緒に働いていた女性。半年ほど前に異動して、今は別の事業部にいる。

「どうしてここに?」

「蛍を見に来たんです。ここ、知る人ぞ知るスポットで。小さな水源が近くにあって、夏の数日だけ、こうして現れるらしいんです」

 彼女の声はどこか穏やかで、蛍の光のようにやわらかい。

「偶然……だよな?」

「ええ。偶然。でも、会えてよかった」

 ふと、会社での彼女の姿が浮かんだ。仕事はきっちり、でも笑顔はどこかよそ行きで。誰とでも距離を保つような空気があった。

「そういえば、昔……部署で送別会やった時、帰り道に言ってたよな。“夜に歩くの、嫌いじゃない”って」

「覚えててくれたんですね。あのとき、あなたが言ったんです。『夜の街は、昼よりも嘘が少ない気がする』って」

 言ったかもしれない。酔った勢いだったかもしれない。

「嘘が少ない、か。いまでも、そう思ってるよ」

 彼女は少し黙って、それからぽつりと呟いた。

「私、最近仕事を辞めようか悩んでて」

 意外だった。彼女は順調にキャリアを積んでいるように見えたから。

「理由、聞いてもいい?」

「……毎日、誰かの期待に応えるばかりで。ふと、自分が何を望んでいたのか、分からなくなっちゃって」

 蛍の光が、彼女の頬を照らす。ほんのわずかに濡れていた。

「そういうときって、逃げ出すのもアリだと思う。俺も、去年の夏、実は辞めようとしてた」

「えっ……」

「でも、誰にも言えなかった。かっこ悪いって思ったし、心配もされたくなくて」

「……わかります。誰にも見せられない弱さって、ありますよね」

「けど、今日みたいに偶然会って、素直になれる相手がいると、少しだけ救われる気がする」

「……そうですね」

 ふたりして川面を眺める。蛍は少しずつ、数を減らしていた。

「来年のこの日、またここで蛍を見ませんか?」

 彼女が、不意に言った。

「その頃、私がまだ今の職場にいるか、どこにいるか分からないけど……もしまた会えたら、きっと何かのご縁だと思うから」

「……うん、約束しよう」

 彼女は小さく笑った。蛍の光が、最後のひとつ、ゆっくりと消えていった。
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

借金した女(SМ小説です)

浅野浩二
現代文学
ヤミ金融に借金した女のSМ小説です。

処理中です...