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夜の中に溶ける
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終電を逃した夜、会社から駅までの道を歩いていた。
真夏だというのに風は涼しく、ワイシャツ一枚では少し肌寒い。ネクタイを緩めながら橋を渡ると、川沿いの遊歩道にちらちらと光るものが見えた。
「……蛍?」
そんなはずはない、と思いながらも川辺へ下りてみる。人工的な光のない暗がりに、たしかに小さな灯りが舞っていた。
「こんな都心で見られるなんて、奇跡みたいですね」
後ろから、声がした。
振り返ると、見覚えのある横顔。肩まで伸びた髪を束ね、薄手のカーディガンを羽織っている。
「君……高梨さん?」
「ご無沙汰してます。覚えていてくれて、嬉しいです」
高梨沙織――前の部署で一緒に働いていた女性。半年ほど前に異動して、今は別の事業部にいる。
「どうしてここに?」
「蛍を見に来たんです。ここ、知る人ぞ知るスポットで。小さな水源が近くにあって、夏の数日だけ、こうして現れるらしいんです」
彼女の声はどこか穏やかで、蛍の光のようにやわらかい。
「偶然……だよな?」
「ええ。偶然。でも、会えてよかった」
ふと、会社での彼女の姿が浮かんだ。仕事はきっちり、でも笑顔はどこかよそ行きで。誰とでも距離を保つような空気があった。
「そういえば、昔……部署で送別会やった時、帰り道に言ってたよな。“夜に歩くの、嫌いじゃない”って」
「覚えててくれたんですね。あのとき、あなたが言ったんです。『夜の街は、昼よりも嘘が少ない気がする』って」
言ったかもしれない。酔った勢いだったかもしれない。
「嘘が少ない、か。いまでも、そう思ってるよ」
彼女は少し黙って、それからぽつりと呟いた。
「私、最近仕事を辞めようか悩んでて」
意外だった。彼女は順調にキャリアを積んでいるように見えたから。
「理由、聞いてもいい?」
「……毎日、誰かの期待に応えるばかりで。ふと、自分が何を望んでいたのか、分からなくなっちゃって」
蛍の光が、彼女の頬を照らす。ほんのわずかに濡れていた。
「そういうときって、逃げ出すのもアリだと思う。俺も、去年の夏、実は辞めようとしてた」
「えっ……」
「でも、誰にも言えなかった。かっこ悪いって思ったし、心配もされたくなくて」
「……わかります。誰にも見せられない弱さって、ありますよね」
「けど、今日みたいに偶然会って、素直になれる相手がいると、少しだけ救われる気がする」
「……そうですね」
ふたりして川面を眺める。蛍は少しずつ、数を減らしていた。
「来年のこの日、またここで蛍を見ませんか?」
彼女が、不意に言った。
「その頃、私がまだ今の職場にいるか、どこにいるか分からないけど……もしまた会えたら、きっと何かのご縁だと思うから」
「……うん、約束しよう」
彼女は小さく笑った。蛍の光が、最後のひとつ、ゆっくりと消えていった。
真夏だというのに風は涼しく、ワイシャツ一枚では少し肌寒い。ネクタイを緩めながら橋を渡ると、川沿いの遊歩道にちらちらと光るものが見えた。
「……蛍?」
そんなはずはない、と思いながらも川辺へ下りてみる。人工的な光のない暗がりに、たしかに小さな灯りが舞っていた。
「こんな都心で見られるなんて、奇跡みたいですね」
後ろから、声がした。
振り返ると、見覚えのある横顔。肩まで伸びた髪を束ね、薄手のカーディガンを羽織っている。
「君……高梨さん?」
「ご無沙汰してます。覚えていてくれて、嬉しいです」
高梨沙織――前の部署で一緒に働いていた女性。半年ほど前に異動して、今は別の事業部にいる。
「どうしてここに?」
「蛍を見に来たんです。ここ、知る人ぞ知るスポットで。小さな水源が近くにあって、夏の数日だけ、こうして現れるらしいんです」
彼女の声はどこか穏やかで、蛍の光のようにやわらかい。
「偶然……だよな?」
「ええ。偶然。でも、会えてよかった」
ふと、会社での彼女の姿が浮かんだ。仕事はきっちり、でも笑顔はどこかよそ行きで。誰とでも距離を保つような空気があった。
「そういえば、昔……部署で送別会やった時、帰り道に言ってたよな。“夜に歩くの、嫌いじゃない”って」
「覚えててくれたんですね。あのとき、あなたが言ったんです。『夜の街は、昼よりも嘘が少ない気がする』って」
言ったかもしれない。酔った勢いだったかもしれない。
「嘘が少ない、か。いまでも、そう思ってるよ」
彼女は少し黙って、それからぽつりと呟いた。
「私、最近仕事を辞めようか悩んでて」
意外だった。彼女は順調にキャリアを積んでいるように見えたから。
「理由、聞いてもいい?」
「……毎日、誰かの期待に応えるばかりで。ふと、自分が何を望んでいたのか、分からなくなっちゃって」
蛍の光が、彼女の頬を照らす。ほんのわずかに濡れていた。
「そういうときって、逃げ出すのもアリだと思う。俺も、去年の夏、実は辞めようとしてた」
「えっ……」
「でも、誰にも言えなかった。かっこ悪いって思ったし、心配もされたくなくて」
「……わかります。誰にも見せられない弱さって、ありますよね」
「けど、今日みたいに偶然会って、素直になれる相手がいると、少しだけ救われる気がする」
「……そうですね」
ふたりして川面を眺める。蛍は少しずつ、数を減らしていた。
「来年のこの日、またここで蛍を見ませんか?」
彼女が、不意に言った。
「その頃、私がまだ今の職場にいるか、どこにいるか分からないけど……もしまた会えたら、きっと何かのご縁だと思うから」
「……うん、約束しよう」
彼女は小さく笑った。蛍の光が、最後のひとつ、ゆっくりと消えていった。
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